書籍詳細
溺甘婚~エリート御曹司が私をご所望です~
あらすじ
「きみは俺の大切なお姫様だから」
出会って二秒で振られましたが……。なぜか極上御曹司と訳あり婚!?
出会いは最悪、でも二度目は運命!? 祖母に厳しく育てられた綾把は、異性と距離を取ってしまいがち。その祖母の希望で仕方なくお見合いに臨んだものの、案の定お断りされてしまう。ところが、自分をあっさり振ったお相手──イケメン社長・笠間から偽装婚約の提案が! 利害の一致で了承したけれど、彼が仕掛ける本気のデートは魅惑的すぎて……!?
キャラクター紹介
長津木 綾把(ながつき あやは)
日本橋の老舗お茶問屋に勤める。異性に消極的な性格。
笠間 光顕(かさま みつあき)
笠間重機の新社長。育ちの良いイケメンだが、中身はオレ様系。
試し読み
前髪を軽く掻(か)き上げ、足を組み直してソファの背もたれに背を預け直す姿は、なにかを切り替えたか──あるいはなにかに降参(こうさん)したかのようにも見えた。
ふう、とひとつ、大きな息を吐き出したあと、口元にあてた拳(こぶし)の陰から、まいったなと独(ひと)り言(ごと)のような呟きが聞こえてきた。
「……でもまあとりあえず、よかったと言っておくしかないのかな。ええと──長津木綾把さん?
実はどこかでもう一度、あなたとはお会いしなければと思っていたところです」
「はい?」
「きちんと謝罪(しゃざい)しなければとね」
綾把は驚いて目をぱちくりさせてしまった。
いったいどういう意味かと首を傾げる。
「謝罪……?」
真向かいの男性が、軽く笑った。そっと膝上に組まれた指は長くて綺麗(きれい)だ。所作(しょさ)のひとつひとつが上品で目を奪われる。今なら鞠花に断言(だんげん)できる。──うん、イケメンだったよと。
そう断言しても過言(かごん)ではない男性が、静かにほほえんでいる。
「さすがに昨日のあれは失礼だったかなと、いささか反省もしていますので。いくらなんでもタイミングが最悪でしたね。まさかあの瞬間にあなたが現れるとは」
奇(く)しくも綾把と似たようなことを考えていたのだと知って、心なしかホッとする。
「い……いいえ、こちらこそ申しわけありませんでした。そもそもお約束の時間に遅れた私が悪かったんです」
「むしろもう少し遅れてくれてたら、互いに顔を合わせることもなく、すんなり終わった話でしたね」
「……あ、そう……ですね」
そう考えるとさらに不思議だ。ほんとうに秒単位の奇跡みたいなものだ。そのうえ見合い翌日のこの再会。
もはや神様のいたずらとしか思えない。
「あの」
と綾把は勇気を出して話を続けた。
「昨日は──、笠間のおばさまから、膝が痛いから送って欲しいと言われて、あの場にいらしたのだとか」
あのあと謝罪とともにそう聞いた。光顕が素(そ)っ気(け)なく頷いた。
「そうですよ、表の車寄せで伯母だけ下ろして帰ろうとしたら、なかまで肩くらい貸せと言われて仕方なく」
当初、難色(なんしょく)を示したら、鬼のような甥っ子だと責(せ)められて、いよいよ退路(たいろ)がなくなったという。
「鬼はどっちだ、と思いませんか」
「ですね」
うっかり笑ってしまった。
強引に立ち去る光顕を、ああもすたすたと元気よく追いかけていった以上、笠間のおばさまの分(ぶ)は悪い。綾把としても擁護(ようご)のしようがない。
「それで仕方なしに奥まで連れて行ったら、今度はお茶だかお花だかの家元に挨拶しろとか言われ──、流れで言いなりになっていたら、すぐに孫娘も来るからと言われて初めて、ああこれは年寄りどもにはめられたなと、やっと気づいた間抜(まぬ)けです、僕は」
「そんな」
べつに綾把が悪いわけでもなんでもないのに、なにやらひどくいたたまれない気がした。
