書籍詳細
クールな御曹司は甘い恋をご所望です
あらすじ
俺だけには甘えたくなるようにしてあげる 甘党上司との、スイーツみたいに甘い恋をめしあがれ
お菓子づくりが趣味のOL・水野莉子は、姉の開く料理教室を手伝っている。ある週末、ジュニアレッスンのサポートをする莉子の前に現れたのは、なんと上司である各務貴成だった! 会社では常にクールな彼は、実は大の甘党男子で…!? 素顔を知ったことをきっかけに二人の距離は縮まっていく。自分だけに見せてくれる甘い態度に、ときめく莉子は――。
キャラクター紹介
水野莉子(みずのりこ)
お菓子づくりが趣味のOL。姉の開いている料理教室のレッスンを時々手伝っている。
各務貴成(かがみたかなり)
莉子が勤める会社の専務取締役で、現社長の息子。社員の憧れ。
試し読み
レッスン開始まで十分を切ったとき、男性の声がした。その直後、スタジオ内の空気が変わり、ママたちが色めき立ったような顔でヒソヒソと話し始めた。
数人の子どもに囲まれていた私は、少し遅れて声がした方に視線を遣った。
「せっ……!?」
目を大きく見開いたのと驚きの声が漏れたのは、ほとんど同時のこと。
慌てて口を押さえたけれど、お姉ちゃんと話している男性から目が離せない。
私が立っているテーブルがその男性たちの席だったようで、彼はテーブルに荷物を置くと、私に「よろしくお願いします」と頭を下げた。
その数秒後、端正な顔が驚きの表情に変わったのは、きっと私と同じ理由だろう。
戸惑いは隠せなかったけれど、男性に集まる視線に気づき、咄嗟に笑みを浮かべた。
「坂野の妹で、アシスタントの水野です。今日はよろしくお願いします」
なんとなく初対面を装った方がいい気がして頭を下げると、彼も「樋野です」と挨拶を返してくれたけれど、私の頭の中は疑問符でいっぱいになっていた。
だって、目の前にいるのは、間違いなく各務専務だから。
なんで専務がいるのっ!? それよりも樋野って言ったよね!? 専務は各務でしょ!?
「ナリく……じゃなかった、パパ」
頭の中がパンクしてしまいそうな私に追い打ちをかけるように、可愛らしい女の子が『パパ』と口にした。思わず各務専務を見ると、専務は気まずそうにしながらも女の子に笑顔を見せ、「どうした?」と尋ねた。
「直のエプロン、着けてあげてよ」
「あぁ、悪い。美奈はもう着けたのか。直、こっちに来い」
直と呼ばれた男の子は、各務専務にエプロンを着けてもらっていた。三人は仲のいい家族という感じで、滅多に笑わないと思っていた専務は優しく微笑んでいる。
見たことがないその笑顔はいつものクールな各務専務よりも素敵で、不覚にもドキドキしてしまいそうになったけれど……。絵に描いたような幸せな家族といった感じがする目の前の光景に、すぐに現実に引き戻される。
でも、各務専務って独身だったはずじゃ……。それとも、内密にしてただけ? そうだとしたら、なんのために? それに、苗字も違うし……。
「それじゃあ、レッスンを始めます!」
考えることに必死になっていた私は、お姉ちゃんの声にハッとする。
色々と疑問はあるけれど、今はアシスタントとしてここにいる以上、レッスンをこなすことを考えなければいけないと気を引き締めた。
レシピの説明が済むと、調理に入ることになった。
今日作るクッキーは簡単で、昨日念のために試作してみたけれど、子どもでもちゃんと作れそうだ。お菓子作りの経験がなくても、保護者の女性たちはママだけあって手際がいい。
その中で遅れがちだったのは、お姉ちゃんの予想通り各務専務たちだった。
「真由子先生は粉をふるってからって言ってたよ」
美奈ちゃんはしっかりしているようで、専務に指示を出している。エプロンに着いている名札には【三年生】と書いてあり、弟の直くんは一年生だと教えてくれた。
私は、邪魔にならない程度に各務専務たちの様子を窺いながら他のテーブルを回っているけれど、どうにも美奈ちゃんの声が気になってしまう。それでも、私が傍にいると専務が嫌かもしれないと考えて、あまり積極的に声をかけられずにいた。
しばらくしてお姉ちゃんが「生地をラップに包んだら持ってきてくださいね」と言うと、子どもたちが嬉しそうな表情で冷蔵庫の方へと向かった。
