書籍詳細
過保護な心臓外科医は薄幸の契約妻を極上愛で満たす
あらすじ
「生涯俺の妻でいてくれないか」
敏腕ドクターな旦那様に“秘密”ごと溺愛されて!?
過去の手術費用の取り立てにあい、大金が必要になった穂乃香。そんな時、祖母が病に倒れ、心臓外科医の冬貴と八年ぶりに再会する。とある事情で亡くなった双子の姉のふりをする穂乃香の正体に気づかぬまま、冬貴は借金の肩代わりと引き替えに契約結婚を持ちかけてきて…!?かりそめの結婚のはずが、独占欲剥き出しな旦那様の溺愛を刻み込まれ…。
キャラクター紹介
石田穂乃香(いしだほのか)
幼い頃に先天性心疾患を患うが手術で克服。管理栄養士として働く。
綾瀬冬貴(あやせふゆき)
エリート心臓外科医。幼い穂乃香との出会いで人生が変わる。
試し読み
病院に到着すると、すぐに同意書にサインをし、祖母に会えないまま手術となった。
手術を待つ家族のために、下の階にはいくつかのソファセットが置かれている。
エレベーターを降りてソファに近づく足が止まる。
看護師から祖母に付き添って救急車に乗車した人がいると教えられていたが、そこにいたのは綾瀬先生だったことに驚く。
彼はエレベーターすぐのソファに座っていたが、目を閉じている。目を閉じると彫刻師が掘ったような美しい顔立ちがより一層わかる。
眠っているのだろうか。
起こすのも申し訳ないので、少し離れたソファに向かおうとしたとき──。
「石田奈乃香さん?」
突然名前を呼ばれて、足を止めて綾瀬先生の方をくるりと向いた。
綾瀬先生は目を開けて、きりっとした双眸で私を見ている。
「ご、ご無沙汰しております」
慌てて頭を下げると、彼はソファからすっくと立ち上がる。
私服を見たのは初めてで、ビンテージ物のジーンズ姿は足が長く、まるでモデルのようだと、近づいてくる綾瀬先生を見て思った。もちろん白衣姿の彼も、有能な医師の姿そのものだ。
「おばあさんを怪我させてしまい申し訳ない」
「とんでもありません。なにぶん年なので……」
先日、事務室で体調を診たのが私だとわからないようだ。
「連絡に驚いて喉が渇いていないか? 飲み物を買ってこよう。何がいい?」
綾瀬先生はここから見えるカップの自販機を示す。
「すみません、では、お茶でお願いします」
「わかった。座ってて」
素直に綾瀬先生が先ほど座っていたソファに腰掛ける。
知らせを受けてからホッと息を吐く暇もなかったので、座れるのがありがたい。
彼は自販機に向かい、ふたつのカップを持って戻って来ると私にお茶のカップを手渡し、隣に腰を下ろした。
「ありがとうございます。あ、お金を」
バッグを開けようとして「これくらいおごらせてくれ」と止められる。
「すみません」
「どうぞ。飲んで」
「いただきます」
お茶をひと口飲んだ私に、綾瀬先生は骨折したときの状況を話してくれた。
祖母はお屋敷の玄関で靴を履こうとしたとき、上がり框からバランスを崩して転んだそうだ。悲鳴を聞いて彼が駆け付けたときには、玄関で倒れていたと。
祖母は七十八歳だ。無理のできない年齢……。
「何か足りないものがあると、おばあさんは買いに行こうとしていたときだった。すまない」
「いいえ。こちらこそ、ご迷惑をおかけしてすみません」
「ところで、すぐに救急車で運ばれたから入院の用意をしていないんだ」
「そうでした! 家に行って取ってこないと」
この病院は、祖母の家──綾瀬家からタクシーで十分ほどのところだから、用意をして戻って来てもまだ手術は終わっていないはず。
「行ってきます」
立ち上がったところで、祖母の家の鍵を持っていないことを思い出した。
「綾瀬先生、祖母の家は鍵が掛かっていますか?」
「綾瀬先生?」
彼は首を軽く傾げた。
「……祖母からお医者様だと聞いていたので、つい……なんとお呼びしたらいいでしょうか?」
「それでいいよ」
もう退職しているし、同じ大学病院に勤めていたとあえて言う必要もないだろう。
「おそらく施錠していると思うが、スペアキーが保管してある。俺も一緒に行こう」
そもそも多忙な綾瀬先生を手術が終わるまで待っていてもらうのは忍びなく、お屋敷に着いたらあとは大丈夫だと言おう。
「助かります」
飲み終えたカップふたつを手にしてゴミ箱に捨てると、エレベーターの前で待っていた綾瀬先生と共に乗り込んだ。
タクシーで麻布にある綾瀬家の邸宅に向かう。後部座席の彼は、足がちょっと窮屈そうだ。
「あれからずいぶん経ったが、おばあさんからは、まだ心の傷は癒えていないと聞いている」
「おばあちゃんが……」
「ああ。日本へ戻って来たときに聞いたらそう言っていた」
「……そうですね。まだつらいときもあります」
借金を返済したら、気持ちが軽くなるのだろうか……。
「まだ時間が足りないようだな」
本当に時間が解決してくれたらいいのに。
屋敷に表門から入るのは初めてだった。
高級住宅地として知られている麻布で、綾瀬家はひときわ立派な門構えと日本家屋、広い敷地を持つ、昔からの地主だと聞いている。
一枚板の杉の門の横にある通用門から、三十メートルほど続く石畳を敷地内へ歩を進める。左右には庭師が手を入れている樹木だ。
綾瀬先生のあとに続いて歩いていると、七歳の頃奈乃香とかくれんぼをしていたときのことが思い出される。
