書籍詳細
離婚したいのに、旦那様の溺愛が凄すぎて別れてくれません
あらすじ
「お前の強がりも、俺にとっては可愛い」
離婚希望でわがまま令嬢を演じたら、なぜか甘く迫られて!?
呉服屋の娘・莉子は大企業の御曹司・穂高との政略結婚から逃れようとするも、彼に熱心に所望され、結婚が即成立!?「お前がその気になったら可愛がってやる」――穂高から離婚を切り出してもらおうとあらゆる手段を使うものの、彼の不敵な宣言に、初心な莉子は思わずときめいてしまう。別れを許してくれない彼の想定外の溺愛に、身も心も陥落寸前で…!?
キャラクター紹介
神山莉子(かみやまりこ)
創業百年の呉服専門店『KAMIYAMA』の娘。ドラマや映画のような恋愛を夢見ている。
桐ヶ谷穂高(きりがやほだか)
大手百貨店を経営する桐ヶ谷ホールディングスの御曹司。語学堪能で頭の回転が速く、包容力がある。
試し読み
「おい、なにしてるんだ」
西野さんの手を振り払ったと同時に第三者の声がして振り向く。そして、なぜここにいるのかと、呆気にとられながら私はすぐ傍に立つその人を見た。
「き、桐ヶ谷さん!?」
その場にどんと構え、彼は腕を組みながら不愉快を露わにざっくりと眉間に皺を刻んでいる。西野さんはというと、桐ヶ谷さんに鋭い眼差しを向けられて立ちすくんでいた。
「こ、これはこれは……桐ヶ谷さんじゃないですか、いつもお世話になっております」
とにかくこの不穏な空気を誤魔化そうと、西野さんがさっと笑みを作り形式的な挨拶をしてペコッと頭を下げた。
桐ヶ谷さんは桐ヶ谷百貨店の本店で統括営業部長として外部ともそれなりに付き合いがあるだろうし、顔も広いのだろう。西野さんも彼のことを見るなり顔色を変えたということは面識はあるようだ。
「莉子、こっちへ来い」
桐ヶ谷さんの突然の登場に驚きながら、私は言われるがまま彼の横に身を寄せた。
「えーっと、神山さんとどのようなご関係で?」
「俺の妻だが」
はっきりとした口調で言い切られ、その言葉が心臓を揺るがす。妻と言っても形だけなのは重々承知している。それなのに先走る胸の高鳴りに切なさを覚えた。
「え、ご結婚されていたんですか? それは存じ上げませんで、おめでとうございます」
「論点をずらすな」
桐ヶ谷さんの表情は険しいままで、さすがの営業スマイルも効果なしと悟ったのか西野さんの顔から笑みが消えた。
「大野辺は経営不振だと聞いている。それでどういう算段でKAMIYAMAブランドの商品を扱おうとしているのか、そんな高度な営業テクニックがあるなら是非参考にしたいのだが」
「そ、それは……」
桐ヶ谷さんに問い詰められ、西野さんが視線を下に向けてたじろぐ。
「人妻に枕営業させようなんて、大野辺の人間は節操がないな」
「そんな、枕営業だなんてとんでもないです!」
図星を指されたのか西野さんが大げさに首を振り、狼狽えながら否定する。すると、桐ヶ谷さんは往生際が悪いと言わんばかりにため息をついた。
「だったら、今から彼女が来ると思ってウキウキしながら待っている社長の部屋へ俺が行こうか? 社長は赤っ恥をかいてあなたは大目玉をくらうことになるが、それでもいいんだな?」
一寸の揺るぎもなくじっと見据えられ、西野さんは小さく唇を嚙んだ。
「契約は不履行だ! 失礼する!」
怒り口調で言い捨てると、西野さんはそそくさとその場を後にした。
「まったく、なにが「契約は不履行だ」だ、初めからその気もなかったくせに」
桐ヶ谷さんが呆れ交じりに呟くと、クラシックと人の話し声が何事もなかったかのように再び耳に流れ出す。
「あ、あの……」
なにから話していいのやら混乱していると、ポンと頭に彼の大きな手がのせられた。
「……お前は馬鹿だな」
悪態にしては柔らかな声が降ってきて、なぜだかじわっと瞳が湿り出す。
本当は怖かった。不安だった。桐ヶ谷さんがいなければ、自分はどうなっていたかわからない。そんな思いが取り巻いて、ふとテーブルに視線を落とすとひとくちも口をつけていない冷めきったコーヒーがぽつんと置かれていた。
