書籍詳細
政略結婚のはずが、溺愛旦那様がご執心すぎて離婚を許してくれません
あらすじ
「君には悪いが、手放せない」初めてを捧げたら容赦ない溺愛に囚われて!?
恋愛未経験の伊織は、エリート社長・尊成と期間限定の政略結婚をすることに。冷徹な尊成に最初は苦手意識を持つものの、彼が時折見せる甘い素顔に心を奪われていく。そしてある夜、尊成に本能のまま初めてを捧げ、身も心も蕩けるほど満たされて…!?「俺は君との結婚を望んでいた」――離婚前提かりそめ夫婦のはずが、一途に情熱を刻み込まれていき…。
キャラクター紹介
斉賀伊織(さいがいおり)
恋愛未経験のウブな新妻。離婚前提の政略結婚なのに、過保護に甘やかしてくる夫・尊成に翻弄され…!?
斉賀尊成(さいがたかなり)
大手不動産会社の御曹司で、現在はグループ企業の社長。普段はクールだが、伊織に予想外の溺愛を注ぐ。
試し読み
「話したいことが、あるの」
伊織はカレーを食べながら考えていたことがあった。コップを置いたと同時に切り出すと、尊成の言葉にかぶせるような形になってしまった。勢いに任せて言い直す。
「今、話してもいい?」
「ああ。どうぞ」
尊成は特に気にした様子もなく、興味を引かれた顔で伊織を見た。皿を片付けようとしていた手を止めて促すように軽く頷く。それに背中を押されたように、伊織は口を開いた。
「あの、私たちって、結婚してから、まだ数えるぐらいしか顔を合わせてないと思うんだけど」
「そうだな」
「お互いについて、知らないことがまだたくさんあると思うの」
「ああ」
「それで、もうちょっとお互いを知る努力というか、機会を持った方がいいと思ったんだけど……」
言いながら伊織は尊成の顔色を窺った。律義に相槌を打っていた尊成と視線が合う。相変わらず表情に動きはない。けれどなんとなく、観察されているような感じを受けた。
(……この間は何?)
尊成の反応が読めなくて落ち着かない気分になる。そんなに変なこと言ったかな、と鼓動が妙に速くなっていくのを感じた。
伊織としては勇気を出して素直な気持ちを言ったつもりだった。尊成のことをもっと知りたくなった。けれどこの調子でいったら半年はあっという間だ。このまま何もしないでいたら後悔するような気がしたのだ。
「べ、別に何か特別なことをしたいという訳じゃないの。歩み寄りというか。その、もう少し……」
「そうだな。いいと思う」
沈黙に耐えきれなくなった伊織は補足するかのように口を開いたが、だんだんと尻すぼみになってしまった。そこに尊成の言葉が降ってきて、目を瞬く。
間を取った割にはあまりにもあっさりと同意されたからだった。
「ほ、本当に?」
「ああ。同じことを考えていた。異論はない」
(だったらさっさと頷いてくれたらよかったのに!)
妙にドキドキしてしまったじゃないか、と内心突っ込みながらも口には出さず、伊織はほっと表情を緩めた。
「で、具体的には何を?」
「え?」
「その歩み寄りというものについて、具体的に何をするか希望はあるか? こちらもできる限りのことはするつもりだが、言ってもらえれば要望に応えるよう努力する」
「え、えー……」
淡々とまるで会議でもしているような口調で言われて、伊織は虚を突かれたように言葉を詰まらせた。
(よ、要望?)
そんな風に言われるとは全くの想定外で、意外な切り返しに一瞬頭が真っ白になる。伊織としては、具体的なことまでは考えていない。はっきり言って完全にノープランだ。
(待って、そこまでは考えてなかった……けど、え、何か言わなくちゃだめな感じ?)
伊織の言葉を待つかのような尊成の視線に妙なプレッシャーを感じてしまう。
尊成らしいといえばらしいのだが、要望なんて言葉を使われると、何かすごくちゃんとしたことを言わなくてはいけないような気がして、じわじわと焦りのような気持ちが込み上げた。
張り切って切り出したのに、何もないなんて。尊成にどう思われるかと考えると、なんとなくそのままそう伝えるのは躊躇われた。
だったらなんでもいいから何か言わなくては。頭が大慌てで思考を始める。
そのとき、何が引き金となったのかはわからないが、纏まりのない頭の中で、唐突に紫苑の言葉が脳裏に浮かんだ。
――可愛く、ちゅーしよ?って言ってみ?
