書籍詳細
お見合い夫婦は契約結婚でも極上の愛を営みたい~策士なドクターの溺愛本能~
あらすじ
「契約妻じゃなく、本当の妻になってくれ」
クールな敏腕外科医と愛育新婚生活
敏腕外科医・佳久との縁談が決まった明菜。彼から持ちかけられたのは、条件付きの契約結婚!?戸惑いつつも、素敵な彼となら気持ちを育んでいけるかも…と契約妻になることを了承し、愛なき新婚生活を開始。せめて良妻として振る舞おうとする明菜の初心で健気な言動に、佳久の冷徹な心が溶かされていき、猛々しい独占欲が見え隠れするように…!?
キャラクター紹介
本郷明菜(ほんごうあきな)
ソフトウェア企業『三ツ橋コーポレーション』で事務の仕事をする会社員。料理が得意。
辻堂佳久(つじどうよしひさ)
大病院である『改寿総合病院』の形成外科に勤めるドクター。容姿端麗で、人当たりも良いようだが…?
試し読み
佳久がタブレット端末を散漫に見ながら考えているところへ、かたん、と音がした。そちらを見ると、パジャマ姿の明菜がリビングに入ってきたところだ。
ぎくっとする。明菜の身辺について調べていたことに気付かれただろうか。
だがそれは違ったようだ。明菜は明らかに、寝起きでまだはっきり覚醒していないという様子だった。眠っていたけれど、目が覚めてしまったようだ。
「どうした」
佳久は声をかけた。その言葉に自分で驚く。
なかなかないくらい、優しい口調になったものだから。
明菜は特に気にしなかったようだけど。
「いえ……少し、喉が渇いて……。佳久さん、まだ休まないのですか?」
本当に、目が覚めて偶然出てきただけだったらしい。
佳久は今度、違う理由でほっとした。今はまだ明菜に知られないほうがいい。
「そうか。俺ももう少ししたら寝る。お前は寝てろ」
「はい」
明菜はふにゃっと笑った。まるで寝ぼけた子どものように、無邪気ともいえる表情だった。佳久は何故かそれにどきりとしてしまう。
なんだ、寝起きの顔くらいもう何度も見てるじゃないか。寝ぼけたときの様子だって、別に初めて見たわけじゃない。
なのに、どうしてこんなに安心感と胸の騒ぎを同時に覚えるというのか。
明菜はやはりそんな佳久の様子に気付かず、キッチンで水を飲んできたようだ。
そのあとはもう一度、「おやすみなさい」と佳久に言い、寝室へ戻っていった。
ピンク色のパジャマを着た後ろ姿が消えるのを見送って、佳久は息をついた。
自分がこんなに必死になった理由も、不倫の可能性が消えて安堵した理由も、今、目にした明菜を……愛おしく思った理由も。
本当はわかるような気がしたのだから。
***
それから数日が経った。もう四月も終わりに近い。
うららかないい陽気の日が続いていたけれど、明菜の気持ちは晴れなかった。
あれから飯田があからさまに誘ってくることはなかった。
けれど完全になくなったわけでもない。事あるごとに声はかけられるし、一度などは資料室でうっかり二人きりになってしまったのをいいことに、飯田の手が伸びてきた。さりげない様子だったけれど、腰に触れられて、心底ぞわっとした。
そのときはちょうど別の社員が資料室に入ってきて事なきを得たけれど、これからどうなってしまうのかわからない。
明菜は以前より更に悩むようになっていた。すなわち、このセクハラを受けている事態をどこかに相談したほうがいい、ということについて。
大きな相談先は二ヵ所あった。
会社の人事部。
もしくは家、佳久。
だが両方、気が進まなかった。