まさか、大野辺社長がそんなことをしようとしていたなんて……。
大量に抱えた在庫をなんとかしたい弱みにつけ込んで、直談判と言いながら私をホテルの部屋へ連れ込もうとしていた。契約をするとき、ホテルのロビーを使うことは多々ある。だから油断していた。桐ヶ谷さんが〝枕営業〟と言うまで大野辺社長の魂胆に気づけなかった自分も馬鹿だ。
桐ヶ谷さんとホテルを後にし、彼が運転する車でマンションへ帰ってきた。『世間知らずの箱入りお嬢様』と言われても、しゅんと項垂れたままなにも言い返すことができなかった。彼が現れなかったら、と思うとゾッとする。いまだに指先が小刻みに震えて冷たいままだった。
桐ヶ谷さんに対して思うところはあるけれど、少なくとも危機的状況を救ってくれたことには違いない。きちんとお礼を言わなければ、とたどたどしく口を開いた。
「桐ヶ谷さん、あの、さっきは……あ、ありがとうございました」
リビングのソファに座り俯いていると、コトリと音がしてローテーブルの上になにかの飲み物が入ったグラスが置かれた。
「レモネードだ。頭がすっきりするぞ」
桐ヶ谷さんが私のために用意してくれたのかと思うとその行為が意外で、そして嬉しかった。
「いただきます」
ホテルでコーヒーを頼んだものの、結局口をつけずに帰ってきてしまった。だからか、レモネードをひとくち口に含んだら喉の渇きが刺激され、一気に喉に流し込んだ。
「それで、大野辺がどんな会社かわかったか?」
桐ヶ谷さんもレモネードの入ったグラスを片手に、私の横に腰を下ろした。
どんな会社か電話だけじゃわからない。それを確かめるためにも会う必要がある。なんて豪語した手前、きまりが悪い。
「はい……。私、ほんと馬鹿ですよね、大野辺社長にあまりよくない噂があっても、きっとなにかの間違いだって、心のどこかで信じてた部分があったんです」
そんな私の思いはあっさりと裏切られ、大野辺の真相を身をもって知った今、悲しいやら悔しいやらでぶつけどころのない憤りに落胆するしかなかった。
「そういえば、どうしてあのホテルのロビーにいたんですか?」
ずっと疑問に思っていた。ピンチになったときに急に現れて、偶然にしては出来すぎている。まるで映画に出てくるヒーローみたいだった。
すると桐ヶ谷さんはほんの少し気まずそうにした後、微かなため息をついた。
「お前は干渉するなと言うかもしれないが、仕事が終わってからラディエットホテルのロビーで待ち合わせると言っていたし、大野辺の素行の悪さを知っておきながら、お前を放っておけなかったんだよ」
形だけの妻に優しくする必要なんてあるのか、お互いに干渉しない約束なのだから、見て見ぬふりをすればいいのに、それでも桐ヶ谷さんはそうしなかった。
ときどき見せてくる彼の優しさにまた触れてしまった。そして覚えのある胸の高鳴りに困惑する。
「お前を見ていたら、入社したての頃の自分を思い出した」
顔をあげたら目が合って、つい、見つめ合ってしまった。やんわりと口元を柔らかくして微笑む桐ヶ谷さんに息が詰まる思いがする。
「不眠不休で仕事に没頭して取引先を探すのに精一杯で、父親が社長だという立場から周りの目も気になって、認められたいという一心で、とにかく必死だった」
今はもう懐かしい記憶なのか、桐ヶ谷さんは目を細めた。まさか、今の自分の状況が昔の桐ヶ谷さんとリンクするとは思いもよらなかった。私とは違って、最初からずっとなにもかもうまくいってひたすらエリート道を突き進んでいたと思っていたのに。
桐ヶ谷さんも苦労した時期があったんだ。
「きっと桐ヶ谷さんは要領がいいんですよ、私なんてまだまだで……結局、今回の契約の話もまた振り出しに戻っちゃいました」
もう笑うしかない。そう思って頰を緩めてみるけれど、筋肉が強張ってうまく笑えない。
「その話なんだが……」
改まったように桐ヶ谷さんが私を見据える。
「お前の店で抱えている在庫を全部、うちの百貨店で買い取ってやる」
今、なんて?
