書籍詳細
薄幸の令嬢ですが、美貌の天才外科医に政略婚でひたひたに寵愛されています
あらすじ
「そんなに煽るな。いけない奥様だ」義母と義妹に虐げられるドアマットヒロインが、年上旦那様に溺愛で搦め捕られて…!
老舗食器メーカーの家業を立て直そうと必死な花純は、義母と義妹の狡猾な罠で、怪物のように醜いと噂の北条財閥の御曹司・遥己と政略結婚をすることに!しかし遥己は、実は美しく怜悧な外科医だった。一途に尽くす花純に、遥己の過去の傷も溶け癒されていく。さらに義妹の悪意から救ってくれた夜、遥己に「待たない。もう」と甘い情熱で蕩かされ…。
キャラクター紹介
南条花純(なんじょうかすみ)
実家への融資を条件に政略結婚を承諾。強く優しい24歳。実は密かに、遥己が初恋のひと。
北条遥己(ほうじょうはるき)
旧華族の流れを汲む御典医一族の御曹司。愛など信じないはずが、花純に心を奪われる。
試し読み
そして表情を少しも揺らすことなく、淡々とした口調で言葉を放つ。
「初めまして。北条遥己です。お見知りおきを」
(えっ……北条遥己って……こ、この人がお見合い相手なの!?)
思いもよらない意外な事実に、ただ彼を見つめることしかできない。
玲子が言っていた『獣のような恐ろしい容姿』というイメージと、目の前にいる人がどうしても結びつかない。
半ば呆然と、薄く口を開いたまま彼を見つめる私に、父が見兼ねたように声を掛けた。
「花純、北条さんにちゃんとご挨拶をしなさい。申し訳ありません。まだまだ世間知らずな娘でして」
「いいえ。機転の利く気立ての優しいお嬢様とお見受け致します。先ほどの茶席でも、粗相をした私をさりげなく助けて下さいました。あんな場面で身体が動くお嬢さんは、あまりいらっしゃいませんよ」
吉岡さんはにこにこと笑いながらそう言うと、物言いたげに私の顔を見つめている。
予想もできなかった和やかな雰囲気に面喰らいながらも、私は居住まいを正して丁寧に頭を下げた。
「失礼致しました。初めまして。南条花純です。よろしくお願い致します」
顔を上げると、穏やかな視線をやり取りする父と吉岡さんが目に入る。
そして彼――正真正銘のお見合い相手、北条遥己さんの深い眼差しが、強く私を捉えている。
決して揺らぐことのない強く黒く――そして美しい彼の瞳に、抗う術もなく私は引き寄せられるのだった。
父と北条さんで他愛のない世間話をいくらかした後、『おふたりで散歩でもしていらしたら』という吉岡さんの強い勧めで、北条さんと私は庭に出ることとなった。
よく手入れされた日本庭園は、女将が自慢していた通り美しい初秋の彩りを湛えて、この上もない美しさだ。
私は先を歩く背の高い後姿を、遅れないよう追いかける。
建物の中から見るより、実際の庭はずいぶん広く奥行が深い。
(本当に気持ちのいいお庭だわ)
自然の風合いで整えられた小路に沿って歩いていくと、木々の梢から鳥のさえずりが聴こえてくる。
十月初旬の陽気はまだ夏の名残が感じられるけれど、色づく木々や漂う空気には、深まりゆく秋の気配が感じられる。
久しぶりの心癒される時間に、私の心も少し解れていく。
やがて路が終わって大きな池に辿りつくと、北条さんはそのほとりに設けられた小さな東屋へと足を進めた。
そして袂から取り出したハンカチでベンチを清め、腰を下ろす。
彼に無言で誘われたような気がして、私も隣に腰を下ろした。
目の前の池では、色とりどりの鯉たちがゆらゆらと戯れている。
池の周囲には赤や黄色に色づいた紅葉が連なり、よく手入れされた中にも静謐な美が感じられる。
壮大な木々の勢いに圧倒され、私は息をすることも忘れて秋の景色に見入った。
いったい、どれくらいそうしていたのだろう。
「綺麗……」
思わず言葉を漏らした私に、北条さんがゆっくりと視線を向けた。
その端整な顔立ちは、紛れもなくスイートルームで出会った憧れの彼だ。
ハッとして彼の視線を受け止める私に、その漆黒の眼差しが微かに細められる。
「確かに見事だ。ここの見頃はまだ一ヶ月ほど先だから、気に入ったならここで式を挙げてもいい。内々だけの式にするつもりだから、そのつもりでいてくれ」
「えっ……」
「君は和装が似合いそうだから、天気がよければこの庭で挨拶状のための写真を撮ってもいいな。その頃には紅葉ももっと進んでいるだろうから、写真撮影には好都合だ」
北条さんはそう言うと、何かを思案するように長い指を顎に当てる。
何も答えられず、私はただ呆然と彼を見つめた。
私にとって、この結婚は融資目当ての政略結婚だ。
婚姻関係を結んで北条家の援助を受けることが、この結婚に課せられた私の役目。
でも、北条さんはどうして私なんかと結婚するんだろう?
