書籍詳細
初心な没落令嬢はクールな御曹司の甘すぎる恋愛指南で奪われました
あらすじ
「妻になる君を、俺に溺れさせたい」契約から始まった、冷徹御曹司との関係のはずが――
令嬢の由乃は、実家の没落で会社勤めをすることに。上司となった隼人に厳しく指導されるが、誠実な彼にやがて惹かれていき…。ある事情から契約関係を提案した由乃は、隼人を手助けする代わりに彼から恋愛指南を受けることになる。ところが――「呆れるほど君に嵌まってる」クールな彼に予想外の溺愛で蕩かされると、隅々まで甘く暴かれて…!
キャラクター紹介
鷺沢由乃(さぎさわよしの)
裕福な生活が一変して、はじめて会社勤めをすることになった24歳。前向きな性格で努力家。
久能隼人(くのうはやと)
老舗デパートの御曹司で、由乃の教育係となった真面目で厳しい上司。一見、不愛想な印象。
試し読み
「お飲み物は何になさいますか」
車で来ている久能は「ウーロン茶で」と答えたが、鷺沢はドリンクメニューを見て言った。
「わたし、今日は日本酒をいただきます。いいですか?」
「ああ。構わない」
普段の彼女はそう飲むほうではなく、久能は「珍しい」と考える。
コースは八月らしいラインナップで、ウニや鮑、すっぽんなど多彩な食材を使っており、次に何が出てくるのかとわくわくした。特に圧巻なのは八寸で、手の込んだ料理は季節や旬を感じさせ、久能は感嘆のため息を漏らした。
「これは美味いな」
「本当に。目にも美しいですね」
そんな鷺沢は結構なピッチで冷酒を飲んでおり、ほんのり頬が赤くなっている。
久能は心配になって問いかけた。
「おい、飲みすぎてないか? ソフトドリンクに切り替えたほうがいいんじゃ」
「だ、大丈夫です。今日は飲みたい気分なので」
その後、料理は赤座海老の揚げ物や鱧と松茸のすき焼きへと続き、最後の甘みが出てくる頃には鷺沢は目に見えて酔っていた。
会計を済ませて外に出ると、彼女が礼を述べる。
「久能さん、ご馳走さまでした」
「いや。送っていくよ」
今日の日中は曇り空だったため、気温はこの季節にしては幾分低めだ。
往来には客待ちのタクシーが列をなしており、多くの人が行き交っている。パーキングに向かいながら歩く鷺沢はうつむきがちで、久能は「もしかすると、気分が悪いのかもしれない」と考えた。
(もっと早くに制止して、お茶でも飲ませればよかったな。失敗した)
車に乗り込み、エンジンをかける。ここから彼女の自宅がある駅までは、三十分ほどの距離だ。
車を発進させようとしたところで、ふいに鷺沢が勢い込んで「あの!」と言った。
「わたし……久能さんにお話があるんです」
「ん?」
彼女はひどく思い詰めた顔をしていて、久能はその理由を考える。
(もしかして仕事のことか? それとも、絵のことで何か思い出したとか)
最近の彼女は他の社員たちや売場店員との交流が増え、楽しそうに会話をしている姿を見かけることがしばしばあった。
久能が忙しいときは別の外商と外回りに行くこともあるが、トラブルでもあったのだろうか。そんなふうにいくつか理由を思い浮かべていると、鷺沢が再び口を開いた。
「久能さんとこうして会うようになって、二週間が経ちます。週末にデートをしたり、仕事が終わったあとに食事に連れていってくれたりと、毎回すごく楽しくて感謝してるんです。でも、引っかかっていることがあって」
彼女は一旦言葉を切り、酒気を帯びた眼差しでこちらを見上げて言う。
「大人の恋愛では、一緒に出掛けたりお茶や食事をしたりっていうのはもちろん、それ以上のこともあると思うんです。久能さんがそういう行為をしないのは、わたしがまったく好みじゃないからですか? やっぱり恋愛感情のない相手には、触れることも嫌なんですか」
鷺沢の語尾が震え、目にみるみる涙が盛り上がって、ポロリと零れ落ちる。