桐ヶ谷さんの口から信じられないことを言われた気がして、息をするのも忘れ何度も目を瞬かせる。
「ま、まさか父からなにか言われたんじゃ……」
父の口添えがあったとしたら、こんな恥ずかしいことはない。耳が真っ赤に染まりかけたところで桐ヶ谷さんがクスッと笑って首を振った。
「いや、お前から実際に話を聞くまで不良在庫を抱えていることは知らなかった。毎日のように残業していると坂木が言っていたから気にはなっていたが……それに、お前はなにを考えているかわかりやすいからな」
私は昔から噓をつくのが下手で、すぐ感情が表に出るからわかりやすいとよく言われた。毎晩のように頭を抱えて悩んで、どうしようかと不安になって今にも泣き出したい気持ちを堪えていた。
そんな私の姿を、彼は陰で見ていたんだ。
「それに、結婚する条件に『KAMIYAMAの売上に貢献すること』って言ってただろ?」
唇の端を押し上げてニッと笑う彼の表情には露骨な嫌味はなく、むしろ頼もしさが滲んでいて思わず鼻の奥がツンとした。
「でも……」
――己の力量の限界を認めることも大切だ。
桐ヶ谷さんに言われるがまま、事を委ねてもいいのかと躊躇する。すると、昔、周囲から仕事ができないと思われるのが嫌で、なんでもかんでも意固地になって仕事をしていたら、不意に父からそんなことを言われたことがあったのを思い出した。
「こういうときに周りを巻き込んで要領よくやらなきゃ、だめってことですよね」
「あぁ、マネージャーみたいに人の上に立っているならなおさらだ。まぁ、大丈夫だろ、俺がなんとかする」
以前、自分の部下がミスをしたとぼやいていたとき、桐ヶ谷さんは『俺がなんとかする』と、そう言っていた。私も発注ミスをして凹んでたし、その言葉が自分に向けられたものだったらどんなに心強いかと、その部下が羨ましくさえ感じた。
「わ、私……自分のせいで従業員には迷惑かけたくなくて、父の顔にも泥を塗らないようにしなきゃと思って……」
なんとなくホッとしたら、今までずっと我慢してきた涙がポロポロとこぼれてきて、人前で泣くなんてみっともないと思うのに涙を止めることができない。
「先が見えなくて、本当は不安で怖くて仕方がなかったんです」
鼻声になりながらも、包み隠さず素直に本心を伝えることができた。でも、もうこれ以上は無理だ。喉の奥から嗚咽が迫り上がってきて声にならない。それなのに。
「そうだな、その気持ちは俺にもよくわかる。だからもう泣くな」
わざと涙に拍車をかけてるのかと思うくらい、桐ヶ谷さんは優しくて、今まで誰にも打ち明けられなかった弱音を、唯一理解してくれているような気がした。
「KAMIYAMAのブランドの商品はどれも質がいい。うちの店舗で仕入れても結構すぐに売り切れるくらい人気がある。そんな上等なものを、大野辺みたいな会社に卸すくらいなら、多少リスクがあっても全部うちで買い取ったほうがマシだ」
唇を真一文字に結び、桐ヶ谷さんはじっと私を見据えた。
「それに、俺はKAMIYAMAの着物が好きなんだ」
桐ヶ谷さんにとってはさらりと言った何気ないひとことだったのかもしれない。稼業の商品をただ真っ直ぐに好きと言ってくれて嬉しかった。それと同時に心が揺さぶられ心臓を鷲摑みにされたような気分になるのはなぜだろう。
私、もしかして桐ヶ谷さんのこと。
いや、そんなわけない。ちょっと優しくされたから気持ちが緩んだだけ。
だから、この感情は……違うよね?
