書籍詳細
冷徹支配人は孤独なシンデレラへの迸る激愛欲を我慢しない
あらすじ
「君を独りにしない」クールなホテル御曹司の溺甘豹変!?
ホテルで働く遊は、体調を崩したところを容姿端麗な男性に助けられる。後日再会した彼は、新任のホテル支配人・正臣で!?クールな彼が垣間見せる優しさに触れ、遊は恋心を募らせるも、感情表現が下手な自分に自信が持てない。ところがある一夜をきっかけに、二人の距離は急接近!正臣の滾る情熱を教えられ、遊も抑えきれぬ想いを溢してしまい…!?
キャラクター紹介
長沢遊(ながさわゆう)
『フルールロイヤルホテル』でハウスキーパーとして働いている。感情を表に出すのが苦手。
氷上正臣(ひかみまさおみ)
『フルールロイヤルホテル』の新任支配人。冷たい印象で仕事に厳しいが、人を見定める能力に長けている。
試し読み
「悪い、寝ていた。わざわざ……」
ゆっくりと開いた扉から顔を出した氷上さんは私の顔を見た瞬間に珍しく目を丸くした。仕事終わりで帰ってきた姿のまま寝込んでいたのか、よれたワイシャツ姿の氷上さんの色気に私も思わず言葉を失ってしまった。
彼は頭が痛むのかこめかみを押さえながら熱い吐息を漏らした。
「なぜ君が……いや、涼宮になにか言われたか?」
「涼宮さんと食事をしていて、その……」
「アイツが君におかしなことを吹き込んだということは分かった」
額に汗をかいている彼の姿は昼に見たときよりも体調が酷く悪化しているのが分かった。寝ていたと言っていたし、今こうして立っているだけでも辛いはずだ。
「あの、大丈夫ですか? これ、氷上さんが涼宮さんに買ってきてほしいと頼んだものなんですが……」
「……悪いな、あと君はもう帰ってくれ」
「いえ、あの……」
正直今の彼を一人にする方が心配だ。氷上さんのことだから明日熱が下がっていなくても仕事場にくるだろう。その繰り返しでは彼はいつか必ず体を壊してしまう。
氷上さんに直接意見することは今でも怖い。だけど彼をこのままにしておくわけにはいかない。これは仕事の延長だと自分に言い聞かせて口を開いた。
「少しだけ部屋に入れてもらってもいいですか?」
「……は?」
「氷上さんは寝ていてください。そのあいだに私が看病しますので」
そう言って部屋のなかに入ろうとする私を「待て」と体で遮る彼。
「余計なことはしなくていい。どうせ君は涼宮に無理やり役目を押し付けられてここに来たんだろう」
「ですが今の氷上さんを見ていて放っておくわけには……」
「君にそこまでしてもらう義理はないと言っている」
そうピシャリと突き放した彼は私からレジ袋を受け取ろうと身を乗り出す。その瞬間に力が抜けたのか、彼が私の方へと倒れこんできた。
「ひ、氷上さん? 大丈夫ですか?」
触れ合った肌から彼の熱い体温が伝わってくる。肩に苦しそうな彼の息が当たって、なんとか力を振り絞りその体を支える。
(し、失礼します……!)
