書籍詳細
90日の恋人~同居契約から始まる愛され生活~
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あらすじ
「きみの未来を俺にください」
偽装婚約なのに、腹黒御曹司からトロトロに甘やかされて!?
社内ではクールな大人の女性と思われている静葉だけど、実は恋愛経験がない元地味女子。ストーキングされて困っているところを、御曹司の初倉伊紀に助けられ、ある契約を持ちかけられる。それは伊紀が海外支社へ出向するまでの三カ月間、彼と偽装婚約し同居すること。突如始まったイケメンとの期間限定の同居生活は、予想外に刺激的で……
キャラクター紹介
加藤静葉(かとうしずは)
初倉物産の営業部勤務。真面目で頑張り屋。感情を表に出すのが苦手。
初倉伊紀(はつくらいのり)
初倉物産社長の次男で美貌の営業統括部長。温厚で人当たりがよい。
試し読み
年末年始は、ここぞとばかりに婚約者を連れてこいと家族中から言われ続けた伊紀だったが、結婚前だからこそ彼女には実家でゆっくりしてほしいと言うと、兄嫁の日奈子が味方になってくれた。
それを免罪符に三が日を過ごし、四日に静葉のマンションへ帰ると、やっと息がつける。
父の代に建て替えをした高級住宅よりも、2LDKの仮住まいがこんなに居心地いいとは思わなかった。
静葉は、六日に戻ってくる予定だ。
実際には、恋人でもなんでもない女性の部屋で、ひとりくつろぐのはいささか気が引ける。
伊紀は、四日の夜をのんびり過ごしたあと、五日は一日かけて掃除に精を出した。
もともと静葉の部屋は普段からこまめに掃除してあり、あまり汚れているところはない。
けれど、彼女が届かない場所についてはその限りではないのだ。
せっかくならばと、天井や袋戸棚の上、ドアの上部の拭き掃除を徹底し、まだ余裕があったので網戸とバルコニーを水洗いする。
日が暮れて、夕陽の射し込むリビングルームでひたいの汗を拭うと、空腹を思い出した。
軽くシャワーを浴びてから買い物に出かけることにし、伊紀は自室からタオルを持ってバスルームへ向かった。
労働のあとのシャワーは気持ちがいい。
前職では、自分の足で走り回ることもあったけれど、父の会社で働くようになってからは、たいていがデスクワークだ。
収入は増えたが、働いている実感が薄い。
——ニューヨークに行ったら、少しは変わるんだろうか。
支店長なんて肩書がついていては、結局また同じ日々の繰り返しかもしれない。
だが、人間は一生現場で走り回って仕事をしていられるものでもないのだろう。
運良くなのか、運悪くなのか。
伊紀は周囲より若いうちに、そういう状況にいるというだけのことだ。
——買い物行ったら、ビール買ってこよう。それから何か適当にデリで……
年末、静葉が帰省前日に作ってくれた鍋はおいしかった。
冷蔵庫の野菜を余らせないよう、ありものを適当に入れただけだと言っていたけれど、それがますますおいしく感じた。
——せっかくだから、こっちも何か作って明日はお出迎えといきますか。
とはいえ、作れる料理は限られている。
鍋への感謝を示すには、やはりあれか、と考えながらシャワーを出ると、廊下に通じるドアが開いていた。
「ん?」
「え……」
静葉の戻りは明日の予定だ。
それなのに、なぜか、どうしてなのか、そこには——
「す、すすうッ、す、すみませっ……!!」
ものすごくどもった彼女が、バンッと大きな音を立ててドアを閉める。
濡れた体を見下ろして、伊紀はそのまましゃがみ込んだ。
§ § §
——なぜこんなことに!!