「あら、樋野さんはまだできてないの? 手伝ってあげましょうか?」
直後に、手の空いたママのひとりがそんなことを口にし、それに続くように数人が各務専務たちのテーブルを囲んだ。みんな専務に話しかけたかったようで、「大丈夫ですから、お子さんを見てあげてください」という返事なんてお構いなしだ。
各務専務がママたちに捕まっているせいで、美奈ちゃんと直くんはまるで蚊帳の外にいるみたい。それに気づいた私は、すぐに専務たちの元へ行った。
「みなさん、樋野さんは私がサポートしますので大丈夫ですよ」
優しい口調で告げると、ママたちは残念そうにしながらも自分たちのテーブルに戻っていった。すると、各務専務がホッとしたように微笑み、私の傍に来た。
「助かりました」
不意に、耳元で囁かれてドキッとした。
専務の低い声がやけに近くて、まるで恋人のような距離感に戸惑ってしまう。
そんな私の隣で、各務専務はさきほどのママたちにチラリと視線を遣りながらそっとため息をついた。その困ったような横顔に、もしかしたらいつもこんな風に囲まれているのかもしれないと思った。
お姉ちゃんのことだからこういうことがあればそれとなく注意はするだろうけれど、ひとりでレッスンをしているときには目が届かないこともあるだろう。
「まだできてないの、美奈たちだけだよ……」
「大丈夫だよ。もうほとんどできてるし、型抜きはみんなと同じときにできるからね」
優しく言うと、美奈ちゃんと直くんは顔を見合わせて笑ったけれど、本当はあまり時間がなかった。それを笑顔で隠して、ふたりの視線に合わせるために膝を屈める。
「でもね、もう少しだけ混ぜた方がいいんだけど、私がやってもいいかな? ちょっと力がいるから、ここは大人がやった方がいいんだ。その代わりね……」
そして、美奈ちゃんたちにだけ聞こえるように顔を近づけ、わざと声を潜めた。
「とびきりおいしくなるようにしてあげる。みんなには秘密だよ?」
たちまち瞳を輝かせたふたりは、秘密という言葉が嬉しかったみたい。
不安を拭ってあげられたことにホッとしていると、様子を窺っていた専務が笑みを浮かべていて、またドキッとしてしまう。
きっと、入社してからの三年間よりも今日一日の方が各務専務の笑顔を見ている。
普段笑わない人の笑顔の威力に戸惑いながらも急いで作業を進め、美奈ちゃんたちと生地を冷蔵庫に入れた。そのあと、ふたりがテーブルに戻っていくのを確認してから冷凍庫に移すと、専務が「冷蔵庫じゃないのか?」と不思議そうな顔をした。
「本当はそうなんですけど、少し時間が足りないので……。美奈ちゃんたちが取りに来る前には冷蔵庫に戻しておきますし、味や見た目は変わりませんから大丈夫です」
笑顔で返しながら、昨日試作しておいてよかったと胸を撫で下ろす。
念のために、生地を半分に分けてそれぞれを冷蔵庫と冷凍庫に入れてみてから焼いたおかげで、自信を持って答えられたから。
「そうか。ありがとう」
「い、いえ……」
また笑みを向けられて、思わず視線を逸らしてしまいそうになる。私の記憶が正しければ、会社で各務専務から私だけに笑顔を向けられた記憶はほとんどない。
しかも、会社では見ることのない私服姿は、ネイビー系のパンツに白いシャツという至ってシンプルな物なのに、どこか洗練されているような雰囲気があって……。さらには、黒いエプロン姿も様になっているせいで、今日は戸惑ってばかりだ。
そんな私を余所に、専務は美奈ちゃんたちのところへ戻ってしまった。
その背中を見つめながら自然とため息を零していた理由はわからないけれど、ふたりに向けられている笑顔になんだか胸がキュッとなった気がした。
それから一時間半近くが経った頃、スタジオ内は甘くて香ばしい匂いに包まれていた。各務専務たちのクッキーも上手くできたようで、美奈ちゃんと直くんの笑顔を見てホッとする。
「うわぁ、パパのやつ変な形!」
ただ、専務が型抜きをしたクッキーはなんだか歪で、星型のはずがグニャグニャのヒトデみたいになっていた。美奈ちゃんたちにからかわれる横顔は不服そうで、噴き出しそうになってしまう。
専務って、もしかして不器用なのかな?
