書籍詳細
想定外ですが最愛の幼馴染みに奪われましょう~初恋夫婦の略奪婚~
あらすじ
「昔からずっとお前が欲しかった」一途すぎる御曹司の執着愛に攫われて…!?
家の借金を返すため、望まない結婚を余儀なくされたわかな。嫁入り当日、家に突然訪ねてきた幼馴染みの御曹司・雅孝から結婚を申し込まれる。「わかなを奪いに来た」――密かに想っていた初恋の彼にすべてを捧げると決め、存分に甘やかされる新婚生活がスタート。そしてある夜を境に、わかなは雅孝が孕む情熱と深い愛情を思い知らされることになって…!?
キャラクター紹介
藤峰わかな(ふじみねわかな)
父が借金の連帯保証人になっていたことが判明し、望まない結婚に踏み切る。華やかな見た目に反し、恋愛経験がない。
灰谷雅孝(はいたにまさたか)
世界有数の情報会社『GrayJT Inc.』の社長令息の次男。茶目っ気たっぷりなムードメーカー。
試し読み
パーティーが終わり、私はホテルの部屋へひとりで向かう。雅孝は何人かの関係者から誘いを受け、改めて別のフロアにあるバーで飲み直しに行った。
カードキーで部屋のドアを開けると自動で明かりがつく。ビジネスホテルが当たり前の私にとっては、贅沢にスペースを使った造りに驚くしかない。絨毯にヒールの音は消され、広々としたリビングが目に入る。どうやら寝室は別にあるらしい。
そっと窓際に近づくと、最寄駅を始めとする密集した建物の明かりが夜の暗闇に映え、どこか別の世界のようだ。
雅孝にとってはこの光景が、ホテルといえばこういった部屋が、普通なんだろうな。ベッドはツインになっていて無意識に胸を撫で下ろす。
きっと雅孝は遅くなるだろうから先にシャワーを浴びて寝てしまおう。ドレスを脱ぐと解放感に身が軽くなる。バスルームも部屋のグレードに違わず立派なものだった。ジェットバス付きの広々としたバスタブにお湯を張る。備えつけの入浴剤を入れると、お湯はとろみのある乳白色になり、いい香りに包まれた。少しだけ心が弾み、化粧を落として髪や体を洗ってからゆっくりと湯船に体を沈める。お湯があふれ湯気が立ち上るのをぼんやりと見つめた。こんなふうにゆっくりとお風呂に入るのは実は久しぶりかもしれない。雅孝と暮らすマンションでは、やはりまだ気を使ってしまうし。
私は大きく息を吐いた。
まさかここで厚彦さんに会うとは思わなかったな。私への態度も相変わらずで、彼にとって私との結婚がなくなってもなんでもないのが、せめてもの救いだ。
けれど――
『よっぽどの馬鹿か物好きなんだな』
『見る目のない君の夫に』
私はなにを言われてもいい。でも、私のせいで雅孝や両親まで悪く言われるのが申し訳なくて苦しかった。
ひとりでちゃんと対処できていれば、雅孝に迷惑をかけなかったのに。
ぎゅっと目をつむり、自身を抱きしめる。口元までお湯に浸かったあと、そっとバスタブの内壁に背中を預けた。ぽたっと水滴がどこからか落ちる音が聞こえ、それからはひたすら静寂が続く。入浴剤の効果もあるのか、温かさと疲れで意識が微睡み出した。
『だからもう泣くな。泣くなよ、わかな』
ああ、また……なんでそんなことを言うの? よく見てよ。
泣きそうなときは雅孝のこの言葉を思い出して堪えてきた。お父さんが亡くなったときも、泣き崩れる母や妹を支えないとならなかった。父が連帯保証人になっているのが発覚したときも、そのために厚彦さんと結婚する流れになり、彼になにを言われても必死に耐えた。
「泣いて……ない」
「わかな」
無意識に口を動かしたのと、耳に声が届いたのは、ほぼ同時だった。
目をぱちくりさせ現実を前にしたら、心配そうな顔をした雅孝がこちらを見ている。
「なっ! えっ!?」
混乱する私をよそに、雅孝は濡れるのもかまわずバスタブに身を乗り出して、力強く私を抱きしめた。彼はジャケットを脱いでいるもののまだ着替えておらずシャツのままだ。
「大丈夫か? 体調は?」
いまいち事情が呑み込めないが、正直に答える。
