書籍詳細
目覚めたら、ママになっていました~一途な社長に子どもごと愛し尽くされています~
あらすじ
「君も子どもも俺が守り抜きたい」
空白の時間を埋める御曹司の蜜愛♡
事故で記憶の一部を失くした直後、予想外の妊娠が発覚した美月。誰が父親か思い出せないまま、シングルマザーとして子どもを産み育てていた。ある夜、そんな美月の前にエリート社長・湊が現れ…ふたりは急接近!?「君が愛おしくて仕方がない」――彼の熱烈なアプローチに戸惑うも、子どもごと甘やかされ、溺愛される日々に、美月の心は絆されていき…。
キャラクター紹介
高梨美月(たかなしみづき)
ウェディング業界で働くシングルマザー。三年半前に事故に遭い、当時から一年ほど前までの記憶がない。
結城 湊(ゆうきみなと)
ウェディング事業を展開する『ユウキウェディング』の代表取締役。冷静沈着な性格。
試し読み
初夏の香りの中に雨の匂いが混じる、六月中旬の土曜日。
湊さんと翼と公園で過ごしたあと、夕方になってから彼の家に行った。
公園の帰りに寄ったスーパーで調達した食材で私が作った夕食を食べ、彼と翼が仲良くお風呂に入り、私はひとりのバスタイムを満喫させてもらう。
こんな風に過ごすのが、恒例化しつつある。
ごく普通の家族が送るような、なにげない日々。それはとても穏やかで、些細なことでも楽しくて、三人で同じ時間を共有しているだけで自然と笑顔になれる。
今夜も翼が眠ると、湊さんとともに寝室を抜け出した。
彼とふたりだけの時間は、私にとってお泊まりの醍醐味になっていた。
リビングのソファでお茶やワインを少し飲んで、他愛のないことを話すだけ。
それでも、相手が湊さんだというだけでとても特別に思える。
三人でいるときにはどうしても翼が中心になってしまうため、彼とゆっくり過ごせる貴重な時間でもあった。
「この間、理沙とアフタヌーンティーに行ってきたんですよ。セイヴォリーもスイーツもすごくおいしかったです。どれも見た目にも綺麗で、翼も理沙も喜んでました」
「そうか。楽しんでもらえてよかったよ」
「翼を連れてアフタヌーンティーなんて……って思ってたんですが、意外にもお利口にしてくれたのでゆっくり楽しめました。翼はいちごのムースが気に入って、『おかわりある?』なんて言うくらいで……」
「もしかして大人の味を覚えてしまったかな」
「そうかもしれません」
ふふっと笑って頷けば、湊さんは「それは大変だ」と冗談めかした口調で言った。
「保育園では、先生に『おしろでおやつをたべた』って話したらしいです」
小さく噴き出した彼が、「翼くんの説明を聞いてみたかったな」と目を細める。「明日訊いてみてください」と微笑むと、柔らかな笑みを返された。
穏やかな時間に、心の奥底から幸福感が滲み出す。
湊さんから告白されたときは不安が大きくて、彼の気持ちを嬉しいと思う反面、なかなか前向きには考えられなかった。
ところが、付き合って二か月近くになる今、湊さんの存在が日々の原動力になり、心は幸せと充足感で満たされている。
ときどき、いつか記憶が戻ったらなにかが変わってしまうんじゃないか……と不安に駆られることもある。
けれど、私と翼を大切にしてくれる彼なら、どんなときも変わらず、私たちのことを受け入れてくれると思える。
だからこそ、湊さんに与えてもらったり支えてもらったりするばかりではなく、彼を支えられるようになりたい。
「美月? どうかした?」
「幸せだなぁって思ってただけです」
私の顔を覗き込んできた湊さんに、素直な気持ちを告げる。
すると、彼は意表を突かれたように目を見開き、数瞬して瞳をそっとたわませた。
「俺も幸せだよ」
優しい声音に、胸の奥が甘やかな音を立てる。
