書籍詳細
鬼大尉の生贄花嫁~買われたはずが、冷徹伯爵に独占寵愛されています~
あらすじ
「君が可愛くて我慢できない」孤独な軍人×政略妻 大正ロマン溺愛婚
寧々は貧しい両親を助けるため、不本意な政略結婚を強いられる。ところが相手は、以前助けてくれた憧れのエリート陸軍大尉・隆清で!?「本当の夫婦にならないか」――仮面夫婦と思いきや、『鬼大尉』の異名とは裏腹に寧々を過保護に愛でる彼。さらに、ある一夜をきっかけに、独占欲を煽られた隆清の情熱的な溺愛で、寧々は身も心も染められていき…。
キャラクター紹介
高槻寧々(たかつきねね)
師範代としてあちこちの道場に出稽古していた。お転婆なところが玉に瑕。
有坂隆清(ありさかたかきよ)
帝国陸軍の大尉。伯爵の爵位を持っている。寧々には優しいが、軍人としての鬼の顔を持つ。
試し読み
「あなたが、彼の結婚相手?」
じろじろと頭のてっぺんからつま先まで見られ、私はとりあえずネギを買い物かごに入れた。
「どこのお嬢さん? お父様の階級は?」
色々質問されるけど、私はお嬢さんでもないし、お父さんに階級なんてないので、答えようがない。
「この方は軍とは無関係の、民間の方です」
「じゃあ、どこの財閥? あ、もしや社長の娘さんとか?」
明治の世から、新たな商売が続々と出てきているけど……残念ながら、そのどれでもない。
せっかくの相模さんの援護射撃も、虚しいままに終わってしまった。
「私……」
「うん?」
「私の親は、剣術道場をしていて」
「へえ、そう。何流?」
「名乗るほどの流派では……」
口ごもると、晶子さんはフンと鼻を鳴らした。
「要するに、本当に普通の子ってわけね」
彼女の普通がどういうことかわからないけど、きっと予想よりももっと格下の娘であることは、いちいち言わなくてもいいだろうか。
学校に通えず、家のために働くしかない人間がいることを、晶子さんは考えたことがあるのかしら。
「まあいいわ。今日はこれから用事があるから、帰るわね。ごめんあそばせ」
彼女はくるりと踵を返し、来た方向へ靴を鳴らして去っていく。
どんなにひどい罵声を浴びせられるかと思っていた私は、あっさりした彼女の態度に安堵した。
私には興味などないってことね。ううん、戦うまでもないって感じかしら。
晶子さんのお父さんが権力を行使して、隆清さんを遠い地に左遷するなんてことになったら。降格されちゃったら。
そう考えたら、私と結婚していていいことなんて、彼にはない。
いったい彼は、なにを思って晶子さんとの結婚を断ったのだろう。
彼女は女の私も見惚れちゃうくらい美人で、気品がある。気も強そうで、軍人の妻にぴったりだ。
あんなに冷たい対応をするってことは、本当は過去、晶子さんと隆清さんの間に私には言えない何事かがあったのでは?
私は彼の妻といっても、まだ正式な夫婦ではない。女性として見られている気がしない。
颯爽とした晶子さんの後ろ姿をぼんやり眺めていると、相模さんに腕をつつかれた。
「行きましょう、奥様。今は奥様が正式な奥様なのですから、あの方に気後れすることはございません」
珍しく相模さんが、私に気を遣ってくれる。
以前なら、「晶子さんを見習いなさい。晶子さんが奥様ならよかったのに」とか平気で言いそうだったのに。
「ありがとう。相模さん、大好きよ」
彼女は少しずつ、私に気を許してくれているのだろう。
ぴったり寄り添うと、相模さんは頰を少し染めた。
「そういう行動はご主人様にしてくださいませ」
そういえば、隆清さんにはこういうことをしたことがない。
手さえ、自分から繫いだことはない。
だって、恥ずかしいんだもの。
私と相模さんは気分を取り直し、キャラメルを買って食べながら帰った。
一粒あげると、相模さんはそれを口の中に放り込み、「おいしゅうございますね」と言い、ニヤリと笑った。
帰ってきた隆清さんは、いつもの隆清さんだった。
やっぱり鬼なのは任務中だけで、帰ってきたら普通の人なんだわ。
「お帰りなさい。さっきお会いしたけど」
私は和子さんが体調を崩して休んでいること、相模さんとふたりで食事を作ったことを話しながら、一緒に食卓についた。
「うん。演習場から移動していたところだったんだ。あんな時間から酔っぱらいがいるとはな」
