書籍詳細
過保護なイケオジ棋士は幼妻と娘に最愛を教え込む~偽装結婚が身ごもり溺愛婚に変わるまで~
あらすじ
恋愛経験ゼロからの溺愛指南で妊娠発覚!?
年上旦那様の熱情で、薄幸妻は愛され幸せママに――
家族に虐げられている真依に手を差し伸べたのは、昔将棋を教えてくれた人気棋士・龍己だった。真依は彼が提案してきた偽装結婚を受け入れ、新婚生活がスタートする。彼の役に立とうと健気な真依に、龍己の庇護欲は情欲を孕む愛に変わっていき…。「もう他の男なんかにやれない」――甘く蕩かされ娘を授かった真依に、龍己の溺愛はさらに加速して…!
キャラクター紹介
志村真依(しむらまい)
家族から虐待を受けていたが、18歳で龍己と結婚し家を出る。和裁縫士の仕事をする。
久我龍己(くがたつみ)
「凪の棋士」の異名を持ち、メディアでも話題のイケメン棋士。真依の22歳年上。
試し読み
「なんだか今日は、真依さんを困らせてしまったね。僕の周りは親切な人が多いけど、少しだけおせっかいなところがあるんだ。気を悪くしないで」
その日の夜、お風呂から上がって居間でのんびりしていた私のところへやって来て、龍己先生はそう言った。
彼が言っているのはきっと、さっきの女将さんのことだろう。それとも亀梨さんのべた褒めに恥ずかしくなって逃げるように部屋から出ていったことを、気にしてくれているのだろうか。
どちらにしろ不快なことではないし、龍己先生が詫びることでもない。
「全然気を悪くなんかしてません。というか……私の方こそなんか、申し訳ないです。私は龍己先生に助けてもらっただけなのに、いい奥さんだの、その……子供だの……。そんなこと言われて先生の方こそ迷惑ですよね。ごめんなさい……」
心苦しさにシュンとして言えば、龍己先生は眉尻を下げて微笑み、私のそばに腰を下ろした。
「こんなことで迷惑と思うようなら、初めからきみを引き取ってないよ」
そう言って一瞬彼の右手が動き、けれどハッとしたように自分の腿の上に戻したのが見えた。
いつからだろう、龍己先生は私の頭を撫でなくなった。多分彼なりに子供扱いをすることを自重(じちょう)しているのだろうけれど、こんなとき私は少し残念に思う。子供扱いでもいい、彼の大きな手で頭を撫でられたい。
ひとりの女性として見てほしいと願う恋心と矛盾するけれど、あの温かな手の与える安心感は、大人になった今でも恋しいのだ。
「ねえ、真依さん」
「あ、はい」
撫でてもらいたいと思い耽(ふけ)っているところに呼びかけられて、私は焦って顔を上げた。
「来月、誕生日だろう。今年もどこかきみの好きなところへ行こう。考えておいて」
「……! ありがとうございます」
嬉しさのあまり、顔がパッと綻ぶ。それを見て龍己先生も目を細めた。
七月は私の誕生日だ。去年は私のリクエストで鬼灯市に、一昨年は水族館へ連れていってもらった。好きなところへ連れていってくれただけではなく、夜はケーキも用意してくれて。
誕生日を祝ってもらうのが初めてだった私は、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。もしかしたら人生で一番嬉しかった日かもしれない。
結婚してから私は誕生日が大好きになった。龍己先生がお祝いしてくれるから、自分が生まれてきたことを素直に喜べるようになった。
だから今年も彼がお祝いしてくれるということに、喜びで今から胸がドキドキしてしまう。
「どこがいいかな。迷っちゃう」
ソワソワする私に、龍己先生はプッと小さく噴き出して「まだ時間はあるから、ゆっくり悩むといいよ」と言ってくれた。
視界の端で、彼の右手がまた小さく動く。