湊さんも同じ気持ちでいてくれることが嬉しくて、頰が勝手に綻んだ。
じっと見つめられていることが恥ずかしいのに、目を逸らしたくない。
彼を見ていたくて、ドキドキと高鳴る鼓動を感じながら見つめ返していた。
ふと沈黙が下り、甘い空気がいっそう色濃くなる。
直後には大きな手が伸びてきて、迷いもなく私の頰に触れた。
「……ッ!」
緊張が走り抜ける。
キスの経験はあるはずだけれど、今の私にとっては初めてのことで、どうすればいいのかわからなくて……。どぎまぎしている隙に、湊さんの顔が近づいてきた。
息を呑み、咄嗟に瞼をギュッと閉じる。
刹那、唇に柔らかなものが触れた。
それが彼の唇だと気づいたとき、胸の奥から喜びが突き上げてきて。ドキドキして苦しいのに、羞恥や緊張よりも幸福感が勝った。
恋情が愛おしさに変わっていく。
これまで翼にしか感じなかった深い愛情を、湊さんに対して抱いた瞬間だったのかもしれない。
彼を愛おしい、と心から思った。
「美月、大切な話があるんだ」
そんな風に考えていると、唇を離した湊さんが真剣な面持ちになった
どこか硬くなった彼の声色に、甘かった空気が強張り、自然と緊張感を抱く。
なにを言われるのかと身構え、無意識に息を呑んでいた。
(なんだろう……? やっぱり付き合えない、なんてことはない……よね?)
この二か月ほどは、本当に楽しくて幸せだった。
ただ、不安がまったくなかったわけじゃない。最初のうちは、すぐに飽きられたり、やっぱり付き合えないと思われたりしないかと、何度も考えたことがある。
今は湊さんがそんなことを考えていないと信じているものの、あまりいい話じゃないことが雰囲気でわかって、少なくとも楽観的には構えられない。
(もしかして、人員整理っていうのは実は建前で、本当はなにか大きなミスをしてたとか? でも、それならユウキを辞める段階で言われるはず……だよね)
嫌な音を立てる心臓を落ち着かせようと、ゆっくりと深呼吸をする。
「あの……話って?」
「実は……俺も、一時期の記憶がないんだ」
その意味を嚙み砕くのに時間を要し、彼を見たまま言葉を失ってしまう。
「記憶喪失と言うと大袈裟かもしれないが、数年前に運転中に事故に遭って……その頃の記憶がまだ戻らないんだ」
補足するように話した湊さんは、苦しげに眉を寄せた。
「美月には色々と訊いたくせに、自分のことをずっと黙っててすまない。きちんと話すつもりだったんだが、このことはごく一部の人しか知らないんだ。そういった事情もあって、なかなか言い出せなかった……」
一瞬真っ白になった私の思考が、ようやくして働き始めた。
「……えっと、事故って……」
「俺はまったく覚えてないが、信号無視の車が突っ込んできたらしい。すぐに意識が戻らなくて、目を覚ましてからも数日は会話もできなかった」
湊さんは事故のあと三日ほど意識が戻らず、頭を強く打った上に肋骨を折っていて、完治まで三か月ほどを要したようだった。
一歩間違えたら、彼は生きていなかったんじゃないだろうか。
ほんの一瞬、そんなことが脳裏に過って、身が竦むほど怖くなった。
「……美月?」
震えそうになっていた手に、湊さんの大きな手が重なる。
「ごめん……。もっと早く言うべきだった」
彼が誤解していることを察し、慌てて首を横に振る。
「違うんです……。私……湊さんが記憶喪失だってことはあまり気にしてません」
「えっ?」
「もちろん驚きましたけど……でも、湊さんだってこんな私のことを丸ごと受け入れてくれました。だから私も、あなたの全部を受け入れたいって思ってます」
「美月……」
「ただ、急に怖くなって……。変ですよね……。湊さんは今、ここにいるのに……」
徐々に声が震えていき、笑うつもりだった口角が情けなく下がる。