彼は晶子さんのことなどなかったような顔をしている。
あんまり触れられたくないのかな……。
「この味噌汁、いい味だ。君が作ったのか?」
「……みそ……」
「寧々さん?」
名前を呼ばれてハッとした。思考が晶子さんに会った時間に旅立っていたみたい。
「あ、そうなの。相模さんに教えてもらって……今日は品数が少なくてごめんなさい」
「どうして謝る。とてもおいしい。毎日これでいいくらいだ」
焼き魚と具だくさんの味噌汁とご飯に、漬物と冷奴が添えてあるだけ。
だけど彼はおいしそうに食べてくれる。
「よかった」
他にも色々話したいことがあったのだけど、結局言い出せなかった。
私はゆっくりお味噌汁に口をつけた。
彼も素朴な食事をゆっくり味わっていた。
夕食後、寝つける気がしなくて、私は庭で夜空を見てぼんやりしていた。
和子さんがお休みなので、今日は銭湯に行こうということになった。けど、私は冷たい水で清拭をすることに慣れているのでと、辞退した。
というわけで今は隆清さんだけが銭湯に行っている。そのせいか屋敷の中はとても静かだ。
有坂家の庭は広く、縁側はないものの、椅子がある。
昔隆清さんのお祖母さんが、庭でバラを愛でながら紅茶を飲むために買ったらしく、小さなかわいらしい白いテーブルとそろえて置いてある。
そこに肘をつき、星空を眺める。
たまにはひとりでぼんやりするときがあってもいいわよね。
なんか、色々考えすぎて疲れちゃった。
気を抜くと、晶子さんの紅顔が脳裏に浮かぶ。
彼女、隆清さんに結婚を断られたこと、すごく怒っているみたいだった。
自分が彼の妻に選ばれて当然だと思っていたのだろう。
そりゃそうだ。あんなに綺麗で、しかも親御さんもすごい人だもの。
権力争いに巻き込まれたくないという隆清さんの気持ちはわかる。
でもそうして晶子さんと結婚をしなくても、結局恨まれて、彼の仕事を邪魔されたら意味がない。
海軍と陸軍だから、直接的に人事に働きかけることはできないかもしれないけど、間接的に圧力をかけてきたりするかも。
ああ、いやだ。夕方からずっと、同じことばかりぐるぐる考えてる。考えたって、どうしようもないのに。
ふうと深いため息を吐くと、肘をついたテーブルが少しだけ揺れた。
「なにをしている?」
優しく降ってきた声に、私は顔を上げた。
そこには、銭湯から帰ってきた着物姿の隆清さんがいた。
「今日は、元気がないみたいだな」
彼は私の向かい側に置いてあった椅子を動かし、すぐ横に座った。
顔を覗き込まれ、思わず視線を泳がせてしまう。
「そんなことないわ」
「噓だね。今日は夕食を少ししか食べなかった。君が食べられないときは、元気がないときだ」
彼は自信満々に言い切る。
私……すっかり、ただの食いしん坊だと思われているのね。
「はい、口開けて」
「え?」
「いいから」
言われるまま口を開けると、ぽいとなにかを放り込まれた。
口を閉じて舌の上で転がしたそれは、とろりと溶けてなくなっていく。
「ふわあ……」
甘いけれど、飴でもあんこでもない。昼間食べたキャラメルとも違う。
不思議な風味だけど、おいしい。いくつも食べたくなってしまう。
思わず頰を緩めた私に、彼は微笑みかけた。
「チョコレートだ」
「これが噂の!」
キャラメルの隣に売っていた、茶色のチョコレート。こんな味がするのね。
「少しは元気になったか?」
からかうような笑い方に、ムッとした。
おいしいものを与えれば、私の機嫌が直るとでも?
別のことで考え込んでいるなら、チョコレートひとつで忘れちゃうかもしれないけど、今回はだめなんだから。
「おいしかった。でも」
「元気にならないか。どうしたらいい。黙ってじっとしている君を見ていると、胸が騒いで仕方ないんだ」
眉を下げた彼を見上げる。
どうも、私はいつも能天気に動き回っている印象が強いらしい。
「私だって、考え込むことくらいあるのよ」
「お義母さんの病気のことか?」
「違います。夕方に会った、晶子さんという方のことです」
隆清さんの目が一瞬泳いだ。やっぱり、彼女となにかあるんだ。
「そんな名前だったか。よく知ってるな」
彼の返答に、私は椅子から転げ落ちそうになった。
あんな綺麗な人の名前を忘れる?
