書籍詳細
愛されていますが離婚しましょう~許嫁夫婦の片恋婚~
あらすじ
「絶対に別れない。手放してたまるか」離婚を決めた途端、旦那様の溺愛が大加速!?
愛されて結婚したと思っていた千鶴は、自分の結婚が祖父の思惑と知り、夫である宏昌に離婚届を突きつける。ところが、それをきっかけに彼の溺愛が加速!?「誰にも渡す気はない」――ストレートに愛を伝え、千鶴の戸惑いも受け止めてくれる宏昌。仕組まれた結婚を解消するほうが幸せになれるはず、と思いつつ、千鶴は甘すぎる彼の態度に絆されていき…!?
キャラクター紹介
小野千鶴(おのちづる)
宏昌の秘書を務めており、半年前に彼と結婚した。結婚の真相を知り、宏昌に離婚を突きつける。
灰谷宏昌(はいたにひろまさ)
大手通信会社ウルスラの社長。千鶴が高校生の頃は、彼女の家庭教師をしていた。
試し読み
「千鶴」
映画に夢中になりすぎて、一瞬空耳を疑う。気のせいだと結論づける前にテレビ画面から視線を横にずらした。
「ひ、宏昌さん!?」
視界の端に捉えた彼の姿に、私は勢いよく立ち上がる。リビングのドアのところに立つ宏昌さんはスーツ姿で困惑気味に微笑んだ。
「そんなに驚かなくても……」
「いえ、あの。もっと遅くなるかと思っていたので」
時計を確認すると、針は間もなく午後九時半を指そうとしていた。
「相手も家庭持ちだからな。愛しの奥さんを置いて、そんなに遅くならないさ」
説明に納得する反面、宏昌さん自身はどうなのかと考える。彼はまだ話したかったのでは……。
「もっと遅くに帰ってきた方がよかったか?」
宏昌さんは、ネクタイを緩めながらこちらに近づいてくる。からかい交じりの問いかけに私は現状を思い出した。
「い、いいえ。そんなことありません! ……その、すみません、すぐに片付けます」
机の上には飲みかけの缶チューハイにちょこちょこつまんでいたテイクアウトのおかずが数品広がっている。
ズボラなのもいいところで、こんな有様を彼に見られるとは。
血の気が引く感覚を抑え込み、さっさとしまおうと踵を返したら、腕を引かれて背後から宏昌さんに抱きしめられる。
「意外だな。千鶴が家でひとり、飲むなんて」
顔が見えないので、宏昌さんの発言の意図が読めない。責められたのか、呆れられたのか。とっさに言い訳しようとしたが、はたと思い直した。
悪いことをしたわけではないし、私が変に取り繕う必要はないのでは?
むしろいい機会だ。
「私だってたまには気になったお酒を飲んで、買ってきたお惣菜で夕飯を済ませたいんです。好きな映画を観てダラダラしたり……」
強気に主張しはじめておいて、勢いは徐々に削がれていく。胸を張る言い分ではないのは多少自覚があった。
宏昌さんにどう思われてもいい。離婚を覚悟しているくらいだ。自分らしく振る舞うって決めた。
ぎゅっと唇を嚙みしめて彼の反応を待つ。
「それはいいな」
ややあって彼の口から紡がれた言葉は、私の予想を裏切るものだった。目を見張った後、宏昌さんの顔を確認するために振り向いたら至近距離で視線が交わる。
「たまには、そうやって千鶴が好きなように過ごしたらいい。ひとりのときに限らなくても」
呆れるどころか優しい声色で囁かれ、額をこつんと重ねられる。
「俺と一緒だとくつろげないのか?」
どこか悲しそうに彼が尋ねるので、私は小さく首を横に振った。そして私は彼の腕から離れ、ゆっくりと向き直る。
「違います。宏昌さんの前ではちゃんと過ごさないといけないって私がひとりで思っていて……。それで、この状況を勝手に気まずく感じただけなんです」
不意打ちでだらしなく過ごしているところを見られてしまった気恥ずかしさで、ついぶっきらぼうな態度を取ってしまった。
『もっと遅くに帰ってきた方がよかったか?』
そんなわけない。そんなふうに思わせてしまって申し訳ない。
肩を落としている私の頭に大きな手のひらの感触がある。私はそっと上を向いた。
「ここは千鶴の家で、俺は千鶴の夫なんだ。だから無理したり、気を張らずにいてほしい。千鶴が一番、安らげる場所でありたいんだ」
さっきまで後悔の渦が巻き起こりそうだったのに、今は温かい気持ちでいっぱいになる。
私、宏昌さんを見くびっていたのかな。遊園地の件もそう。もっと自分らしくいてもいいのかな?