「……ちゅー?」
焦っていたせいか、どうやら浮かんだと同時に口に出してしまったらしい。耳で拾った音でそれに気づいた伊織はばっと手で口を押さえた。
(ぎゃっ、口に出てた!)
ぶわっと血液が逆流する。一気に顔に熱が集まった。
「ちがっ、今のは違くて。間違っ――」
伊織は慌てて訂正を試みた。しかし焦りと恥ずかしさから舌がもつれてうまく喋れない。まさに穴があったら入りたいとはこのことだった。
「ちゅう?」
そのとき、尊成が一言、言葉を発した。初めて聞いた外国語を復唱したように、そのイントネーションはどこかおかしかった。伊織はぴたりと動きを止めて尊成を見る。発した言葉の響きとは裏腹に、眉を寄せて何かを考えるような表情をしていた。
「ふふっ」
気づいたら口から笑いが漏れていた。まさか尊成の口から『ちゅう』という言葉が出るなんて。今までの彼のイメージとのギャップにたまらなくおかしくなってしまったのだ。先ほどの慌てぶりなど忘れて、伊織は頬を緩めた。
「何?」
「だって、ふふっ……あはは」
口から笑いが零れて伊織は再び手で口を押さえた。既に笑ってしまって今さらだが、あまりに笑うとまずいと思ったからだ。尊成はきっと伊織がそんなことを言い出すと想定していなかったに違いない。だから一瞬、意味を量りかねたのだろう。確かに、そんな感じのトーンの『ちゅう』だった。
伊織は笑いを噛み殺す。そうして少し落ち着いてから、「ごめん」と謝った。
「いいよ」
笑われて少なからず気分を害したかも、と思った伊織は尊成の言葉にほっとする。そうしてからふと、ん?と思った。
何かが、おかしいような。
「え?」
「いや、キスのことだろ。いいよ。別に構わない」
「え!?」
(そっち!?)
伊織は呆然と瞳を瞬いた。
「お邪魔します……」
カレーの皿を水に浸けるためにキッチンに行っていた伊織は、リビングに戻ってくると、尊成が座るソファにおずおずと腰を下ろした。
提案したつもりではなかったが、まさかの『ちゅう』が採用されてしまった。
ダイニングテーブルに向かい合ったままでは、ということで、食器を片付けてなんとなくソファに移動することになったのだ。
「もう少しこっちに」
まさかの展開に、伊織の心臓は今にも暴れ出しそうになっていた。うるさいぐらいバクバクしている。伊織はぎこちなく頷くと、腰を浮かして尊成との距離を詰めた。
その光景を黙って見ていた尊成の手が上がる。背中を通って肩に触れた。男の人の大きな手の感触に伊織の身体が小さく跳ねる。
(わ、わわ……)
抱き寄せられるような感覚。身体の向きが正面から尊成の方へと変わる。視線を上げると、尊成の顔が近くに迫っていた。
(もう!? 近っ、ひええ、本当に)
尊成とキスをするのか。整った顔が近づいてくる。冗談でもなんでもない至って真面目な表情だった。その顔にまたドキドキしてしまう。
まつ毛が長い。すっと線の入る二重がきれいだ。閉じられている唇は、形はいいがやや薄めで、本当にこれが自分のもの、と思うと頭の中が爆発しそうになった。
顔の温度がどんどん熱くなって、やかんだったらぴゅーと音でも出てしまっていたと思う。その間にも距離がみるみる縮まる。伊織は何もできないまま、その顔を、息を呑んで見つめて――。
「待って!」
あと十センチほど、というところで伊織の意思とは関係なく勝手に手が動いた。押し返すように胸を押すと、尊成が少し離れる。その隙に伊織は隠すように自分の顔を手で覆った。
「何?」
「……うう。待って……待って。恥ずかしすぎる。こんなの無理。心臓がもたない。死にそう」
「案外、してみればどうということもないと思うが」
冷静な声に伊織はふるふると首を振った。
「慣れている人はそうかもしれないけど、初心者にはハードルが高いの」
初心者、と小さく呟く声が聞こえた。しまった、と思ったが、もう今さらだとすぐに開き直る。どうせバレる。だったら早めに言った方がそのあたりへの配慮が望めるかもしれない。