いいえ、騙されちゃいけないわ。隆清さんは大した役者なんだから。
「どうしてあんなに素敵なお嬢さんを振ったの?」
「どうしてって……言っただろ。あの人の父親が嫌いなんだよ。権力が大好きな人なんでね」
「じゃあ、晶子さん本人のことは嫌いじゃないのねっ」
思っていたより大きな声が出てしまい、彼は目を丸くした。けれど、一番驚いているのは自分だった。
なに言ってるの。これじゃケンカをふっかける酔っぱらいと変わらない。
「嫌いというか、苦手だね。なんでも自分の思い通りにならないと気が済まないみたいだし」
隆清さんの顔から笑顔が消え、無表情になる。
「え……そう?」
「あの人が俺になんて言ったか覚えているか?」
私は夕方のことを思い出す。
晶子さんの存在自体に圧倒されてしまったのか、少し距離があったからか、なにを言っていたのか詳しくは覚えていない。
首を傾げる私に代わり、彼は自分で答えを提示した。
「『この私というものがありながら、他の方とご結婚されたというのは本当ですの?』って言ったんだよ。あの人は」
「はあ」
「どうやら自分を至高の存在だと思っているらしい。父親と同じ思考だよ。気に入らない」
すごい剣幕で隆清さんに詰め寄っていると思ったら、そんなこと言ってたのね。
隆清さんはそのことを思い出したのか、眉を下げて肩をすくめた。
「だって、事実綺麗なんだもの。頭もよさそうだし、家柄もよくて、向かうところ敵なしじゃない」
足だって、とんでもなく速かった。
お胸も、動くたびにゆさゆさ揺れていた。
「私が勝てるところなんて、ひとつもないわ。世の中の不公平さに嫌になっちゃった」
私だって、両親は変えたくないけど、もう少しお金がある家に生まれたかった。
それに、父より、母に似たかった。母は今こそ疲れ切っているけど、若い頃はそこそこかわいかったらしい。
なんと言っても、ちゃんとした教育を受けたかった。
ただの元気自慢だけじゃ、隆清さんの役に立てない。
なんでもかんでも持っている晶子さんみたいな人を目の当たりにしたら、さすがの私も落ち込むわよ。
「勝ち負けなんて意味ないだろ。彼女は彼女、君は君だ」
「うん……」
そうよね。私だって、いつもならそう思って気持ちを切り替えていた。
なのに今日は、ずっとモヤモヤしている。
「俺は、ああいう気位の高いお嬢さんより、自然体で明るい君が好きだよ」
うつむいている私の頭頂部に降ってきた言葉に、思わず顔を上げた。
なんですって。今、なんて言ったの。
目を剝く私に、彼は月光のようにささやかに笑いかける。
「好きだよ、寧々さん」
彼は私の目を真っ直ぐ見て言った。
胸を撃ち抜かれたみたいに、息が止まりそうになる。
そして、唐突に気づいた。
「隆清さん……」
私、いつの間にか隆清さんをうんと好きになっていた。
最初から素敵な人だと思っていたけど、結婚の日に落胆した。
彼は結婚など、望んでいなかったから。
じゃあ、私だって好きにさせてもらう。別に平気だ。そうやって、虚勢を張った。
そう、虚勢だったのだ。
だって彼は、私の初恋だった。絡んでくる男子学生を追い払ってくれたあのとき、私は彼に一目惚れした。
だから本当は、彼の花嫁になれて、うれしかった。
隆清さんが相手だと知って、すぐに実家に帰ってやろうという気持ちは消滅しかけたんだ。
だけど彼はつれなかった。
私だけ彼を想っているのはつらいから、どうだっていいふりをした。
でも、本心は違った。
隆清さんは私のことなどどうでもいいはずなのに、相模さんのしごきから庇ってくれた。両親に優しくしてくれた。
それだけでもじゅうぶんだった上に、彼は自分から「夫婦になろう」と言ってくれたのだ。
あの日から彼は私に優しくするだけでなく、自分の心を開いてくれているような気がする。
気持ちの距離が近づくたび、私はより一層隆清さんのことを好きになった。