「ごめん、余計なことを考えさせてしまったね」
力ない苦笑を浮かべた私を、彼がそっと抱き寄せた。
「大丈夫だよ。記憶は一部欠けてるが、幸い身体的な後遺症はない。美月も知っての通り、翼くんと走り回れるくらいには元気だから、なにも心配しなくていい」
湊さんの体温と優しい口調が、恐怖心に包まれていた心を温めてくれる。
ゆっくりと不安が解れ、込み上げてきそうだった涙も収まった。
「嫌な話をしてすまなかった」
「そんなことありません。私は話してもらえて嬉しかったです」
顔を上げると、彼が申し訳なさそうにしていた。
「それに、こんなところにも共通点があったんだって思うと、自分が記憶喪失だってことをそんなに悲観的に考えずに済む気がします。あっ……共通点なんて言い方はあんまりよくないですよね……」
明るい空気にしたい。そう思って笑顔を見せたものの、言葉選びを間違ったかもしれないと慌ててしまう。
「でも、こうなるともう、運命なのかも……とも思います」
お互いに記憶の一部がないなんて、そうそうあることじゃない。それに、湊さんも似たような状況だからこそ、私を受け入れてくれたのかもしれない。
そう感じて、心がわずかに軽くなった気がした。
「そのことなんだが――」
「ママぁ……」
「翼、起きちゃったの?」
湊さんの言葉を遮った声がした方を見ると、瞳に涙を浮かべた翼が立っていた。
戸惑った様子の彼を横目に慌てて翼の傍に寄り、ラグに腰を下ろして膝の上で小さな体を抱きしめる。直後、翼はシクシクと泣き始めた。
「おっきしたらママいないの、いやだったの……。つーくんといて……」
「うん、ごめんね。びっくりしたよね。ママ、ちゃんと一緒にいるからね」
「ごめん、俺がもっと気をつけていれば……」
「湊さんのせいじゃありません。普段もこういうことはあるので大丈夫ですよ」
にっこりと微笑めば、湊さんは眉を下げて心配そうにしながらも頷いた。
「翼、ベッドで寝よう? さっきみたいに湊さんと三人で――」
「いや……。つーくん、ママとねんねするの」
はっきりと意思を主張した翼は、不安のせいか私とふたりで眠りたいようだった。
私たちを見守るように傍で立っていた彼が、小さな笑みを浮かべる。
「じゃあ、今夜はふたりでゲストルームで眠るといいよ」
「すみません……」
「謝らなくていい。翼くんが不安になるようなことをした俺の責任だ。このせいで嫌われないといいんだけど……」
「そんなことにはなりません。今はグズグズしてますが、翼は湊さんのことが大好きなので、明日にはまた抱っこをせがむと思います」
「抱っこでも肩車でも喜んでするよ」
湊さんは安堵交じりの笑みを零すと、ゲストルームに案内してくれた。
ホテルの一室のように整えられた、ベッドとチェストしか置かれていないシンプルな部屋。以前に見せてもらったことはあるものの、ここで過ごすのは初めてだった。
「なにかあれば、いつでも声をかけてくれて構わないから。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私の胸元に顔を埋める翼を抱っこしたまま、彼と笑みを交わす。
湊さんが立ち去ってからベッドに入ると、翼はようやく泣きやみ、すぐに眠った。
楽しい時間に、初めてのキス。そして、彼の過去。
一時間半ほどの間に起こった出来事を振り返る私の心は、喜びと羞恥でいっぱいだったけれど……。同時に、湊さんがなにを言おうとしていたのかが気になった。
彼が深刻そうに見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。
(やっぱり、共通点や運命って言っちゃったのが失敗だった……?)
