書籍詳細
きまじめ旦那様の隠しきれない情欲溺愛~偽装結婚から甘い恋を始めます~
あらすじ
離婚予定の旦那様が激甘豹変!?両片想いの夫婦恋愛
ワケありで偽装結婚した夫・匠を一途に想う栞は、愛し合う本当の夫婦になりたいと考え、彼への告白を決意。その矢先、匠から「離婚しよう」と宣言されて!?離婚回避のために策を練る栞だが、大人の対応でかわされて手ごたえなし。一方、匠は栞を愛しているからこそ手放そうと考えていた。しかし、ある行き違いをきっかけに、二人の関係は甘く変化して…。
キャラクター紹介
仲沢 栞(なかざわしおり)
家族を事故で亡くし、匠と偽装結婚している。大学3年生。
仲沢 匠(なかざわたくみ)
栞の兄の親友で、大学の助教。栞を守るために結婚したが…。
試し読み
「……栞?」
ソファに座った匠が、不思議そうにこちらを見上げてくる。
栞は思いきって、彼の隣に腰掛けた。
「……っ」
匠が面食らった顔をし、少し横にずれる。
栞はそれを追いかけて動き、身体の右側を彼にぴったり密着させた。
「…………」
匠がしばし沈黙する。
やがて彼は、困惑をにじませながら口を開いた。
「……栞、何でこんなにくっついて」
「駄目ですか?」
「駄目って」
「くっつきたいから、くっついてるんです。匠さんはどうぞ新聞を読んでてください」
二人の間に、沈黙が満ちる。
密着して座りつつ、栞は心臓がドキドキしていた。互いに半袖のせいで、腕の部分が直に触れ合っている。その素肌の感触、身体の右側に感じる匠の体温を、痛いほど意識していた。
以前楢崎が挙げた〝スキンシップ〟の項目の中に、隣に座ることや肩にもたれることが入っていた。しかしくっつくだけでこんなにも緊張するのに、肩にもたれたりしたら心臓が破裂しそうだ。
そんなことを考える栞の隣で、匠が深くため息をつく。思わずビクッとした栞の隣で、彼は新聞を畳んでラックにしまうと立ち上がり、こちらを見ずに言った。
「――風呂に入ってくる」
匠がリビングを出ていき、ドアが閉まる。
一人ソファに取り残された栞は、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
(このくらい想定内だし、めげない。……もっとすごいアプローチをするって決めたんだもの)
五分ほど経った頃、栞は立ち上がる。
洗面所へ行き、その引き戸を開けた。曇り仕様の折り畳み戸の向こうではシャワーの水音がしていて、匠が入浴中なのがわかる。
栞は彼に向かって声をかけた。
「匠さん」
一瞬の沈黙のあと、匠が「……何?」と返事をする。
洗面所の中は浴室の湿気が漏れて、仄かに暖かかった。栞はドクドクと早鐘のごとく鳴る胸の鼓動を持て余しつつ、水音に負けない声で言った。
「あの――わたしに、匠さんの背中を流させてくれませんか」
脱衣所には、浴室から漏れるザーザーというシャワーの音が響いている。
浴室の中にいる匠は何も答えず、彼が驚きに絶句しているのがわかった。待っていてもどうせ断り文句しか出てこないと思った栞は、着衣のまま思いきって折り畳み戸を開ける。
「失礼します……!」
「えっ、ちょっ」
浴室の中、こちらに背を向ける形でプラスチックの椅子に座っていた匠が、ぎょっとしてこちらを振り仰ぐ。
入浴中の彼は、当然ながら全裸だ。ちょうど手に持ったシャワーヘッドで頭を濡らしていたところらしく、その髪からはポタポタと雫が落ちていた。
濡れ髪の匠は普段と違う印象で、それを見た栞はドキリとする。
(わ、匠さん、いつもと感じが違う……)
一気に頭に血が上り、頬がみるみる紅潮するのがわかったが、ここまできてはもう引き下がれない。
後ろ手に浴室の扉を閉めた栞は、匠の背中越しに壁際の棚に手を伸ばした。そしてスポンジを手に取り、ボディーソープを数回プッシュして、匠の背中をゴシゴシと擦り始める。
彼は肩幅がしっかりしていて、上腕や背中全体にしなやかな筋肉がついていた。無駄なく引き締まっている身体の線には成熟した大人の色気があり、思いのほか男っぽい様子を目の当たりにした栞は、つい見惚れてしまう。
(すごい、匠さんの身体って、こんなふうなんだ……)
兄の半裸は何度も見たことがあるのに、匠から受ける印象は全然違う。
こんなふうにドキドキするのは栞が彼を〝男〟として意識しているからだが、そんな自分が淫らに思え、ひどく落ち着かない気持ちになった。
一方の匠は、驚きのあまり声も出ないらしい。彫像のように固まったままの彼の手から、栞はシャワーヘッドを取り上げる。そして丁寧に泡を流した。
「――……」
濡れた広い背中があらわになり、栞の胸の奥がきゅうっとする。
自分を見ようとしない匠に対し、にわかに悔しさに似た思いがこみ上げていた。一緒に三年も暮らし、こんなにも近くにいるのに、彼の気持ちは遠い。夫婦という関係でありながら栞は匠のパーソナルな部分にまったく触れられず、これまでの平穏な生活ごと自分の手からすり抜けていこうとしている。
そう思うとたまらなくなり、栞は唇を噛んだ。もうもうと湯気が立ち込める浴室の中、シャワーヘッドが手から滑り落ち、ゴトンと重い音が響く。