「大、丈夫。ごめん、ウトウトしていて」
雅孝が言うには、部屋に戻ってきたが私の姿はなく、念のためドア越しにバスルームに呼びかけたが、そこでも反応がなかったので、不安になり断りを入れつつドアを開けたらしい。すると私が目を閉じてバスタブに浸かっていたので、慌てて声をかけて今に至るそうだ。
「部屋にいないし、バスルームも静かで気配を感じなかったから、最初はわかながひとりでどこかに行ったんじゃないかって」
さすがに、いくら私でもそこまで大胆な真似はできない。そもそもどこにひとりで行くのか。
「心配、かけてごめん」
額に滲む汗を手の甲で拭う。それなりに長湯していたみたいだ。意識すると頭がくらくらしている。
そこで今の状況に思い直す。お湯は濁っているけれど、あまりにも大胆な状況だ。今さらながら体を隠すように肩まで浸かる。
「もう出るからあっちで待っていて」
恥ずかしさもあり、早口で捲し立てた。ところが雅孝は打って変わって飄々とした顔になる。
「そこは、このまま一緒に入ろうってならないのか?」
「ならない!」
即座に返すと、雅孝は私の頰にそっと手を添えた。
「そうだな。顔も赤いし早く上がった方がいい」
触れられた箇所が熱く感じるのは、気のせいだ。彼が颯爽とバスルームを去ってから、私はのろのろと立ち上がってふかふかのバスタオルに手を伸ばす。
あそこまであからさまに拒否しなくてもよかったのかもしれない。冗談だとしても、心配して探してくれたのに。もっと素直に甘えられたら……。
ふらふらするので、やはりのぼせたらしい。髪を乾かしきれていないがバスローブに身を包み、さっさとリビングに向かう。
雅孝も疲れているだろうし、中途半端に濡れてしまったから彼も早くお湯に浸かった方がいい。
「ごめんね。雅孝もバスルーム使って」
ソファに座っている雅孝に声をかけると、彼の視線がこちらを向いた。ところが彼は席を立たずちょいちょいと手招きする。
「なに?」
尋ねると左手を摑まれ、雅孝の隣に腰を下ろす形になる。
「無理をするな。ほら、水」
手早くグラスに注がれたミネラルウォーターを手渡され、素直に受け取る。汗もかいたし、体が水分を欲していたのは事実だ。熱がこもっている体に冷たい水がよく染みる。
「ありがとう」
お礼を告げたら空になったグラスを取られ、肩を抱き寄せられる。雅孝に寄りかかる体勢になり、密着してもいいと許される気がした。
少しだけ沈黙が続き、私から口火を切る。
「思っていたより帰ってくるのが早かったね」
けっして非難しているわけではなく、場所を変えてお酒が入ったら、それなりに盛り上がると踏んでいたから純粋に驚いた。
「せっかくの新婚なのに、付き合わせた妻をここでひとりにさせるほど野暮じゃない」
雅孝は湿り気を帯びた私の髪に指を通しながら告げた。誰かになにか言われたのかと彼を横目に見つめると、私の視線の意味を感じたのか雅孝が苦笑した。
「俺がわかなと一緒に過ごしたかった……わかなをひとりにさせたくなかったんだ」
彼の言い分に目を見張る。なんとなく雅孝が私を心配する理由がわかった気がした。
「今日は……ごめんね」
「どうしてわかなが謝るんだよ?」
尋ね返してくる雅孝だが、きっと私が厚彦さんと会って、いろいろと気にしているのを悟っているに違いない。
「だって」
「わかなは俺よりずっと優秀なんだ。見た目も中身もまったく申し分のない素敵な妻だと思っている。だからなにも気にせず、堂々と俺のそばにいたらいい」
説明を続けようとした私を遮り、雅孝は言い聞かせるように続けた。そんなふうに彼に評価してもらえるのは嬉しいし、ありがたい。
だからこそ、雅孝にずっと言おうと思っていた件について切り出さなければと思った。
「あのね……」
そこで雅孝は改めて私の方に顔を向けた。対して私はついうつむき気味になって彼から視線を逸らしてしまう。
