書籍詳細
大正新婚浪漫~軍人さまは初心な妻を執着純愛で染め上げたい~
あらすじ
政略結婚でお嫁入りしたら、激しく独占されて…!?マーマレード文庫創刊4周年SS特典付き!
時は大正。楓は良家の娘でありながら、妾腹のため女中として扱われてきた。ところが突然、エリート陸軍大尉・雪禎との縁談が舞い込む。ただしその条件は、身分を偽り、正式な令嬢として嫁ぐことで!?秘密を抱えて始まった結婚生活だが、過保護に甘やかしてくれる雪禎に、愛しい想いが募る楓。罪悪感を覚えつつも、初めて知る極上の愛に溺れていき…。
キャラクター紹介
縞田 楓(しまだ かえで)
実家の計略で、妾腹という素性を隠して雪禎と結婚。嘘や身分差に悩みながらも、彼に惹かれていく。
岩津雪禎(いわつゆきさだ)
華族の血筋で、将来を嘱望されるエリート将校。陸軍では鬼と呼ばれるが、楓には特別に甘くて過保護。
試し読み
外はじりじりと焼け付くような暑さだった。時期的に薄物を着るには少々早いが、気温は盛夏といっていい。こめかみから頬につうと汗が伝う。
ひゅうひゅうと風が吹きつけてくるので、その瞬間はとても涼しかった。この風があれば、駒下駄を鳴らしても赤坂あたりまで歩けそうな気もする。まだ屋敷周辺を散策した経験もない。せっかくだから出かけてみよう。
楓は探検するような心地で歩きだした。飯倉片町の麻布郵便局に寄り、雪禎に頼まれた手紙を手配する。
それから車の行き交う大きな通りをてくてくと歩いた。埃っぽいけれど、風が吹いているので、汗がちょうどよく冷える。木陰になっているところを選んで、楓は黙々と歩く。
雪禎の仕事場へ向かうということに緊張と興味を覚えていた。
帝国陸軍第一師団歩兵第一連隊の駐屯地は大きな門がそびえ、左右に国旗が掲げられている。門には兵士がひとり背筋を伸ばして直立していた。
想像していたような詰所はない。どうしたものかと考え、門番の兵士に声をかけた。
「あの」
岩津雪禎の妻の楓であると告げ、夫に届け物があって来たという趣旨を説明する。その間に、中から数名の兵士が出てきた。
「岩津大尉の奥様でいらっしゃいますか」
ひとりの兵士が言い、それではと門の中へ楓を招いた。忘れ物を渡してもらうだけでいいと思っていたのだが、本人確認のためもあるようで「岩津大尉をお呼びいたします」とのこと。
案内されて入る駐屯地は、ざっと見回しただけでかなり広い。正面の建屋が第一師団の本部だろうか。横からは訓練の号令が聞こえた。
見れば、土埃を上げ装備を背負った兵士たちが駆け足をしている。怒号が飛び、勇ましくも荒々しい姿に、楓は心臓がどかどかと鳴り響いた。
場違いなところへ来てしまったと思いつつ、雪禎がはたしてこんなところにいるのかと不安にならずにはいられない。
楓の知る雪禎は、穏やかで平和な微笑みをたたえた美しい人である。この土埃の中で訓練に明け暮れているようには思えない。
一方で、岩津家で彼の父と兄と対峙した瞬間や、先日楓を長吉から守った雪禎は、ひとりの男だった。普段、楓の前では見せないたくましく、厳しいまでの姿だった。
実際、休日の屋敷でも運動をし、己を鍛え磨いている。
「奥様、あちらに岩津大尉がいらっしゃいます」
兵士に言われ、楓は弾かれたようにそちらを見た。土煙の向こう、壇上に立つ背の高い軍人は間違いなく雪禎だ。
百五十の中隊の指揮者である。他の隊も練兵中のため、怒号で雪禎の声は聞こえない。しかし、その表情は勇壮な陸軍将校のもの。口を開き、号令する姿は雄々しい獅子の姿に似ていた。
美しく勇ましい。その姿に楓は暫時見惚れた。恐ろしく思うはずがない。雪禎はこんなときも綺麗だ。
「岩津大尉の統べる中隊は歩兵でも猛者ぞろいです。兵は皆、岩津大尉の勇猛さに心酔しておりますよ」
「はい……」
兵士の言葉に楓は深く頷く。以前会った武良少尉も、同じように雪禎を褒めたたえていた。それは楓にとって誇らしく嬉しいものだった。