人事部に相談すれば、既婚女性に手を出そうとしている社員がいるのだから、夫に連絡が行ってしまうかもしれない。会社のほうで、佳久の電話番号も緊急連絡先として登録されているのだから。
かといって、佳久に直接「今、こういうことをされていて」などと相談するのはもっと気が進まなかった。だって佳久を嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。
でも、それを考えるたびに明菜はその思考を振り払おうとしていた。
佳久さんはそんな冷たいひとじゃない。
結婚は契約だけど、家族として私を大事にしてくれるひと。
私がこんな目に遭っていると知ったら、きっと心配してくれる。
しかし明菜は連日の出来事に、心が疲れていたのかもしれない。不安がどうしても完全に払拭出来なかった。
おまけにもうひとつ理由がある。
佳久は現在、多忙なのだ。取り組んでいた小論文の作業に加え、ここ数日は集中して診ないといけない患者が入院してきたから、とのことで、毎日帰りが遅かったし、急に夜勤になったことも、それが長引いたこともあった。
そんなときに、こんなつまらない相談なんて出来るものか。
負担になりたくない。迷惑をかけたくない。
そんな気持ちまで加わって、明菜はもう行き詰まっていた。そしてその行き詰まりにつけ込むように、飯田が再び誘ってきたのはその数日後のことであった。
***
「辻堂さん、もう帰るのか?」
帰ろうとしたところへ声をかけられて、明菜はぎくっとした。
そこに立っているのが飯田だったからだ。
嫌な予感しかしない。散々、狙うように付きまとわれていたからというだけではない。きっと悪いことになる、と女性の防衛本能が告げていた。
「……ちょっと急ぎますので」
明菜の言葉も声も、警戒たっぷりだっただろうに、飯田は引かない。笑みを浮かべて外を指差してきた。
「じゃあ駅まで一緒に行こう」
誘いというより、強制だった。歩きと言われたが、明菜にとって不利だったのは、帰宅時間で、社員が多く行き交うロビーでの話だったことだ。
こんな場所、ほかのひともいるところで、嫌だなんて強く言えない。
明菜の控えめな性格はそう思わせてしまって、嫌々ながら、「では駅まで……」と言わざるを得なかった。
車だったら絶対に、もう無礼だろうとも断ろうと思った。
でも歩きで、駅までは人通りも多い。妙なことはされないだろう。
そう思ったのだけど、その考えは楽観だった。
「辻堂さん、最近、旦那とはどうなの?」
薄暗くなった道を駅に向かって歩く明菜は、速足になっていた。
もうさっさと駅に着いて、電車に乗ってしまいたい。そんな気持ちだったのに、不意に飯田が質問してきた。明菜は心の中で顔をしかめる。
でもやはり無視も出来ない。無難なことを言った。
「普通です。仲も良いですし」
明菜の言葉は素っ気ないといえるレベルになっていただろうに、飯田はめげない。
「そう? 辻堂さん、まだ結婚してそう経ってないだろ。毎晩一緒に過ごしてるんだろうな」
言われて、明菜はむかっとした。感じたのは、怒りと嫌悪の両方だ。
いかにもいやらしい含みがあります、と伝わってくる。
「そういうことはやめていただけますか」
明菜は思い切って、はっきり言った。
やや遠回しだが、この発言はセクハラだ。
だがやはりここで引いてくれるはずはない。
「なにがだね」
ぬけぬけと返してこられて明菜は詰まった。まさかあからさまなことは言えない。
わかって言ってくるのだ、と気付いて、明菜は嫌悪感でいっぱいになる。
もうこんなことは嫌、佳久さんにちゃんと話さないと……!
