書籍詳細
ウソ婚契約ですが、ドSな敏腕外科医から溺愛を注がれてます
あらすじ
「本気で愛するけどいいんだな?」エリート主治医と疑似夫婦生活!?
大けがを負って入院し、仕事と住処も失う羽目になった結凪。まれに見る美形の主治医・朱宮から契約結婚を持ちかけられ、やむを得ず承諾することに。「俺に恋してくれるのはご自由にどうぞ?」――イジワルで毒舌だけど本当は溺愛過多な朱宮の素を知るたびに、かりそめの関係に切なさが募るけれど、Sっ気全開な彼の腕に抱かれ、結凪は激愛に溺れていき…!?
キャラクター紹介
御塔坂結凪(おとうざかゆな)
23歳のカフェ店員。自分の店を持つのが夢。従姉と同居している。
朱宮湊大(あけみやそうだい)
大学病院の整形外科医。31歳。家族との関係が歪で結婚願望はゼロ。
試し読み
朝から雨が降った木曜日の午後。
結凪は夕飯の支度をしようと冷蔵庫を覗いて、バターが切れていることに気がついた。
雨脚は弱くなってきている。
買い物に行くなら、今だ。
──そういえば、ガーリックソルトも残り少なかった。先生、お肉はガーリックソルトで焼くの好きだしなあ。
手早くコートを着ると、傘を手に部屋を出る。
立地のいい湊大のマンションは、徒歩三分で最寄りのスーパーがあった。
買い物を終えて店を出るとき、三、四歳と思しき男の子が自動ドアから飛び出す。
「ナオっ! 待って!」
母親らしき女性の声が背後から聞こえてきた。
反射的に体が動く。
エコバッグを手にしたまま、結凪は開いたままの自動ドアをすり抜け、男の子をうしろから抱きしめた。
店の前は大通りで、平日の日中も自動車は途切れない。
歩道から車道まで飛び出してしまいそうな、勢いある男の子。
「危ないよ、お母さんが呼んでる」
レインコートの男の子がきょとんとして、結凪を見上げていた。
「すみません、ありがとうございます」
乳児を抱っこした母親が近づいてきて、結凪とナオくんに傘を傾けてくれる。
「いえいえ、元気いっぱいですね」
「はい。そうなんです……」
ちょっと困った様子で微笑む女性に、男の子がぱっと抱きついた。
「ママ、あのおねえさんだれ?」
「ナオが急にお店を出ていったから、おねえさんが捕まえてくれたんだよ。ひとりで走っていったら駄目って言ってるでしょ?」
かわいらしい親子に別れを告げ、結凪は雨の中をマンションへ歩き出す。
──あれ? 足首、痛いかも……
気のせいと思いたい。
けれど、歩けば歩くほどジンジンと左足首に痛みがたまっていく。
もしかしたら、怪我したところをひねってしまったのか。
──サポーター、着けてなかったなあ。
そういうときに限って、やらかしてしまうのが結凪だ。
部屋に戻って確認すると、やはり足首を内側に曲げたときに痛みが走る。
体重をかけても同様だった。
買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、結凪はソファに横向きに寝転がる。
少し休んだら、きっとよくなるはず。
雨音が耳に心地よく、濡れた夕方がマンションを包み込んだ。
いつしか、ぐっすりと眠り込んでいたのだろう。
「……な、結凪、こんなところで寝ていると風邪ひくよ」
「ふぇ……?」
目を開けると、肩を雨のしずくで濡らした湊大がこちらを覗き込んでいた。
──先生? なんで?
「今、何時……?」
「二十時」
「えっ!?」
信じたくないが、四時間も寝ていたらしい。
がばっと起き上がり、結凪はソファから立ち上がろうとした。
「痛っ……」
左足に体重をかけると、鋭い痛みに顔をしかめる。
「足首? どうした?」
「う……、今日、ちょっと……」
湊大が結凪の体を支えて、ソファに座らせてくれた。
彼はそのままフローリングに片膝をつき、左足をそっと持ち上げる。
「腫れてるな」
「……はい」
「何があったのか教えて」
今日のスーパーでの出来事と、走ったときの体勢、痛みを感じる角度などを説明すると、湊大がクローゼットから湿布を取り出してきた。
「今夜のワインは没収だね」
「えっ、ワイン?」
ワインどころか、夕食の支度すら忘れて寝ていたのだが。
きょろきょろと室内を見回して、ダイニングテーブルの上にデリのテイクアウト料理が並んでいることに気づいた。
「待って、なんで食事買ってきたの?」
──わたしが作ってないことに気づくだなんて、先生は超能力者? それとも、部屋に隠しカメラでも……?