通常兵士の客は食堂などに通されるらしいが、将校の細君であるため、楓は簡素ではあるが応接室に通された。ここで雪禎が来るのを待ってほしいとのことだった。
「訓練中に来てしまって申し訳ないわ」
楓は窓から練兵の様子を眺める。雪禎の隊は見えないが、兵士たちが駆け抜けていく姿が見えた。
まだ時間がかかるだろう。御手水を借りようと応接室の外へ出た。ここを使ってくださいと先ほど兵士に指示された廊下の奥の御手水へ行き、用を済ませて廊下に戻る。
すると、兵士が三人ほど歩いてくるのが見えた。
楓のいる応接室の前は出っ張った柱があるせいで死角になっているのか、彼らからは見えない様子。咄嗟に楓が身を隠してしまったのは、彼らの会話の内容が聞こえたためだった。
「岩津大尉の奥方が来ているらしいぞ」
「別嬪だと聞いたが、あのなよなよとした男が女など抱けるのかね」
そこで笑い声が起こる。楓は柱の陰でじっと拳を握りしめた。男たちは楓に気づくことなく話しながら歩いている。
「家柄はご立派だが、所詮公家華族だろ。戦場でお公家に何ができる。どうせ、銃剣も重たくて持っていられんよ。横の武良少尉あたりにおっつけて、偉そうに威張ってるに違いない」
「仕方ないさ。稚児で成り上がったのだから」
「あの顔だものな。狂わされたお偉方はさぞ多くいるだろう」
「そりゃ、大将たちとの寝屋が忙しくて、別嬪の細君を抱いてる暇がないな」
大きな笑い声。稚児とは、愛人のことだ。雪禎が男性将校たちの愛人をして成り上がったと、この男たちは言っているのだろうか。
怒りが身体の底から湧き上がってきた。それは楓にとって感じたことのない感情の奔流だった。今までどんなに悲しい目に遭っても、これほどまでに腹立たしく、臓腑が煮えるような心地を覚えたことはない。
楓は拳を握りしめ、兵士たちの前に飛び出そうかと逡巡した。雪禎への愚弄を撤回させなければならない。
そのとき、楓の両肩に温かな手が置かれた。
「しぃ」
耳元でささやかれたのは愛しい人の声。横に顔を捻じれば、そこには雪禎がいる。廊下を逆方向からやってきたらしい。
雪禎はなおも低く言う。
「言わせておきなさい」
「でも」
「ほら、中へ。お茶を用意したから飲もう」
雪禎は訓練から駆けつけてくれたのだろう。軍服には土埃がついていたし、頬には汗が浮かんでいた。
応接室に入ると、すぐに武良少尉がお茶を持って入ってきた。
「奥様、先だっては失礼しました」
明朗な声。楓はまだ落ち着けずに頷くばかりだ。
「私の忘れ物を届けに来てくれたんだね。すまない。今日はこの書類は使わないものだと、玄関先で思いだしてね。おまえとスエにきちんと言っておかなかった私が悪いね」
「いえ……勝手をしまして申し訳ありません」
楓はうつむき、そう返すので精一杯だった。まだ身体が怒りで震えている。
「岩津大尉、仕事中に奥様のお顔を見られて元気が出ましたね」
「ああ、ついでに里心もついて、今日はもう帰りたくなってしまった」
「許しませんよ」
雪禎と武良が軽口をたたいて笑い合っている。
楓は信じられないような気持ちだった。雪禎だって聞いていたのだ。自分自身への中傷を。それなのに、何も気にしていないような素振りでいる。
なんとも思わないのだろうか。悔しくはないのだろうか。
「武良少尉、妻を送ってやってくれないか。俺が同行すると、一緒に帰ってしまいそうだ」
「そりゃあ、いけませんね。奥様、車を手配しますので参りましょう」
武良が人懐っこく微笑み、楓の前に立つ。立ち上がった楓に、雪禎は微笑みかけた。
「楓、本当にありがとう。今日はいい風が吹いているから、帰ったら夕涼みをしようか」
「はい……お帰りをお待ちしております」
楓はかすれた声で言い、頭を下げた。
麻布の邸宅に戻ってきてからも、楓はぼうっとしていた。激しい怒りが表に出てくることはないが、どうしてという気持ちが消えない。雪禎を陰で罵っていた男たち。それを知りながら知らん顔をしていた雪禎。