実家から持たされた長ネギの束と、お歳暮のサラダ油詰め合わせを両手にさげ、静葉はリビングルームに立ち尽くしている。
予定より一日早く戻ってくることを連絡しなかったのは、自分の失態だ。
一応、SNSでメッセージを送ることも検討した。
けれど、伊紀はせっかくの休みを優雅に過ごしているかもしれないし、普段は会えない友人と過ごしているかもしれないし、あるいは自分なんかと違って華やかな人生を送っていそうな彼ならば、セレブの新年会真っ最中かもしれない。
なんにせよ静葉としては伊紀の邪魔にならないよう、連絡をしないでマンションに戻ってきた。
駅から寒空の下を歩いてきて、両手が凍えそうに冷たくなっていた。
重い荷物を持っていたせいで、痛いのか冷たいのかわからなくなるほど。
だから、帰ってきてすぐにお風呂のお湯を入れようと思ったのである。
——それが、伊紀さんのお風呂上がりに直面するだなんて……っ!
水もしたたるいい男。
それを生で目撃することになるとは、思いも寄らない新年サプライズである。
「いや、いやいやいや、そういうことじゃなくて……!」
両手の荷物をおろすことさえ忘れ、静葉は頭をぶんぶんと横に振った。
冷たい風を浴びた髪から、冬のにおいがする。
「そういうことじゃなくて?」
「ヒッ!」
唐突に聞こえてきた声に、悲鳴の一歩手前みたいな声が出た。
当然ながら、そこにいるのは伊紀で。
ラフなパーカー姿の彼は、髪がまだ濡れていた。
「あ、あの、ほんとうにそういうことじゃないんです。別に覗いたわけではなくて、すっかり伊紀さんがいることを忘れて、寒かったからお風呂入ろうって思ってしまって、でもそのあたり自覚が足りなかったと思っています。ほんとうに、ほんとうに申し訳ありませんでしたっ」
普段ならありえない早口で、静葉は必死に言い切った。
謝罪して頭をを上げると、酸欠状態でくらくらする。
「いや、こちらこそ。俺は裸を見られたくらいで、そんなに気にしないんだけどね」
大人の男は、湯上がりを目撃されることにも慣れているのだろうか。
「静葉ちゃんがあまりに動揺しているから、なんだか少し照れくさくなったというか」
「す……すみません……」
語尾がどんどん小さくなる。
このまま、自分が小さくなって消えてしまえたらいいのに。
「むしろ、もっと堂々と見る?」
部屋を横切ってまっすぐ静葉のもとへ歩いてきた伊紀が、両手を伸ばして左右の荷物を奪い取る。
「あ、すごい立派な長ネギだ。これ、実家から?」
「は、はい。お鍋にするとおいしいんです」
「へえ、いいね。年末の静葉ちゃんの作ってくれたお鍋おいしかった」
——って、待って? なんか普通に話してるけど、さっきこの人、すごいことを言わなかった!?