玲子の言った『北条の御曹司は容姿に問題がある』という情報は明らかな間違いだ。
今目の前にいる北条さんは、誰が見ても非の打ちどころのない、類まれな容姿を持つ男性だ。
改めて近くで見ると、さらにその造形の美しさが際立っていることが分かる。
彫りの深い顔立ちはその細部に至るまで緻密な造形をしていて、まつ毛の一本までも妥協がなかった。
神様が彼のことだけ贔屓して、特別に手を掛けて作ったのではと疑うほどだ。
それに使用人が鬼や妖怪、という点も本当とは思えない。
お茶会で手を貸した吉岡さんは、北条家の家の中を取り仕切っている人なのだという。
ほんのわずかな時間を過ごしただけだけれど、彼女が非道なことをするとはどうしても思えない。
様々なお嬢様が泣いて逃げ出したというのは、本当にこの北条さんのことなんだろうか。
「あの……」
「何だ」
「あの、北条さんは本当に私と……私と結婚をするおつもりなんですか」
私の問いかけに、北条さんの眼差しが暗く翳った。
そして素早く距離を詰めると、長い指で私の顎を攫う。
ぐっと力を込められて自由を奪われ、為す術もなく彼の顔を見つめることしかできない。
怯えるように見上げる私に、彼の眼差しが揶揄するように煌めく。
「結婚して欲しいのは君だろう。縁談の代償に、南条家は法外な融資を要求してきたそうじゃないか。金銭を要求してきたのは君の家が初めてだが、俺にとっては悪い話じゃない。金以外のものを求められる方が厄介だからね」
怒りとも呆れとも取れる表情を浮かべる彼に、私はなおも続ける。
「北条さんは……それでいいんですか」
「何がだ」
「結婚するということは、一生をともにするということです。私なんかで……後悔しないんですか」
私の言葉に、顎を掴む彼の手の力が強くなった。
ぎりぎりと彼の指が頬に食い込み、鈍い痛みが走る。
「やっ……」
突然の強い力から逃れようと身を捩ると、その拍子に鋭い痛みとともに頬を生ぬるい液体が流れるのを感じた。
(いけない。傷が……)
慌てて彼の手から逃れ、顏を背けてハンカチを頬に当てる。
けれどすぐに肩を抱かれ、大きな手が反対側の頬を包み込んだ。
「その傷は何だ。……見せろ」
「い、いえ、あの」
見られてはいけない。こんな顏で見合いに来たと分かれば、縁談を反古にされるかもしれない。
そう思って渾身の力を振り絞って抗ったけれど、彼の逞しい身体にあっけなく捕われてしまう。
北条さんは長い腕で抱き込むように私を押さえつけると、息が掛かるほどの距離で私の顔を覗き込んだ。
天使か、悪魔なのか分からないほどの美貌がすぐ側まで迫り、ハッとして思わず息が止まる。
『あの顔が……私には耐えられない』
見る人を虜にする、類まれな美貌。
一度口にすれば忘れられない、まるで狡猾で甘美な果実のような。
「ハンカチで押さえていろ。……その美しい着物が汚れる」
そう言い捨てると北条さんは乱暴に私の手を引いて立ち上がり、辿ってきた路を苛立ったように歩きはじめた。
「誰か! 女将を呼んでくれ!」
料亭の母屋へ戻ると、玄関口で北条さんが大きな声を上げた。
駆けつけた仲居さんたちが慌てた様子で行き交い、すぐに女将がやってくる。
そして私たちの姿を見るや否や、顔色を変えた。
「どうかなさいましたか」
「彼女に怪我をさせてしまった。部屋を用意してくれ。それと、薬箱も頼む」
「かしこまりました。さ、こちらへ」
小走りで廊下を急ぐ女将の後に、北条さんと私も続く。
その様子を、仲居さんや来客らしき人たちが遠巻きに見つめている。
(どうしよう。大騒ぎになっちゃった……)
騒ぎになるのも、至極当然のことだった。
振袖、袴姿という目立つ和装の上、私は北条さんにお姫様抱っこをされて運ばれている。
こんな状況、目立つなと言う方が無理だろう。
さっき強引に腕を引かれて母屋へ戻る途中、何度も転びそうになった私は、しまいには舌打ちされながら彼に抱き上げられてしまった。
嫌がればあの綺麗な顔で威嚇され、抵抗することもできない。
