書籍詳細
離婚を認めない俺様御曹司は、幼馴染みの契約妻に独占愛を刻み込む
あらすじ
買われた妻のはずが天敵旦那様に一途愛で迫られて…♡「この先もずっと、お前は俺の妻だ」
「俺がお前を買って全部清算してやる」――幼馴染みの御曹司・龍司に実家の借金を肩代わりしてもらい、代償で結婚して以来、すれ違いの日々だった橙子を、彼は秘書に任命。それを境に、過保護な彼に激しい独占欲を注がれる日々が始まる。けれどある日、突然の離婚話が持ち上がったことをきっかけに、幼い頃から抑えてきた橙子の恋情も溢れ出し…。
キャラクター紹介
桐山橙子(きりやまとうこ)
父の事業の失敗により、没落した家庭の娘。龍司に借金を立て替えてもらう代償で、彼と結婚した。
桐山龍司(きりやまりゅうじ)
日本有数の総合商社・桐ヤマ商事の創業者一族。橙子とは幼稚園から高校までの幼馴染み。
試し読み
父と話した日の明くる朝、橙子を迎えに行くと、彼女はレジデンスの入口から出た道路際に立って待っていた。
慌てて車を降りて、「おはよう」と明るく微笑む橙子の肩を抱いた。
「電話するまで部屋にいなきゃダメだろ」
なにも知らない彼女は「でも」と戸惑いを見せる。
「冗談抜きで頼む。世の中はお前が思っている以上に危険がいっぱいなんだ」
「はい。わかったわ」
橙子が車に乗るのを見届けてドアを閉める。その間に視界の隅で人影が動いた。帽子をかぶった痩せた男だ。
男はさりげなさを装いスマホを手に視線を落としているが、ただの通行人じゃない。あの顔には見覚えがある。父が手配した何者かに違いない。
橙子とは反対側のドアから俺も車に乗った。
「はい、どうぞ」
差し出された小さい容器に入っているのは俵型のおにぎりだ。ひとつは鮭と大葉がまぶしてあり、もうひとつは青菜とジャコらしい。
「おー、うまそうだな」
アームレストのドリンクホルダーには蓋の開いたミニボトルがあって、味噌の香りが食欲をそそる。
早速鮭のおにぎりを頬張った。
その間橙子はなにを思うのかずっと外を見ていたが、ふいに「父がね」と言った。
「ん?」
俺を振り向きもせず、橙子は話し始めた。
「田舎に引っ越して、しばらく療養に専念しようかなって言ってるの。病院で古い友人に会ってね、空き家を紹介してもらう話になったんだって」
「コンサルタントの仕事は?」
「もう辞めるみたい」
まさか、また父の差し金で仕事がなくなったのか?
「そうか……。田舎でゆっくりするのもいいかもしれないな」
言いながら心の中で謝った。
すまない、橙子。お義父さん……。
喉の奥が締めつけられ、申し訳なさと悔しさでミニボトルを持つ手に力が入る。
「それでね――」
ようやく振り向いた橙子は、申し訳なさそうに「今のマンションなんだけど」と話を切り出した。
「龍司に返すね。今までありがとう」
なんだそれは。
「まだ先の話だろう? それに、あのマンションはもうお義父さんのものだ。名義は便宜上俺になってるだけで」
本当は名義もすべて渡してあげたかったが『そういうわけにはいかないよ、龍司くん』と固辞されたのだ。
「うん。ありがとう。でもね、もう東京には戻らないつもりみたいだから」
「引っ越し先はどこなんだ?」
「それほど遠くはないの。関東の西の外れの方」
答え方からして具体的な場所は言いたくないのだろう。彼女は俺から視線を外し、また俺とは反対側の窓の外を向く。
「父はね、今までのような仕事はもうしないと決めたらしいわ」
顎を上げて空を見上げる橙子がなにを思うのか。すべてがわからなくても俺にだって少しくらいは想像できる。
「橙子。お前も一緒に行きたいのか?」
クルッと振り向いた橙子は、にっこりと微笑む。
「私は龍司の妻だもの」
妻だもの、なんだ?