「私たち結婚したけれど、事情があってで……もしも雅孝が、その……割り切って付き合ったりする女性がいるなら、会ってもかまわないからね」
曖昧な言い方しかできなかったが、意味は伝わったはずだ。
おじいさまに結婚相手について口を出されるのを雅孝は幼い頃から理解していた。それを踏まえて、結婚とは切り離した関係で彼女だっていただろう。
「なんだよ、それ」
予想内なのか外なのか。雅孝からは怒気を含んだ声が返ってきて私は肩を震わせる。けれど、まともに夫婦関係を築けていない今の状態のままでいるわけにもいかない。
「そこまでして……俺に触られるのは嫌なのか?」
「嫌じゃない。そんなふうに思ったことない」
ため息交じりに雅孝から問いかけられ、すぐさま否定した。
その答えに、雅孝がわずかに動揺したのが伝わってくる。
「なら、なんなんだ」
だからなのか、聞いてくる彼の声はずいぶんと落ち着いたものになった。そこで私はおずおずと顔を上げる。
緊張で口の中が一瞬にして乾いたが、ここまできて言わないわけにはいかない。
「私、経験ないから。雅孝が望むようにはできないと思う」
極力さらりと告げたつもりだが、心臓は激しく音を立てていた。
「……は?」
どういう反応をされるのかと思っていたら、雅孝は信じられないといった面持ちで目を丸くしている。
「経験って?」
まさか聞き返されるとは思わず、逆に私の中で緊張の糸がぷつりと切れた。
「だから男の人と寝た経験がないの! この年で、って思うかもしれないけれど、こればかりはどうしようもないでしょ!」
なにを言われたわけでもないが、恥ずかしさもあって半ば自棄になって返した。雅孝にとってはそれほどありえないことなのかもしれないが。
「でも、あの男と婚約までしていて?」
ああ、なるほど。そこを指摘されると、もっともだと思う。おかげで私はすぐに冷静さを取り戻した。
「厚彦さんは、私との結婚が決まっても他に付き合っていた女性がいたから」
結婚する相手とこんな歪な関係を築いているなんて、誰にも言えなかったし相談できなかった。なにより彼との婚約さえほとんど話していない。でも、すべて今さらだ。
まったく求められなかったわけじゃなかった。興味本位に手を出されそうになったが、なんだかんだで理由をつけて拒否する私に、彼も興ざめしたらしい。
『お堅くて面白みもない女、こっちから願い下げだったから』
その点についてはなにも反論できない。その通りだと自覚はある。
「結婚しても付き合っている彼女との関係は続けるって最初から言われていたの。でも、それでホッとしていた自分がいたのも事実で……。責められないし、しょうがないよ。私は結婚してもらった身で」
そこで我に返る。私と厚彦さんの関係について詳しい説明はどうでもいい。
「雅孝もそう。感謝しているの。だから」
慌てて話を戻そうとしたら、突然彼に思いっきり強く抱きしめられた。しばらく沈黙が続き、回された腕の力は痛いほどで表情は見えない。ただ、ひとつだけ伝わってくる。
「……怒ってる?」
「ああ」
低い声で短く返され、肩をすぼめる。
やはり他の女性のところに行ってもかまわないというのは、失礼な話だったかもしれない。
雅孝のプライドを傷つけた? それとも私に経験がないと知らせるのが遅すぎた?
思考がぐるぐると回り出し、胸が苦しくて息が詰まりそうだ。
ぎゅっと全身に力を入れていると、腕の力が緩み体が自由になる。とはいえまともに雅孝の顔が見られない。
すると前触れもなく彼の手が頰に添えられ、強引に上を向かされた。真剣な顔をした雅孝と目が合う。
「わかなは、そんなないがしろにされていい存在じゃないんだ」
思わぬ発言が彼から飛び出し、虚を衝かれる。強く言い切ると、雅孝はわずかに私との距離を縮めた。
「結婚した理由は関係ない。嫌なことは嫌って言ってかまわないんだ。無理をしたり、なにを言われても、されてもいいなんて思う必要はどこにもない」
まるで子どもに対するお説教みたい。誰に対して、なにを怒っているの?