きっと光顕のほうには見合いを受ける理由も意志もなかったのだろう。そんなものを必要としない男性であることは、この堂々とした、自信に満ちあふれた態度ひとつからもよくわかる。
お家事情など知りようもないけれど、もしかしたら笠間のおばさまの老婆(ろうば)心(しん)が暴走した結果なのかもしれない。あるいは祖母たちが勝手に盛り上がった末の被害者ともいえるだろうか。
可能性はおおいにありえる。
「なんと言いますか……、すみません、祖母たちが」
綾把が首をすくめる思いでいると、今度は光顕のほうから、
「で? あなたは?」
そう問(と)い質(ただ)された。
え? と顔を上げた綾把は、一瞬戸惑う。
「私……?」
「いったいどういう口実で、あそこに呼び出されました?」
「それは……」
口実もなにも、最初からお見合いと聞かされていた身だ。綾把は伏(ふ)し目(め)がちに正直に答える。
「私はただ、会食(かいしょく)には笠間のおばさまの甥御さんも同席するから、くれぐれも粗相(そそう)のないようにと……、そう聞かされていただけです」
ぽつりと告白したら、一(いっ)拍(ぱく)ぶんの間をおいてから「……へえ」と低い一言がもたらされた。
奇妙な空白を不思議に思った綾把が顔を上げると、真正面の男性は、フッと口角(こうかく)をつり上げて、自信ありげに目を細めたところだった。
綾把はドキッとした。一瞬にして場の空気が変わった。
なぜだろう、まるでどう猛な肉食獣を前にしているような感覚に包まれる。
どうしてそんなふうに思ってしまうのか、その理由はよくわからない。
軽くたわめられた綺麗な唇からは、こんな言葉がもたらされる。
「じゃあ、実質、見合いってことは納得してたわけだ。それは益々申し訳ないことをした。期待に添(そ)えない男で悪かった」
一瞬にして空気感が変わったのは、その言葉遣(づか)いや口調のせいだと気がついた。
からかうような言われ方に、綾把は戸惑う。
「わ、私はべつに期待とか……。ただ祖母から言いつけられただけと言いますか、とくになにも考えずに、あの場に行っただけなので……」
言葉を濁(にご)そうとした綾把に、さらに追撃(ついげき)の手がかかる。
「なにも考えず? 見合いという言葉の先に、どんな道が敷かれているか、想像もしなかった?」
言われてふたたびドキッとした。
「え、それは……ええと……」
確かに冷静に考えてみれば、これは結構(けっこう)生々(なまなま)しい話なのではなかろうか。
見合いの先に結婚という可能性があるのなら、そこには当然、男女としての密接(みっせつ)な関わりだって含まれるはず。
どうして自分は今の今まで、そこを深く考えなかったのだろう。こうして本人を目の前にして初めて、異性との出会いを実感するなんて──。
間抜けにもほどがある。
今さらのごとく顔を赤くした綾把に、くっと短い笑い声が届いた。
「今どき珍しい、素直なお嬢さんだ。──あなた、そう言われること多いでしょう」
そのとおりなので、綾把はさらに赤面(せきめん)してしまった。
べつに悪い言葉ではないはずなのに、なにやらひどくいたたまれなかった。なんだか主体性のなさを責められている気がする。
返答のしようもなく首をすくめていると、当初の誠実そうな第一印象からがらりと趣(おもむき)を変えて、相手は微かな笑みを浮かべたまま、軽く顎(あご)を上げていた。どこか人の悪そうな笑顔だと思ってしまう。
「──で、今日のこれは?」
「……、はい?」
いよいよなにを言われているのかわからなくなった。
どうして彼が、意地悪(いじわる)そうに口角をあげて自分を見ているのかわからない。
「昨日の今日でこの再会ですよ? まさかこれを偶然の出会いとか言わないでくださいね。いったいうちの伯母は今度はどんなマジックを使ったんですか?