心のなかで氷上さんに謝り、私は彼の体を支えた状態で部屋のなかに押し入った。間接照明だけが点けられている部屋のなかは思っていたよりもものが溢れていた。一応ホテルの客室でもあるため、定期的にハウスキーパーによる清掃が入っているはずだが、それでも綺麗だとは言えない。
氷上さんをベッドに横にさせると持ち込んだレジ袋の中身を漁る。するとその背後で苦しそうな声が聞こえてくる。
「君がここまで強引な人間だとは思っていなかった……」
彼の言葉に「私もです」と心のなかで吐露する。今まで人と関わることを避けて、自分の気持ちさえ人に伝えることを苦手に思っていた私だが、自分でも驚くくらい意志を強く持っていた。熱で苦しんでいる氷上さんを放っておけないのはもちろんだけど、それ以上に氷上さんに対して個人的な思いが溢れ出して私を駆り立てる。
きっと私と氷上さんは似ている。そんなことを考えてしまうのは烏滸がましいかもしれない。だけど彼を見ているとどうにかしなければという気持ちにさせられる。お互いに厚い殻を被った人間で、他人と距離を置いて生きてきた。殻に包まれた柔らかい自分を知ってもらいたくて、だけど本当の自分を知られることを恐れていた。
私は氷上さんのことを知りたい。彼の奥に隠された、その一面に触れてみたい。そう思ったとき、私から歩み寄ることでしか彼を知ることができないのだと分かった。私が一歩を踏み出すことによって彼の内面を知ることができるのだとすれば、それは自分から勇気を出す動機になるはずだ。
とにかく今は氷上さんの看病が第一優先だ。私は体温を測るためにベッドの周りを見渡すが体温計が見当たらない。
「もしかして熱測ってないですか?」
「……」
都合の悪いことを無視したいのか、急に黙り込んでしまった氷上さん。涼宮さんが彼を頑固と評していたことがなんとなく分かった。もしものことを考えて薬局にも寄って購入してきた体温計を箱から取り出し、寝ている彼に手渡した。
「これ、使ってください」
一瞬戸惑いの表情を浮かべていた氷上さんだったが、避けられないと思ったのか素直に体温を測り始めた。しばらくして彼に話しかけると熱が測れたのか、体温計を私に手渡してくる。
「悪い、視界がぼやけていて体温が確認できない。代わりに見てもらってもいいか?」
私は彼から体温計を受け取ると恐る恐る確認する。すると表示されていた数字に思わず固まった。
「……どうした」
「いえ……」
三十八度を超える数値に言葉を失う。高いと思っていたけれど、ここまでとは。というかここまでくると病院に連れて行った方がいいような気がする。この事実をどう彼に伝えればいいのか。
「氷上さん、明日仕事休めませんか? これ以上は体を壊してしまいます」
「……よくない結果だったということは分かった。ただ仕事を休むことができないことも君は知っているだろう」
「ですが……」
「それに、今は俺よりも君自身のことを心配するべきだろう」
「え?」
彼は冷却シートを彼の額に貼ろうとする私の手を払い除ける。一瞬触れただけでも彼の肌は燃えるように熱かった。
私の心配? と疑問に思っていると彼の熱で潤んだ目と視線が絡み合った。
「君は付き合ってもいない男の部屋に簡単に入るような人なのか?」
「……」
「君には付き合っている男性がいるだろう」
彼の言葉に思考の回転が遅れる。なにかとんでもない誤解を彼はしていると思う。私に付き合っている男性はいない。
「だ、誰ですか……それ……」
「……あのバーテンダーは君が交際している男性じゃないのか?」
「バーテンダー……」
そう言われて思いつくのは睦月の顔だ。しかし彼の目の前で睦月と話したのはほんの数回、彼はそのときのことが印象に残っていたのだろう。だから彼は私が部屋に入ることを拒んでいたのか。
だが、その誤解はなんとしても解かなければならない。
「む、睦月とはそういう関係じゃなくてっ……従弟なんです!」
「……従弟?」
「は、はい。なのでほかの人よりかは話しやすいと言いますか」
焦りつつもそう訴えると彼は天井を見つめたまましばらく動かなくなってしまった。「氷上さん?」と声をかけると彼はゆっくりと瞼を閉じ、そして深く息を吐き出した。
「……君は、表情に出ないが声には感情が出すぎるやつだな」
「そ、そうでしょうか?」
「気付いていないのか」
そんなに慌てていることが彼に伝わってしまっていたのだろうか。ハッと我に返ると私は冷却シートのフィルムを剝がし、彼の額に貼ろうと試みる。
「だったらなおさらここを出た方がいい」
「え?」
乾いた音が部屋に鳴る。それは冷却シートを持っていた私の腕を彼が掴んだ音だった。彼の方から触れられたのは初めてで、突然の出来事に心臓が飛び跳ねる。しかし私を貫いたのは氷上さんの鋭い視線だった。