「莉子?」
一点を見つめたままの私を怪訝に思ったのか、名前を呼ばれてハッとする。
「あ、あの……買い取ると言っても、あの大量の在庫をどうやって全部捌くつもりですか?」
ただでさえ忙しいのに、彼の負担になるんじゃないかと思っていると、桐ヶ谷さんの顔に余裕の笑みが浮かぶ。
「実は今、全国の桐ヶ谷百貨店の店舗で着物のイベントを企画中なんだ」
着物のイベント?
「そのイベントに向けて各店舗に分散して仕入れてもらう。不良在庫と言っても人気のある商品だからな。バイヤーも喜んで了承してくれるはずだ」
「そんなこと、できるんですか?」
「ああ。それに、海外の店舗にも数着流すこともできるし、呉服を扱う傘下の店舗にも並べることだって可能だ。売れるか売れないかは別として、幅広く展開させることは容易だ。それにリスクがあったとしてもたかがしれている。それぐらい問題ない」
想像以上の桐ヶ谷ホールディングスが持つ資本比率の高さに圧倒され、ここ数日一睡もできずに悩んでいたことだったのに、彼の提案により一気に希望の光が見えてきた。
「でも、余計な仕事を増やしてしまうんじゃ……」
「仕事に余計もなにもない、初めから意味のないことはしない主義だ」
彼の話を聞いて、以前、沙奈が『桐ヶ谷さんは仕事ができる人』と言っていたのを思い出す。今ならその手腕の良さを身に染みて実感できる。本店の営業部統括部長を任されているのは親の七光りなんかじゃない。桐ヶ谷さんが持つ元々の才能なのだ。過ぎた望みなのかもしれないけれど、私も彼のような仕事ができる人間になりたいと素直に思った。
「そのイベントっていつですか? 私もお手伝いします。というか、させてください。例えばポスターとかチラシとかの販促物をうちで作成するとか」
「それは助かるな」
「それからプロモーションビデオもできます、以前作成したことがあるので任せてください」
確かKAMIYAMAのオリジナルブランドを立ち上げたとき、私が着付けの実演をして販促物用にPVを作ったことがあった。
「PVか……」
桐ヶ谷さんがふと、遠くを見つめる。その表情は決して険しいものではなく、どことなくなにか懐かしんでいるような、うっすら口元に笑みさえ浮かんでいる。
「桐ヶ谷さん? どうかしました?」
なにかおかしなことを言ってしまったのかと顔を覗き込むと、彼は我に返って私へ視線を移した。
「いや、なんでもない。海外向けにPVがあると着付けがわからない外国人でも簡単に理解できそうだな」
今、桐ヶ谷さんなにを考えていたんだろう? 笑ってなかった?