引き戸の玄関の鍵を開け中へ入った彼が振り返る。
「どうぞ、中へ」
「え? いいえ。ここで待っています」
お屋敷に入るなんて恐れ多い。祖母は使用人で、室内にはご家族がいるのだ。
「わかった。では、離れの家の前にいてくれ。すぐに行く」
「ありがとうございます」
少し来た道を戻って、趣ある庭を通り祖母の家に向かう。
「あ……」
美しく咲いた桜の木が目に飛び込んできた。
幼い頃も、この桜が咲いているところは見ている。ただ綺麗な木だと思っていたが、大人になって見る桜の木はとても美しく、少しの間見惚れていた。
いけないっ、離れの家は母屋の裏手から行けるから、早く行かなきゃ。
祖母の家の玄関前に到着したが、綾瀬先生の姿はなくホッとする。
ほどなくして綾瀬先生が現れて、鍵を渡してくれた。
「用意が終わったら教えてくれ。俺も病院に戻るから」
「でも、ご迷惑では……」
「俺にとっても、とみさん……君のおばあさんは祖母のような人だから放ってはおけない」
彼が小さい頃から祖母はここで働いていたので、私よりも祖母と過ごした時間は長い。だけど、祖母は使用人。それなのに、身内のように思ってもらえるのはありがたい。
「わかりました」
「そうだ。スマートフォンを出して。俺の番号を教えておく」
彼はスマートフォンをジーンズのポケットから出した。
綾瀬先生のプライベートの番号なんて、大学病院の看護師たちが欲しがりそうだ。
電話番号を交換して彼は屋敷に戻っていき、私は玄関の鍵を開けて室内へ入った。
祖母の家は平屋建てで、キッチン、バストイレ、二部屋と納戸がある。
几帳面な祖母なので、部屋はスッキリと片付いており、タンスからパジャマと下着を数着取り出した。
「あとは何が必要だったっけ……」
タオル類も数枚出し、洗面所へ向かい、洗面道具と基礎化粧品なども手にした。
「あ、プラスチックのコップも必要だわ。でも蓋とストローがついたものの方がいいかな。たしか病院の売店で売っていたっけ」
祖母は時々友人と旅行へ行くのが趣味だったので、大きめのバッグもあり、それに必要なものを詰めていく。保険証とおくすり手帳も見つけてバッグの中へ入れた。
「これでいいか。おばあちゃん、大丈夫かな……」
手術室に入って一時間半ほどなので、まだ終わっていないだろう。
スマートフォンを出して、綾瀬先生にかける。男性へ電話をかけたことがないので、呼び出し音が鳴る中、心臓がドキドキする。
《終わったのか?》
「はい。これから表玄関へ行きますね」
《わかった》
荷物を持って祖母の家を出て、待ち合わせの場所へ足を運んだ。
綾瀬先生はすでに外で待っていた。
「お待たせいたしました」
彼は返事の代わりに私が持っていたバッグを持つ。
「自分で持ちます、そんなに重くないですから」
すると、綾瀬先生はふっと笑みを漏らす。
「ずっとひとりで大変だったんだろうな。もう少し人に頼ってもいいんじゃないか?」
「え?」
ズバリ指摘されて、目が丸くなった。
「誰にも頼りたくありませんって雰囲気が見て取れる。俺と君はまったく知らない人ではないのだから、一線引かなくてもいいだろう?」
「まったく知らないわけではないですが、祖母は使用人ですから」
「君は使用人じゃないだろう? さてと、行こう」
結局、荷物は綾瀬先生に持ってもらうことになり、門の左手にあるシャッター付きの車庫に案内される。どうやらタクシーではなく車で行くようだ。
人感センサーで車庫の中が明るくなり、そこには高級車が三台ある。綾瀬先生はそのうちのパールホワイトの車体に天井がブラックのSUVの助手席のドアを開けて私を座らせると、後部座席のドアに祖母のバッグを置いた。
運転席にやって来た綾瀬先生はエンジンをかける。
「失礼」
ふいに綾瀬先生の体がこちらに傾き、驚いて硬直する。手を伸ばした彼はシートベルトを引っ張り、カチッと装着させた。
びっくりした……シートベルト……。
車に乗るのは久しぶりだから、すっかり忘れていた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
綾瀬先生は口元を緩ませる。大学病院で見かけた彼はいつも仏頂面をしていたので、こんな柔らかい表情もするのかと意外だった。
日本麻生メディカルセンター病院に戻ったが、祖母の手術はまだ終わっていなかった。先ほどの待機場所にいると、看護師がやって来て入院手続きの書類に記入した。
その後、祖母の手術は無事に終わってふたり部屋に移されたが、麻酔のせいでまだ眠っていた。
綾瀬先生は担当医に話を聞き、明日来ると言って帰って行った。
祖母が目を覚ましたのは二十時だった。
「おばあちゃん、痛む?」
「……奈乃香、来てくれたのかい。そりゃ……痛いよ」
麻酔が切れたばかりの祖母は、ぼんやりした目を私に向ける。
「だよね。連絡があったときはびっくりしたわ。綾瀬先生も心配していたよ。明日来るって」
「そうかい……それは申し訳ないことを……忙しいのに」
「綾瀬先生から家のスペアキーを借りて、必要なものを持ってきたわ。足りないものがあったら言ってね。今は動けないけれど」
目を覚ましたので看護師を呼び、明日来るからねと言って病院をあとにした。