それを見た久能はぎょっとし、慌てて言った。
「落ち着け、鷺沢。君、だいぶ酔ってるだろう」
「酔ったのは、お酒が入らないと自分の気持ちを言えないと思ったからです。そもそも『恋愛の練習相手になってほしい』と言ったとき、わたしは未経験の自分を卒業したくて、そういう部分も込みでお願いをしたつもりでした。初めてのデートのとき、久能さんがこちらの希望に沿ったプランを考えてくれたり、手を繋いでくれて……すごくうれしかった。でもそのあとはまったく進展がなくて、そうするうちに思ったんです。久能さんの中でのわたしは困ったことをお願いしてくる〝部下〟にすぎず、今の状況を持て余してるんじゃないかって」
彼女の言葉は正鵠を射ており、久能は返す言葉に詰まる。
確かに鷺沢にその話を持ちかけられたとき、自分は「厄介なことになった」と考えていた。彼女の直属の上司であり、勤務先の社長の息子である自分が期間限定とはいえ恋人の真似事をするのは、倫理的によろしくない。
しかし曾祖父の絵の捜索のため、やむを得ず承諾したという経緯がある。
(鷺沢が思いのほか異性に免疫がないのがわかったから、俺は適度にデートをして手を繋いだりという程度で誤魔化そうとしていた。そのほうが、後々彼女のためになると考えて……。でも)
二人ですごす時間を重ねるうち、少しずつその気持ちに変化が起きた。
鷺沢は言動に育ちのよさがにじみ出ていて、一緒にいることが苦痛ではない。仕事でもプライベートでも反応が素直で、二人で出掛けた先で楽しそうにしているのを見ると、「連れてきてよかった」と思えた。
それでいて好奇心旺盛なところもあり、仕事で疑問に思ったことを質問してきたり、久能が語る蘊蓄を真剣な眼差しで聞いたりする様子は、見ていて微笑ましく感じる。
(俺は鷺沢と過ごす時間が嫌じゃないし、むしろ楽しい。彼女がひい祖父さんの絵について協力してくれるのも、すごくありがたく思ってる)
そんな彼女を前に罪悪感をおぼえ始めたのは、最近のことだ。
今の自分は鷺沢を体よく利用し、彼女の善意に胡坐をかいている。絵に関しては鷺沢の協力のもと、少しずつ手がかりに近づいている自覚があるのに、鷺沢が望むことからは意図して目をそらしていた。
(俺は……)
彼女の涙を見た瞬間、身につまされる思いになった久能は、表情を改める。
そして鷺沢に向き直って言った。
「君に触れなかった理由は、好みじゃないとか、恋愛感情のない相手に触れるのが嫌だからとかじゃない。俺自身が自制しているせいだ」
「自制、ですか?」
「ああ。俺は君の上司で、そういう立場の人間が恋愛感情のない相手に手を出すのは倫理的にどうかと思っていた。だから〝恋愛の練習〟を手を繋ぐ程度に留めて、当たり障りのないデートで乗りきろうと考えていた」
それを聞いた彼女がぐっと唇を引き結び、泣きそうな表情をする。そんな様子を見つめつつ、久能は言葉を続けた。
「だが一緒に過ごすようになると、思ったより楽しくて驚いた。俺の話を真剣に聞いてくれたり、どんなところに行っても目をキラキラさせるところは可愛いと思ったし、手を繋いだだけで恥ずかしそうにしているのも微笑ましかった」
「…………」
「この程度で赤くなるような君に手を出すべきではないという気持ちと、協力してもらっている立場でそれは誠実ではないという気持ちで、心が揺れていた。だが俺の煮えきらない態度で鷺沢が傷ついていたのなら、謝りたい。本当にごめん」
すると鷺沢が、沈痛な面持ちで小さく言う。
「それは……やっぱりわたしの〝練習相手〟にはなれないということですよね。立場的にも感情的にも、その気にはなれないんだって」
「いや、逆だ」
「えっ?」
彼女が驚いた様子で顔を上げ、久能は目を見て言葉を続ける。
「近頃はふとした瞬間に君に触れたいと思うときがあって、そんな自分を持て余していた。鷺沢は可愛いし、異性の心をくすぐる魅力が充分ある。自信を持っていい」