それともまさか、そちらのおばあさまがなにか?」
「は、はい……? あの?」
小さく首を傾げた綾把の視界に、皮肉げな笑みが映っている。
「できすぎでしょう」
このときに至ってやっと、綾把はなにを言われているのか理解した。
つまり、昨日の今日でこの再会は偶然とは思えない、と。これはいったい、誰の画策かと。
疑(うたが)いたくなる気持ちはわかる。いくら老舗が集(つど)う日本橋界隈(かいわい)とはいえ、このデパートとつきあいのある商店は川奈だけではないし、ここでトラブルに見舞われていたのが光顕自身だったのもできすぎている。ましてや、綾把が代理でこの場にやってくる確率など、どう考えても天文学的な数字になるだろう。
けれども、現実は現実だ。綾把から言えることは、そのシンプルな事実の羅列(られつ)しかない。
「ええと、でも、今日のこれはほんとうにただの偶然……ですよ?」
そこだけははっきりさせておきたくて、無理して小さくほほえんだ綾把に、わかりやすく心外(しんがい)そうな顔が向けられる。
「やめてほしいな、それじゃあまるで運命かなにかだ。──なるほど、僕たちはここで出会うべくして出会ったと?」
「運命……」
意外な単語にきょとんとしたら、今度はにやっと笑われた。軽く口角を持ち上げただけの怜悧(れいり)な美貌が、やっぱりどこかいじめっ子のようにも見える。意外に多彩(たさい)な表情を持つ人だと思った。
「演出としては悪くないけれど、さすがに無理がありますね。なんだってこの広い東京で、二日続けて偶然出会わなくちゃならないのか。まさかあなたがなにかしたとは言いませんが、よりにもよって今日という日に、ここに現れることが不自然だ。僕が今日、ここに来ることは誰から聞きました?」
「そっ、そんなの聞いてません!」
反射的に綾把はソファから立ち上がってしまった。こんな感情的な行動をとるなんて過去になかったことだ。思いがけない自分の行動にハッとして一気に恥じる。慌ててうつむく。
「あ、いえ、その……、ごめんなさい……。とにかく、私はほんとうに、ただ仕事でこちらに伺っただけですので」
すると光顕が、怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。
「仕事? 茶道の教室でもあるお住まいは神楽坂と、昨日、伯母から聞かされましたが、そちらでお仕事をされているのでは?」
「勤め先は向かいです」
「え?」
意外そうな顔をする光顕は、どうやらほんとうに、綾把が川奈の社員であることに気づいていなかったようだ。少し慌て者の気がある森末が、紹介らしい紹介を全然してくれなかったのだから無理もない。
「もしかしたら、私が茶道をたしなむ人間だから、老舗の川奈に顔が利(き)いて、今回のお茶も用意できたと勘違(かんちが)いしてらっしゃいます?
違います、私、そこで働いているんです。」
訝(いぶか)しげに目を細める光顕に向けて、綾把は続けた。
「実際に注文品を手配する本社は少し離れたところにありますが、私が勤める路面販売店舗は、この正面にあります。道路を挟んで真向かいです。──本来でしたらこういう席には営業か経営の人間が訪れますが、今日はたまたま責任者が地方なもので、代わりに私が来ただけです」
「……なるほど?」
さすがにすんなりと納得してはもらえないようだが、綾把の口から出る言葉は、一貫して事実の羅列だ。これ以上、言えることなどなにもない。こうなると、事細(ことこま)かに説明してもむなしいだけだろう。
「なにを勘ぐっていらっしゃるのか知りませんが、それがすべてです。──あとは正規の担当者が引き継ぎますので、どうぞご安心ください」
綾把は言うだけ言って、ぺこりと頭を下げて踵(きびす)を返した。森末が戻ってくる前に出ていってしまおう。あとのことなど、電話やメールでどうとでもなる。
「綾把さん」
引き止める声は背中で無視した。だって、そうするしかないだろう。扉に手を掛けての退室間際(まぎわ)にちらりと振り返った。
相手の顔色は読めない。
彼の考えていることなど、綾把にはちっともわからない。
なんだかこのままでは泣いてしまうそうだ。
綾把はぐっと堪(こら)えて、小さくひとつ、ぺこりと頭を下げた。
「というわけで──、仕事もありますので私はこれで」
それが昨日の光顕のセリフとまったく同じと気づかぬまま、綾把はくるりと踵を返した。
「綾把さん!」