伊織は落ち着かせるようにふーっと息を吐くと、そっと手を顔からどけた。
「……見ない方がいいのかも。目を瞑ってるから、もう一回お願いします」
顔を上げて目をぎゅっと瞑る。リタイアすることもちらっと頭をよぎったが、伊織はすぐにそれを打ち消していた。
ここまできたら初めては、尊成がいい。
自分がそんな乙女チックな考えを持つなんて驚きだが、素直にそう思ったのだ。
尊成は一見すると、絶対に人に心を許しそうにない冷たい雰囲気を纏っているが、実際はそれとは違うことがわかってしまった。むしろ、一緒にいると、なんでも受け止めてくれそうな安心感を抱いてしまうのだ。反応は確かに薄い。けれど尊成は決して嫌な顔をしたり、伊織を否定したりしないからかもしれない。
しんと沈黙が二人の間に落ちる。尊成はまたあの観察するような目で伊織を見ているかもしれない。もしかしたら面食らっているのかも。けれどここで目を開いたらまたもだもだしてしまいそうで、伊織は恥ずかしさを堪えながら目を瞑ったままの体勢で尊成が動き出すのを待った。
すると、何か温かいものがフェイスラインのあたりに触れた。それが伊織の顔を上に向かせるように顎を持ち上げる。尊成の指だ。その察しがついた伊織の鼓動が速まる。
(……来る)
まるで全身が心臓みたいに大きな音で脈打っている。今くるか、もうくるか。伊織は今すぐにでも目を開いてしまいたい衝動を堪えながら、ぎゅっと瞼を閉じたままでそのときを待った。否が応にも唇に神経がいってしまう。
(あああもうっ、ぱっとやっちゃってよ! 心臓がもたない、こんなのやっぱり)
無理、と衝動に負けて目を開こうとした、そのときだった。
ふにゅ、と温かいものが唇に重なった。驚いて伊織の肩が軽く跳ねる。
(わ、柔らか……)
初めての感触に、ごちゃごちゃ考えていたことが一瞬で飛んで頭が真っ白になる。それは想像以上の柔らかさだった。
(これが、キス……)
伊織の経験値を考慮してくれたのか、尊成のキスはとても優しかった。少しだけ強く押しつけた後、すっと離れていく。
伊織はゆっくりと目を開けた。
「そんなにどうということもなかっただろ」
尊成の顔はまだすぐ近くにあった。
キスする前と憎らしいほど何も変化のない顔を軽く睨みながら首を振る。きっと顔は赤いままだろう。しかしそれを取り繕う余裕はなかった。
「そんなことない……けど」
「そうか」
その言葉とともに、肩にのせられた手にぐっと力が入った。さらに抱き寄せられて伊織の身体は尊成の方へと傾く。以前も感じたことのあるシトラスの香りがふわっと尊成から香った。
もう一方の手が頬を撫でた。身体がより密着したことによって、また心拍数が上がった伊織の目が泳ぐ。
「な、何?」
「歩み寄りはこれで終わりじゃないだろ」
「まあ……ん」
二回目のキスは準備をする間もなかった。顔を覗き込むように首を傾けた尊成が一瞬にして伊織の唇を奪う。伊織は驚いたが、拒否する理由もないので特に抵抗はせずに受け入れた。それは一回目よりも長いものだった。
軽く触れ合わせるように押しつけられた後、角度と場所を変えて何度も離れては触れ、が繰り返される。
(わ……何これ)
それがあんまりにも優しくて丁寧なものだから、最初はがちがちに強張っていた伊織の身体が次第にふんにゃりと力を失っていく。だんだんと思考が奪われていくのがわかったけれど、その優しい感触に抗うだけの力は伊織にはなかった。尊成にされるがままの状態になる。
これがキスというものか。あんなに恥ずかしがって大騒ぎしたくせに、二回目にして慣らされたのか、羞恥心が消えると、伊織は妙な感動を覚えた。
ただ唇と唇を合わせているだけなのに、ドキドキして身体が熱くて。どろりと溶けてしまいそう。だってすごく気持ちがいいのだ。
気づけば伊織は身体をすっかり尊成に委ねていた。すると、ぬるりとした感触が唇に触れた。伊織の唇は力が抜けて既にうっすら開いていたので、ごく自然にそれが口の中に入り込んでくる。
