書籍詳細
愛執包囲~強引社長の甘い独占欲には抗えない~
あらすじ
「もう逃さない。俺は二度と、君を離さない」
再会した彼の執着愛にからめ取られて…
ピアノ講師の乙香は、ある出来事がきっかけで別れた元恋人の司に再会する。「俺の傍にいてほしい」――昔と変わらず真摯に向き合ってくれる彼に、徐々に心が解かれていく乙香。過去の出来事を拭いきれず距離を置こうとするも、ことあるごとに甘くイジワルに求愛し、乙香をじわじわと囲い込む司に本能は抗いきれず、どうしても彼を求めてしまって…!?
キャラクター紹介
秋野乙香(あきのおとか)
元ピアニスト志望の音楽講師。おっとりした見た目に反して熱血と言われている。
藤堂 司(とうどうつかさ)
楽器製造メーカー『藤堂旋律』の社長。乙香の通っていた音楽高等学校の先輩で元恋人。
試し読み
「同じ曲を、俺の伴奏に合わせて」
「えっ、あっ」
言うなり弾き始めてしまった司に、乙香は目をしろくろさせながらも、鍵盤に目を向けた。
まるで導かれるようなリズム。自然と指が動き出す。
ゆったりしたメロディーはそのままに、さっきよりもアップテンポに音が走り出す。
隣で司が歌い始めた。
有名なミュージカルの一節だ。本来は女性が歌うのだが、司の裏声はハスキーで色艶があり、この曲の雰囲気にぴったりと合っている。
流暢な英語の歌が乙香のピアノに合わせて流れていき、あたりはいっそう、音楽に耳を傾けたように静かになった。
不思議だ。ここはただのラウンドタワーの一画。コンサートやライブ会場でもない、フリーピアノを弾いているだけなのに。
まるで初めからここで演奏することが決まっていたかのように、ふたりの周りに人垣ができて、ひとつの音楽を聴いている。
久しぶりにアップテンポで弾くジャズは、時々左指が絡まりそうになってしまう。
練習不足だ。そういえば、ここ何年かは人に教えるばかりで、自分から積極的にピアノを学ぶことは少なくなっていた。
(こんなことになるなら、もっとちゃんと練習しておけばよかった……)
そんな悔やみの気持ちを持ちながらも、乙香はちらりと司を見た。
彼は乙香と目を合わせると、歌いながら優しく目を細める。
――『誰かがわたしを見つめている』。
カッと顔に熱が上って、乙香はすぐに目をそらした。
司の伴奏に、乙香が旋律を合わせる。司の音が乙香を追いかけて、乙香の音が司のところへ帰っていく。
そのハーモニーは甘く色づいて、蕩けるような音だった。ふたりの音色が合わさり、耳心地のよい和音に乙香はうっとりする。
(なんて気持ちいい音なんだろう)
こんなふうに幸せな気持ちでピアノを弾くのは、初めてじゃない。
そう、あの頃も。司とつきあっていた頃も、よくこうやって合奏していた。放課後、乙香がひとりで練習しているところに、司が押しかけてきては、勝手に隣に座って伴奏し始めていたのだ。
『合わせて。俺の音についてきて』
正直、最初はついていくのに必死で、音楽を楽しむ余裕なんてなかった。
でも司の息づかいや、リズムを取るクセ、好きなテンポを覚えていくうち、指が勝手に動くようになった。
ひとりで作り上げる音楽もいいけれど、ふたりで作り上げるのもいい。
音楽は楽しい。それを教えてくれるのは、いつも司だった。
(ああ、やっぱり……好きだな)
乙香は諦めたような顔で微笑んだ。好きになってはいけないと理性で押さえ込もうとしてもだめだ。乙香は心底司の奏でる音が好きで、彼自身が好き。この気持ちは、九年経っても変わらなかった。忘れようとしても忘れることはできなかった。
(でも、それを口に出すか、胸の内に秘めるかは、別の問題だから)
ずっと好きだったよと口にできたらどんなにいいだろう。
でも、そんなこと言えるはずがない。好きという気持ちが本当でも、それだけは隠し通さないといけない。
そうでないと、乙香は自分が許せなくなる。
彼にあんなことをしておいて、やっぱり『好き』だなんて――ムシが良すぎるから。
夢のようなアンサンブルが終わって、乙香は鍵盤から指を離す。