「あの、どうかされましたか?」
「……いや、貸してくれ。流石に自分でやる。あと飲み物ももらっていいか?」
彼は掴んでいた私の腕を放すとゆっくり体を起こし、受け取った冷却シートを自分で額に貼りつける。その様子を見守ったあと、私はレジ袋から取り出したスポーツドリンクを手渡した。彼はそれに口を付けるといくらか体調が落ち着いてきたのか、私をじっと凝視した。
「君も災難だな、涼宮といたばかりにこんなことに巻き込まれて」
「そんなこと……それに私も……」
氷上さんのことを心配していたので、と最後までは伝えられず心のなかに留めてしまった。しかし彼の私を見る目は私が彼の前で涙したあのときと同じように隠した気持ちすらも見透かされそうで、そんな視線から外れるように私は彼に背を向けた。
「食欲はありますか? なにか食べられそうなもの……」
「いや、今はいい。悪いが冷蔵庫に入れておいてもらえるか」
「分かりました」
私はベッドの傍を離れると部屋のなかにある、キッチンへと向かった。氷上さんが借りている部屋はホテルの客室のなかでもグレードが高い部屋で、ある程度の生活用品が揃っている。使われた様子のないキッチンを眺めたあと、冷蔵庫を開いた私はその中身に絶句する。冷蔵庫のなかにはミネラルウォーターが入ったペットボトルが数本と、栄養ドリンクの瓶が散乱している。明らかにお腹に入れられる固体の食べ物は見当たらない。普段からこうなのか、それとも体が辛くて買い物に行けなかったのか。ただ、涼宮さんに助けを求めた理由は理解できた。
「あの、私明日食べられそうなものを追加で……」
買ってきましょうか? と振り向いた瞬間、先ほどまでベッドにあった彼の体が目の前に迫っていることに気付き、動きを止める。冷蔵庫と氷上さんの体に挟まれているこの状況を理解するのに時間がかかり、一時的に思考もショートしてしまった。
「冷蔵庫のなかを見たらまた君が心配しそうだなと思ったが、遅かったか」
「あ、あの……」
「安心しろ、単純に食欲がなかっただけだ」
それだけを言いにベッドから出てきたのか。彼は私越しに冷蔵庫の扉を閉めると「大丈夫か」と動きを止めていた私の顔を覗き込んだ。部屋に入ってからというもの、どことなく氷上さんの距離感が近くなった気がする。寝ていてくださいと押し返すと彼は素直にベッドへと戻っていった。
今になって自分が氷上さんの部屋に足を踏み入れていることを自覚する。今まで男性の部屋に足を運んだことは一度もない。睦月とだって彼を自室に招くことはあっても、彼の部屋を訪れたことはなかった。
(もしかして、なおさらここを出た方がいいって言ったのは、そういう……)
でもあの氷上さんが私に対してそんな感情を抱くだろうか。そんなことを考えることすら烏滸がましく思う。だけど彼の言う通り、ここに長居することはよくないだろう。私は冷蔵庫のなかに購入してきたものを詰め込むとキッチンを離れた。
そろそろお暇しようとリビングを覗き込むと、氷上さんがベッドに腰かけてノートパソコンを覗き込んでいる姿が目に入った。
「ひ、氷上さん、なにして……」
「明日の会議で配る資料がまだ完成していないからな。今日中に仕上げなければ」
「そういうことではなく……」
私が想像していたよりも彼の意志は強く、体を壊しているだけではその意志は覆らないらしい。ノートパソコンの画面に注がれる彼の視線は真剣そのもので、ここまで仕事のことを最優先に考えられることを尊敬しながらも彼の体が心配になる。
どうして彼はここまで自分のことを犠牲にするのだろう、私にはそれを指摘していたのに。私よりも彼の方がよっぽど自分のことを大事にしていないじゃないか。
壊れてしまったら、もう元に戻らないかもしれないのに。
「……長沢?」
「明日、一日休めませんか? 今のままじゃ……」
ベッドに近づき、彼からパソコンを遠ざけた。そんな私の言葉を最後まで聞かなくても、彼は私が言いたいことを察したのか、首を横に振った。
「君も分かっているだろう。このホテルに俺の代わりになる人間はいない。俺がここで休めば明日の会議は誰が出る? 君が代わりに出るのか?」
「っ……それは」
「……君には無理だろう」
その言葉の真意は私じゃ力不足であること、そして私の性格では人の前に立つことすら困難であることの両方を示唆しているのだろう。彼の言う通り、私では彼の代わりにはなれない。だけど涼宮さんに代わってでも彼のことを止めなければいけない使命感が私のなかに溢れる。私がこれ以上彼になにかを言ったところで氷上さんの意志は変わらないかもしれない。しつこい私のことを煩わしく思い、次第に嫌悪感を持たれることも分かっている。
