書籍詳細
策士な御曹司と世界一しあわせな政略結婚
あらすじ
「君に愛を注いで甘やかしたい」不本意なお嫁入りのはずが最愛妻に!?
箱入り娘の東子は、大企業の御曹司・一成との政略結婚を渋々受け入れる。顔を合わせずに入籍が済み、そのまま愛のない結婚生活を過ごす…はずだったのに、いざ対面した彼は、溢れる色気と過保護な溺愛で翻弄してきて!?さらに「君のすべてを俺のものにする」と独占欲を加速させる一成。初めての恋心や悦びを教え込まれ、東子は甘く開花していき…。
キャラクター紹介
四ノ宮東子(しのみやとうこ)
外食産業を手掛ける老舗企業の一人娘。広報とフード開発の仕事に励む中、いきなり縁談が舞い込む。
御堂一成(みどうかずなり)
世界有数のテーマパーク運営会社の御曹司かつ副社長。普段は紳士的だが、東子には熱情を煽られて…。
試し読み
常駐のコンシェルジュに、こんばんはと挨拶をしてエレベーターに乗り込み、ごそごそとポケットから出したカードキーをかざす。
片手には花束と通勤鞄、もう片手には鯛焼きが入った紙袋を持って、いつもより少し飲み過ぎたせいで勢いよく玄関のドアを開けた私の前には。
「……飲んできたなら、ちゃんとタクシーで帰ってきた?」
スーツじゃなくてあまり見ないラフな私服。シャツに黒いジーンズの御堂さんが訝しげな顔をして立っていた。
あれ、何で?
へらり、とごまかし笑う私に、御堂さんは無言だ。
今夜も御堂さんは遅いと思っていた。だから、同僚との飲み会があるとだけ、トークアプリでメッセージを入れて。
「だって、ここ駅から近いし、むしろ目の前なんで……」
そう咄嗟に言い訳をしてしまっても、御堂さんは口を結んだまま私の顔を見ている。
こんなタイミングがきっかけにならなくてもいいのに、同居をスタートしたときに言われたことが、焦った頭の引き出しから今になってスッと出てきた。
『飲酒したら、どんな距離でもタクシーで帰ってくること』
私も御堂さんもお酒が割と好きなことがわかったときに、二人で暮らすうえのルールのひとつにこれが加えられた。
御堂さんがお酒の伴う仕事のときには鈴木さんが送迎してくれるけど、私は普通に電車と徒歩だ。それを心配された。
だけどその後、仕事の後に飲みに行く暇も余裕もなかったので、頭の引き出しにしまい込んだままになっていた。
今さら出てきても遅いよ。お会計の後にひょっこり出てきた小銭じゃないんだから。
今夜は仕事帰りに、江実とマキくんと三人で会社近くの行き慣れた小さなバルへ寄って、ワインをボトルで二本空けた。ほぼ飲んでいたのは江実だけど、私はここのところずっと溜まっていた仕事のストレスのせいで、グラス二杯ほどですっかり出来上がってしまった。
マッシュルームと海老のアヒージョ。くつくつ煮えるオリーブオイルにテンションが上がる。『生ハム頼む? いつものチーズあるよ!』と、丸い小さなテーブルの上をつまみでいっぱいにして楽しくなる。
よく漬かったオリーブをひと粒、口に放り込むと自然に頬が緩む。
仕事の愚痴から始まり、そのうちに酔いが回ってくると、仕事に関する将来の展望を語り出す。いつもの変わらないパターン。ケラケラ笑い、泣き、励まし合い、明日への活力にする不定期で開催される飲み会だ。
腕時計の指す時刻は二十一時を半分越えた頃。帰り道、バルの隣の生花店で、江実が結婚のお祝いにと花束を買ってプレゼントしてくれた。マキくんは駅ナカに入っている鯛焼きを、私と江実に買ってくれた。
二人からのお土産に気をよくした私はいつも通りに電車で帰宅し、ふわふわした足取りのまま帰ってきたところを御堂さんに見つかってしまった。
まさか、今日は早く帰ってくる日だとは思わなかった。
「……心配した」
「ご、ごめんなさい……言い訳じゃなくて、先に謝るべきでした」
