書籍詳細
政略結婚のスパダリ弁護士はママとベビーに揺るぎない猛愛を証明する
あらすじ
「君と僕たちの子供を一生命をかけて守る」
愛なき結婚のはずが、独占欲を刻み付けられて…!?
花菜は、父の急逝で窮地に立たされた法律事務所を救うため、密かに恋をしていた幼馴染みの超エリート弁護士・遼河と政略結婚をする。初めての夜、「君を絶対に離しはしない」と誓う彼に甘くとかされ――。赤ちゃんも授かり、幸せな毎日を送っていたが、遼河には他に最愛の女性がいると聞いてしまう。花菜は心乱されるも、彼の溺愛は決して揺るがなくて!?
キャラクター紹介
高橋花菜(たかはしかな)
遼河を一途に想い続ける優しく芯の強い26歳。中学生の時に事故に遭い、ある記憶を失う。
藤澤遼河(ふじさわりょうが)
魅力的な容姿の辣腕弁護士。花菜を全力で護ると決めていて、花菜と愛娘を溺愛している。
試し読み
桜の花が舞い散る、艶やかな春の日。
教会の重厚な扉を前に、花嫁姿の私は佇む。
間もなく始まる誓いの儀式に、知らぬ間に指先が震えていた。
「……花菜、大丈夫?」
緊張に気づいたのか、隣にいた兄の優が心配げな視線を向ける。
痛々しい顔をした兄を安心させたくて、慌てて笑顔を浮かべた。
「大丈夫。でもやっぱり、ちょっとドキドキしているみたい」
「一生に一度のことだからな。でも結婚式に友達も呼べないなんて……。俺が頼りないせいだ。花菜、本当にすまない」
繊細な文様が描かれたマリアヴェールは本物のリバーレース。神秘的とすら感じる美しいヴェールの向こう側で、兄が長い睫毛を伏せている。
母によく似た整った面差しは、漆黒の礼服がよく映える。けれど新婦の父親代わりというには若すぎて、今日は教会の人たちに何度も新郎に間違われた。
兄は私とふたつしか変わらない上、女性的な顔立ちをしているせいか実年齢より若く見られる。事情を知らない人が兄を花婿だと勘違いするのも、無理もない話だ。
けれど私とバージンロードを歩いてくれる人はもう兄しかいない。
私が腕を取るはずの父は、もうこの世にいないのだ。
「花菜……このまま式を挙げて本当にいいのか?」
真剣な眼差しを向ける兄に、しっかりと視線を返した。
急な結婚を決めた私を、兄と母が心配しているのは分かっている。けれどもう、引き返すことはできない。
運命の歯車は、すでに動き始めているのだから。
「いいの。お兄ちゃんとお母さんが安心して暮らせるなら、その方がいいから」
「花菜……」
「心配しないで。私、幸せよ」
ドアの向こう側で、パイプオルガンの厳かな音色が耳慣れた調べを奏で始めた。
「新婦様、ご入場願います」
開け放たれた扉の先には、赤い絨緞が敷き詰められた聖道が祭壇へ真っ直ぐに続いている。
はやる心を宥める暇もなく、その聖なる道を兄とふたりで一歩ずつ進んだ。
広い聖堂はがらんとしていて、左右の座席に座る親族はごくわずかだ。
祭壇に向かって左側に母、右側には藤澤のおじ様とおば様の姿が見える。ヴェール越しに目が合うと、みな一様に微笑んでくれる。
父が亡くなって急に決まった結婚だから盛大な式はできなかったけれど、物心ついた頃から慣れ親しんだ人たちの優しさに触れ、緊張で固まっていた身体が柔らかく解けていく。
ピンと張り詰めた神聖な空気の中、歩くたびにドレスの裾がさらさらと音を立てた。
私の身を包むウェディングドレスは、フランス製のリバーレースをふんだんに使ったクラシカルなデザインだ。
トップはコルセット型のビスチェになっており、教会での厳かな挙式に相応しく肩からデコルテにかけて伝統的なモチーフを描いたレース地で覆われている。
ウエストから裾にかけてはふわりとしたドレープが広がり、贅沢なほどに使われたリバーレースが神秘的な美しさを醸し出す。
手に持ったブーケから、一歩、また一歩と足を踏み出すたびオールドローズの芳しい香りが鼻先に漂った。
(……何だか夢みたい)
美しいリバーレースのドレスも荘厳なカトリック教会での挙式も、私の幼い頃からの憧れだった。
そのどれもが、祭壇の前で私を待っている遼河さんが準備してくれたものだ。
父が大学の先輩である藤澤のおじ様と共同で法律事務所を立ち上げたのは、今から三十年ほど前のことだ。
当時まだ若かった父と藤澤のおじ様は、大いなる希望と野心を抱いて独立した駆け出しの弁護士だったと聞く。
独立して間もなく、ふたりは友人が父親から受け継いだばかりの小さな企業の裁判を請け負った。
大企業相手に利権を争う裁判に父たちに勝ち目はないと誰もが思ったが、彼らは世論に反して裁判で勝訴し、依頼人の利益を守った。
何の後ろだても持たず若さと知恵だけで勝利を勝ち取った父たちの功績は、今でも業界に語り継がれる有名な逸話だそうだ。
その後も父たちの事務所――F&T法律事務所は数々の企業裁判に勝訴し、今では多くの優秀な弁護士が所属する日本を代表する弁護士法人へと成長した。
父は歳を経てもなお精力的に働く現役の弁護士だった。また、私たち家族にとっては尊敬と親しみを持てる父であり、夫だった。
そんな父に対する憧憬から、私も兄もごく自然に法曹の仕事に興味を持つようになったのだと思う。
兄は父のあとを追って弁護士となり、私も大学卒業後父の下で秘書として働くこととなって、この春で丸二年を迎えた。