その先の言葉を最後まで聞かせてくれよ。
「なぁ橙子。今度一緒に俺が行きつけのレストランバーに行かないか? お義母さんの具合がよくて、ひとりでも大丈夫そうなときにでも」
「レストランバー?」
「明良って覚えてるか? あいつの幼馴染みの店なんだ」
「もしかして、水越明良くん?」
「ああ、そうだ。水の夢っていう会員制の店で、最近じゃ俺も毎日のように夕飯食べに行ってるんだ」
マスターが作る料理がうまいとか、話をせずにはいられない衝動に駆られて、俺は延々と話し続けた。
そうしていないと気持ちが落ち着かなかったから。
***
「はい。どうぞ」
今日のお昼のお弁当は、豚肉の生姜焼きと、ひじきの煮物に高野豆腐の煮物。サラダは別の器に入れてきた。
コーヒーメーカーでお湯だけ落とし、インスタントのお味噌汁を入れる。
ソファーに腰を下ろした龍司は、蓋を開けて並べてある弁当箱を見て破顔した。
「いいな。今日も相変わらずうまそうだ」
母に教えてもらいながら作った和惣菜。外食が多い龍司があまり口にしないようなヘルシーな素材で、味は薄味にしている。
「毎日悪いな」
「なに言ってるのよ。私は妻なんだから遠慮しないで」
申し訳ないのはむしろ私のほうなのに。龍司は最近少し変だ。
私に気を遣いすぎだと思う。
「高野豆腐とかひじきもちゃんと食べてね」
「はいはい」
気のせいか、また少し痩せたように見えるから心配だ。
「夜はちゃんと寝ているの?」
「ああ、寝てるよ」
「夕べは何時に寝たの?」
「二時くらいか? なんだかんだ十時過ぎまで会社にいたからな」
なんでもないように答えるけれど。
「そう……。大変ね」
龍司は私が想像していた以上に忙しく働いている。
官僚や外国の要人など、打ち合わせの相手は気が抜けない人物ばかりで精神的にも疲れるはずだ。
なのに弱音を吐いたりしない。
部下の愚痴を聞いてなだめたり励ましたり。管理職なのだから当然とはいえ、彼のストレスはどこで解消されるのだろう。
「なんだ橙子、それっぽっちしか食べないのか?」
私のお弁当箱は龍司の半分くらいの大きさだ。ご飯もふた口分しか入れていない。
「私は龍司みたいに忙しくはないもの、そんなに食べたら太っちゃうわ」
「少し痩せたんじゃないのか?」
ぷるぷると左右に首を振る。
「太ったわよ。あなたこそ痩せたでしょ」
この前も言ったけれど、本当に痩せたと思う。「思い過ごしだ」と龍司は笑うが、私に心配かけないように明るく振る舞っているような気がしてならない。
私を心配する半分でもいいから、自分の心配をしてほしいのに……。
「あ、そうそう。フルーツも食べて」
冷蔵庫で冷やしていたイチゴを出し忘れていた。
中を覗くと、残業中に小腹が空いたら食べるようにと入れておいたヨーグルトのパックがいくつか減っていた。棚にあったはずのバナナもなくなっている。
食べたのねと、少しホッとした。
こんなに気になるなら家に帰ればいいのにと自分でも思う。
だけど、どうしても一歩が踏み出せない。
私の存在が、龍司を苦しめているような気がしてならなくて。
イチゴを取り出し、少し沈んでしまった気持ちを振り切るように笑顔を作って振り返った。
「龍司、洗濯物とかクリーニングとかあれば言ってね」
顔を上げた龍司は、口をもぐもぐさせながらうなずく。
「毎日結構な荷物で大変じゃないか?」
「全然。朝はあなたのお迎えがあるし、帰りはタクシーだもの」
お弁当は使い捨ての紙容器にしたから持ち帰りはない。
「どう? おなかいっぱいになった?」
今日も龍司はご飯粒も残さず綺麗に平らげた。
「十分だよ。食ったそばから眠くなる」
壁の時計を振り返れば、お昼休みが終わるまであと十五分ある。
「ちょっと寝たら? 起こしてあげる」
「そうだな。じゃあ――」
ん? その仕草はなに?