(これは……もしや)
ぼうっとした頭で考える。もしかしなくても、その正体は一つしかない。伊織は処女だし、男性と付き合ったこともないが、キスもそれ以上の行為も一応の知識はあった。どんなことをするかは知っている。
これは舌だ。これはいわゆるディープキスだ。
まさかここまでするとは。衝撃を受けた伊織は思わず目を開けてしまった。すると、当たり前だが、どアップで尊成の顔を見てしまう。目を閉じている表情なんて今まで見たことがなくて、しかもキスの最中だからか妙に切なげに見えて、伊織は慌ててまた目を閉じた。こんなの心臓に悪すぎる。
その間にも舌の侵入は止まらない。歯列を割って口腔内に入り込んでくる。初めてのディープキスに動揺して縮こまっている伊織の舌を見つけ出して、宥めるように触れた。初めての舌の感触はざらりとして濡れていて、でも柔らかかった。
(ひええええ。展開が早いっ)
もう歩み寄りどころの話ではない。自分でも驚くことに嫌だとかそういう気持ちは全くなかったが、気持ちの準備というものがある。
だからどうしていいのかわからなくなった。止めるべきかこのまま続けるべきか。迷いを反映した手が意味もなくソワソワと動く。けれど伊織の身体はいつの間にかしっかりと尊成の腕の中に入っていて、気づけばもう逃げられないような状態になっていた。
「鼻で息をして」と囁いた尊成が頭を固定するようにしっかりと体勢を固めて、舌を絡ませた。痺れるような感覚が背筋から這い上がった。
「……は」
そこから尊成はキスに長い時間をかけた。散々口腔内を這い回った舌が引っ込められたとき、伊織は軽くぐったりとしてしまっていた。
最初は戸惑っていた伊織も舌を絡ませられた結果、どこかで火が点いてしまったのか、気づいたときには応えるように自らも舌を動かしていた。最終的にはせがむように尊成の首に手を回してしがみついていたような気がする。未だ尊成の腕の中にいる状態で、伊織は余韻を引きずったまま、ぼんやりと目を瞬いた。
「……どうした?」
伊織があまりにぼうっとしていたせいか、尊成が顔を覗き込みながら様子を窺ってくる。伊織は視線だけ動かして尊成を見た。
「どうした、じゃないでしょ……やりすぎ、だと思います……」
伊織は上目遣いで見つめたままぼそっと呟いた。
この男はこんな涼しい顔をして。
尊成は普段から全く性的なものを感じさせないタイプではあった。性欲なんてものは存在しなさそうで。キスもセックスも全く興味ありません、みたいな顔をしていたのに、こんなに濃厚なキスをしてくるなんて完全に想定外だ。
それに、最終的には夢中で応えてしまっていた自分も。
「悪い」
尊成がふっと笑った。
(……私、この人がこうやって笑う顔、たぶん好き)
だってすぐに許したくなってしまう。伊織は、照れくさい気持ちを隠すようにふいっと視線を逸らした。
(しかし、すごかったなあ)
照れくさい気持ちのまま『シャワーを浴びてくる』と、そそくさと自室に戻った伊織は宣言通りにお風呂に入り、ドライヤーで髪を乾かしていた。
時間をかけて入浴したおかげで身体はさっぱりしたが、気を抜くとすぐに先ほどのキスを思い出してしまう。尊成の柔らかい唇の感触とか、絡まった舌の動きとか、抱きしめられた腕の強さとか、Tシャツ越しの温もりとか、かすかに汗の匂いと混じったシトラスの香りとか。
何度もフラッシュバックしては伊織の鼓動を速くさせる。また反芻していたことに気づいた伊織は、それを振り払うかのようにドライヤーの風量を上げた。
(どうしよう、頭から離れない……絶対刺激が強すぎた)
ある程度乾いたところでスイッチを切った。パウダールームを出て寝室に戻る。
すると、まるでタイミングを計ったかのように、コンコンと扉がノックされた。
不意打ちの音にびくっと身体が揺れる。伊織は扉を凝視した。
(な、何……?)