揺るぎない大木のように頼もしい父と、優しさに満ちた母。
私たちは愛に溢れた平和な家族だったのだ。
けれど先月、私たちを突然の悲劇が襲った。
父が業務中にオフィスで倒れ、意識が戻らぬまま帰らぬ人となったのだ。
死因は心筋梗塞とのことだった。
父の病の兆しに気づけなかった私たち家族はわが身を責め、最愛の人との突然の別れに悲しみのどん底に叩きつけられた。
それに、不幸はそれだけではなかった。
父の訃報を受け、数人のパートナー弁護士が事務所名の変更と兄の解雇を事務所の代表である藤澤のおじ様に要求したのだ。
彼らが問題にしたのは兄の弁護士としての資質だったが、問題はそんなに単純なものではなかった。
真の目的は事務所を自分たちのものにすること。
つまりは、事務所の乗っ取りだ。
そこで藤澤のおじ様は急遽息子の遼河さんをニューヨークから呼び戻し、F&T法律事務所のパートナー弁護士に指名した。
遼河さんは米国で十本の指に入る弁護士事務所で、史上最年少でパートナー弁護士に昇格した超エリートだ。
実力も実績も申し分ない遼河さんの昇格に、さすがに異議を唱える弁護士はいなかったらしい。
パートナー会議で遼河さんについての承認は滞りなく済んだらしいけれど、その席で同時に発表されたのが私と彼の結婚だった。
そう。私と遼河さんの結婚は、高橋の名前を冠に残すための政略結婚だ。
祭壇の手前で私をエスコートする兄の歩みが止まった。そしてすぐ側に佇む、背の高い男性と視線を交わす。
普段は柔和な兄の強い視線に、遼河さんが力強く頷くのが目に入った。そしてゆっくりと私に移った彼の視線が、優しく優美に綻ぶ。
凛々しく美しい、まるで童話に出てくる王子様のような彼の姿に、否応なしに目が釘付けになる。
遼河さんは格式のある重厚なモーニングコートを軽やかに着こなしている。
すらりと長身の身体には適度に筋肉が付き、優美でありながらも逞しい男らしさが感じられる。
色素の薄い髪はステンドグラスから差し込む陽射しを受けて金色に輝き、彼の端整な面差しを鮮やかに彩っている。
理知的な眉、スッと通った鼻筋。薄く形のいい唇は固く引き結ばれ、まるで絵画に描かれる大天使さながらの神々しい姿に、思わず息を呑んだ。
(遼河さん、何て素敵なの……)
その容貌は男性にしては繊細すぎる美しさだけれど、薄いヴェールを通しても分かる、思慮深く煌めく濃い蜂蜜色の瞳が、彼の容貌に重厚な風格を与えている。
たとえようのない存在感に目を奪われたまま、私は兄に送り出されて新郎である彼の方へと手を伸ばす。
頼りなく差し出した私の手はすぐに遼河さんの力強い手に捕まえられた。
神秘的な輝きを放つ眼差しに見つめられ、心臓の鼓動がこれ以上ないほどに高まっていく。
彼は私を見つめたまま手を引き寄せると、彼の腕へと掴まらせる。
強引なほどの力強さに怯んだ瞬間、ほんのすぐ近くで流れるように落とされた視線が身体の自由を奪った。
動けない。息もできない。
情熱の火花が散ったみたいな、鮮やかな感情が私を襲う。
愛のない政略結婚なのに、まるで彼と本当に愛し合っているような錯覚が私を包み込んだ。
息をひそめて見つめるばかりの私に、遼河さんが優しく微笑みかける。
はっと我に返って彼と祭壇の前へ進み出ると、それを合図に聖歌隊が讃美歌を奏で始めた。
神秘的な空気の中、まるで夢の中にいるようにうっとりと美しい調べに身を委ねる。
最初に藤澤のおじ様からこの縁談を提案された時は戸惑ったけれど、父を失って憔悴しきった母や兄のことを思えば考える余地はなかった。
父が心血を注いで築き上げたものを、簡単に失うわけにはいかないのだ。
それに私には、他にもこの縁談を断れない理由がある。
政略という名のこの結婚は、誰も知らない私だけの想いを密やかに成就させてくれるのだから。
「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として――」
私たちの前では、神父様が優しい声で聖書を朗読している。
そして次に誓いの儀。
私と遼河さんは神様の前で手を繋ぎ、永遠の愛を誓う。
「私たちは夫婦として――」
神聖な言葉を紡ぐ遼河さんの優しい声に、切なさで胸がいっぱいになった。
分かっている。
私は本当に愛されて結婚するわけではないのだ。
でも、それでもいい。
たとえ彼にとってこの結婚が意に沿わないものでも、私は一生をかけて彼に愛を伝えるつもりだ。
そしていつの日か、少しでもいいから私を好きになってくれたなら……。それ以上に、望むことは何もない。
神父様に促され、彼に続いて私も誓約の言葉を一言一言、噛みしめながら口にする。
「――生涯互いに、愛と忠実を尽くすことを誓います」
向かい合い、遼河さんが私のヴェールを上げた。
近い距離で視線が合い、ずっと堪えていた涙が頬を伝う。
遼河さんは十五歳の時から思いを寄せるただひとりの人だ。
私は政略結婚で、恋焦がれた彼の妻になる。
ヴェールを上げた遼河さんが私の涙に気づき、ハッとしたように目を見開いた。
そして次の瞬間、頬に軽く触れるはずだった唇が、私の唇に触れる。
目を閉じることもできないまま、彼の熱い吐息を受け止めた。
淡く甘い、誓いのキス。
神様の前でのファーストキスの相手は、初恋の、私の旦那様になった人だった。