そんな風に考えるとまたおかしくなって、楽しそうな笑い声が響くスタジオの隅でクスクスと笑っていた。
「今日は助かったわ。樋野さんのフォローもありがとう。あそこのパパ、いつも他のママたちに囲まれるのよ。毎回注意するんだけど今日は手が離せなかったから、莉子が間に入ってくれて本当に感謝してる。生地作りも上手くフォローしてくれたし、お菓子作りなら私より莉子の方が上手いから頼りになるわ」
「そんなことないけど……。でも、役に立てたみたいでよかった」
安堵の笑みを返すと、「謙遜しなくていいわよ」と笑ったお姉ちゃんに、くすぐったいような気持ちになる。お世辞でも、お姉ちゃんに褒めてもらえるのは嬉しい。
「私は試作したいから残るわね。余った材料は、好きなだけ持って帰っていいから」
「うん。またアシスタントが必要なときは、いつでも声をかけてね」
材料をもらったお礼を言い、スタジオを後にした。スタジオは四階建てのビルの三階にあるから、エレベーターで一階まで降りてビルのドアを抜ける。
「あ、莉子先生!」
直後に名前を呼ばれて立ち止まると、美奈ちゃんと直くんが走ってきた。その後ろには、もちろん各務専務もいる。
そして、戸惑っている私に、ふたりは口々にお礼を言ってくれた。
「今日のことがすごく嬉しかったから、君にお礼を言いたかったらしい」
「それで、待っていてくださったんですか?」
専務の言葉に目を見開いてふたりを見ると、キラキラとした瞳が向けられていて、素直で可愛らしい姿に思わず頬が緩む。
「私の方こそ、待っていてくれてありがとう。優しいパパとお料理できてよかったね」
〝優しいパパ〟というのは素直な気持ちだけれど、言いながら胸の奥がチクンと痛んだ気がして、ほんの少しだけ戸惑う。
「ナリくんは、パパじゃないよ?」
「え?」
「ナリくんはね、ママの弟なの。でも、ここでは内緒なんだって。よくわからないけど、ママが『お料理教室のときはナリくんをパパって呼びなさい』って言うから」
美奈ちゃんの言葉に驚く私に、各務専務が小さな笑みを零した。
「専務のお子さんじゃなかったのですね……」
「俺は独身だよ。ここでは、他の生徒さんたちの目もあるから、ふたりの父親ということにしているが……。それより、今日はありがとう」
「そんな……。私はアシスタントとして行動していただけですから」
慌てて首を横に振りながらも、専務の言葉にホッとした私がいることに気づく。
ただ、その理由はよくわからなくて、また別の戸惑いが芽生える。
「ねぇねぇ! 莉子先生は僕たちのクッキーをおいしくしてくれたから、特別に秘密を教えてあげる!」
不意にそんなことを言い出した直くんに促されて屈むと、「ナリくんは、甘い物が大好きなんだよ」と満面の笑みで打ち明けられた。
「こら、直!」
頭上から慌てたような各務専務の声が落ちてきて、聞いてはいけないことを知ってしまったと焦ったけれど……。見上げた専務は頬を赤らめながら、私から視線を逸らしていただけだった。
普段なら絶対に見ることができない表情は、いつもの各務専務とは違ってなんだか親しみやすい雰囲気がある。クールな専務が明らかに照れているのがわかるから、可愛いとすら思ってしまいそうなくらい。
「誰にも言わないでくれ……」
「えっと、それは言いませんけど……。あの、どうして秘密なんですか?」
ためらいがちに訊いてみると、各務専務はため息をついた。さすがに踏み込み過ぎたかもしれないと反省したとき、専務が気まずそうに口を開いた。
「俺が甘党だなんて、イメージと違うだろう……」
予想外の返答にキョトンとした私は、小首を傾げてしまう。
「確かに、普段の専務のイメージとは違う……と言えばそうなのかもしれませんけど、私は今日の専務の方が素敵だと思います。笑顔で美奈ちゃんたちとクッキーを作る姿を見ることができたし、甘い物が好きだって知ることができて親近感が湧きましたし、その方がいいと思ったくらいです」
「……君は変わっているな」
「え? そうですか?」
「そんな風に言われたのは初めてだ」
ふわり、と優しい笑みを向けられて、その綺麗な表情に息を呑んだ。自惚れかもしれないけれど、そこには素直な喜びが現れていたんじゃないかと思う。
「じゃあ、また会社で」
「は、はい。お疲れさまでした!」
頭を下げた私にクスッと笑った各務専務が「水野さんもお疲れさま」と言い残し、手を振る美奈ちゃんたちを連れて立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、レッスン中に専務の背中を見ていたときとは気持ちが全然違うことに気づいたけれど、その理由はよくわからなかった。