そのときの私は、誕生日のことで気分が高揚していたのだと思う。「お祝いの前借り」なんて言葉が浮かんで、無謀(むぼう)な勇気が一瞬湧いた。
気がつくと私は龍己先生の手を取って、自分の頭に乗せていた。龍己先生は目を丸くして、わかりやすいほど驚いた顔をしている。
「て……手が、撫でてくれそうだったから……」
自分で言っていて、どんどん顔が熱くなるのがわかった。私、何言ってるんだろう。
衝動的な行動はすぐに後悔に変わって、自責やら自省やら自己嫌悪やらでここから消えたくなってしまう。
咄嗟(とっさ)に「ごめんなさい」と手を頭から離そうとしたときだった。
「はは、よくわかったね」
陽だまりのような笑みを浮かべて、龍己先生はそのまま頭を撫でてくれた。
大きな手が優しく、私の髪の上を滑る。
「小さい子にするみたいで嫌かなと思ってたんだ」
「嫌じゃない……です。撫でられるの好き……」
胸がギュウギュウと締めつけられる。嬉しいのに恥ずかしくて、龍己先生の顔が見られない。
懐かしい感触のはずなのに、昔と違う感情が込み上げる。安心よりずっと大きなときめきと、切ない気持ち。
「龍己先生。私……大きな花火とか見にいきたいかも。それで……」
――手を繋いでほしいです。とは、さすがに口に出せなかった。いくらなんでもそれは欲張りすぎると、心の中の自分が戒(いまし)める。
龍己先生は「うん、いいよ」と答えると、静かに頭から手を離した。
長い指が離れていくとき、私の髪が名残惜しむように刹那絡まり、すぐに滑ってほどけた。
◆◇
初夏の夕暮れは遅い。まもなく夜の七時になろうというのに、空はまだ薄紫色の明るさを保っていた。
「師匠、先週はどうもおじゃましました」
将棋会館からの帰り道、後ろから声をかけてきたのは卯野くんだった。走って僕を追いかけてきたのか息が弾んでいる。
「ああ、どういたしまして。卯野くんは今日は順位戦だっけ。どうだい、調子は」
「おかげさまで勝ちました。今のところ昇級射程圏内です」
「それは頼もしいね」
話しているうちに、彼の乱れていた呼吸が整った。短時間でケロリとして汗を拭(ぬぐ)う姿に、「若いなあ」などと心の中で独(ひと)り言(ご)ちる。
「師匠は、今日は対局じゃないですよね?」
「今日は会長にちょっと用があってね。あと取材を少し」
「ああ、そうだったんですか。でも会えてちょうどよかった」
そう言うと卯野くんは、手に持っていた紙袋からガサガサと何かを取り出した。
「これ、よかったら奥様に。いつもお邪魔しているお礼に、お土産です」
彼が差し出してきたのは、有名なマスコットキャラクターがついた愛らしい缶入りのマカロンだった。どこかのテーマパークのお土産らしい。
「先日、若手仲間たちで行ってきたんです」と、卯野くんは子犬のように目をクリクリさせて笑った。
彼は確か二十一歳、真依さんとほぼ同い年だ。仲間もきっと皆それくらいなのだろう。
リボンとマスコットが描かれた淡い水色とピンクの缶を受け取り、マジマジと眺める。なんとなく新鮮な気分だ。
「奥様、あまりこういうの好きじゃありませんか?」
僕がジッと缶を見つめているから気になったのか、卯野くんが少し心配そうに尋ねた。
「いや、そんなことないよ。どうもありがとう。あまりうちにない彩だから珍しい気がして見てたんだ」
ふうん、と呟いた卯野くんはちょっとだけ考え込んだあと「確かに師匠のお宅はあんまりパステルカラーって感じじゃないですね。純和風的な」と納得したように言った。
「いつも季節感があって素敵だなと思ってたんですけど、インテリアとか奥様の好みなんですか?」
「そうだね。僕はその辺まったく無頓着だから、真依さんにお任せしてしまってる」
