書籍詳細
堅物夫が私(妻)と浮気しています!?
あらすじ
夫の不倫相手(謎の美女)は変装した私!? マーマレード文庫創刊4周年SS特典付き!
芽衣子は13歳年上の旦那様・尊が大好き。だけど彼が「離婚したい」と友人に相談しているのを聞いてしまった!芽衣子は尊の心を惹きつけようと、大人な美女に変装して接近。思惑通り甘い一夜を過ごすも、尊は美女=芽衣子と気づいていないようで…?それって浮気ってこと!?と悩むが、尊は独占欲を露わにし、芽衣子への想定外の溺愛に突入して…!
キャラクター紹介
小野寺芽衣子(おのでらめいこ)
楽天家でポジティブな大学4年生。旦那様が大好きな結婚半年の新妻。
小野寺尊(おのでらたける)
芽衣子とは13歳差の旦那様。顔は怖いが性格はいたって真面目。
試し読み
(た、た、た、たすけて~!)
バーの入り口手前で、いきなり芽衣子は見知らぬ男に行く手を阻まれていた。
「君、すごくきれいだね。よかったら俺に一杯おごらせてくれないか」
年の頃は三十代半ばくらいだろうか。仕立てのいいスーツに身を包んだ男が、すれ
違いざまいきなり声をかけてきて、バーヘの入り口をふさいでしまったのである。
予定外で、まさかの展開だ。
「えっ……、いや、その……」
夫と待ち合わせをしていると言えばよかったのだが、いきなりこの姿を見せて、尊
を驚かせたかった芽衣子は、その発想が完全に頭から抜けていた。
バーの中に入りたいのに、いきなりの立ち往生だ。
男の前で縮こまりながら、あーとかうーとか情けなくうなり声をあげることしかで
きない。
そんな芽衣子を見て脈があると思ったのか、男は軽薄な笑いを浮かべてさらに体を
近づけてきた。
「あ、もしかしたら俺が怪しいって思ってる? 大丈夫、俺ね、大手広告代理店の人
間だから。ほら名刺。ね? 今日はさ、この近くでCMの撮影してたんだよ」
「は、はあ……」
あまりテレビを見ない芽衣子は、まった<興味がない話を一方的に聞かされてポカ
ンだが、男はさらに言葉を続ける。
「っていうか、よかったらスターに会わせてあげようか。きみみたいなきれいな子な
ら絶対に喜ばれるよ。一緒に写真だって撮れるかも。友達に自慢できるって。こっち
おいでよ」
そしていきなり手首のあたりをつかまれ、なんとグイツと力任せに引っ張られてし
まった。
体が近づき、強いアルコール臭にぎょっとして身がすくむ。どうやらこの男、かな
り飲んでいるようだ。
これ以上酔っ払いに付き合っている暇はなかった。
「やっ、やめてくださいっ……」
芽衣子はその腕を強く振り払うと、男の横を通り過ぎるようにしてバーの中に入る。
こうなったら尊の元に逃げるしかない。
(尊さんどこー!?)
うろたえながらあたりをきょろきょろと見回すと、バーの一番奥、壁一面に夜景が
見えるガラス窓の前に、見慣れたシルエットを発見した。
こちらには気がついていないようだが、ひとりでお酒を飲んでいる。
(尊さんだ……!)
高層からの夜景を楽しんでもらうためだろう、店内の照明はぎりぎりまで絞られて
いて顔の表情まで見えないが、大好きな彼の姿を間違えるはずがない。
芽衣子は急いで彼の元へと歩いていくが、また背後から腕をつかまれてしまった。
「ちょっと待ってよ、そんな逃げなくてもいいでしょ。男に恥をかかせるもんじゃな
いよ?」
口調は冗談めかしているが、しつこすぎる。
尊以外の男に触れられて、全身が粟立った。体が恐怖で震える。膝がガクガクとゆ
れて、足元から崩れ落ちそうな感覚に陥る。
(なんなの、もうっ……!)