「そうは言っても、結婚して……一緒に暮らしはじめてまだ半年か」
宏昌さんが苦笑して続けるので、私もつられて笑った。まだ夫婦としてすべてを晒け出すには時間がかかりそうだ。
でもこれが新婚の醍醐味なのかもしれない。
「ただいま、千鶴」
「……おかえりなさい」
言いそびれていた挨拶を改めて交わし、お互いに見つめ合う。宏昌さんは懐かしそうな面持ちになった。
「付き合っていたときに何度もここに来ていたけれど、千鶴の家は別にあって送っていくのが当たり前だったから。余計に幸せを感じるよ。千鶴がここで俺を待っていて、ここに帰ってきてくれることに」
嬉しそうに告げる宏昌さんに、満たされる反面、少しだけ胸がチクリと痛む。
付き合っているとき、彼は毎回律儀に私を実家に送り届けた。おかげで泊まるという行為は結婚するまで皆無で、未成年だったときはいざ知らず、結婚を前提にした付き合いになってもその姿勢を貫き通した。
私はもっと一緒にいたかったのに。あまりにも彼が大人な対応をするので、ワガママが言えなかった。
大切にされていると言えば聞こえがいいし、その通りかもしれない。
当時、自分にそう言い聞かせた。けれど私の両親や祖父との約束の手前が大きかったのかも。昔から私の気持ちの方が大きかったんだ。
宏昌さんが私と結婚した理由を知って尚更実感する。
「そういえば、映画を観ていたんだな」
つけっぱなしのテレビの存在に気づいた宏昌さんが指摘し、私はテレビ画面に意識を向ける。映画は順調にクライマックスに向かって話が進んでいた。
「あ、もういいです。宏昌さん、先にシャワーを浴びてきたらいかがですか?」
「後でいい」
私の提案はすげなく却下される。済ませておきたい仕事でもあるのだろうかと思っていたら彼は私の手を取った。
「ちょっと疲れたんだ」
思えば、仕事の後にプライベートとはいえ外で誰かと食事をして疲れていないわけがない。もっと早くに労うべきだったと思いつつ宏昌さんを見ると彼はにこりと笑った。
「だから千鶴と一緒にくつろぎたい」
接続詞が妙だと感じたのは私だけなのだろうか。
彼に促されるままソファでくっついて横に並び、ふたりで映画を観ることになった。宏昌さんは途中からなので手短に粗筋を説明し、主演が好きな女優で原作は小説だと話す私に、彼は嫌な顔ひとつせず応じてくれる。
コマーシャルの間に、机に残っていたおかずを一口つまんだ宏昌さんが意外にも気に入ってくれたので、また今度買ってこようと話したり、今日、宏昌さんが会っていた友人とのやりとりを聞いたりして他愛ない会話に満たされていく。
なにかものすごく特別なことをしているわけでもない。
映画の続きがはじまり、また画面に集中する宏昌さんの横顔をこっそり盗み見る。ジャケットを脱いでネクタイをはずしたワイシャツ姿の彼は、確かにプライベート仕様だが、言い知れぬ色気があってどぎまぎしてしまう。
すっと伸びた鼻筋、目力のある大きな瞳は切れ長で、仕事のときは眼光鋭く、家ではとびっきり甘くなるのを私は知っている。
ずっと宏昌さんが好きで、彼を想い続けてきたんだ。
無意識に飲みかけの缶チューハイに手を伸ばしたタイミングで私は、あることに気づく。
「すみません。私、自分だけ飲んで宏昌さんの飲み物を用意していませんでした」
慌ててなにか飲み物を持って来ようとしたら、宏昌さんに腕を取られ阻止される。
「俺の分は必要ない」
「ですが」
必死な私に、宏昌さんは苦笑しつつ視線を動かす。次に空いている方の手で、私の飲みかけの缶チューハイを指差した。
