書籍詳細
エリート外交官の狡猾な求婚~仮面夫婦のはずが、予想外の激情で堕とされました~
あらすじ
「俺の妻はお前しかいない」一途なキャリア官僚に契約結婚を迫られて…!?
学生時代の先輩で、エリート官僚として勤める薫と再会を果たした茉莉。ある事情から、恋愛も結婚もしないと決めていた茉莉に、彼は契約結婚を持ちかけてくる。悩みながらも茉莉が了承すると…薫は激甘な旦那様に豹変!「お前をやっと手に入れた」――夫婦の営みもない、形だけの結婚生活のはずが、薫の執着的な求愛は日増しに濃密になっていき…!?
キャラクター紹介
幡名茉莉(はたなまつり)
両親の離婚が原因で大学を中退し、現在は習字教室の講師と書道の仕事をしている。努力家。
葉山崎 薫(はやまざき かおる)
外務省で働くエリート官僚。語学が堪能。大学時代から茉莉を支えてくれている。
試し読み
夕食を食べに行こうという話になって、私たちは家を出た。
この習字教室は駅まで遠いのが難点だが、駅にさえ着いてしまえばアクセスがよく便利だ。それに、薫さんとのんびり歩く道のりは苦ではなかった。
「何が食べたい? 結婚の記念に高級なものでも食べに行くか? あるいは、昔ふたりで行った店を久しぶりに辿ってみるのもいいかもしれない」
「それ、いいですね! じゃあ、薫さんが海外赴任する直前に食べた窯焼きピッツァのお店とかどうです?」
「そうだな。あれからもう六年か。店、まだやってるかな?」
「なんて名前のお店でしたっけ?」
地下鉄のホームで電車を待ちながら、ふたりで携帯端末を覗き込み店を検索する。
「これだよな? よかった、まだあるみたいだ」
グルメサイトで発見し、私たちは胸を撫で下ろした。私は端末を借りてメニューに指を滑らせる。
「クアトロフォルマッジもあるみたい。よかったー」
「なんだっけそれ」
「蜂蜜をかけるピッツァですよ。忘れちゃったんですか?」
「ああ、チーズたっぷりのヤツ。覚えてる覚えてる」
思い出話に花を咲かせながら、私たちはやってきた各駅停車に乗り込む。
「車で来なかったのは、飲む気満々だったからですね?」
「ピッツァにはワインがいいよなー」
「酔い潰れないでくださいよ」
「潰れたら茉莉の家に泊めてもらう」
「薫さんの自宅の方が近いですよ。まぁ、一応布団はふたつありますんで、うちでもかまいませんけど――」
その瞬間、薫さんの手が私の手首を摑む。ハッとして顔を上げると、彼は引きつった笑みを浮かべながら私を覗き込んでいた。
「なんでふたつ?」
「なんでって……セット商品が安かったので。母が泊まりに来ることもあるかもしれませんし、予備はあった方がいいでしょう?」
「ああ、まぁ……」
彼が私から手を解き、ごまかすように後頭部をかいた。
「男と暮らしてたのかと思った」
「だったらむしろ、ひとつでいいんじゃありませんか?」
なおのこと彼がぎょっとする。まるで実体験のように聞こえてしまっただろうか。
「……暮らしてませんよ?」
「……知ってる」
彼は苦虫をかみ潰したような顔で言う。
「俺も布団はひとつでいい」
「ふたつあるのでご安心を。っていうか、ちゃんと自宅に帰ってください」
薫さんは網棚に手を引っかけ「また流された」なんてため息交じりに呟いた。さっきから何のことを言っているのだろう。
「薫さん? なんかいじけてます?」
「いや、なんでもない……そういえば、お前の父親に会ったぞ。挨拶してきた」
「えっ……!」
大事なことをさもついでのように言うものだから、私は驚いて彼を覗き込んだ。
「あの、父はなんて……?」
「結婚の承諾はしてもらえた、と思う。あんまりいい顔はしていなかったが」
「そう……ですか」
結婚を祝福してくれなかったのはなぜだろう。薫さんのことが気に食わないのか、あるいは、私の結婚なんてどうでもいいと考えているのか。
「当然の反応じゃないか? 大事に育てた娘を男に奪われるんだから」