その途端、わっと花咲くような拍手が起こった。
「え……」
夢中になってピアノを弾いていたからわからなかった。想像以上にギャラリーが増えていたようだ。
カフェテラスの席に座って、うっとりと余韻に浸る老夫婦。
親子連れの子供が、ピアノを弾く真似をしてはしゃいでいる。
外国人の観光客は、ジェスチャーで音楽の素晴らしさを表現していた。
急激に恥ずかしくなった乙香はパッと立ち上がると、ぺこりと頭を下げて、ぴゅーっと走り出してしまう。
「乙香。バッグ忘れてるぞ!」
「あっ、ごめんなさい」
後ろから司が追いかけてきて、乙香は彼からハンドバッグを受け取った。
「はー、びっくりした。恥ずかしい……」
「ピアニスト志望だったくせに、これくらいのギャラリーであたふたしたらダメだろ」
「それは過去の話! 今は日陰の音楽講師なの!」
まったく、プロのピアニストはすごいなと乙香は思った。今以上にたくさんの観客の前で、しかもお金を取って演奏するのだ。そのプレッシャーがいかほどかなど、乙香には予想もつかない。
ふぅ、と息をつく乙香に、司がくすくす笑った。
「お疲れ様。すごくいいピアノだった」
「調律の腕が良かったんだよ。展示会の藤堂ピアノでも同じ音を感じたけど、一体どんな調律師なんだろう。そういえばあの音、高校の頃にも聴いたことがあるんだよね。う~ん、この辺に住んでるのかな?」
首を傾げると、そんな乙香を優しく見つめていた司が、ふいに視線を上げた。どうやら乙香の後ろにいる人を見ているようだ。
知り合いでもいるのかと思い、乙香が釣られたように振り向くも、そこにはガラス壁面があるのみで、誰もいない。
「今、どこを見ていたの?」
乙香が尋ねると、司は「いや」と言って、首を横に振った。
「そこで飛行機が飛んでると思ったんだ。でもただの鳥だったよ」
「そ、そうなの?」
司が余所見をするなんて珍しい。そう思いながらも、乙香はそれ以上の追及はしなかった。
ラウンドタワーを出て、時計を見ると、午後三時を過ぎた頃。
(そろそろお開きかな)
大変だったけど、なんとか司の『頼み事』は果たせたし、自分の役目はこれで終わりだろう。
……本当は、もっと話していたい。
ピアノの話。イタリア留学の話。最近の話。なんでもいい。とにかく司のことをもっと知りたい。彼の声をずっと聞いていたい。
せめて夕食くらいは一緒に過ごしてもいいじゃないか。そんな気持ちは確かにある。
後ろ髪を引かれる思いとは、まさに今の乙香を指している言葉だろう。
九年間、離ればなれだった。それが今日だけの逢瀬で、一生さようならなんて……あまりに悲しすぎる。
でも、大人としての線引きをしなければならないと、乙香は気を引き締めた。
「今日は楽しかった」
ガレージに向かいながら、司が言う。しかし乙香は彼にはついていかず、その場に立ったまま「うん」と頷いた。
「私も楽しかった。左手だけだったけど、司くんとまた一緒にピアノが弾けるなんて思わなかったし、嬉しかったよ」
それは心からの本音だ。もう彼のピアノは聴けないのだと諦めていただけに、伴奏だけでも聴けてよかったと思う。
「乙香……」
司は振り向いた。自分について来ようとしない――ここで乙香がお別れしようとしていることに気づいたのだろう。
「俺、しばらくは日本にいるから。またこうやって会おう」
――それは、待ち望んでいた言葉であり、同時に、聞きたくなかった言葉だった。
乙香はぎゅっとワンピースの裾を摑んで、首を横に振る。
あんなにも自分に言い聞かせたのだ。今更心が揺さぶられたりはしない。
「なぜ?」
乙香の拒否に、司が落ち着いた声色で尋ねた。
その問いの答えを言わなければならないのか。なによりも乙香が辛く思っていることなのに。
でも、自分があのことに責任を感じているなら、やはり言わなければならないことなのだろう。
乙香は顔を上げて、はっきり言葉を口にした。
「私はね、あの日のことを許すわけにはいかないの」