明菜が思ったとき、ガッと腕を摑まれた。
明菜の背筋が、ぞわっとする。
次いで、そこから痛みが湧いてきた。それほど強く摑まれたのだ。
「辻堂さん、意外と初心みたいだね。俺が色々教えてやろうか」
飯田は、はっきりとにやにやした表情になっていた。
視線も同じだった。明菜の身にいやらしい視線が絡みつく。
悪寒が這い上がってきた。やめてください、と振り払うつもりだったけれど、それより早く、ぐいっと引っ張られてしまう。
なに、こんな駅までの道で乱暴したらひとの目が……。
明菜はそう思ったのだが、ハッとした。
やり取りするうちに、繫華街へ向かう道まで来ていた。こんな場所であれば、ただの痴話だと思われるかもしれない。わかってこの場所で仕掛けてきたのだろう。
明菜は歯嚙みしたい気持ちになる。
「すぐそこに俺の行きつけがあるんだよ。少し休憩していくだけだから」
明菜は今度、悪寒より恐ろしさを感じた。どんな場所かなんてわからないものか。
「やめてください!」
声を出し、腕も振り払おうとした。けれど声は到底大きくならなかったし、腕も同じだった。男性の強い力で捕まえられて、若い女性が容易に振り払えるものか。
逃げられない、周りにも気付いてもらえない。
恐怖が膨れ上がったけれど、その間にも飯田は明菜を引っ張ってずんずん歩いていく。行き先は勿論、ホテルだろう。
叫ばないと、と思った。もしくはスマホで警察に電話をかけるとか……。
でもそんなことは咄嗟に出来ない。明菜は恐怖で吐き気と涙を同時に感じながら、せめてもの抵抗にもがくしかなかった。
ピンクのネオンが光る、安っぽくて低俗な建物を「そこだから」と飯田が示してきたときだった。
「なにをしている」
低い声がした。しかしその声は普段、穏やかなことを明菜は知っている。
ゆえに、すぐにはわからなかった。
その低い声を発したのが佳久である、ということに。
「な、なんだ、お前は……」
はっきり咎められて、飯田は動揺した様子を見せた。けれど「そのあたりにいた男だろう」と思ったらしい。不快そうな顔になる。
しかし明菜の凍り付いていた喉は、反射的に動いた。
だって、何度も、何度も呼んだ名前だったのだから。
「佳久さん!」
ネオンサインが溢れる繫華街なんて場所に似つかわしくない人物に向かって、明菜は叫んだ。
明菜が混乱しているうちに近付いてきていたのだろう。いつの間にか数メートルもない距離にいた彼は普段通りのスーツと髪型。
でもその髪型は少し乱れていた、と明菜は場違いなところを見てしまった。
「よしひさ……!?」
明菜の呼んだ声に、飯田は驚愕の表情を浮かべた。
既婚女性がこんな様子で、しかも男性に向かって名前を『さん』付けで呼ぶ存在は、そうそういない。それなら、その相手なんてきっと……。
佳久は数歩の距離を一瞬で詰めてきた。
そしてあっと思ったとき、明菜の体はもうしっかりと佳久に抱き寄せられていた。飯田が彼に気を取られたために、摑む力が緩くなっていたのが幸いした形だ。
大きくて分厚く、確かな体温を持った胸に、明菜はぐっと抱かれる。
明菜の腰に回った手も同じだった。力強いのに、とても優しい。
どきん、と明菜の心臓が跳ねあがる。ここまで悪寒ばかり感じていたところが一気にあたたかくなった。まるで体温がそのまま移ったようだ。
明菜を抱きしめ、佳久はまるで腹の底から吐き出すような声で言った。
「俺の妻になにか用か」
まるで恫喝するように威圧的な声だった。自分に向けられていたら、恐ろしさに震え上がっただろう、と明菜は感じる。
その通り、向けられた先の飯田は表情が強張って、凍り付いた。
「い、いや……ただ、通りかかっただけで」
「ほう。ホテル街に、こいつの腕を摑んで引きずり込んでおいて?」
震え声でなんとか言い訳されたそれを、佳久は一蹴する。
一体どこから見られていたのだろう、と明菜は佳久から伝わってくるあたたかさと張りつめた空気による恐ろしさを両方感じながら、思った。
無意識に手を持ち上げていた。触れたスーツの胸あたりをぎゅっと握る。
まるで縋るような仕草に、佳久がちらっと一瞬だけそこを見た。
「貴様、三ツ橋コーポレーションの飯田 総一郎だな。役職は課長、と」
佳久は淡々と挙げていった。すべて的確だった。
明菜は今度、違う意味で混乱した。こんな上司がいることも、勿論名前も、佳久に話したことなどない。