「そういうのなら、いいんですけど」
興味を持たれていないのだとしたら、少し悲しい。
電車が大きな駅に到着すると、ホームにたくさんの乗客が並んでいた。目的の駅まであとひとつだけれど、ここから先は混みそうだ。
混雑に備えようと身を竦ませると、突然薫さんが私の腰に手を回し引き寄せた。
「薫さん?」
「混みそうだろ? まぁ、練習だと思え」
「練習って――ああ」
夫婦の振りをする練習のことか。
ドアが開きたくさんの乗客が降りるとともに、それ以上の人数が乗り込んできて、車内はすし詰め状態になった。私は乗客に潰されることはなかったものの、代わりに薫さんにぎゅうぎゅうに抱き竦められた。
割と遠慮のない抱擁で、彼の胸に顔が埋まる。これも夫婦の練習だとわかっていても、ドキドキと鼓動が高鳴って止まらない。
他に摑まるようなところもなかったし、仕方がないとあきらめて彼の背中に腕を回した。
逞しくて、大きな体だなぁ……。
ずっとこうしていたいと思ってしまう私は矛盾している。結婚をしないと決め、恋愛から逃げて生きてきたのに、彼に触れたいと思ってしまうなんて反則だ。
彼のそばにいると、決意が吹き飛びそうになる。
現に流されるように契約結婚を承諾し、婚姻届にサインをしてしまった。
そのことに後悔はないけれど、これ以上揺らいではダメだと自分に言い聞かせる。
彼への想いが膨らんでいくのを予感しながら、必死に理性を奮い立たせ自分を律するのだった。
おいしいピッツァを思う存分堪能し、ワインも飲んでほろ酔いだ。
お腹を満たし店を出た私たちは、駅へ向かう。時刻はもう二十一時。
「なんだか思い出しますね、薫さんが海外へ行く前のこと」
あの日も雑談を交わしながら歩いていたら、あっという間に地下鉄の入口に辿り着いてしまった。
彼が「懐かしいな」と漏らしながら、私の肩を抱いて歩く。
土曜日の夜は人が多いから、ぶつからないように守ってくれているのだろう。あるいは練習の続きだろうか?
「そういやあそこの書店、行方不明だった茉莉を見つけた店だよな」
「ああ!」
私と薫さんが偶然にも再会を果たした場所。吸い寄せられるかのようにふらふらと足を向け、入口のチラシを確認する。
「今は何のフェアをやっているんだろうな」
「ええと……これは海外の絵本作家ですね」
「残念、ミステリーではなかったか」
しかし、この書店は広いだけあって、フェアでなくてもミステリー小説が豊富に揃っている。
「最近、本買ってます?」
「いや、忙しくて全然」
「せっかくなので覗いてみませんか?」
書店に足を踏み入れた私たちは、フロアの中央にあるエスカレーターを昇る。あの頃と変わらず、ミステリーコーナーは三階にあるようだ。
「古美門ジョージの新シリーズが出たんですよ。外交官宗方修逸シリーズ」
「今度はどんなトラブルに巻き込まれるんだ?」
「アメリカでCIAに追われながらテロの犯人を追いかけて――」
「もはや外交官なのか? それ」
ふたり揃ってクスクス笑う。すごく人気のシリーズで映画化もされているのだけれど、実際の外交官というものを知っているだけに、現実と比較してしまう。
「実際はもっと地味なのに」
「……まぁ、そうとも言いきれないが」
「え?」
外交官ご本人からそんな意見が出たものだから、私は驚いて目を見張った。
「それなりに国家機密も握るし、危ない橋を渡ることもある。公には言えないようなやり方で情報を収集することもあるし――」
「そ、そうなんですか……?」
そんな話は父からも聞いたことがない。そりゃあ、危ない橋を渡っているだなんて、事実だったとしても子どもに言うわけがないか。
薫さんはこれまでどんな仕事をしてきたのだろう。
まさか、外交官宗方修逸のように、テロの犯人と駆け引きをしたり、情報を得るために敵地へ侵入したり、それこそブロンド美女のハニートラップに引っかかったりしているの!?