けれど彼の言葉一つひとつに感情が揺すぶられて、心の奥に沈めていたなにかが込み上げてきそうになる。
雅孝はけっして私から視線を逸らさない。
「俺はあの男とは違う。ちゃんとわかなを大事にする。大事にしたいと思って結婚したんだ。……だから結婚してもらったとか、そんなこと言うな」
最後は額を合わせ、切なそうに訴えかけられた。一瞬で目の奥が熱くなり、涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪える。
雅孝の言う通り、厚彦さんになにを言われても、されてもしょうがないと思ってあきらめていた。自分の立場が弱いのはわかっている。引け目だってある。それを承知で結婚したからしょうがないんだって言い聞かせて、やりすごそうと思っていた。
雅孝に対しても同じだと思っていたのに……。
「それで、わかなはこうして俺に触れられるくらいなら、他の女性のところに行ってくれた方がいいって思っているのか?」
いつもの軽い口調で雅孝が問いかけてきたので、私はためらいながらも自分の本音を口にする。雅孝に対する引け目や元々の性格もあるけれど、きちんと伝えたい。伝えてもいいんだ。
「行かないでって言ってもいい?」
本当は他の女性のところに行ってほしくない。ワガママは百も承知だけれど厚彦さんに対する気持ちとはまったく違う。
「言ってもらわないと困る。こんな可愛い奥さんを差し置いてどこに行くんだよ」
雅孝の回答に心から安堵して、張り詰めていたなにかが消える。
いいのかな、私。大事にされても。してほしいって望んでも。
ふと彼と視線が交わり、どちらからともなく顔を近づけ唇を重ねる。こうして雅孝とキスを交わすのはものすごく久しぶりだ。
柔らかい唇の感触を通して伝わる温もりを感じていたら、意外にも雅孝からあっさりとキスを終わらせた。目をぱちくりさせる私に対し、雅孝は曖昧に笑って私の頭を撫でる。
「もしかして俺にこうやってされるのも無理して受け入れていたのか?」
不安そうな彼の表情に突き動かされ、衝動的に私から口づけた。言葉で否定するより少しでも私の気持ちが伝わったらいい。一瞬見せた雅孝の驚いた顔に満足してゆっくりと唇を離す。ところがすぐに雅孝に唇を重ねられ、キスは続けられた。
舌先が唇の間に滑り込まされ、私も彼を受け入れる。
「んっ」
深い口づけになり、反射的に腰が引けそうになったが、それを読んだのか雅孝の腕が腰に回され、固定される。そしてもう片方の手がなぜか膝下に滑り込まされた。くすぐったいと思ったのと同時にそのまま強引に彼の方に引き寄せられ、私は雅孝の膝の上に移動していた。
「え?」
横抱きされる形になり、キスを中断させて雅孝をうかがおうとしたら、有無を言わせない口づけが再開する。密着具合が増したからか、体勢の問題か、容赦のないキスに翻弄されていく。
「んっ……んん」
息をするタイミングが摑めず、それでも舌を差し出して懸命に応えようとする。ほのかにアルコールの香りがするのは、彼のものだ。酔ってしまいそう。
舌や唇を舐め取られ、時折軽く吸われながら唾液も吐息も混ざり合っていく。耳からではなく直接脳に響く水音に羞恥心を煽られる一方で、やめてほしくないと思う自分がいた。
頭がぼうっとしてなにも考えられない。力が抜けそうになり、支えを求めて雅孝のシャツをぎゅっと摑むと、彼は慈しむように私の髪に指を通してしっかりと抱きしめ直してくれる。
その触れ方が優しくて、生理的なものなのか、感情が昂ったからか涙で視界がじんわりと滲んでいく。気がつけば雅孝にされるがままだ。
名残惜しそうに唇が離され、その際目に映った雅孝の表情は、どこか切羽詰まっていて妙な色気を孕んでいた。心臓が大きく跳ね上がり、とっさに彼に抱きついて顔を隠す。
こんな雅孝の表情を見たのは初めてかもしれない。逆に自分はどういう顔をしていたのかと想像したら、恥ずかしさで逃げ出したくなった。
肩で息をする私の頭を雅孝は優しく撫でる。大きい手のひらが心地いい。経験の差は歴然で、こればかりはどうしようもない。
「ごめ、んね」
大きく息を吸ってなんとか声を出す。腕の力が緩み、うつむき気味ではあるが私はようやく雅孝と気まずくなったあの夜について触れる。
「この前、その……経験がなかったから。言い出せないままで、雅孝に応えられなくて」
「謝らなくていい。俺の方こそ、わかなはとっくにあの男のものになっているんだって思い込んでいた」
私はそっと顔を上げる。この場合、私の事情が特殊だっただけで、結婚前提の仲なら雅孝の考えが普通だ。