「奥様センスいいですねえ。大人っぽい。お人柄も僕と同い年と思えないくらいしっかりしてますもんね」
その言葉に僕は「うん」とも「違う」とも返さず、曖昧(あいまい)な笑みを返した。
二十歳前後の女性が一般的にどうなのかはわからないけど、真依さんは年齢より大人っぽいのだろうか。そう自問して、ふと自分の右手を見つめる。
『撫でられるの好き……』と耳まで赤くしておねだりした彼女の姿と、指に緩く絡んだ髪の感触を思い出す。子供――とは、もう断言できない。けど、大人とも言い切れない彼女は、あやうい境界線の上に立っていると感じた。
「うちに来たばかりのときはまだまだ小さなお嬢さんって感じだったんだけどね。僕が帰ると、可愛らしいパジャマ姿で出迎えてくれたりして」
たった二年前の日々がやけに懐かしく感じる。あの頃はまだ本当に子供で、僕は彼女を守ってあげることにひたすら夢中だった。
「へー。今は違うんですか?」
「今は……」
卯野くんの質問に答えようとして、自分の中の戸惑いに気づく。
和裁の学校に通うようになってしばらくしてから、真依さんは練習も兼ねてよく僕と自分の浴衣を縫うようになった。つい先日も、彼女は湯上りに寝間着(ねまき)代わりの浴衣を着ていて――。
「いや、うん。今も愛らしいお嬢さんだよ。もちろん中身はしっかり者だけど」
僕は言葉を濁すと、卯野くんと並んで歩いていた歩調を少し速めた。自分が今どんな表情をしているのかわからないので、顔を見られたくない。
――臙脂色の浴衣から覗く白いうなじ。触れたくなるその艶(なまめ)かしさは〝子供〟じゃない。そしてそれを口にして他の男性に伝えることに、ためらいを覚えた。
「亀梨さんが言うように、奥様は本当に良妻ですね。あ、僕はここで。失礼します」
大通り手前のバス停で卯野くんが足を止め、一礼する。それに手を振って、僕はひとり駅に向かって歩き出した。
「良妻、か」
口の中で呟き、手の中のパステルカラーを見つめる。
偽装結婚だというのに、真依さんは本当によくやってくれている。家事全般を進んで担ってくれて、おかげで僕は健康的な生活を手に入れただけでなく、家にいる時間に心地よささえ覚えるようになった。
僕の生活は基本、将棋に雁字搦(がんじがら)めだ。好きでやっているのだから苦ではないが、ふとそこから抜け出したときに温かな空間が用意されている安堵(あんど)は、言葉では表し難い。
……僕は少し怖い。この生活を手放すことを惜しくなってきている自分が。
帰宅したときに迎えてくれる嬉しそうな笑顔を、寝食を忘れて研究に没頭したあとに用意されているおにぎりの美味しさを、共に花を愛で感じる季節を、温かい食事を挟んで向かい合うお喋りの楽しさを、ただそこにいるだけで込み上げてくる愛しさを、いつまでもここに留めておきたいと思ってしまう。
「……青いな、僕も」
初夏の風に乗って鼻を掠(かす)める青草の香り。見上げた暮れかけの空には、細い爪型の月が浮かぶ。
こういう望みはあのときにすべて捨てたと思っていた。人の欲というのは単純ではないと自嘲(じちょう)せざるを得ない。
けれど何をどう足掻(あが)こうとも、そんな望みに意味はないのだ。
真依さんが生きる道は真依さんが選ぶ。彼女が発(た)つ日はいつか必ずやって来る。僕はただそれを見守り受け入れるだけ。それが最初から決まっていたふたりの約束だ。
パステルカラーの缶を鞄(かばん)にしまい、薄暗くなってきた空の下を歩く。
駅は家路(いえじ)を急ぐ人で賑わっていた。僕もそのひとりだ。今はまだ、帰りを待っていてくれる人がいる家へと向かう。
駅のホームに並び、ふと右手を月にかざした。
いつかの夜に、指に柔らかく絡んだ髪の感触を思い出して、胸の奥が微かに焦れた。