芽衣子は愛する夫に会いたいだけだったのに、なぜこんなことになってしまったの
だろう。
「やっ……」
カの限りやめてと叫ぼうとした次の瞬間、
「ずいぶんと酔っているようですね」
少し強張った男の声が頭上から聞こえてきて、ハッとした。
背の高い男性が芽衣子から男を引きはがすように間に入り、同時に芽衣子を背後に
かばう。
「あっ……」
それは少し離れた席に座っていたはずの尊だった。
こちらに気づいて助けにきてくれたらしい。夫の背中に守られて芽衣子の心はパッ
と明るくなった。
「あっ、小野寺さん……?」
どうやらナンパ男は尊の知り合いらしい。もしかしたら今回の仕事相手なのかもしれない。
尊を見て明らかに『しまった』と顔に書いてある。
「貴方の紳士的でない振る舞いについて、言いたいことは山ほどあります。ですがそ
れを説明しなくてもわかりますね?」
尊は圧倒的に高い位置から、眼鏡の奥の切れ長の目を軽く細めて男を見下ろした。
「部屋に戻って休まれたほうがいい」
硬直するナンパ男に向かって尊はきっぱりとそう言い切ると、カウンターの中から
出てきた若いバーテンダーに男を預ける。
それから間もなくしてやってきたホテルマンたちに、酔っ払いは両脇から抱えられ
て、バーの外へと連れ出されてしまった。
(助かった……)
バーから嵐が去り、静けさが戻ってくる。
芽衣子はほうっと息を吐き、胸の真ん中に手のひらを乗せた。
尊をちらりと見るとホテルマンと話をしている。芽衣子に代わって状況の説明をし
てくれているのだろう。
本当は尊に大人っぽく変身した自分を見てもらい、なおかつ誘惑するはずだったの
だが、すっかり予定が狂ってしまった。
(でも尊さんにはちゃんと会えたわけだし……まぁ、いいのかな)
いきなりとびっきりのおしゃれをしてやってきた芽衣子を見て、彼はなんと言うだ
ろうか。
『今日の君はとてもきれいだ』
なんて褒めてくれるだろうか。
酔っ払いのことはもうすっかり忘れて、ドキドキワクワクしながら尊を見上げると、
「待ち合わせの相手は? 友達と一緒だろう?」
と言いながら、芽衣子の元にやってきた。
「え?」
意味がわからず首をかしげたが、尊はさらに言葉を続ける。
こちらを見下ろす尊の目は、いつもの芽衣子を見つめる眼差しとは違っていた。
まっすぐに芽衣子を見てくれない。どこか戸惑っているような他人行儀さを感じる。
(えっ、どういうこと……?)
芽衣子は脳みそをフル回転して、思考し、そしてハッとした。
(もしかして尊さん、私だって気づいてない、の……?)
だが考えてみれば、それはありうることだった。
朔太郎もその可能性を示唆していたし、芽衣子自身だって、鏡を見たときは自分の
顔だと認識できなかったのだ。しかも今は普段着ないような服を着ているし、なによ
りバーは暗い。視界が悪すぎる。
ここにいるはずのない芽衣子が、姿かたちを変えて立っているのだから、尊にわか
るはずがない。
(そっか……尊さん、気づいてないんだ!)
その瞬間なぜだろう。
全身を包んでいた妙な緊張感が、ゆっくりとほどけていくのを芽衣子は感じていた。
「あの」
芽衣子は何度か唇を震わせたあと、こくりとうなずく。
「約束はしていませんでした。だけど……」
己の口からするりと出た言葉に、芽衣子は衝撃を受けていた。
(な、な、なにを言っているの、私……!)
夫の前でなぜ他人のふりをしているのだ。我ながら意味がわからない。
「でも、よかったら一緒に飲んでくれませんか? 私、あなたと一緒にいたいんです
……!」
そして芽衣子の口はペラペラと、勝手に動いて止まらなくなってしまった。
(こうなったら破れかぶれだ……!)