もっと堂々と見る、なんて。
なんて返事をしていいのかわからない。
一時期、運動不足を解消するために通っていたジムのプールでは、水着一枚の男性もよく見かけた。
けれど、今まで見た誰とも違う。
伊紀の体を目の前にすると、ほかの誰にも感じたことのない胸の鼓動を感じて、居ても立っても居られない気持ちになる。
「それで、どうする?」
「え?」
「もっと俺の体、見たい?」
にっこり笑う彼に、静葉はかあっと頬を赤らめた。
「いいいいいえ!」
「『い』が多いよ」
「あまり見せると減りますから」
「俺の色気が?」
「貞操が!」
ぽんぽんと打ち返してくる伊紀に、考えるより先に返事をしていると、とんでもないことを口走った気がする。
「て……」
彼は目を瞠り、それから大爆笑した。
「貞操、貞操って……さすが静葉ちゃん、ひと味違うなあ」
照れ隠しにコートを脱ぎ、ソファに腰をおろす。
すると、なぜか伊紀も隣に座ってきた。
「そっか、あまり見せると俺の貞操って減っちゃうんだ?」
「……いえ、今のは言葉のあやです。伊紀さん、わかっていて言ってませんか?」
「えー、わかんないなー。なんのことかな」
テーブルに置かれた長ネギが、妙に間抜けて見えた。
「い……伊紀さん、あの」
「なんかさ」
いつもより近い距離で、彼がこちらを覗き込んでくる。
大きな手が、そっと冷たい頬に触れた。
「ひとりでここにいたのはたった一日なのに、いつもいる人がいないっていうのはヘンな感じがする」
「ヘン、ですか?」
静葉としてみれば、自分の部屋に伊紀がいることのほうがまだ違和感があった。
今日だって、帰ってきて彼がいることをすっかり忘れていた——とは言いにくい。
「人恋しいというのか。静葉ちゃんがいないと、寂しい」
「な……っ……!?」
会社で見る統括部長の初倉伊紀とは違う、プライベートの彼。
少しは慣れてきたつもりでいたのに、こうして距離を詰められると急に心拍数が上がってしまう。
「だから、早く帰ってきてくれて嬉しかった。実家のご両親、寂しがらない? だいじょうぶ?」
「へ、平気です。こちらこそ、早く帰ると連絡をせず申し訳ありませんでした……」
頭を下げたいところだが、目の前に伊紀の顔があるので、不用意なことをするとぶつかりそうだ。
——そっか。寂しかったから、今日はこんなに距離が近いのかもしれない。
近すぎる美しい顔に尻込みしそうになるものの、彼の気持ちを思えば無下にするのも失礼な気がして、静葉は身動きせずに伊紀を見つめる。
「伊紀さんのご実家はいかがでしたか?」
「うーん、ちょっと硬いかな」
実家の様子を聞いたつもりが、返ってきた言葉が『硬い』というのはどういう意味だろう。
「ああ、硬いっていうのは実家がじゃなくて、静葉ちゃんの口調」
「わたしの、口調ですか?」
「そう。俺たち婚約者なんだから、もう少し打ち解けてくれてもいいんじゃないかと思って。駄目かな」
——そういえば……
初めて個人的に会話をかわした日、伊紀は会社では見せない素をさらしてくれた。
それから徐々に、静葉さんから静葉ちゃんと呼び方も変わってきている。
静葉も、一応役職で呼ぶことはやめたけれど、それはまだ第一歩だ。
「もっと親しげに話したほうがいい……かな?」
かすかに首を傾げると、彼はパッと明るい表情になる。
「そう、そういうの!」
「婚約者らしい?」
「いいね。あとは、やっぱり贈り物だと思うんだよ」
婚約といえば、婚約指輪。
だが、さすがに偽りの婚約に指輪はやりすぎでは——
「明日、一緒に買いにいこうか」
「ゆ……、指輪はやりすぎだと思う!」
思わずそう言って顔を背けた。
形から入るほうが、周囲には納得してもらいやすい。
そのことは、静葉だって重々承知していた。
それでも。
心のない婚約指輪を身につけるのは、どうしてもおかしいと思う気持ちを振り払えない。
「そう? 俺としては、指輪がいちばんわかりやすいかなって思うけど」
彼は静葉の左手をすいと持ち上げ、薬指の付け根を親指で撫でる。
「ここに」
「あ……あの、待っ……」
「俺から贈られた指輪をつけていれば、ほかの男が寄ってくることもなくなる」
——ほかの男?
そもそも、静葉に寄ってきた相手は湯島ぐらいのもので、社内の飲み会ですら会話が弾まないというのに。
婚約者として指輪を身につけるのではなく、ほかの男性を牽制するために必要だと考える伊紀のことがわからなかった。
それほど心配しなくてはいけない、モテ女子ではないのだ。
「静葉ちゃんは、ぜんぜんわかってなさそうだなあ」
伊紀が、困ったように微笑む。
なぜだろう。
その表情が、胸を締めつける。