長いソファーの中央にいた龍司は、横にずれてポンポンと空いた座面を叩く。
「膝枕」
「えっなに言ってるの。まずいでしょ」
「誰も来ないさ。昼くらいゆっくり休ませろって言ってあるし」
濃紺のスーツの上着を脱いだ龍司はにんまりと口角を上げ、「ほら早く」と催促する。
「昼休み終わっちゃうぞ」
わがままな子どもの頃の彼に戻ったみたいで思わず笑う。
「はいはい」
私の膝枕くらいで快適に眠れるなら、サービスしないとね。
ソファーの端に腰を下ろすと、龍司が私の膝を枕にして長い脚をはみ出させながら横になった。
「ああ、気持ちいいな」
私の膝の上から私の顔を見上げて満足そうに笑った龍司はゆっくりと瞼を閉じる。
そして、瞬く間に眠りについた。
昨夜も床に就いたのは深夜の二時だと言っていた。
龍司の勤務時間は社員のように管理されていないから、実際どれくらい働いているのかわからない。取引先は日本だけではないし、やろうと思えば二十四時間仕事は途切れずにある。
午前中女子トイレで会った秘書課の女性が言っていた。
『本部長は不死身なのかと思うくらい働いていて、ほんとにすごいですよね。たまに私が遅くまで残業をしていると、大抵いつも本部長がいるんですよ』
ロボットじゃないんだもの、不死身なはずはない。寝て食べて、心も体も休めなければ壊れてしまう。でも龍司は時々それを忘れているようだ。
死んだように眠っている彼の額に落ちた髪を、そっと直した。
そういえば幼稚園児だった頃、私の膝の上に強引に頭を乗せてきたことがあったっけ。
なにがそんなにツボだったのか、私を追いかけ回してばかりいた。
強く手を引っ張られて私が泣いて、しょんぼりした龍司は先生に叱られて。そのくせほかの男の子が私に近づくと怒って、男の子同士で取っ組み合いの喧嘩をしたり、龍司のせいで毎日が騒がしかった。
懐かしいな。
でも、いつの間にか私を卒業しちゃったんだよね。
龍司が私の周りからいなくなった途端に、私が望んでいた静かで穏やかな日々が訪れたけれど。
ねえ龍司、と心の中で語りかけた。
ほかの女の子と並んで歩く龍司を見たとき、ショックを受けている自分に気づいたの。
心にぽっかりと空いた穴にヒューヒューと北風が入り込んでようやく、龍司がいない寂しさに気がついた。
初恋と同時に失恋を知ったんだよ? バカでしょ私。
今さら言っても仕方ないよね。
切ない気持ちを抱えたままジッと見ていると、ふいに龍司が瞼を上げた。
いきなり目が合ってハッとしたものの動けない。
動揺をごまかすように笑みを浮かべて「起きたの?」と声をかけた。
「夢を見たよ。懐かしい幼稚園児だった頃の夢だ」
「どんな夢?」
「お前に怒られていた。『りゅうじくん、わがままはダメよ』ってな」
そんなことを言う彼にクスッと笑う。あの頃、私はよく龍司をそうやって諭していたっけ。
「だって、龍司ったら本当にわがままだったんだもん」
「それでもお前だけだった。そんなふうに注意してくれたのは」
龍司の手が伸びてきて背もたれを掴み、「橙子」とささやいた。
「お前が好きだ」
胸がキュンと熱くなる。
ゆっくりと体を起こした龍司は、動揺する私を包むように抱きしめた。
「お前が想像できないほどに、俺はお前が好きだ」
私を抱きしめながら龍司はすりすりと頬ずりする。
「――龍司?」
どうしたの。なにかあったの?
泣いているはずはないのに、なぜだか悲しみが伝わってくるような気がして、彼の背中に手を回す。
なんて声をかけていいのかわからず、ただ広い背中を撫でた。
私もだよ。私も龍司が好き。
伝えたいのに、喉の奥が震えて声にできない。
私の悲しみと龍司の悲しみが、この温もりで溶けてしまえばいいのに。ひしひしと伝わってくる彼の愛情が、光のない沼に呑み込まれていく。
胸が苦しいよ、龍司。
切なくて、愛おしくて、でもどうしていいかわからない。
ごめんね龍司。
私が、橘橙子なばっかりに。
タクシーを降り、病院を見上げてふと昼間の出来事を思い出した。
午後になり、相変わらず忙しそうに出かけた龍司は、廊下に出ようとして振り返り、『親父さんによろしくな』と微笑んだ。
先週末もその前の週末も、私は両親には帰ると嘘をつきホテルに泊まった。もちろん龍司は知らないし、お見舞いすら私が止めているから、彼はずっと父に会っていない。
私は嘘つきな娘で、酷い妻だ。父の入院をいいように利用して逃げている。
龍司。大丈夫かな……。
昼寝の後、体を離した彼は『充電完了』と明るく笑ったけれど。
『お前が想像できないほどに、俺はお前が好きだ』
心に深く沁みていく告白だった。
子どもの頃からたくさん彼の『好きだ』を聞いてきたが、あんなふうに切なく響いたことがあっただろうか。
胸の中で、彼のお義父様の視線が脳裏をよぎった。
廊下で会ったときの、虫けらでも見るような冷ややかなあの目を思い出すたびに、私の心は涙を落とす。
本当はいつもの龍司で、悲しかったのは私だけだったのかな。
それなら、いっそそのほうがいい……。