――って、さすがにそれはないか。最後のが現実だとしたら、なんだか無性に腹が立つ。
「気になる?」
「……別に。でも危ないことはしないでくださいね。一応嫁が家で待ってますんで」
ムッと頰を膨らませると、彼は面食らったような顔をした。おもむろに私の背後に回り込み、なぜかうしろからギュッと抱きしめてくる。
「ひゃっ……な、なんなんですか!」
「茉莉がいじけたから」
「い、いじけてませんよ!」
ブロンド美女のハニートラップに引っかかる薫さんを想像して腹が立っただなんて、とても正直には言えない……。
「それに、思いのほか『嫁』って響きがかわいく感じられてキュンときた」
さらに愛でるかのように擦り寄られてまいってしまう。
「や、ちょっ……こ、こんなところでふざけないでくださいよ……!」
じたばたと身をよじって、悪ふざけする薫さんを振りほどいた。
「もう、いっつもそうやってごまかして……私は本当に心配しているんですからね」
平積みされた本の中から話に上がった一冊を手に取って、ペラペラとめくる。
CIAとの追いかけっこはないにしても、危険に巻き込まれることなら現実に充分にあり得る。
「……話しましたっけ。父が海外赴任したときの話。紛争が起きて――」
父の赴任していた国で宗教絡みのクーデターが発生し、治安も悪化し酷い状態に。
命の危険が迫り在留邦人に帰国命令が出た。邦人を大使館で保護し、飛行機に乗せて日本へ送り返す、それが父の仕事だったのだが――。
「――父ったら、最後のひとりを日本に送るまで残るのが外交官の仕事だからって、なかなか帰ってきてくれなくて」
パンと本を閉じる。私たち家族は早く帰ってきてほしいと祈るような日々を過ごしていた。死んでしまったらどうしようって心配で仕方がなかった。
「お父さんは正しい。俺たちの仕事は現地の邦人の保護だ」
「でも、私たちはすぐに帰ってきてほしかった……」
日本で家族が待っているというのに、命の危険を顧みない父が信じられなかった。
すごくもどかしくて、悲しくて、まるで捨てられたような気分になった。
「それでも、茉莉は外交官を目指していたんだよな。どうしてだ?」
「それは……」
父の背中を見て、価値のある仕事だと感じたからだ。不満を感じながらも、父が正しいことはわかっていた。父のことが誇らしかった。
……今となっては、もう何が正しいのかすら、わからなくなってしまったけれど。
「薫さんは危険なことしないでくださいね。何があってもしぶとく生き残って――」
そう厳しく忠告しようとしたのに、顔を上げると彼は穏やかな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「本気で心配してくれてるんだ」
「当然じゃありませんか! 一応妻になるんですよ、いきなり未亡人にさせるつもりですか」
すると、彼が私の肩に手を回し、そのまま力強く引き寄せた。
さっきから薫さんたら人前でじゃれついてきて、何を考えているの?
「っ、今度のハグはなんなんですか!?」
「嬉しくて。茉莉と結婚してよかった」
「……っ」
思わず言葉に詰まる。そういうことを真顔で言わないでほしい。私たちは利害重視の契約結婚なのだから、甘い台詞は禁物だ。
じたばたともがくが、今度のハグは先ほどよりも強力で、絡みついた腕が全然離れてくれなかった。
「茉莉を悲しませたりしない。約束する」
目を閉じたまま低い声で囁かれ、ふざけているわけではなく真剣なのだと悟る。
「……そうしてください」
愛だとか、夫だとか、そういう小難しいことを抜きにして、彼が死ぬなんて絶対に嫌だ。
しばらくすると彼は体を離し、私の手の中にある本を持ち上げた。
「たまには読んでみるかな。他にお薦めは?」
「ええと……あ、コレなんかいかがです!? 新人作家なんですけど、トリックに不自然さがないというか、とにかくうまく騙されたなぁという感じで――」
ふたりの間に漂っていた深刻なムードを吹き飛ばすかのようにまくし立てる。
彼は私が薦める本を三冊購入して店を出た。
私を家まで送り届けてくれた薫さん。時刻はもう二十三時に近くて、一応泊まっていくかと尋ねてみたけれど、彼は苦笑しながら今日はやめておくと答えた。