「それは、あの、ご期待に添えられなくて……申し訳ないです」
居た堪れなさを誤魔化すようにわざとおどけて返してみる。年齢も相まって処女だと知られて、あきれられてもしょうがない。
ところが雅孝は、どういうわけか怒った顔になった。
「期待ってなんだよ。……正直、少しだけホッとしているんだ」
雅孝を見つめると目が合った途端、彼は気まずそうにふいっと視線を逸らした。
「わかなはわかなで、別にこだわるつもりはなくても、誰のものにもなっていないって知ったら、男としてはやっぱり嬉しくなる」
雅孝の言い分に顔が瞬時に熱くなる。彼から顔を背けようとしたが、頰に手を添えられ阻まれた。すぐそばに雅孝の顔があり、真っすぐな眼差しで捉えられる。
「俺だけのものにしてもいいんだよな」
そこで素直に頷けないのが、良くも悪くも幼馴染みという厄介な間柄だ。
「あ、あとで失望したって後悔しても知らないから」
無駄だとわかっていてもつい憎まれ口を叩く。本当に私にとっては、わからないことだらけだ。結婚も夫婦生活も。
しかし雅孝は余裕たっぷりに微笑んだ。
「見くびるなよ。何年の付き合いだと思っているんだ」
そうは言っても、私たちはただ付き合いが長いだけで一度たりとも特別な関係だったわけじゃない。
「ま、さすがに体の相性はわからないけどな」
気持ちが沈みそうになる私に、雅孝は冗談交じりに呟いた。今度は逆に、どう反応していいのか迷ってしまう。
そのときキスで口を塞がれ、唇を重ねるだけの口づけを終えると、雅孝は困惑気味に微笑んだ。
「とはいえ急いではいないし、無理はしなくていい。わかなの気持ちが一番なんだ。大事にするって言葉は噓じゃない」
そっと額に唇を寄せたあと、雅孝は私に触れていた手を離した。つられるように私も彼の膝から下りてゆっくりと立ち上がる。
思えば雅孝はまだシャワーも浴びていない。私よりも疲れているだろうし、早く休んでもらわないと。
お互いに向き合う体勢になり、私は先に寝室で休むと告げようとする。ベッドはツインなのを雅孝もわかっているだろう。
「あの……」
言いかけて言葉を止める。雅孝に言いたいことを伝えて、抱えていたわだかまりも解けた。だからこれで、ひとまずは十分なはずだ。
雅孝は私からの続きを待つ姿勢を取っていて、それを受け思いきって口を開く。
「さっきはああ言ったけれど……後悔されたり失望されないように、私も頑張るから」
『あとで失望したって後悔しても知らないから』
雅孝だけに責任を負わせたくない。私も歩み寄って努力しないと。夫婦として彼のそばにいるのなら。いたいのなら。
「雅孝のものに……なっていいのかな? 私の意思で」
言ってから、途端に恥ずかしさに包まれる。からかわれる前に寝室に逃げ込もうと体の向きを変えたそのときだった。
「えっ……わっ」
突然の浮遊感にびっくりして声があがる。雅孝に抱きしめられたと認識する間もなく、彼に正面から抱き上げられたのだ。なんのつもりかと抗議しようとしたら、雅孝の怖いくらい真剣な表情が目に映り、息を呑む。
「だったら今すぐ俺のものにしたい」
冗談めいた調子や笑顔は一切なく彼の本気さが伝わってきて、私はなにも言えなくなった。向かう先は寝室で、弱々しく物申す。
「ねぇ……さすがに自分で歩けるよ」
のぼせていた体もすっかり調子を取り戻した。けれど雅孝はなにも言わずベッドルームに足を踏み入れる。
自動で足元のライトがつき、暖色系のダウンライトが程よい明るさで部屋を照らす。ベージュを基調とした室内はソファやテーブルまであって、ここだけでも十分過ごせそうなほど広い。ベッドはツインだが、それぞれダブルベッドくらいの大きさがあった。
入口に近い方のベッドにそっと下ろされ、背中にパリッとした皺ひとつないシーツの感触がある。開放感ある天井が目に入ったのとほぼ同時に私を見下ろしている雅孝が視界を占めた。必要以上に瞬きを繰り返し、心臓がバクバクと音を立てる。
こういう展開を予想していなかったわけじゃない。しかもこの前とは違う。自分の事情を話したうえで、こうなっているわけで……。
思った以上に緊張している。無意識に握りこぶしを作って力を入れると、雅孝が私に覆いかぶさってきた。固まっている私を雅孝が抱きしめ、彼はそのままベッドに体を横たえる。仰向けから横を向く体勢になり、ふたり分の体重にベッドは軋むことなく部屋は静かだった。早鐘を打つ心臓の音と自分の息遣いだけがやけに耳につく。
雅孝が私の頭をそっと撫で、至近距離で視線が交わる。続けて彼の目がゆるやかに細められた。
「そんな怯えた顔するなって。いきなり取って食ったりしない」
「……うん」