「なら、これを少しもらっても構わないか?」
私は目を丸くした。
「これ、ぬるくなっていますし、炭酸も抜けているのでなにか新しいのを持ってきま」
す、は声にならない。私が言い終わる前に宏昌さんが缶に口づけたからだ。
彼の喉仏がごくりと動き、あまりに卒ない動作に目を奪われる。
「甘いな」
「え、酸っぱくありません?」
缶から口を離した第一声に、思わず反応してしまう。しかし、よく考えると開けてけっこうな時間が経っているので炭酸と共に味も抜けているのかもしれない。
そう結論づけている間に、宏昌さんは再び缶に唇を寄せ二口目を飲む。彼は一度缶を机の上に置くと続けてどういうわけか無言で私の方に身を寄せてきた。
困惑する私をよそに、宏昌さんは私の頤に手を添え、上を向かせると珍しく強引に口づける。ただ唇を押し当てるだけのものだが、彼の瞳が間近で弧を描き、すぐに相手の企みに気づく。とはいえ拒否できない。
ゆるゆると引き結んでいた唇の力を緩めたら、隙間から液体が注ぎ込まれる。舌にすっかり馴染んだ甘酸っぱい味だ。恥ずかしさを堪えて、無心で嚥下する。
やっと飲み終え、唇が解放され深く呼吸しようとしたら、口の端から飲みきれなかった檸檬チューハイがこぼれる。それを宏昌さんが掬うように舌で舐め取り、体がびくりと震えた。
「ほら、甘い」
余裕たっぷりに囁かれ、私は顔が熱くなる。
「それは」
反論を許されず、再び唇が重ねられた。今度は遠慮のないキスだ。
あっさりと彼の舌が口内に侵入し、くまなく蹂躙していく。
「んっ……ふっ、ん」
気がつけば宏昌さんを前に、後ろはソファの背もたれに挟まれ逃げ場がない。ぎこちなく舌先を絡め、彼の口づけに溺れていく。
快楽の波に誘われる中、心許なくなった手元は自然と彼のシャツを握りしめた。いつもなら皺になると気にするのに今はそんな余裕もない。
宏昌さんは巧みに翻弄するキスを与えながら私の頭や頰、髪に優しく触れ、唇を含め伝わる彼の温もりに蕩かされていく。
アルコールの味が直接お酒を飲むときよりも感じられるのは気のせいだろうか。宏昌さんも飲んでいたから? 頭がくらくらして体が熱を帯びてくる。
「映、画……観ない、んですか?」
キスの合間に切れ切れに訴えかけたら宏昌さんは魅惑的に笑った。
「観たい? ならやめようか?」
頰に手を添えられ、焦らすように濡れた唇を親指でなぞられる。その仕草ひとつに心臓が早鐘を打ち出し、胸が痛む。
返事を迷っていると額に唇が寄せられた。
「映画は今度DVDを借りて改めて一緒にゆっくり観たらいい」
なだめるような軽いキスから一転、続けて音を立て耳たぶに口づけが落とされる。
「あっ」
反射的に身をすくめそうになったが、回されていた腕に力が込められ拒否できない。宏昌さんはそのまま耳元で甘く囁く。
「今は千鶴が欲しくてたまらないんだ」
低く官能的な彼の声が直接脳に届き、硬直したのも束の間、彼は舌先で耳介を刺激しはじめた。
「やっ、だめ」
さすがに身をよじって抵抗を試みるも体勢が体勢なのでまったく意味がない。それどころか抱きしめられる力がさらに強くなる。
ねっとりとした舌の感触に、刺激されている耳はどんどん熱くなる。一方で全身に鳥肌が立つ感覚に泣きそうになった。空いている手で肌を撫でられ、苦しいのに嫌悪感がないから自分でもどうしたらいいのかわからない。
宏昌さんの腕をぎゅっと摑んで必死で耐えているとややあって彼は顔を上げて私と目線を合わせた。
「悪い、千鶴が可愛らしくてつい……」