まるで蛇に睨まれた蛙のような状態で、私は今も身動きひとつできないままだ。
「北条様、こちらです」
通された部屋は、二間続きの広い客室だった。
一緒についてきていた仲居さんが、女将の指示で隣の部屋に布団を敷いてくれる。
布団の上に下ろされ、ようやく心臓に悪いお姫様抱っこから解放されて身体の力がどっと抜けた。
北条さんは洗面所で手を洗い、女将から受け取った薬箱の中を確かめている。
「北条様、何か足りない物はございますか」
「いや、これでいい。すまないが人払いを。しばらく誰も入れないでくれ」
北条さんに促されて部屋から女将たちが出ていってしまうと、部屋には私たちふたりが取り残された。
気まずい沈黙の中、彼は薬箱を手に私の側に近寄ると、布団の上に腰を下ろす。
男の人とふたりきりで布団の上にいる状況は、さすがに居心地が悪い。
また心臓が、どくどくと忙しなく鼓動を刻みはじめる。
「顔を上げて。少し沁みるぞ」
北条さんはそう言うと、躊躇なく傷の手当を始めた。
その真剣な面持ちに、やはり彼はドクターなのだと実感する。
「痛むか?」
「大丈夫です」
「少しだけ我慢して。すぐに終わる」
北条さんは消毒液を浸した脱脂綿で、傷口を拭きはじめた。
鋭い痛みとともにサッと首筋に冷たいものが流れ、あっと思う間もなく彼の手の温もりが肌に触れる。
「着物が汚れてしまうな。……こっちへ来い」
北条さんは胡坐をかいた足の上にタオルを広げると、私の身体を横たえて強引に抱き寄せる。
いわゆる〝膝枕〟という状態になり、動揺から顔に熱がこもった。
「あ、あの、私……」
「黙っていろ。痛いのはすぐに終わる」
北条さんは頬の傷を消毒しながら、小さくため息をつく。
「……酷いな。これじゃ化膿するぞ」
「あ、あの、ごめんなさ……」
「自分でつけた傷じゃないだろう。後で家に薬を届けさせるから、処方通り飲むように」
強い口調とは裏腹な繊細な処置に、彼の本質的な優しさが伝わってくる。
夜明けの月とともにスイートルームで見かけた美しい姿が思い出され、あの時に感じた気持ちは間違いじゃないのだと、強く思った。
長い指先。
真剣な眼差し。
こんなに近くで彼に触れられると、否応なしに体温が上がる。
生まれて初めての感情に翻弄される私とは反対に、北条さんは手際よく手当を進めると、やがて短く息を吐いて私から離れた。
「これでいい」
処置を終えると、北条さんはそっけなく立ち上がって隣室の座椅子に砕けた様子で腰を下ろす。
その恐ろしく端整な顔からは、何の感情も読み取れない。
私は慌てて隣室へ移動し、畳の上に正座した。
(どうしよう。北条さん、きっと怒ってる。これからいったいどうしたらいいんだろう)
彼に触れられてふわふわしていた感情が一気に冷め、我に返って自分の置かれた状況に愕然とする。
そもそもこの縁談は、我が家にとって都合がいいだけで北条家には何の利益もない。
それに北条家は我が家と対等とはとても言えない、遥かに格上の相手だ。
明らかに分不相応な見合いの席に顔に傷を作ってくるなんて、どう考えても言語道断、失礼極まりない。
その上、なりゆきとはいえ傷の手当までさせてしまった。
南条家の命運がかかる大切な見合いで犯した重大な失態に、身体の芯まで震えが走る。
(もしかしたら、もう破談にされてしまうかもしれない)
そうなれば、もう南条家はおしまいだ。
会社は立ち行かなくなり、私たちは路頭に迷ってしまう。
父が成し遂げようとしている母との約束だって、儚く消え去ってしまうのだ。
(そんなの……絶対嫌だ)
私は思わず畳に手をつき、深く頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。どうか……どうかお許し下さい」
「今度は土下座か。類を見ない、騒がしい令嬢だな」
無我夢中で畳に頭を擦りつけていると、頭上から低い声が落ちてきた。
さっきは温かみを感じさせていたバリトンが、今は氷のように冷たい。
「顔に傷を作って見合いに来るとは、北条も安く見られたものだな」