「そ、それってつまり、恋愛の練習をしてもいいと思う程度には、わたしに関心を持ってくれてるってことですか?」
「ああ」
鷺沢が信じられないという表情でこちらを見つめ、ささやくように言う。
「じゃあ――触れてもらえませんか? わたしに」
「……後悔しないか?」
「しません。久能さんが相手なんですから」
その言葉を聞いた久能は、シートベルトをカチリと外す。
そして助手席のヘッドレストに腕を掛け、身を乗り出すようにしながら、鷺沢にキスをした。
「――……」
パーキングの明るい照明が差し込む車内で、彼女が目を見開く。
触れるだけで一旦離れた久能は間近でそれを見つめ、再び鷺沢の唇を塞いだ。
「……っ」
舌先でチロリと舐め、合わせをなぞる。すると条件反射のように彼女が唇を開き、そっと中に押し入った。
舌同士を絡ませ、徐々にキスを深くしていく。ぬめる感触は官能的で、鷺沢が甘い吐息を漏らした。
「はぁっ……」
唇を離し、見つめ合う。彼女の目が潤んでいて、ほんのりと上気した頬が可愛らしかった。久能は吐息が触れる距離でささやく。
「キスのとき、そんな顔をするんだな。可愛い」
「……っ」
運転席に身体を戻そうとする久能のスーツの袖を、ふいに鷺沢がつかんでくる。
驚いて動きを止めると、彼女が切実な眼差しで言った。
「もう一度、してもらっていいですか?」
予想外のおねだりに心をぐっとつかまれ、久能は無言で唇を塞ぐ。
小さな舌はベルベットのような感触で、絡ませると逃げるような動きをした。それに煽られてなおも触れ合わせると、鷺沢が色めいた吐息を漏らす。
「……ぁ……っ」
キスに夢中になりながら、久能は頭の隅で「ここは屋外のパーキングだ」と考えた。
いつ誰が来るかわからない状況で、こんなことをするべきではない。そう思い、唇を離した久能は、彼女を見下ろしてささやいた。
「ごめん、こんなところで」
「いえ」
「送っていくよ」
改めてシートベルトを締め直し、車を発進させる。
前を向いて運転しながら、久能の中には先ほどのキスの余韻が色濃く残っていた。最初はあんなに躊躇って煙に巻いていたのに、いざ触れてみると夢中になってしまったのが我ながら情けない。
(たった一度キスしただけで、彼女との距離がぐんと近くなった気がするから不思議だ。まるで恋愛し始めのようなときめきがある)
鷺沢に優しくしたい気持ちがこみ上げて、仕方がない。
誰かをこんなふうに思う自分が珍しく、妙な感慨を抱きながら車を運転した久能は、彼女の最寄り駅近くまで来たところで問いかけた。
「鷺沢の自宅は、駅から歩いてどのくらいなんだ?」
「七分くらいです」
予想外に距離があるのに驚き、久能は言葉を続けた。
「こんな時間に一人で歩いて帰るのは、危ない。自宅前まで送っていくから」
「そ、そんな。ご迷惑ですし、お気遣いいただかなくても」
「車ならたいした距離じゃない。ナビしてくれ」
彼女の言うとおりに角を曲がり、やがて到着したアパートは、外観がリフォームされていてパッと見は新しく見える。
しかしいかにもこぢんまりとしており、久能は複雑な気持ちで問いかけた。
「ここに家政婦の女性と、二人で住んでるのか?」
「はい。築三十二年ですけど、外も中もリフォームされているのであまり古さは感じません。ただ、引っ越した当初はその狭さにびっくりしました」
だが暮らしてみるとその狭さがちょうどいいのだと言う鷺沢の表情に、暗いところは微塵もない。
そんな前向きさを好ましく思いつつ、久能は腕を伸ばして助手席に座る彼女の手を握る。そしてドキリと肩を揺らす様子を見つめながら、ささやいた。
「明日はいよいよ、宝生家の訪問だ。君の知り合いの家だから会話の面で協力してもらうかもしれないが、よろしく頼む」
「……はい」
「じゃあ、おやすみ」