「もう少しそばにいたい気持ちはあるが、焦らなくてもすぐに一緒に暮らせるようになるから」
彼は玄関の鍵を開ける私をじっと見守っている。今日は時間が遅いから、私が家に入って施錠するまで見届けてくれるそうだ。
「今日はありがとうございました。婚姻届、お願いしますね」
「もちろん。自宅を片付けて茉莉の部屋を準備しておく」
もうしばらくしたら薫さんの家に引っ越す予定だ。彼の勤める霞が関から数駅のところにある立派な高層マンション。帰国に合わせて購入した新築物件らしい。
まだ一度も行ったことはないが、夜景の写真を見せてもらったらすごく美しくて、それだけでその部屋の格がわかった気がした。
「なぁ、茉莉」
神妙な顔で尋ねてきた彼に、私はきょとんと首を傾げる。
「スキンシップに慣れてほしいって言ったよな」
彼はこちらに手を伸ばし、指先で私の頰をなぞる。思わずぴくんと体が揺れた。
夫婦の練習をしていたときとはまた違った空気を感じ取り、鼓動が少しずつ速くなっていく。
「どこまで許してくれる?」
彼が一歩を踏み出して、私との距離を縮める。げんこつふたつ分くらいの間隔を空けて私たちは向き合った。
なんだか落ち着かなくて、私は自分の肩を抱いて小さくなる。
「どこまでって、どういうことです?」
声が裏返ってしまいそうだ。緊張からぎゅっと唇を引き結ぶと、彼の顔がゆっくりと近づいてきて、私の左頰に触れた。
頰と頰をくっつける――これは挨拶の一種かな? チークキスってヤツ?
やがて彼は顔の角度を変え、頰にそっと口づけした。これも欧米ではよくある挨拶なので、いちいち大騒ぎするようなものではない。
が、私の心臓は盛大に高鳴っていた。
「頰はいいんだ。じゃあ、唇は?」
わずかに顔が離れ、彼の整った顔が正面にくる。その涼しげな眼差しは微塵も動じていないように見えた。
それは慣れているから? それとも、何も感じていないから?
彼は指先で私の顎を押し上げ、ゆっくりと唇に唇を近づけていく。
――本当にキスするつもり?
唇へキスをする挨拶も、欧米では確かに存在していて、軽く口の先を触れ合わせる程度なら騒ぎ立てるほどのことではないのかもしれない。でも――。
「唇は……ダメ」
彼の胸に手を突っ張ると、彼はごくりと喉を上下し顔をしかめた。
「俺のことが生理的に受け入れられない? それともキスという行為自体が嫌?」
押し殺した声で尋ねてきた彼に、違うと首を横に振る。
「そういうことじゃなくて」
彼のことが嫌だとか、キスが嫌いとか、そういうことではない。
キスは好きな人とするもの。だからキスをしたら――それが心地いいと感じてしまったら、彼のことが好きだと認めることになる。
「恋愛が……ダメなんです」
キスをしたが最後、きっと恋に落ちてしまう、そんな予感がする。
私の脆い理性なんて、口づけに溶かされ消えてしまうだろう。
「それ以上は、やめてください」
顔を伏せると、彼は私から手を離し距離を取った。
「わかった」
短くそう答え、一歩、また一歩と私から遠ざかる。
「怖がらせて悪かった。もうしないからそんな顔はするな」
指摘されて、初めて自分が酷い顔をしていることに気づく。
頰は熱く火照り、口は真一文字、目を合わせることもできない。
彼を変に意識して妙な顔になってしまっているのだが、そんなことを知らない彼は私が怯えていると思ったらしい。
「だいじょうぶ、です」
ゆっくりと顔を持ち上げると、少し離れたところに困った顔で微笑んでいる彼がいて、いたたまれない気持ちになった。
「おやすみ、茉莉。今夜はゆっくり休んで」
彼は早く行きなさいとばかりに、顎をくいっと反らす。
私は玄関に入ると、「おやすみなさい」と小さく手を振って、ドアを閉めた。
鍵をかけ、いつの間にか浅くなっていた呼吸を整える。
もしもあのままキスしていたら、どんな感触がしたのだろう。気持ちがいいと感じただろうか?
……想像しちゃうとか。私、どうかしてる。
ぶんぶんと首を横に振って動揺する気持ちを追い出す。
恋愛はしない。キスなんてほしくない。言い聞かせるように頭の中で繰り返した。