視線の先は、司の指。何を犠牲にしても守りたいと思って守れなかった、乙香の大切な宝物。記憶の中で未だ鮮烈に思い出せる旋律は、もう二度とこの耳で聴くことはない。
司は困ったように笑って、軽く肩をすくめた。
「俺はあの日あったことについて、なにも気にしていないんだけどな」
「あなたの気持ちの問題じゃない。私の気持ちの問題なの」
どんなに気にしないと言われても、たとえ司が乙香を許したとしても、乙香自身が許せない。どうしてもっとうまく立ち回れなかったのか。かばうのではなく、突き飛ばすくらいの行動力が必要だったのに、なぜそうできなかったのか。
過ぎたことを悔やんでも仕方ないと分かっていても、乙香はどうしても自分自身があの時取った行動に納得できなかった。
もしタイムスリップができたら、確実に、彼の指を守ってみせるのに。
「それに、あの日のことだけじゃないよ」
乙香は優しく司に微笑みかける。きっと、何かに落胆して諦めたような表情になっているだろう。
「もう私たちは、あの頃の私たちじゃない。お互いに、いい歳した大人なんだよ。国内有数の楽器メーカーの若社長と、音楽教室の一講師。どう考えてもバランスが取れていないでしょ」
「なんのバランスだ? 対外的な評価なんて、俺にとっては最も意味のない対比だ」
「あなたがよくても、私が嫌なの。……私が『対等』を望んでいるのは、知っているでしょ?」
例え互いが対等だと認め合っても、社会的立場がそれを許してくれない。
どう転んでも司は藤堂旋律の社長で、乙香は単なる講師なのだ。それが、高校の頃とは違う、もっとも大きな格差かもしれない。
「だからね、私たちはもう会わないほうがいい。お互いに、自分に合った世界っていうのがあると思うから」
無理を押し通すようなつきあいをしていたら、いずれどちらかが息切れを起こし、限界を感じるだろう。恐らくは乙香が司の価値観についていけなくなる。そんな気がする。
しばらく、ふたりの間に静寂が訪れた。
時折、初夏の風に吹かれて、街路樹の葉が爽やかに揺れる。
そんな中、ふいに司が口を開いた。
「互いの立場なんて、俺にはどうでもいい。ともかく、もし乙香があの日のことを後ろめたく思い、俺に対して罪悪感を覚えているなら、それはお門違いだ。まったく意味のない後悔だよ」
「なっ」
カッと乙香の顔が熱くなる。罪悪感を抱いていることは、ぐうの音も出ないほどの図星だった。それに加えて、乙香が守りたかったものに『意味がない』と言われるのはショックでしかない。
「あ、あなたの手の価値は、あなた自身が一番わかっているはずなのに、どうしてそんなことを言うの!」
「俺は、終わった事をあれこれ言って足踏みするよりも、前を向いて歩きたいんだ。そして……その道は、乙香と一緒でありたい」
「えっ」
なんだか思ってもみない言葉を言われた気がする。
目を丸くしてきょとんとする乙香の手を、司はそっと握った。
「なあ、乙香。君が苦悩する後悔はもう九年前に終わったことなんだ。今は、俺を受け入れてほしい。俺は君と共に幸せになりたくて、この国に戻ってきたんだから」
ひゅっと息を呑み込む。
口がぽかんと開いたまま、何も言葉が言い出せない。思いつかない。
「ずっと乙香を探していた。やっと見つけた。だからもう逃さない。俺は二度と、この手を離さない」
「司……くん……」
ようやく口から零れたのは、彼の名前だけ。
イエスもノーも、どうしてという疑問も、何も口にできない。
手首を握りしめる司の手から、例えようもなく強い執着の情熱が伝わってくる。
でも乙香には、司がそこまで強く想う気持ちが理解できない。
高校の頃につきあった期間はたった十ヶ月。しかも最後はあんな悲劇で終わった。そんな女性のことをなぜ九年間も想い続け、探していたのか。
確かに自分も、ずっと司が忘れられなかった。
だが、折り合いはつけていたのだ。彼は過去の人だと割り切っていた。
しかし司はそうではなかったらしい。
自分と幸せになりたいなどと言ってくれる。
乙香はどうしてもそれが理解できなかった。