堂々と糾弾してほしかった。あんなふうに言われっぱなしでいるのは、連中を増長させるはずだ。あることないこと言われるのを放置していていいはずがない。
スエは楓が浮かない顔をしているのに気づいている様子ではあったが、何も言ってこなかった。楓の代わりに豆腐屋の特売に行ってくれたので、氷水に泳がされた豆腐で夕餉は冷ややっこができそうだ。
まだ日の沈みきらないうちに雪禎が帰宅した。
「暑い、暑い。先に風呂をもらうよ」
屈託なく言う雪禎は、やはり日中のことを気にしている様子はない。風呂に入り、スエを見送るとふたりで夕餉を済ませた。みょうがをたくさんのせた冷ややっこが美味しいと雪禎は嬉しそうだった。
夏の遅い日が暮れていく。日中の熱気は残っているが、風は相変わらず吹いていて、ちょうどいい体感気温だ。
「楓、夕涼みをしないか」
雪禎が蚊取り線香に火をつけ、縁側に置いた。楓は夕餉の片付けの手を止めた。食器は洗い終え、丸卓を拭いていたところなのでほぼ片付けも終わっている。
「はい」
縁側に並んで腰かけた。日暮の声が聞こえた。
「昼間はすまなかったね。嫌な思いをさせた」
雪禎はこちらを見ずに空を眺めている。東向きの縁側と庭、ふたりの頭上にはもう深い群青色が広がり始めていた。
「わたしは嫌な思いなどは」
「ずっと困った顔をしているよ。眉が八の字だ」
そう言ってくすくす笑う雪禎に、楓はぐっと詰まりうつむく。それから思い切って向き直った。唇が震える。悔しいという気持ちが噴出してきて、顔が歪んだ。
「雪禎様」
「なんだい」
「あのような輩に、好き勝手言わせていていいのですか?」
楓の様子に、雪禎が目を丸くする。
「怒ってくれているのかい?」
「当たり前です! ……雪禎様は、あのような嘘八百で貶められていい方ではありません! ご立派な方です!」
「彼らは言いたいだけさ。単純に嫉妬。いちいち気に病むことではないよ」
一度丸く見開いた目を優しく細め、雪禎は微笑む。口調は子どもに言い聞かせるようだ。
「どこの世界も一緒だろう。多く持っているものは妬まれる。産まれた家がよければ、無条件に上に行けると彼らは思っているんだろう。こちらの努力も中身も、知る気がないのさ」
「でも……!」
「あとはほら、私は顔が女性みたいに可憐だろう? それをからかいたいんだ。実際青年将校と呼ばれた時代は、上官同輩の何人かに熱烈な誘いをかけられたよ。丁重にお断りしたけれど」
涙ぐんだ楓をなだめたいのか、雪禎がおどけた口調で茶化す。
楓は首を振った。雪禎に気を遣わせている自分も嫌だ。しかし、この気持ちを言葉にせずにはいられない。
「あんなことを……事実ではないのに」
「何も恥ずべきことはない。言いたいやつには言わせておくだけさ」
「でも、わたしは悔しいです! 雪禎様はこんなに素敵なのに。お優しく努力家でいらっしゃるのに。雪禎様を知ろうともしないで貶して喜んでいるあの輩が許せません!」
「私のために怒ってくれてありがとう。だけど、おまえの顔を曇らせてしまったのは、私の失策だね」
楓の顎をとらえ、顔を上向かせると、雪禎は親指で丁寧に涙を拭ってくれる。
「次はおまえの名誉のために抗議することにしようか」
「いいえ、いいえ……!」
違う。そうではないのだ。雪禎が自慢できる夫であることが、楓の誇りなのではない。
ただひとり愛しく思う男が傷つけられた事実が、許せなかったのだ。その夫こそが懐深く、些末なことを気にしないと言っているのに、楓だけが苛立ちを抑えきれないでいる。
「こんな気持ちは初めてなのです」
楓は顔をくしゃくしゃにし、絞り出すように言う。目尻から新たな涙がこぼれ、雪禎がそれを拭った。
「自分のことならこうはなりません。誰かがあなたに悪意を向けるのが許せない」
雪禎の綺麗な面を見つめ、楓は溢れる気持ちのままに告げた。
「雪禎様をお慕いしています。心から」