自省めいた言い分とは裏腹に、まったく悪びれていない。私はなにも言わず……正確にはすぐに声が出せず、抗議の意味を込めて宏昌さんを睨みつける。
彼は私の目尻にキスを落とした。
「その顔も煽るだけなんだよな」
「そんなつもりはありません!」
しみじみと呟かれたのに対し、私は即座に言い返す。
ああ、もう。私ってば、すぐに彼のペースに乗せられてしまう。先ほどまでの艶っぽい雰囲気はなくなり、安心したような残念な気持ちになる。
ふと宏昌さんがふっと気の抜けた笑みを浮かべた。次に彼の手が首筋に伸びてきて、長い指が肌に触れる。
反射的にびくりと身構えると、宏昌さんは打って変わって意地悪そうに微笑んだ。
「俺がいないときに、こんな可愛い服を着ているなんて知らなかったな」
「これ、は」
指摘され自分の格好を思い出す。ワンピースタイプのバスラップはそれなりに露出部分が多く、はしたないわけではないが、いつもパジャマをきちんと着ていることを考えれば、かなり大胆な姿だと認識する。
すっかりお風呂上がりの熱も汗も引いた体は、恥ずかしさで熱くなった。
「も、もう着替えます」
「その必要はない。正直、俺としてはこのまま可愛い千鶴を堪能していたい」
小声で申し出たもののすぐさま否定される。
それにしても堪能って……。
私の訝しげな眼差しに気づいたのか、宏昌さんは私の肩口を手のひらでゆるやかに撫でた。
「機能的な意味でも。こうしてすぐに千鶴に触れられるし、なにより脱がしやすそうだ」
あけすけな言い方に頰が熱くなる。やっぱり着替えてこよう。
ところが私が動く前に宏昌さんがなにかを思い出したらしく、先に席を立った。彼が離れ、少しだけ拍子抜けする。
『どうして私の気持ちが揺らいでいるってわかったの?』
そのとき、つけっぱなしだった映画に意識が向いた。詳しく話の展開についていけないが、ヒロインが問いかけた相手は夫だ。
既婚者のヒロインが元恋人とどうなるのか。彼女の夫とひと悶着あるのは間違いないと思っていたが、予想していたより穏やかなシーンが流れている。
彼女が手に持っているのは、夫の欄が記入済みになっている離婚届だった。
『わかるよ、俺は君の夫だから。最初から君の気持ちが完全に自分に向いていないのもわかっていた。でも好きだった。幸せだったよ……だから、誰よりも幸せになってほしい』
泣くのを必死に堪えて、ヒロインは離婚届と夫の顔を何度も交互に見遣る。
画面に釘付けになっていた私の目からは気づけば涙が溢れていた。ほぼ無意識で自分でも驚き、慌てて涙を拭う。
「千鶴?」
さらに宏昌さんに声をかけられ、心臓が口から飛び出そうになった。
「どうした?」
「い、いえ。あの、目にゴミが入っちゃって」
余計な詮索や心配はされたくないと慌てて取り繕って返事をする。彼の手には大手お菓子メーカーのチョコレートの箱があった。
「千鶴にお土産……ってほどでもないが」
「いいえ。ありがとうございます」
宏昌さんは、よくこのチョコレート菓子をくれる。
ホワイトチョコとビターチョコが網目模様に幾重にも重なり一口サイズで個包装されていて、繊細な食感と絶妙な味のバランスで人気を博しているロングセラー商品だ。
私のお気に入りのお菓子で、きっかけは思い出せないが、出会ってしばらくした頃になにかの拍子で宏昌さんに話したんだと思う。
思い返せば、彼の生徒として勉強を教わっているときから彼のバレンタインの贈り物はちょっとしたプレゼントと、このチョコレートだった。
「昔から、好きだよな」