芽衣子は頬にかかる黒髪を耳の後ろにかけながら、上目遣いで尊を見上げる。
「お願い……します」
メタルフレームの奥の尊の瞳と視線がぶつかったその瞬間、彼の漆黒の目が射貫く
ような光を帯びたのを、芽衣子は見逃さなかった。
(尊さん……)
首の後ろがぞくりと震える。半年もの間、自分に見向きもしなかった夫が、今この
瞬間は芽衣子を『女」として見ている。
彼が見ているのは普段の芽衣子ではなく、作られた美女のはずなのに――。
そう、わかっていても、止められなかった。
彼が欲しい。彼に自分を預けてしまいたい。
それは芽衣子にとって抗いがたい誘惑だったのだ。
先に誘ったのはどっちだったか――。
『このあとの予定は?』
『あなたの部屋に行きたい。最初からそのつもりだったの」
薄暗いカウンターで、チャイナブルーを一杯だけ飲んだあと、尊の問いに芽衣子は
そう答えていた。
小心者のくせして、このときは信じられないくらい勇気が出た。きっと夢見心地だ
ったのだろう。
隣でギムレットを飲んでいた尊はほんの数秒考え込んだあと、芽衣子の腰を抱くよ
うに引き寄せ、バーを出た。
ウエストに感じる尊の手のひらを燃えるように熱く感じながら、芽衣子はエレベー
ターに乗り込む。
彼の部屋には一瞬で着いてしまった。
部屋の灯りはフットライトだけ。そして薄暗闇の中、芽衣子は長い時間をかけて尊
と抱き合っていた。
(なんだか夢みたい……でも、夢なら覚めないで)
尊はこんなときでも落ち着いていて、大人だった。
体全体に尊の熱を感じる。このまま溶け合ってしまえたらどれだけ幸せだろう。
尊は芽衣子のまろやかな肩を撫でたあと、ゆっくりと頬を傾けてまず額に口づけ、
それから滑るように唇を移動させて、芽衣子の唇を味わっていく。
「あ……」
キスに芽衣子が体を震わせると、尊は頬に添えた手でなだめるように、優しく芽衣
子の肌の上を撫でる。
頭の上をポンポンされるのとは違う触れ合いに、芽衣子はすっかりまいっていた。
(結婚式以来のキスだ……)
だがこれはあのときのキスとは違う。
触れるだけでは終わらなかった。
舌が芽衣子の唇を割り、口の中に滑り込む。緊張して固まっている芽衣子の舌にそ
っと触れて、それから昧わうように絡んでいく。
彼がくれた大人の口づけは、ギムレットのライムジュースの味がした。
(だめ、溶けちゃいそう……)
ぬるぬると二匹の蛇のように絡み合う舌の感触に、背筋がぞくぞくと震える。尊の
手が腰を支えてくれていたが、自分の足で立っているのがやっとだった。
情欲がこもった好きな人とのキスは、こんなに気持ちがいいものなのだろうか。
次第に深くなる尊の口づけに芽衣子は眩量を覚えながら、尊の上着のボタンに触れ
る。
「これ、脱いで……ください」
三つ揃いのスーツをきっちりと着こなした尊は、今晩もうっとりするほど素敵だっ
たが、今はまるで硬い鎧で身を守られているような気がする。
彼にもっと近づきたい。
上着のボタンに指を這わせると、彼は少しかすれた声でささやいた。
「この先に進むと·……もう後戻りできなくなる」
戻れなくなったら、なんだと言うのだ。
芽衣子は無言で首を振った。
あと戻りなんかしてほしくない。
このまま自分を知らない場所へ連れていってほしい。
彼は自分をどこの誰とも知らない、バーで会っただけの女だと思っているかもしれ
ないが、芽衣子は違う。
来年の春に捨てられる予定かもしれないが、今はまだ尊の妻だ。
そして彼に体ごと愛されたいと願っている、ごく普通の平凡な女なのだ。
愛されたい。抱かれたい。彼のものになりたい。
たとえこれが最後だとしても、ああすればよかったと後悔はしたくない。
一生の思い出になるように、尊自身を刻みつけてほしかった。
「我慢なんかしないで……抱いて。私のこと、めちゃくちゃにして……!」
芽衣子は尊の胸元を両手でつかみ力強く引き寄せると、かみつくように唇を押し当
てていた――。