蛇のようにくねったヘッド部分が、辺りにお湯を撒き散らした。栞は腕を伸ばし、濡れた浴室の床に膝をついて、匠の背中に強く抱きついていた。
「……っ」
腕の中の匠の身体が、ビクリとこわばる。
胸に腕を回してぎゅっと力を込めると、その硬さとしっかりとした骨格がつぶさにわかった。
栞は濡れた匠の背中に、頬を擦りつける。しばらくそうして体温を感じたあと、顔を上げ、その肌に唇で触れた。
「匠さん、わたし……」
好きです――と口にしようとした。
自分の気持ちを伝え、その上で「離婚はしたくない、これからちゃんとした〝妻〟として見てほしい」と言おうとした。
しかしその瞬間、匠が栞の手をつかんでくる。ドキリとして息をのむと、彼は低く押し殺した声で言った。
「――こういうのは、困るよ」
匠の力は強く、わずかに痛みをおぼえるほどだった。
彼は前を向いたままで表情が見えず、何を考えているのかはわからない。だがその声音からは断固とした拒絶の意思が感じられ、手を離された栞はそろそろと立ち上がって匠を見下ろした。
「……ごめんなさい」
一気にいたたまれなさが募り、小さく謝罪した栞は、逃げるように浴室を出る。
服も手足も、何もかもがビショビショに濡れていたが、拭いている余裕がなかった。洗面所から出た栞は、廊下を挟んで斜め向かいにある自室に飛び込み、勢いよくドアを閉める。そして気持ちを抑えきれず、ぎゅっと顔を歪めた。
「……っ……」
立っていられなくなり、ドアにもたれたままズルズルとその場にしゃがみ込む。
顔から火が出る思いだった。突然の衝動に突き動かされて匠に触れてしまったものの、彼の声音はそんな栞に冷や水を浴びせるほど冷静で、自分のはしたなさを思い知らされた気がした。
(わたしの馬鹿。どうしてあんなことしちゃったの……?)
先ほどのこちらの行動を、匠は一体どう思っただろう。
考えると身の置き所のない気持ちになり、栞は火照った頬を押さえる。
(いきなり触るなんて、いやらしい子だって思われたかな。でもどうしても触れたくて、仕方がなかったんだもん……)
先ほど見た彼の広い背中、触れたときのしっかりした感触がよみがえり、いつまでも消えてくれない。
ドア越しに、浴室のシャワー音がかすかに聞こえてきていた。栞はしばらく動けないまま、その場にうずくまり続けた。
* * *
床に落ちたシャワーヘッドが、天井を向いたままザーザーとお湯を噴き上げている。
湯気の立ち込める浴室の中、プラスチック製の椅子に座ったままそれを拾い上げた匠は、ひどく動揺しつつ片手で口元を覆った。
(……一体何なんだ、あれは)
ここ最近の栞の行動には、驚かされっ放しだ。
突然キスをして服を脱ぎかけた日の翌日は匠を避ける行動をしていた彼女だったが、それ以降はせっせとこちらの世話を焼き、その懸命さは困惑するほどだった。
おそらくは離婚を回避するための、栞なりの努力なのだろう。いつも笑顔を絶やさず、家事を完璧にこなす姿はいじらしくて、匠は彼女の行動をきっぱり拒絶することができなかった。
さすがに食べきれないほどの品数を食事に出されるに至った昨日は、「少し品数を減らしてくれると助かる」と申し入れたが、それでも栞は今日も充分すぎるほどの夕食を作ってくれた。
しかし食事のあと、彼女は何を思ったのかソファで身体を密着させてきた。精一杯何食わぬ顔でそれを回避したのも束の間、今度は風呂場に乱入してきて匠を驚かせ、今に至る。
目の前で曇っている鏡を手のひらで拭うと、みっともないほど赤くなった自分の顔があった。それを見た匠は、小さくため息をついた。
(……こんな顔、見られてなかったらいいけど)
いくら三十路の男とはいえ、匠にも羞恥心はある。
思いがけないタイミングで全裸でいる状況の中に入ってこられ、実は心臓がバクバクしていた。栞が動くたびにいつ正面から無防備な姿を見られるかとヒヤリとし、身動きできずに固まっているうちに、まんまと背中を洗われてしまった。
しまいには後ろから抱きつかれてしまい、そこでようやく彼女を追い出せたのだから、情けないことこの上ない。
(明日からは、浴室の扉に鍵をかけないと。まさか今月の末まで、こんな状態が続くのか?)
最初に「七月の末まで待つ」と言った以上、匠は話し合いを前倒しにするのはフェアではないと思っている。
しかし最近の栞の行動を見ていると、彼女の思考は離婚とは真逆の方向にいっているようだ。
(栞の将来を考えれば、離婚が最善のはずだ。俺のスタンスには、依然として変わりはない。――それなのに)
あんな行動を取られ続ければ、こちらの理性が崩壊しかねない。そう考え、匠はかすかに顔を歪める。
いくら栞が夫婦という形にこだわっても、義務感で一緒にいるのなら、その関係は既に破綻している。気持ちが伴わない状況で身体を差し出されるのは、まったく本意ではなかった。
(……こんなふうに考える俺は、贅沢なのかな)
身体だけ手に入れて満足できる男なら、いっそ幸せだったのだろうか。
そう考え、苦く笑った匠は手に持ったシャワーで頭からお湯をかぶる。そして滝のように降り注ぐ湯の中で目を閉じ、胸にこみ上げたやるせなさをじっと押し殺した。