湊さんと一緒に眠るのはまだ慣れなくて、いつもは緊張に苛まれるのに……。今夜はなぜか、彼が傍にいないことに小さな不安を覚えてしまう。
なによりも、ベッドに三人で並べなかったことが寂しかった――。
* * *
翌朝、目を覚ました翼は、昨夜のことは忘れたように平素の様子だった。
ゲストルームからリビングに行くと、すでに起きていた湊さんにしがみついて抱っこをせがみ、満面の笑みでキャッキャッと騒いだ。
機嫌よく朝食を食べたあとには、庭で彼とサッカーをしていた。
いつも通りのふたりを見てホッとし、自然と頰が綻ぶ。
反面、昨夜のことがどうしても気になって……。
「あの、湊さん。昨日の夜に言いかけてたことなんですけど……」
翼がテレビに夢中になっているうちに、湊さんに声をかけた。
「そのことはもういいんだ。気にしないで」
ところが、彼は何事もなかったように微笑んだ。
きっと、〝もういい〟わけじゃない。そう感じたけれど、湊さんにはなにか思うところがあるのかもしれないと察し、それ以上は訊けなかった。
「みなとくん、あとでこうえんにいこ!」
「ごめん、翼くん。今日は仕事があって、もうすぐ出かけなきゃいけないんだ」
「えぇっ! みなとくん、おしごとなの? つーくんとママはおやすみだよ?」
「日曜でもみんながお休みなわけじゃないんだよ。じぃじとばぁばだって、ママや翼とお休みの日が違うでしょ?」
「そっかぁ……。つまんないねぇ……」
翼はしゅんとしながらも、仕方がないことだと理解はしているみたいだった。
「ごめんね。その代わり、今度はまた公園で遊ぼう」
「うん!」
すっかり気を取り直した翼と、湊さんは指切りをしてくれた。
昼前にTシャツとデニムからネイビーのスーツに着替えた彼は、いつにも増して精悍な顔つきに見え、纏う空気もどこか凛としている。
けれど、翼に笑いかける姿とのギャップに、胸の奥が甘い音を鳴らした。
「送るよ」
「ありがとうございます。あ、でも、ワゴン車で出勤されるんですか?」
「ああ、別に問題ないしね。仕事中は社用車で移動するから気にしなくていいよ」
「ママ、おひるごはんはじぃじのハンバーグがいい!」
「うーん……じゃあ、お店が混んでなかったらお願いしてみようか」
こんどう亭のオープンは十一時で、混み始めるのは十一時半を回った頃だ。
この時間なら開店前には着くだろうし、孫を可愛がる父なら喜んで昼食を用意してくれるだろう。もし無理でも、父が忙しいとわかれば翼は聞き分けてくれる。
「実家まで送ればいい?」
「あ、うちで大丈夫です」
「遠慮しなくていい。実家は近いんだろ? まだ時間もあるし、送るよ。その方が少しでも長く一緒にいられるからね」
私の心情を見透かすように、湊さんがクスリと笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
「ついでにご両親に挨拶していこうか?」
「えっ!?」
「そんなに驚かなくても、半分は冗談だよ」
目を真ん丸にすると、彼は苦笑を漏らした。
その言い方なら、残りの半分は本気……ということになる。
急にどぎまぎしてしまい、湊さんの顔を見られなくなった。
「でも、そういう気持ちでいるから、近いうちに一度伺わせてもらいたいとは思ってるんだ。翼くんのこともあるし、きちんとしておいた方がいいと思う」
そこまで考えてくれていることが嬉しい。
けれど、彼との関係を改めて自覚させられ、両親と対面してもらうことを想像するだけで緊張した。
「だから、美月もそういうつもりでいて」
「は、はい……」
色々な意味でドキドキしたせいで、私の口数は次第に少なくなって。湊さんはクスクスと笑ったあと、上機嫌の翼と会話をしてくれた。
翼と後部座席に座った私は、平静を取り戻すことに集中していた。