「楓……」
「好きです……あなたが……この世の誰よりも……」
言葉が終わる前に唇が重なった。それはふたりの間で交わされた初めての接吻だった。
やわく重なり離れる。視線が絡む。
「ゆきさだ……さま……」
「言葉にしてくれたのは初めてだね」
つい先ほどまでの雪禎とは明らかに様子が違う。
頬が淡く赤い。瞳は興奮からかきらきらと輝き、嬉しそうな微笑みは今まで見たどれより綺麗で、子どものように無邪気だった。
「私も楓が好きだよ。この世の誰よりも愛おしい」
雪禎の言う通り言葉にしたのは初めてだった。溢れるような気持ちは、もう抑えきれなかった。
愛おしそうに雪禎がこめかみに頬擦りをしてくる。
「ふふ、浮かれてしまうな。やっと楓に好いてもらえた」
「わたしは……! たぶん、出会ったときから……」
「言葉にできるまで、楓の心が育った。それが嬉しい」
出会ったときから惹かれていた。三月半の時間をかけ、憧れから芽吹いた恋情は、健やかに蔓を伸ばしていったのだ。
「わたし……雪禎様の妻になれて幸せです。本当のわたしを知っても嫌いにならないでいてくださった」
「おまえこそ、私みたいな貧乏華族の次男坊のところに嫁いできて、誠心誠意尽くしてくれて、言葉もないほど感謝しているよ」
「好きです。雪禎様」
「私もだよ。可愛いな、楓」
雪禎が抱き寄せた楓を縁側にやわらかく組み敷く。板敷の床は夜風で少し冷えていた。しかし楓の全身は興奮で熱く火照っていた。
「今日はもう少しだけもらおうか」
そう言うなり口づけられた。重なった唇は何度も角度を変えて交わり、その感触だけで身もだえするほど心地いい。
互いの息が絡み、粘膜が触れ合う。薄く開けた唇の隙間から熱い舌が滑り込んできて、楓はその感触に背をしならせた。びりびりと身体の芯が震える。
「んっ、く……」
力を抜けと言わんばかりに、優しく口腔を撫でさする舌先。とろかされてしまいそうだ。
深い接吻に混乱していた心が、歓喜に染まり、その奥に未知の感覚を覚え始める。それが性的な快感であると、楓はまだ知らない。必死に雪禎の浴衣の袖を握りしめ、与えられる甘い接吻に溺れた。
「このまま抱いてしまいたい」
唇が離れる。目の前には頬を上気させ、目を細めて笑う雪禎の顔。なんとも艶やかで色っぽい。
楓は全身が心臓そのものになってしまったような感覚と、甘く痺れるような感覚を同時に味わっていた。
「雪禎様の……ものです」
抱かれたい。それがどういう行為か楓にはまだわからないけれど、気持ちが通じ合ったこの瞬間に、完全に雪禎のものになってしまいたい。
すると、雪禎がさらに目を三日月のように細め、ふっと笑った。
「今日はここまでだよ」
「え」
「やっと私を好きになってくれた楓だもの。今日から時折この接吻を思いだして落ち着かなくなればいい」
雪禎は楽しそうに言う。
「おまえが私を想って頬を赤らめたり、期待で落ち着かなくなっている様が見たいんだ。私でいっぱいになったおまえはきっとすごく可愛いから」
「……それはものすごく……意地悪な趣向ですね……」
頬を熱くしたまま、困った顔で言う楓に、雪禎が耐えきれないというように笑い声をあげた。
「すまないね。私はおまえが思う以上に新妻に夢中なんだ。もっともっとおまえのいろんな顔を見たいんだよ。それに」
ちゅ、と再び接吻を落とし、雪禎が言った。
「今ものすごく嬉しくてね。このまま楓を抱いたら、めちゃくちゃに抱きつぶしてしまいそうだ。私の愛でおまえを寝込ませたくない」
「寝込……え?」
「おまえがもう少しこういったことに慣れ、私が余裕を持っておまえに触れられるようになってからね」
雪禎の意地悪な笑顔に、楓はただただ赤面するしかできない。
「はい……」
それでも気持ちを伝え合えた実感はじんわりと身体と心を熱くし、いつまでも余韻のように楓を包んだ。
夕闇の中、ふたりは再びじっくりと互いの唇を重ねる。汗ばんだ肌に夜風が気持ちよかった。