「そんな怪訝な顔をされるほどのことじゃない。メッセージ送っても既読つかないから、どうせ寝てるんだろうなって思っただけだよ」
「どうせって、普段は寝てない!」
「でも、今日は寝てた」
言い返す言葉など持ち合わせるわけもなく、結凪はぐっと奥歯を噛みしめる。
──家事はわたしの分担なのに。どうして寝ちゃったんだろう。
「別に、たまにサボるくらい普通だから気にしなくていい。それより、足首のほうが問題だからな?」
「はぁい……」
テーブルに置かれていたのは、トルティーヤとクロワッサンサンドとバゲット、ラザニアに魚肉のナゲットとレバーペースト、シーザーサラダに、フルーツがたっぷり飾られたフルーツバスケットだ。
「ええ、豪華ぁ……!」
思わず目を輝かせると、彼は足元に置いていたらしい紙袋からワインのボトルを取り出す。
「たまにはいいワインで乾杯と思ったけど、これはお預けだな」
「ま、待って! 先生ひとりで飲むの?」
「そうだなあ。残念だけど、結凪は今日は飲めないだろうし」
「明日にしましょ! それなら足もよくなるから!」
「明日? そんなに腫れてるのに、一日で治ると思ってんの?」
ぎろりと睨みつけられ、結凪はしゅんと肩を落とす。
──うう、ワイン、いいワイン、飲みたかった……
しばしの無言と、そののちに。
「いいよ。週末に飲もう。それなら結凪の足も落ち着いてるだろうから」
「えっ、ほんとう?」
「きみがその状況で、子どもを放っておける人間じゃないのもなんとなくわかるから仕方ない」
考えるよりも先に体が動いていた。
迂闊だったのはわかっている。
「……その言い方、なんかわたしが浅はかだって感じするけど」
「否定はしないよ」
にっこり微笑む湊大が、結凪の頭をぽんと撫でた。
──先生は、いつも軽率に頭を撫でてくるなあ。こういうの、人によってはときめいたり嫌がったりするのでは?
では、結凪はどうなのかというと、自分でもよくわからない。
湊大と暮らしはじめて一カ月も過ぎていないのに、彼の大きな手に慣れてきている。
ふたりで食事をすることにも。
ふたりで休みの前日にワインを飲むことにも。
なんなら、ソファでそのまま彼に寄りかかって眠ってしまうことすらも、日常になっていく。
──きっと、先生のマンションから引っ越すときには寂しくなる。
その先に、会う約束は存在しない。
そういう契約で、湊大と結凪は一緒にいるのだから。
「結凪、あーん」
「あ、あーん……?」
急に呼びかけられ、よくしつけられた結凪は言われるままに口を開けた。
フルーツバスケットから、彼はブルーベリーをひと粒つまみ、ぽいと口の中に入れてくる。
「んっ、酸っぱい! でもおいしい!」
「ははっ、それはよかった」
「んー……、幸せ!」
両手で頬を押さえると、彼がまだ雨の残る肩を震わせた。
「結凪はおいしいものさえ与えれば、すぐ機嫌がなおる」
「バカにしてる? おいしいものは正義だよ?」
「知ってるよ。かわいいなと思って」
三日月のように目を細めた彼に見つめられ、心臓がどくんと大きな音を立てる。
──あ、やばい。何、これ。
知っている。
こんな感じをなんと呼ぶか、結凪だって知らないわけではない。
恋の予兆だ。
──だけど、先生はわたしを恋愛対象として見ていない。
好きになったところで、報われることのない恋。
ならば、ここで感情に歯止めをかけるほうがいいに決まっている。
好きにならない。なりたくない。
そもそも、湊大は結凪からすれば高望みすぎる相手なのだから。
──ここで踏みとどまれば、まだ戻れる。
「はい、もうひとつ」
「もういい」
「そんなこと言わないで。これはマスカットかな」
「……あーん」
みずみずしいマスカットを口に入れられると、先ほどとは異なる香りが鼻に抜けていく。
──おいしいよ。すっごくおいしい。だけど、こんなのペット扱いでしかない。
「おいしい?」
「うん」
「じゃあ、俺も味見」
そう言って、彼はマスカットをひょいと自分の口に放り込んだ。
「うん、うまい」
濡れた指先を、赤い舌が舐める。
その指は、先ほど結凪に食べさせるとき、唇に触れた指だ。
──か、間接キス!
「せ、せんせい、それ、ゆび」
「指がどうした?」
「だって、だって、今、舐めた」
「? 舐めたよ」
にやりと唇を甘く歪ませ、彼が結凪を見下ろす。
「間接キスとでも思った?」
「ばかぁ!」
どん、と彼の胸を両手で押した。
けれど、鍛えた体の湊大は揺らぐことなく、バランスを崩したのは結凪のほうだった。
「危ない」
「っっ……!」
両腕で抱きしめられ、雨の香りがするスーツのジャケットに顔が押し当てられる。
──心臓の音、聞こえちゃう。
壊れそうなほどに、心拍数が上がっていた。
こんなに密着したら、隠しようもないだろう。
「結凪」
「……っ、な、なに?」
「緊張してるね」
──わかってるなら言わないで!
そう言いたいのに、全身が熱くて声がうまく出せない。
この人を好きになりたくない。
好きになっても、きっと同じ気持ちを与えてくれない。
──教授の娘が相手でも結婚したくないって言う先生が、わたしなんかを見てくれるとは到底思えない!
「ねえ、俺に見惚れた?」
「なっ……、ちょっとイケメンだからって自意識過剰だよ」
「俺はちょっとイケメンなんじゃなく、かなりイケメンだと思うんだけど」
「……そういうのは、先生と結婚したがってる女子に言ってね」
そっと体を離すと、湊大がやれやれとばかりに肩をすくめた。
「食事の準備する。せっかくおいしそうなデリのお料理だから、スープくらい作ろうかな」
「だーめ。今夜は結凪は、食べる係」
強引に椅子に座らせられ、両肩を大きな手で包まれる。
──う。一度意識すると、もう知らないふりができないのに。
「いい? 立って準備を手伝おうとしたら、今度はお姫さま抱っこでベッドまで運ぶよ。ワインどころか、夕飯抜き」
「っっ……わ、わかった。わかりましたっ」
夕飯を抜かれることよりも、彼にお姫さま抱っこされることのほうが、今の結凪にはきつい。
緊張しすぎて、顔が真っ赤になるのは間違いない。
それどころか、もっと好きになってしまう可能性もある。
──ならない。好きにならない。絶対、ならないんだから……
虚しい抵抗を胸に、結凪はぎゅっと目を閉じた。