約束を破ってしまった。ごめんなさいと謝る前に、格好悪い言い訳をしてしまったのが猛烈に恥ずかしい。
「トークアプリにメッセージを送っても、既読もつかないし」
仕事中はずっとスマホをミュートにしているのを、そのまま解除するのを忘れていたみたいだ。会話に集中したくて、スマホは飲み会からずっと鞄にしまいっぱなしだった。
いろんな小さなことと、ひとつ大事なことを忘れた結果がこれだ。さっきまで押し寄せていたささやかないい気持ちが、今度はサーッと波のように引いていく。
いたたまれない気持ちで御堂さんの言葉を待っていても、ひたすら沈黙が流れるばかりだ。パンプスを脱ぐタイミングも逃したままで、花束と鞄と、甘い鯛焼きの入った袋をぶら下げたままで突っ立っている。
……約束を忘れたことで、うんとがっかりさせてしまったかもしれない。
好きな人に、嫌われたかもしれない。
そう思ったら、御堂さんの顔を見ていられなくなって、思わず下を向いた。じわり、と勝手に湧いて溢れた涙が、ぱたぱたと大理石の床材に落ちる。
恥ずかしい、恥ずかしい。勝手に泣いているのも、誠意を込めた謝罪の言葉が喉につかえて出てこないのも。
まだ残っているお酒の酔いが涙腺をゆるゆるにして、泣くなんてズルいと思うほど涙が止まらなくなる。
もう一度顔を上げて、謝れ、私。
心配させてごめんなさいって。
濡れた目元や頬を袖で拭って、メイクが崩れたって今は構わない。
だけど、それを上回るほどに、私のしたことにがっかりした表情を浮かべた御堂さんの顔を見たくなかった。
怖い。出会ってから甘やかされてばかりだったから……。
そうして、あ、と気づいた。
……私、御堂さんに自然に甘えてたんだ。
「……私っ――」
──顔を上げようとした瞬間。
いつかの記憶が蘇る、オードトワレの微かな香り。頭の中がチカチカと混乱する。
状況を理解する前に、すっぽりと大きな体に包まれて、背中に回された腕に力が込められた。
「あっ」
御堂さんに抱きしめられていたのはほんの一瞬で、私の体は容易(たやす)くその場で持ち上げられてしまった。お姫様抱っこ、ではなく、担がれて。
駄々をこねた子供を最後に父親が担いでいくように、私は玄関ホールからひょいっと持ち上げられる。
履いていたパンプスはぽいっと脱がされてホールに投げられた。かつん、と音を立てて転がる。右と左が離ればなれになったそれは、まるでシンデレラがお城に残してしまったガラスの靴に見えた。
廊下に落ちる通勤鞄。それから花束、鯛焼きの入った袋がぽつんぽつんと置き去りにされる。迷子の兄妹が目印に落としていったパンの欠片みたい。
無言の彼に何も言えない私。ただ込み上げてくる涙を止めようとするほど、小さく声が漏れた。
廊下からリビングへ、そうしてソファへゆっくりと体が下ろされた。お気に入りの角。隣に座った御堂さんが顔を覗き込んできた。
目が合う。
ぼさぼさになってしまったであろう髪を、伸ばした手で整えると、彼が指で涙を拭ってくれる。
「東子さん、ご飯ちゃんと食べてる? 予想より軽くてびっくりしたよ。急に抱き上げちゃったけど、気分は悪くない?」
「……それは大丈夫です、びっくりしたけど……御堂さんって力持ちなんですね」
「女性一人くらいなら、いつでも普通に抱き上げられるよ。落としたことないし」
……カッチーン。心の中の子犬が唸り出すけれど、噛みつくには分が悪過ぎるしタイミングも最悪だ。約束を破った私が、いろいろ言える筋合いはない。
だけど、本人にそのつもりはないかもしれない。もしかしたら私の深読みのし過ぎかもしれないけど、やっぱり過去の女性と比べられるのはつらい。
さっきまで出かかっていた謝罪の言葉が、しゅんと小さくなってしまった。まず先に謝らないといけないのに、過去の女性遍歴をチラつかせられて、ちっちゃなプライドが傷つく。