思いを巡らせながらぼんやりと窓の外を見つめていると「橙子、来ていたのか」と声がした。
振り返ると、寝ていたはずの父が起きている。
「お父さん、大丈夫?」
ベッドサイドに行き布団を直す。
「ああ。もうずいぶんよくなったよ」
来週には退院できるだろうと医者が言っていた。
父の回復は当初の予想より少し遅れている。今は顔色もよく、落ち着いて見えるがどうだろう。医者を疑うわけじゃないが父は我慢強くて無理をしてしまう性分だから心配だ。
「お父さん、ヨーグルトでも食べる? さっぱりするわよ」
「ああそうだな」
早速ヨーグルトを買いに売店に向かうと、また幸人に会った。病院で彼に会うのはこれで三回目だ。
「お見舞い、お疲れ様」
「お互いにな」
スーツを着ているところを見ると、彼も仕事帰りのようだ。
「橙子、時間があるならちょっと話をしようよ」
私はうなずき、幸人と売店を出て待合室の椅子に腰かけた。
「母の退院が決まったんだ。橙子のお父さんは?」
「それはよかったね。父も無事退院できそうよ」
「おお、お互い、よかったよかった」
喜び合った後、両手で缶コーヒーを持った幸人は、気まずそうにうつむいた。
「ごめんな橙子。僕は君に……」
「平気よ、気にしないで。私が黙っていたのもいけないんだし」
安藤さんをランチに誘ったとき、彼女から聞いた。
カフェで偶然幸人と会った後、安藤さんは再びあのカフェで幸人と会ったそうだ。たまたまお互いひとりで、一緒にランチをしたという。
安藤さんから私が龍司の妻だと聞いた幸人は驚いたらしい。
それはそうだろう。あれだけ桐山家を悪く言ったのだから。
「どう? 復讐できそう?」
「やだな、変なこと言わないで」
早とちりの安藤さんからなにか聞いたのね。
「橙子にその気があるなら、僕は協力するよ。桐山家だって叩けばいくらでも埃が出てくるはずだ」
「幸人、いいのよ。安藤さんがどう言ったかわからないけど、復讐なんて私は考えていないわ」
幸人は私のほうに向き直り、真顔で訴えた。
「でも、このままでいいわけないだろう? だって君の――」
私は彼の言葉を遮った。
「仕方がないわよ。弱肉強食でしょ? ビジネスの世界は。あなただってよくわかっているはずじゃない」
「龍司さんが……憎くはないのか?」
「どうして? 彼は私を助けてくれたのに」
龍司はお義父様とは違うの。たとえ父を陥れたのが桐山家でも、彼のことを悪く言われるのは悲しい。
「橙子」
哀れむような目をして幸人は私を見る。
「離婚しないのか?」
「しないわよ」
龍司のお父様が父を追いつめたのはきっと真実なんだろう。正直お義父様は憎いし許せない。
でも私はその憎しみを心の隅に追いやり、にっこりと微笑む。
「私は桐山家を信じているもの」
大嘘だ。これっぽっちも私は桐山家なんて信じちゃいない。
「だから桐山家を悪く言わないで」
大丈夫なのかな。こんなに嘘が上手になって。心がゆがんで。そのうちなにが本当なのか、わからなくなってしまうかもしれないね……。
それでも、つき通さなきゃいけない嘘がある。
龍司のために。
誰がなんと言おうと、私は龍司の味方でいたいから。
「心配しないで幸人。私は不幸じゃないわ」
「そうじゃない。違うんだ」
幸人は身を乗り出すようにして私ににじり寄る。
「ずっと君が好きだった。君が結婚さえしていなければ。いや、今からだってまだ」
真剣な瞳に気圧されて視線を下げると、幸人の喉ぼとけが、上下するのが見えた。
「なに言ってるのよ、悪い冗談ね。さあ、私はもう行かなきゃ」
幸人を遠ざけるように体をひねりながら立ち上がる。
「橙子」
「じゃ、元気でね」
背中に強く感じる視線から逃げるように足早に歩くが、追いかけてきた彼は「待てよ、橙子」と、私の腕を掴む。
「幸人?」
いつも穏やかな彼が、まさかそんな強引な態度に出るとは思ってもいなかった。
「冗談なんかじゃないんだ。僕は」
「私は桐山龍司の妻よ。離して」
同じバイト先で働くうち、幸人はあまりに優しいから……もしかしたら彼は私を? と、思ってはいた。
気づかないふりをしていたのは、幸人を好ましくは思っていても、恋愛対象として見られなかったから。
告白されればはっきりと断るつもりでいたし、今も気持ちは変わらない。
「あの男を愛しているわけじゃないんだろう?」
「あなたにはわからないわ」
幸人だけじゃない。私の気持ちなんて、きっと誰にもわからない。
「あなたがどう思っても、私は龍司を愛しているの」
言ったそばから、心がズキッと痛んだ。
「嘘だ」
嘘だったらどんなに楽か。忌まわしい桐山一族の人間だと憎むだけの相手なら……。
「さあ、離して。人が見ているわ」
状況に気づいたのか、ハッとしたように幸人は私の腕から手を離した。
「心配してくれてありがとうね」
苦しそうに顔をゆがめる幸人に、もう一度「さよなら」と告げた。
同時に、心の縁にこびりついていたかさぶたが剥がれ落ちた気がした。
はっきりと見えた自分の想い。
私は心から龍司を、彼だけを愛している。これからもずっと桐山龍司の妻として、彼と生きていたい。それだけでいい。