宏昌さんは再び私の隣に腰を下ろした。いつもなら嬉しくて素直に「はい」と頷くのに今はなんとも言えない気持ちになる。
高校生のときと扱いが変わっていないと思ったら、さすがにちょっと切ない。
「宏昌さんは、いまだに私を子ども扱いしていません?」
このチョコレートは確かに好きだけれど、思わず口を尖らせて言い返してしまった。
可愛くないと自分でもわかっている。
「していないさ。子どもなら抱きたいとは思わない」
ところが、あまりにも意表を突くような切り返しに口をぽかんと開けてしまう。
間抜けな顔をしているであろう私に宏昌さんは含んだ笑みを浮かべる。続けておもむろに顔を近づけてきた。
「さっきの続きをしても?」
彼が影になり、視界が暗くなる。
ここで宏昌さんを受け入れるのが正解なのかもしれない。いつもならそうしている。私は彼が好きで、求めてもらえるのは幸せだ。
でも、常にどこかで彼に気を使わせてしまっている。さっき中断させてしまったのも私が原因かな?
私が年下で、宏昌さんとの経験の差は歴然だ。だからしょうがないのかもしれない。
けれど、もしも他の女性なら……。
宏昌さんだって自分の意思で付き合っていた相手がいるはずだ。お互いに好き合った……俗に言う元カノの存在が。
唇が重なる瞬間、私は拒否するように顔を横に背けた。宏昌さんが驚いたのが気配でわかる。
幸い、視線の先はテレビ画面があり、宏昌さんの目もそちらに向いた。映画は本編が終わり、エンドロールが流れている。
「やっぱり映画が観たかったのか?」
少しだけ申し訳なさを滲ませた彼の問いに私はなにも答えず、目を伏せる。
「まぁ、主役カップルがくっつくのはどの映画もだいたい間違いないな」
淡々と物語の既定路線を宏昌さんが呟き、ズキリとなにかが胸に刺さる。
最初、私はヒロインに感情移入していたが、もしかすると私の立場はヒロインの夫に近いのかもしれない。
『最初から君の気持ちが完全に自分に向いていないのもわかっていた。でも好きだった。幸せだったよ……だから、誰よりも幸せになってほしい』
私もその覚悟があって離婚届を用意した。結局納得はしてくれなかったけれど、もしもこの先宏昌さんに本当に好きな人が現れたら?
今は私だけを見ていてくれているとしても、結婚したきっかけを考えたら……。
「どうしたんだ? そんなつらそうな顔をして」
宏昌さんの問いかけに、私は唇を嚙みしめ感情を押し込める。一方で、心配そうな彼の表情に胸が苦しくなった。
「その、映画を観てて……私ならどうするかなって」
噓はついていない。私が勝手に悶々と悩んでいるだけ。
すると突然、宏昌さんに強く抱きしめられた。持っていたチョコレートの箱が手から落ち、あまりの力に顔をしかめる。
「俺は、千鶴を誰にも渡す気はない」
聞こえたのは、珍しく切羽詰まった声だった。言ってから我に返ったのか、宏昌さんはすぐに腕の力を緩め、続けて私を窺うように、額を合わせ訴えかけてきた。
「千鶴はもう俺のものだろう」
打って変わって切なげに問いかけてくる宏昌さんに私はなにも答えられない。
ずるい。私は宏昌さんのものなのに、彼は私のものじゃないなんて。
結婚の裏にある事情も知らず、純粋に愛されていると思い込んでいた。
もし宏昌さんが映画の主人公みたいな状況になったら、私はあんな穏やかに離婚を切り出せるだろうか。
いつもより慎重に顔を寄せられ、私はおもむろに目を閉じる。宏昌さんが帰宅してからたくさん口づけを交わしたのに、本日最後のキスはお互いにぎこちないものになった。