ふつふつと、怒りに似た感情が湧いてくる。今、そんな場合じゃないのに。
落としたことがないってことは、つまりそういうことだ。どんなシチュエーションだったか、そんなのは聞きたくないし考えたくない。
謝りたかったのに、過去の彼女達への勝手な嫉妬が心の中に嵐を起こす。
そうして、謝罪の言葉を押しのけて、ぽろりと勝手に言葉がこぼれた。
「……やだ」
「うん?」
「他の……他の女の人と比べたりしないで」
「比べたりなんてしないよ、今は東子さんが僕の奥さんなんだから」
頭のいい人は、煽(あお)りも上手い。わざとなのかな。今と言いながら昔を主張する。胸がぎゅうっと絞られるように痛くて、さらに涙と言葉がぽろぽろとこぼれる。
「わ、私は、御堂さんの過去の彼女さんと比べたら、魅力的ではないと思いますが……!」
見たことのない過去の彼女さん達に恥ずかしいほど嫉妬している。だって彼女達はきっとこの温かい腕に抱かれたんだ。手を繋いだり、抱き寄せられたりしたのだ。
過去のことを言っても仕方がないのは十分わかっていても、言い返してしまったことで止まらなくなってしまった。
「見た目だって、会社だって、皆、生まれたときからあったもので、自分が努力した結果じゃないの。私はそれを抱え込んで落とさないようにいっぱいいっぱいで、だけど」
まるで通り魔みたいに、尖った言葉を突然振りかざしてくる人がいるから。恵まれていていいね、美人はいいね、苦労なんてしたことがないでしょうって。
私はいつもこう答える。否定しても肯定してもどうせ納得してくれないのだから。
『ありがとうございます』
傷ついていないふりをして、皮肉の意味がわからないと明るく振る舞って。
「何にもないの、私自身が。皆、与えられたものばかりで、それが全部なくなったら私は何にもなくなっちゃう。何にも残らない」
この結婚だってそう。四ノ宮ホールディングスとの提携で得られるものが大きいから、親達が勝手に盛り上げた結婚話に乗ったんでしょう?
……御堂さんだって、私が四ノ宮の娘じゃなかったら結婚しなかったよね?と言いかけて、これだけはぐっと堪えた。
これはもう八つ当たりだ。心に抑え込んでいた不安や不満が、一気に雪崩のように御堂さんに向かってしまう。
最悪だ。最低の甘えだ。どうしてもっと素直に可愛らしく出来ないんだろう。
ごそりと人が動く気配がして、びくりと身構えると、両方の頬をぎゅっとつままれた。
「ひゃっ、何」
つまんだ張本人の御堂さんは、すごく真剣な顔をしている。
それがすごく怖くて、怒らせた、失望させたと子犬が尻尾を巻く。今まで出来るだけ叱られるようなことをしないで穏便に生きてきた私は、イケメンの怒ったような顔というだけで縮み上がってしまう。
じり、と後ろへ距離を取ろうとすると、頬をつまんでいた指が離され、頭をぐりぐりと撫でられた。大きな両方の手の平で、さっき手櫛で整えられた髪はもうきっと見る影もない。
ニッと今度は笑って「東子さんはさ」と御堂さんが言う。
「東子さんのいいところさ、まず作る飯は最高に旨いでしょ。それから所作が何をしても綺麗だし、それに母さんの実家で昔飼ってた犬にも似てる」
「……え、犬?」
あれ。今シリアスなムードだったのが、実家の犬の出現によって一気に変わる。重かった空気が少し軽くなった。
「うん。僕が遊びに行くたびに毎晩一緒に寝てたんだ。可愛い犬でさ、表情がくるくる変わって、頭のいいボーダーコリーで……」
「待って。犬に似てるって言われても、あんまり嬉しくないかも」
「えー、エレナの話をしたのは東子さんが初めてなんだけどな。エレナって犬の名前ね」
私は犬と同等なんだろうか。いや、犬は可愛い。犬は私も大好きだし人類のパートナーだと思っているけど。私とエレナ。顔が似てるのかな、それとも性格が?