それでも、氷上さんは私の言葉を理解してくれる人だと、そう信じたい。私が弱っているときに傍にいてくれた彼なら。
「ほかの人を頼れませんか?」
彼なら、きっと。
「その、私はまだ氷上さんに頼ってもらえるような人間ではないと思います。ですがいつか必ず、氷上さんを支えられるような人になりたいです」
「……」
「確かにこのホテルに氷上さんの代わりになれる人はいないと思います。それでも、ここであなたの体調が悪化したら今後も同じような状況に幾度も陥ると思います。だからここは無理をせず、誰かに託すことが最善策じゃないかと私は……」
「……このホテルの今後を見据えて、か?」
彼の言葉に静かに頷くと氷上さんは口を閉ざし、そして深く息を吐き出した。少しでも彼の心に響いただろうか。しかしそんな私の考えを打ち砕くように彼は鋭い視線を私へと向けた。
「だがこれは俺に任された重要な仕事だ。簡単に任せられることではない。君が言うように仕事を託せる相手がいたら、今こうして切羽詰まった状況にはなっていないと思うが」
「……どうしたら氷上さんに頼ってもらえますか?」
「……」
なにを考えているのか、表情だけでは汲み取れないのは私も彼も同じ。だけど出会ったときから彼には私の気持ちが見透かされているような気がする。
なにを言うのか、その言葉の続きを、彼の唇が動くのを待っていた私に氷上さんは「そうだな」と低く声を漏らした。
「君が、俺に心を開くようになったら……だろうか」
「え……」
「君が信用に値する人間かを見極めるためにも必要なことだろう」
私が氷上さんに心を開く。まだ私が部下として信用されていないから頼ることができないと彼は言っているのだろう。これは氷上さんに対してだけではなく、ほかの人に対しても重要なことだ。私が他人に心を開くことができない限り、このホテルのスタッフとして大きく成長はできない。
だけど心を開くと言っても実際にどうすればいいのだろう。彼は私が感情が表に出ないことも私の両親のことも知っている。それ以外に彼に隠していることなんて……。
(いや、一つだけ……)
私はこのホテルに対する気持ちで彼にまだ話していないことがある。そのことを話すには私の過去のことも話さなければいけない。でもそれを人に伝えるのはまだ怖い。そのことを知ってしまったら、氷上さんは私のことをどう思うだろうか。酷い人間だと思われるかもしれない。私はそれが怖くて仕方がない。
次第に息が苦しくなる。吐き出す息が浅くなり視界が霞んでくる。酸素が喉を通り抜ける音が耳に届くとそれは酷く掠れていた。体のなかで鳴っている脈を打つ心臓の音がまるで爆発を繰り返しているかのように大きくなってきた。
なにか、なにか話さなければ。そう緊迫した空気のなかで先に口火を切ったのは氷上さんの方だった。
「俺は祖母がホテルの支配人だった。だから俺も彼女の遺志を継いで支配人として責務を果たしたいと思っている」
彼の声に顔を上げると氷上さんは真剣な表情のまま話を続ける。
「俺が祖母と暮らしていたころ、彼女は支配人の座を退いていたがホテルの話は聞いていた。祖母はフルールグループの血を継いでいたが、女性という理由で役員にも昇進はできなかった。それでも当時からすれば支配人という立場は立派なものだ」
「……」
「両親が仕事で多忙だったから俺はフランスで彼女と暮らし、彼女が働いていたところはどんなところでどのような仕事をしていたのかを聞いた。祖母の話は興味深く、子供ながらに憧れなんかも持ったものだ」
彼は私からノートパソコンを奪うとそれを閉じ、それをベッドのサイドテーブルへ置いた。そして口を開けたまま彼の話を聞いていた私のことを見て小さく微笑んだ。
「彼女が亡くなったとき、フルールグループのホテルで働くことを選んだ。そして彼女が就いていた『支配人』という仕事がどのようなものか気になった。だから俺は今この立場にいる以上、彼女から受け継いだ遺志を前にして休むことはできないし、他人にその役目を譲ることもしたくない」
涼宮さんが話していた、『氷上さんが支配人という仕事にこだわる理由』。それは彼の祖母が今いる彼を作ったと言っても過言ではないからだ。そして意志の内容に違いはあるが、ここを目指した理由に亡き人が関わっていること、それは私と同じだった。
氷上さんも同じだったんだ。自分のためでありながらも、それは大切な人の気持ちを尊重した結果だった。このホテルには、そんな人たちの希望が詰まっている。
だけど彼はなぜ……。
「どうして、そのことを私に……?」
ただの部下である私に話してくれたのか。その疑問を投げかけると彼は戸惑うことなく、理由を口にする。