ただ、自分の気持ちを認めるのが怖かった。
隆清さんが自分を望んでいるという自信がなかったから。
いつか彼に本命の女性ができて、離婚の運びになったりしたら、立ち直れないから。
「わ、私も……」
勇気を振り絞ってそれだけ言うと、彼はにっこりと笑った。
私の臆病者。ちゃんと好きって言わなきゃいけないのに。
「それはよかった。安心した」
頰が熱くて、頭がぼんやりしてきた。くらりと脳が揺れる。
「寧々さん?」
視界が歪み、耐えられなくて目を閉じた。
テーブルに突っ伏す私の額に、隆清さんのひんやりした手が押しつけられる。
「熱があるみたいだ。流行りの風邪かな」
彼が呟く。
もしや、和子さんも疲労じゃなくて風邪なのかしら。
ってことは、相模さんにもうつっている可能性がある。隆清さんもだ。
「早く寝よう」
ふわりと体が宙に浮く感覚に驚いて目を開けると、隆清さんの端正な顔がすぐ近くにあった。
横抱きにされているのだとわかった瞬間、余計に熱が上がった気がする。
彼は早足で私を寝室に連れていき、ベッドに寝かせてくれた。
噓みたいに軽やかな身のこなしに、やっぱり彼は男の人なんだなあと感じる。
隆清さんが離れても、心臓がうるさいくらいに高鳴っていた。
「寝られそうか? 医者を呼ぼうか」
「いいえ、大したことないわ」
お父さんが言ってたもの。熱は夜上がるものだって。一晩寝てよくなることがほとんどだから、私は医者にかかったことがない。
……ん? もしかして、貧しかったから、節約のためにそういう暗示をかけられただけ?
まあいいや。少し頭痛はするけど、喉は痛くないし、咳も出ない。眠ればよくなるだろう。
「そうか。そうだ、熱冷ましならあったかもしれない」
「えっ?」
彼は壁際の棚の引き出しから、なにかを取り出した。
「まだ残っていた。これで今日はしのごう」
隆清さんの手に握られていたのは、昔懐かしい印籠だった。
黒光りする漆塗りの本体に、金の蒔絵で描かれた家紋が浮かび上がる。
その中から取り出した薬包を渡され、私は上体を起こした。
彼が用意してくれた水で、それを飲む。
「ありがとう。印籠なんて、久しぶりに見たわ」
祖父が持っていた気がするけど、実家に残っているかどうかは不明だ。
彼はそれを私に見せ、懐かしそうに目を伏せる。
「これは祖母の形見なんだ。シベリアにも持っていった」
「そうなの」
「君にあげるよ。薬でもお菓子でも、好きなものを入れておくといい」
「えっ?」
彼はなんの未練もなさそうに、印籠を私の手のひらにぽんと乗せた。
「いけないわ。大事なものなんでしょう?」
「だからだよ。祖母が『隆清がお嫁さんをもらったらこれをあげるの』って言っていたのを、今思い出したんだ。これは有坂家の嫁に代々受け継がれてきたものだから」
白無垢と一緒に贈っておけばよかったんだけど、と彼はつけ足した。
最初は結婚に無関心だったので、引き出物や衣装の件は片岡さんに一任していたと彼は言う。
片岡さんも印籠のことは忘れていたのか、あるいは知らなかったのだろう。
「そう……ありがとう。大事にする」
これをくれたってことは、彼は私を本当の妻だと認めてくれたってことよね。
好きだと言ってくれた彼の言葉を嚙みしめる。幸福感が胸を満たした。
「うん。さあ、おしゃべりはおしまいだ」
彼は私を横にすると、さっと灯りを消してベッドに入ってきた。
「うつるといけないから、私がどこかに行くわ」
「なに言ってるんだ。いつもより温かくて心地いいくらいだよ。なにも気にしないで寝なさい。おやすみ」
彼が優しく頭を撫でるから、瞼が素直に覆いかぶさってくる。
その瞬間、唇に柔らかくて温かいものが触れた。
彼の長いまつ毛が、私の視界に影を落とす。
わ、私今、隆清さんに口づけされてる……!
混乱が高鳴る鼓動を上回り、訪れた眩暈に身を任せた。
私はもらった印籠を抱きしめたまま、眠りについた。