「犬は嫌い?」
「……大好きです。犬に似てるって言われたのがちょっと複雑なだけで」
「好き?」
「大好き、です」
ふふ、と満足げに笑う御堂さんが両手を広げて「おいで」と誘う。
私はいろいろ言ってしまったのを気まずく思いながらも、えいっと勢いで身をその胸に寄せた。
いい匂い。御堂さんのいつものオードトワレの香りだ。一日経ったその香りは、体温と混ざって微かにするばかりだけど、このくらいが一番好きかもしれない。
ドキドキするよりも、今は不思議と安心している。
「僕も、東子さんの気持ちがわかるよ。いろいろ言う奴は多いからね、特に相手が男だと容赦してくれない」
御堂さんは胸に顔をうずめた私の後ろ髪を、丁寧にゆっくり梳く。
「悩んだこともあったよ、傷つかないわけじゃないからね。で、考えるんだ。もし僕の会社が潰れたらって。きっと皮肉を言った奴らは喜ぶんだ。わざわざ優しい言葉をかけてきて、僕の反応を楽しむ」
「……いきなりですね」
「そう? でも僕は負けず嫌いだから、また会社を立ち上げる。身をもって学んだことは消えたりしないから、また一からやり直してディヴェルティメントを再建する。この容姿だって利用出来るときにはするし、今持っているものは全部僕のものだから」
そう言って、力を込めて私の体を抱きしめる。それには私も含まれてる?とは聞けなくて、黙った。
「もう会社の看板みたいなものだからね、この顔も体も全部。なるたけよく見せなきゃなんだけど、本当はもっと楽な格好が好きなんだよ」
今乗っている大きな高級車より、実は小さなミニクーパーが好きなこと。コーヒーにはお砂糖を入れないと飲めないこと。ジムに行くのが面倒で会社の一室をマシーン置き場にしようと提案して、鈴木さんに即却下されたこと。
「イメージ壊しちゃったかな」と聞かれて、私は慌てて首を横に振った。
「妬みたい奴は、構わず放っておけばいい。笑われたって、笑い返すようなことはしない。僕は好きなものをそばに置いて、好きなことが全力で出来ればそれでいいんだ」
柔らかくゆっくりとした口調に、じわりとまた目頭が熱くなる。
「東子さんも、四ノ宮のために頑張っているだろう? 君が妖精か女神様なら、僕の生気をいくらだって分けてあげるのに。透き通るような肌に浮かぶ隈も扇情的だけど、心配で仕方がない」
柔らかな言葉でも、私を包んでくれる。
「東子さんが持っているものは、自身の努力で掴んだものだよ。綺麗で可愛くて努力家で、それにユーモアに溢れた一面もある。こんな素敵な人に奥さんになってもらえたから、僕は随分と心配性になったみたいだ」
耳元に甘く低く落ちる言葉に、胸が満たされていく。
「……今日、今日は本当にごめんなさい」
たまらなくなって、御堂さんの背中に腕を回す。ごめんなさい。気持ちが込み上げるほどに力が入ってしまう。
ああ、この人のそばにいたいな。
この人が大事にする、その輪の中に私も入れてほしい。
背中に回した手で、自分の薬指の指輪を撫でる。どんな形であれ、これが御堂さんのそばにいられる権利なら、私はそれを守るためにすべて受け入れてしまおう。
「うん、いい子」
そうくすぐる声で囁かれて、顎にかけられた指先で上を向かされる。
御堂さんの瞳が私を映す。
……キスされるんだ。
瞳に映る自分の姿が恥ずかしくて、そっと目を閉じる。
生まれて初めての……と待ち構えていたら、お互いの鼻先を子供のキスみたいにくしゅくしゅと擦りつけられた。
予想外のことにびっくりしてパッと目を開けると、さっきよりもうんと近いところに、目の前に御堂さんの顔が。
すごく楽しそうな表情でにんまりしている。私は一人でその気になっていたのが猛烈に恥ずかしくなって、寄せていた体から離れようとした瞬間。
「隙あり」
唇に柔らかいものがちゅっと落とされ、押しつけられる。
一瞬で離れたそれは生まれて初めての感触で、真っ赤になった私の顔を眺めて、御堂さんは「可愛い」と呟きながら、今度は私の額にゆっくりと唇を落とした。