「決して……決して安く見たわけではありません。すべて私の不注意です。申し訳ございません」
「君ひとりの責任、か。だが、君に傷を負わせた相手がいるのだろう? 引っかかれたにしては深い傷だ。大きな猫にでもやられたか」
北条さんはそう言い放つと、面白そうにフッと息を漏らす。
「法外な要求をしておいて傷物を寄こすとは、南条の奥方はたいそうな女傑だな。尤も、君の父上は何もご存じないようだがね。さっき君が手洗いに立った時に、こちらが法外な援助を申し出たことを訝しんでおられた。清廉潔白な旧家の御曹司は、継母に娘を売られたことなど気づいてもいないようだ」
北条さんは茶化したように言葉を続けると、「顔を上げろ」と冷たく言い放つ。
どれほど辛辣な言葉を掛けられても仕方がないけれど、父のことを否定されるのだけは我慢ができない。
私はゆっくりと顏を上げると、真っ直ぐに彼を見つめた。
「すべて私の責任です。どうか父を侮辱することだけはお許し下さい」
「侮辱などしていない。ただ、何もご存じないと言っただけだ。……いいだろう。君がそう望むなら、父上には何も言わない。君が俺の望み通りの妻を演じるならね」
「妻を……演じる?」
言葉の意味を計りかねて問いかけるような視線を向けると、北条さんは座椅子から立ち上がって私の側に膝をついた。
そして手首を掴んで強引に引き寄せる。
近い距離で視線がぶつかり、その眼差しの強さに息を呑んだ。
「さっき君は、結婚の相手が自分でいいのかと俺に聞いたな。答えはイエスだ。ただし、条件付きでの話だが」
「条件……ですか」
「そうだ。君が俺の妻の役目を務めるなら、南条家が望むままの援助を与えよう。それに君にも、北条家を司る者の妻の座をくれてやる。しかしそれだけだ。間違っても俺に愛なんて求めないでくれ」
見上げた視線のすぐ先で、密やかな湖のように澄んだ美貌が私を見下ろしていた。
彼の言葉の意味をようやく理解し、心がしんと冷たくなっていく。
北条さんは私に形だけの、飾り物の妻になれと言っているのだ。
戸惑いと切なさで混乱する私に、彼の鋭い眼差しがなおも注がれる。
「父が亡くなって早急に北条家を継がなくてはならなくなってね。株主でもある親戚連中に、早く妻を迎えて跡継ぎを作れと圧力を掛けられている。だが、彼らが持ってくる縁談はみんなうまくいかなくてね。俺に愛されるなんてゆめゆめ期待するなと言ったら、みんな泣きながら逃げていった。『耐えられない』と言ってね」
淡々と言葉を放つ北条さんを、ただ目を見開いたまま見つめた。
彼の下から、次々と逃げ出していった令嬢たち。
きっと彼女たちは、何もかも備わった北条さんに無防備に惹かれたはずだ。
彼と結婚して夫婦となる、幸福な未来を心に思い描いただろう。
けれどその幼気な想いは、無残に踏みにじられた。
悪魔のように美しい、御曹司の残酷な言葉で。
「君にとっても悪くない話だろう? 君は実家への援助と北条本家の妻の座を得られる。そして俺は、非の打ちどころのない美しく可憐な妻を手に入れる。ただし、それ以上俺に何も求めないでくれ。――ましてや、愛なんてもっての外だ。俺は誰も愛さない。生涯、誰のこともね」
念を押すよう落とされた視線を、私はただ黙って受け止める。
最初から分かっていたはずだ。
この縁談に愛情なんてあるはずもない。
私は南条の家を救うための、北条さんにとってはただ周囲を納得させるための政略結婚。
私には、選択肢などないのだ。
「分かりました。私、北条さんと……あなたと結婚します」
私を見る彼の目が、わずかに見開かれた気がした。
でもそれは一瞬のことだ。
次の瞬間には、また一分の隙もない美貌が、刺すような視線をこちらに向ける。
そして腕を取って立ち上がらせ、強引な仕草で私の手を握った。
ひやりとした長く美しい指が、私の指に絡み付く。
「行くぞ。みんなお待ちかねだ」
彼に手を引かれ、私は足を踏み出す。
それは、北条家当主、北条遥己の妻となるための、第一歩だった。