この家にいるのは二人だけなのだから、ノックは尊成だろう。何か用事だろうか。
伊織は慌てて、ベッドの上に置かれたままだったパーカーを上から羽織った。それから足早に扉に向かった。
「どうしたの……?」
扉を開けると、そこにいたのは案の定、尊成だった。伊織は怪訝な表情を隠さずに尊成を見る。格好は先ほどと変わっていないように見えたが、普段は横に流れている前髪が額にかかっていたので、もしかすると尊成もシャワーを浴びたのかもしれない。そうしていると、年齢よりも若く見えた。
「少し考えてみた」
「え?」
前置きもなく淡々としたトーンで尊成が切り出す。
尊成が伊織の部屋に来るのは初めてのことだった。わざわざ来てまで話すなんてなんの用なんだろうと、伊織は面食らいながらも、落ち着かない気分で続きを待った。
「歩み寄りのことだ。最近は少し落ち着いたが、俺の帰宅は基本的には遅い。そこまで一緒にいる時間は持てないと思う」
「うん」
頷きながらそれはそうだろうと伊織は思った。伊織は別に仕事の時間を削ってまで歩み寄りをしてほしいと言った訳ではない。さっきのキスだって完全に想定外なのだ。ただ、もう少しだけお互いを気にかけてみようとか、そんな程度の、思いつきのような提案だった。
「だから寝室を一緒にしたらどうかと思っている」
「うん……え?」
「そうすれば、顔を見る時間は単純に増える」
「あ……うん、ま、まあ……それは……そうだけど」
(待って待って。寝室!?)
またしても予想外の展開。伊織は相槌を打ちながらも動揺を隠せなかった。
(いや、寝室って一緒に寝るってことだよね!? そんなさらっと言うこと!?)
じっとこちらを見てくる尊成は眉一つ動かしておらず、『一緒にテレビを観よう』ぐらいのテンションだ。
あまりにも普通に言われたものだから、その雰囲気に呑まれて大騒ぎできなかったが、もっと驚いてみせてもいいことだったようにも思う。完全にリアクションを取り損ねた伊織は忙しなく瞬きを繰り返しながら必死に頭を働かせた。
(これってどういう意味? え、そういうお誘いってことなのかな? それとも言葉通りの意味?)
なんと返事したらいいのか。伊織は軽くパニックに陥った。あんな濃厚なキスまでしてしまって、その先、となるのはもしかすると自然な流れなのかもしれない。なんといっても二人は夫婦だ。夫婦がセックスするのはおかしいことではなく、むしろ普通のことだろう。
けれど、伊織たちは普通の夫婦ではない。それに、今までの言動から考えて、尊成はなんでもストレートに言ってくるタイプのように思えた。それにしては、何か誘い方が回りくどいような。
「嫌なら無理にとは言わない」
あまりに逡巡している様子を見かねたのか、尊成が発した言葉に反応して伊織は顔を上げる。
「い、嫌じゃない」
咄嗟に口から出てしまった言葉に伊織はまた動揺する。
嫌じゃない。本当だ。けれどだからといってそれがイコールで『いいよ』になるかはまた別の話で――。
けれど、尊成はそんな複雑な伊織の心境までは、当然ながら思い当たらない。
「わかった。じゃあ行こう」
「……行こう?」
「俺の部屋にあるベッドの方が少し大きいと思う。一緒に寝るならこっちの方がいい」
「……ああ」
開いた扉からちらりとベッドの方を見た尊成に向かって、納得したように頷いてから伊織ははっとした。
(違う違う! なんか納得したみたいになっちゃってるから!)
「そのままで大丈夫か? 何か持っていく必要は?」
「え!? えーっと」
(というか、今!? 今日からの話!?)
まずいまずい。もう完全にその流れだ。態度を決めかねたまま、どんどん進んでいく話に伊織はしどろもどろになって視線を彷徨わせた。
でもなぜかNOと言うことができない。断ったらせっかく縮まっているように感じる二人の距離がまた離れてしまうように思った。それが、嫌だった。
「まくら……」
一瞬のうちにいろいろな考えが頭の中を駆け巡って、結果、伊織の口から出たのはそんな言葉だった。つまり、悩んでみたものの、『嫌じゃない』は結局は『いいよ』とイコールだ、という結論に至ったのだ。
伊織は「ちょっと待ってて」と言って部屋に戻り、枕を手に持って尊成の元に戻る。そして電気を消して部屋から出た。