とにかく私の提案に同意してくれてよかった。けれど、ホッとしたのも束の間、その案にはひとつだけ問題があった。
「あの、自分で言っておいてなんですけど、実は海外向けにPVを作ったことはないんです。私、英語喋れませんし……」
あぁ、海外向けだったら当然説明も英語じゃないとだよね……どうしよう。
また壁にぶち当たってしまった。そう思っていると、桐ヶ谷さんが「おいおい」と苦笑を漏らした。
「お前の日本語の説明に英語のテロップをつければいいだけの話だろ? 翻訳くらい俺がやってやるよ」
そうだった。確か桐ヶ谷さんは高校からアメリカ暮らしで州立でトップクラスの大学を卒業したと沙奈が言っていたのを思い出した。
彼にできないことなんてないんじゃないかと思ってしまうくらい。ほぅ、と感銘のため息が小さくこぼれる。
「桐ヶ谷さんって、頼もしい人なんですね」
「なんだ、いまさら気づいたのか」
ひょいと肩を竦めて彼が口元を綻ばせると自然と視線が交わる。なんとなく甘味を帯びた空気にむず痒さを感じ、そして互いの胸が触れ合う距離まで寄り合うと、私は夢から覚めたように肩を跳ねさせた。
「あ、あの……」
我に返り、顔を背けようとしたら、逃がさないと言わんばかりに腕を軽く捕らえられてしまう。
「こっち向けって」
身を捩る間もなく唇を塞がれる。口づけられる瞬間、唇の表面をさっと風が撫で、彼が笑ったのがわかった。
「や、んっ」
短い声をあげたら、吐き出した息ごと桐ヶ谷さんの唇に飲み込まれる。抵抗しようと腕を伸ばしかけたけれど、唇の角度を変えながら与えられるキスの温もりに力が入らない。されるがまま、頭がぼんやりとなりかけたとき、柔らかく押し付けられたそれはすぐに離れ、うっすら目を開けると傍で彼がこちらを見ていた。
「嫌がらないんだな」
甘味を帯びた瞳に全身にまで響き渡るような鼓動が鼓膜を打つ。
「い、いきなりキスされて、嫌がる間もなくびっくりしただけです」
「ふぅん、そうか」
ならもう一度確かめてやる、と口の端を押し上げて再び唇を重ねられる。
「ッ! ん」
好きでもなんでもないのにこうしてキスをされていると、身体の奥が疼いてときどきビリッと電流のような刺激を感じる。気を抜けば意識を持っていかれそうになって、重なる唇の隙間から絶え絶えに吸い込む空気がやけに熱く、甘苦しかった。これでいて恍惚と全身が蕩けるようなわけのわからない感覚に、戸惑いを覚える。
もう、やめて!
そう言って突き放すことだってできるはずなのに、できない。桐ヶ谷さんとのキスに身を委ねているのはなぜ? 胸を締め付けられるようなこの感覚はなに? と、理解しがたい感情に耐えられなくなる。顔を背けることもできずに、ただ一方的に唇を軽く嚙まれ、舌を吸い上げられ、舐めとられる。私は乱れそうになる呼吸をなんとか保つのが精一杯で、彼の腕にしがみつくと目の端に涙が滲んできた。
ようやく解放され、無意識に涙目を桐ヶ谷さんに向けると目が合う。すると、ゴクッと息を嚥下したような音が聞こえた。
「その顔、最高にそそられる」
「え?」
「うっかりしてると理性が吹っ飛びそうだ。お前、俺を試してるのか?」
そそられる? 理性? 試すって……なんのこと?
なにもわからずきょとんとしている私に、桐ヶ谷さんが弱り顔で小さく笑った。
「取って食うような真似はしないさ、俺は紳士だからな」
「わっ」
ポンと頭に手がのせられ、ワシワシと撫でまわされる。
「もう、なにするんですか! 紳士ならそんな乱暴なことしません!」
「あはは、そうそう、そうやって元気にしているほうがお前らしいぞ? 今日はもう遅い、早く休め」
そう言って、桐ヶ谷さんはソファから立ち上がり、浴室へと向かった。
桐ヶ谷さんといると、なんだか調子が狂う。だけど、どんなに挫けようとも手を引っ張って導いてくれる不思議な力強さを感じる。
桐ヶ谷さんとのキスのことで頭がいっぱいになりながら自室へ戻る。着替えが終わり、ぼーっとしたまま布団を敷いてごろんと寝そべった。
不本意にも桐ヶ谷さんにファーストキスを奪われ、初めてその距離を知った。他人の肌の匂いが迫るあの距離感は、思い出すだけでも心臓が落ち着かなくなる。
いつの間にか桐ヶ谷さんとのキスシーンを何度も脳内再生している自分に気づき、私は慌てて首を振る。
私が桐ヶ谷さんを好きになるなんてありえないんだから……仕事では助けてもらったけど、でもそれとこれは話が別。
たとえ夫婦であっても、私は〝形だけの妻〟であることには変わらない。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の中に澱んだ染みが広がってほんのり切なさがこみ上げてくるのだった。