動揺したのは飯田も同じだったらしい。
「ど、どうしてそんなことを……」
同じく震え声だった。明菜に対する数々の手出しを、この場で制裁されるのだと、もうわかっていたのだろう。
だがなんとか逃げ出したい。そんな情けなくて小狡い気持ちが伝わってくる。
「身辺調査させたからな。それで、ここにこんなものがある」
明菜を片腕で抱きしめている佳久は、逆の手をポケットに入れた。スマホを取り出して、すっと画面を飯田に向ける。
画面に映っているのはなんなのか、明菜からは見えなかったが、見なくてもわかる。
きっと飯田が明菜の腕を捕まえて、無理やり一軒のホテルに連れ込もうとしたときの場面だ。
「そ、それは……」
正面から見せられて、飯田の表情が歪んだ。
これは決定的な証拠である。じゅうぶんな説得力と効力を持つだろう。
「ついでに録音データもある。聞くか?」
佳久は片手でスマホを操作し、ある音声を流した。勿論、先ほどの明菜と飯田のやり取りだ。
飯田は今度こそ黙った。震えているのすら見える。
その飯田に、佳久は静かな口調で、しかしあの低い声で言った。
「俺の妻に不貞を働かせようとしたと、会社に通告してもいいんだぞ」
ヒッ、と飯田の喉から情けない声が洩れた。ガバッとうずくまり、手をつく。
「すまなかった! すみませんでした! それだけは許してください……!」
明菜をしっかり抱きしめた佳久と、その前で土下座をしている飯田。
周りからちらちらと好奇の目が向けられるのを感じた。そんなものを感じていたいはずがない。佳久が、明菜を更に近くへ、ぐいっと抱き寄せる。
「今は見逃してやるが、このあとのことはわかっているな。……明菜。帰るぞ」
冷たい声で飯田に向かって言い放ったあと、佳久は明菜を促した。
その声は硬かったけれど、明菜にはわかった。
この声はまったく冷たくない。張りつめてはいるけれど、いつも自分に向けてくれているものと同じだ。
「は、……はい」
なんとか返事をした明菜に、佳久は僅かに笑みの表情になった。
そのまま明菜の肩をしっかり抱いて、佳久は別の道へ向かっていった。
明菜は今更、心臓がバクバクしてくるのを感じていた。
しっかり密着しているのだ。あたたかくて、力強い体を全身で感じる。
まだ混乱していた明菜が、やっと安堵出来たのは、佳久の車が停められた駐車場に着いてからであった。車で来ていたらしい。
でもどうしてこんなところへ?
私を迎えに来てくれたとしても、それなら会社の駐車場に停めるはずでは?
明菜は少々ずれたことを考えてしまったのだけど、そんなつまらない疑問は即座に吹っ飛んだ。
ぐいっと、今度は正面から佳久に抱きしめられたのだから。
「よ、佳久……さん……」
明菜はなんとか言葉を発した。
護るように、渡さないというように、抱きしめられている。
その気持ちが、しっかり触れ合うあたたかな体から伝わってきた。
長身である佳久の胸に、明菜はすっぽり埋まってしまう。そのために顔や表情を見ることは叶わなかったけれど、見なくてもわかった。
「無事で良かった」
佳久の硬い声。でもその中には、安心という響きがたっぷり込められている。その気持ちを嚙み締めるように言われた言葉だ。
私を助けに来てくれたんだ。
明菜は抱いてくれる腕と、声と、言葉からやっと実感として理解した。
混乱や緊張、恐怖が一気に溶ける。今更ながら、明菜の体をぶるりと震わせた。
「佳久さん……!」
激情が爆発し、明菜は意識する前に動いていた。佳久の胸に縋るように、ぎゅっと抱きつく。
こんなふうに握りしめたり顔を押し付けたりしたら、ぱりっとしたスーツがヨレたり汚れたりしてしまうのに、今はそんなことを気にしている余裕などなかった。
「ありがとう……、ござい、ます……っ」
絞り出したお礼の声は震えた。
でももう恐怖からのものではない。心の底から安心したという気持ちだ。
その明菜の背中に腕が回った。太くてしっかりしている腕が背中をすっぽり包み、撫でてくれる。
大丈夫だ、と伝えるように。
それから、ここにいる、と伝えるように。
もう片方の手が、明菜の髪に触れた。頭をしっかり抱え込んでくれる。やはり護るような手つきだ。
こんなふうにしてもらったことなどなくて、戸惑うところだったかもしれないのに、明菜が感じられたのは、溢れんばかりの安心と喜びだった。