「君に心を開いてほしいと言ったのに対し、俺が心を開いていなければ君がなにも話したがらないのは当然のことだ。気にするな。こんなこと話したところでなにかが減るわけではない」
「っ……」
私の、ため。氷上さんは私が話しやすくなるように、自ら自身のことについて話してくれた。氷上さんのそんな優しさに触れるたび、もっと深くまで彼を知りたくなってしまう。それは凄く欲深いことなのかもしれない。そんな気持ちだけは彼に知られたくないと思ってしまう。
「ほかになにか知りたいことはあるか?」
「え……」
「……」
なにか、なにかって言われても急には思い浮かばない。それよりも今口を開いてしまったら、自分にとっても彼にとってもよくないことを発してしまいそうになる。今にでも零れ落ちそうになる言葉のかけらを必死に自分のなかに留める。
このままじゃ私、きっと彼を困らせてしまう。
「す、すみません、私……」
私は氷上さんの前から逃げるようにしてその場をあとにしようとする。これ以上彼の傍にいたら、私が私じゃなくなりそうだ。
「待ってくれ」
「っ……」
逃げようとした私の腕を掴んだ彼の手はさっきよりも力強かった。振り返ると彼の熱い視線と目が合う。その鋭い視線と握られている腕の力から、簡単には逃げられないことが分かる。
「悪かった、君を責めたわけじゃない。俺が他人を頼らないことは君と関係ない」
「だったらどうして……」
「……君のことを知りたいと思ったからだ」
彼の言葉に激しく胸が脈打つのが分かった。私と同じことを氷上さんも考えていた? そんなことが現実にあることなのだろうか。
だけど彼は今、私のことを知りたいと口にした。
「突然こんなことを言われて戸惑う気持ちも分かる。だが……」
「っ、氷上さん!」
体がふらつき、前に倒れそうになる彼の体を支える。今すぐにでも横にならなければいけないくらいの重症なのに無理をしすぎている。氷上さんの体は燃え上がるほどに熱い。ゆっくりとベッドに押し戻し、彼の体を横たわらせようとする。
「わっ……」
しかし彼の体重につられ、私までベッドに倒れこんでしまった。恐れ多くも氷上さんをベッドの上に押し倒すような形になり、一瞬ときが止まった。
「ご、ごめんなさい!」
思わず飛び起きようとした私の腕を今度は弱い力で掴む氷上さん。力の強さに関係なく、彼に触れられると動けなくなる。
「あ、の……」
今までで一番近い距離で彼と見つめ合う。漆黒だと思っていた氷上さんの瞳は近くで見ると茶色がかっていることを初めて知った。吸い込まれそうになる瞳、琥珀のように美しい彼の目に見つめられ、私は……。
「好き……」
自分でも自覚できていなかった想いを、溢してしまっていた。
「長沢……?」
「……あ、」
溢れてしまった気持ちを取り戻そうとしてももう遅くて、私の気持ちを知った氷上さんは今まで見たなかで一番焦った表情をしていた。そんな彼の顔を見て、私はとんでもないことを口にしてしまったんだと思った。
「ご、ごめんなさい」
頭のなかは謝罪の言葉で埋め尽くされていて、それ以外は真っ白に塗り潰されたようになにも思い浮かばなくなった。やっぱり私がなにかを言うことによって相手を困らせてしまうことが多い。
「水分たくさん摂ってくださいね。明日のお仕事は休んでください」
「っ……ちょっと待て、長沢」
「失礼します」
伸びてきた彼の腕を避けながら離れると荷物を持って部屋の出口へと駆ける。視界にふらつきながら追ってくる氷上さんの姿が映ったけれど、振り返りたくなる気持ちを抑えてドアノブを開いて勢いで外に出た。
「……私、」
私、どうしてしまったのだろうか。だけど氷上さんのあの目で見つめられたら、もう気持ちを抑えることができなくなっていた。氷上さんが私に心を開いてほしいと言うから。私に優しい言葉をかけてくれるから。氷上さんが……。
(私のことを知りたいと言うから……)
氷上さんが好き、この気持ちは今の一瞬で生まれたものではない。ずっと胸の奥にあって、敢えて触れないようにしてきた。氷上さんの優しさに触れてから、私の心は自然と彼のことを求めていた。だけど彼には涼宮さんという恋人がいるから、私と彼とじゃ住む世界が違うからと言い訳を見つけては諦める理由を探していた。
それなのに氷上さんが私のことを知りたいと寄り添ってくれたから、私はしてはいけない期待をしてしまった。
『君は感情が顔に出にくい、そう言っていたな?』
『えっと……』
『だがそれは、無理して気が付かないふりをしているだけじゃないか?』
今まで通り気が付かないふりをしていれば……彼にあんな顔をさせることもなかった。
「最低だ……」
自分のしたことが許せなくて、悲しくても涙は出てこなかった。私の心に残ったのは自分への嫌悪感と、行き場のなくなった氷上さんへの恋心だけだった。