助けに来てくれたのは、契約があったからかもしれない。
でも本気で明菜を心配してくれたのだと、声や触れた全身から伝わってくる。わからないはずがない。
「怖かったろう。もう大丈夫だ」
明菜の髪を優しく撫でながら言われた言葉と声音は、撫でる手つきと同じく、優しいものになっていた。
恐怖と、それが去った安心と、それから佳久に対する感情によって、遅ればせながら涙もじわりと滲んでくる。
その明菜をしばらく抱いていてくれて、何分経っただろうか。
佳久は明菜の肩に触れ、そっと剝がして顔を覗き込み、ひとことだけ言う。
「帰ろう」
とても優しい表情と声だった。
***
その夜はとても夕食作りどころではなく、近くの店から取り寄せのライトミールになってしまった。けれど申し訳ないのはそこではない。
言葉少なな食事を済ませ、リビングに落ち着いた明菜と佳久。
佳久は当たり前のように、ソファに座った明菜に寄り添う形で腰掛けてきた。
くすぐったさを覚えつつも、今はこうしていたいと明菜は思う。
こうしていてほしい、とも思った。そして佳久はそれを叶えてくれるのだ。
「どうして黙っていた」
佳久は明菜の腰に腕を回し、しっかり体を寄りかからせながら、言った。
言葉はそれだったが、明菜には伝わってきた。
これは怒りではない。叱られているのでもない。
純粋に心配してくれたからだ。
「……ごめんなさい」
明菜はぽつりと言った。
後悔していた。こんな危険な目に遭ってしまうなら、もっと早く相談しておくべきだった。後悔先に立たずであるけれど。
「あなたに迷惑をかけたくなくて……、最近、忙しいみたいだったし……」
佳久の優しさが胸の中に染み入ってくるようで、なんだか涙声になってきた。
自分は、佳久を信頼していないような行動をとってしまったのだ。
「まったく、困ったやつだ」
はぁ、と佳久がため息をつくのが、触れた体から伝わってきた。
明菜はもう一度胸を痛めて、「ごめんなさい」と言ったのだけど、佳久が言ったのは責めるような言葉ではなかった。
「迷惑だの、忙しいだの、関係あるか。お前が危ない目に遭ってたっていうのに」
呆れたような声だったが、明菜の胸がどくんと高鳴った。かっと体も熱くなる。
なんて優しい言葉なのか。じわじわと心臓から全身に熱が回っていくような、優しくてあたたかな言葉だ。
なにか言おうと思った。
ありがとうございます、とか、すみませんでした、とか。
でもどちらも適切でないように感じる。もっと相応しい言葉があるような、と思うのだけど、すぐにわからなかった。
ただ体が熱くて、胸もどきどきして、触れ合った体の感触を、もっとはっきり抱いていた。
そんな明菜の腰を佳久が、ぐっと引き寄せた。明菜はバランスを崩して前のめりになる。一瞬ひやっとしたのだけど、直後、驚いた。
佳久は引き寄せた明菜を、しっかり胸に抱き込んできたのだから。
あのとき、帰ってくる前に抱きしめてくれたのとまったく同じだった。
「もっと俺を頼れ。抱え込むんじゃない」
その言葉と共に、背中に腕が回って、ぎゅっと抱きしめられる。
今度、明菜は触れ合ったところからとくとくと、心臓の鼓動と熱が伝わってくるのを感じられた。
ああ、このひとはここにいてくれる。
私のそばにいてくれる。
護ってくれる……。
明菜は実感して、今度は激情ではない気持ちが湧いてきた。
それは幸せ、という気持ちだ。
「……はい」
明菜はそっと目を閉じた。力を抜いて、佳久に体を預ける姿勢になる。
とても心地良かった。安心出来た。
佳久に抱きしめられて、心からこんな気持ちになったのは初めてだった。
でもこう感じられるのが、とても嬉しい。
「まぁ、俺のことを気遣ってくれたのは嬉しいけどな」
佳久は明菜の体を今度はソフトに抱きながら言った。もう落ち着いた声だ。佳久の常の口調、ちょっと皮肉っぽい言い方でもある。
だが明菜にとっては不快どころか、いつも通りの時間に戻ってきたのだと感じられるような、むしろ安心する言い方だった。
この夜は寄り添ったまま過ごしていた。テレビの音も、たまに流しているジャズやクラシックといった音楽もなにもなかった。
なのにまったく気まずくなどなくて、佳久の存在だけで心がいっぱいになっていくようで、明菜は満たされた気持ちで目を閉じていた。