書籍詳細
極道の寵愛~インテリヤクザに艶めく熱情を注ぎ込まれました~
あらすじ
「俺だけの女になってくれ」一途な激愛に溶かされて…
母の借金を返すため働き詰めの芹香は、昼間働く飲食店で圧倒的なオーラを放つ常連客・紘と夜のお店で遭遇。庇護欲全開で甘やかしてくる彼だけど、正体はヤクザ…!?住む世界が違うと自分を諫めつつ、ときめきを感じてしまう芹香。そしてあるトラブルを境に、彼の激情に火がついて!?抗えないほどの愛と熱に、芹香は堕ちていくのを止められず…。
キャラクター紹介
小林芹香(こばやしせりか)
レストランで働きながら、母の借金を返すために夜の仕事をしている。料理が好きで、将来自分の店を持つという目標がある。
中條 紘(なかじょうひろむ)
芹香の働くレストランの常連客。甘いものが好き。実は裏社会の人間で…?
試し読み
左右を見渡し、裸電球の明かりに照らされた暖簾に書かれた字を追う。焼きそば、たこ焼き、かき氷、チョコバナナ、クレープ、ソースせんべい、じゃがバター、金魚すくい、くじ引き、射的――などなど、把握しきれないくらいたくさんの出店がある。
歩くたびにあちこちから、はしゃいだ声や笑い声が幾重にも重なって聞こえてくる。家族や親しい人たちと、年に一度の非日常を楽しむ声。……いいなあ、微笑ましいなあと感じ、自然と頬が緩んだ。
「こういうの、ワクワクしてきませんか?」
中條さんも私と同じように、どんな屋台があるのかをチェックしているようだ。
「そうですね。この雰囲気、大好きです」
入る前は少し躊躇してしまったけれど、この賑やかで弾んだ空気に抱き込まれ、だんだん楽しくなってきた。
「そうこなくちゃ」
いつになくうれしそうに言う中條さん。彼がはしゃいでいるのは新鮮だ。……ちょっと、かわいい。
「昔から、お祭りや縁日に来たら必ず食べると決めているものがあるんですが、行ってみてもいいですか?」
「はい。もちろん」
うなずくと、彼は「こっちです」と今来た道を戻り始める。
立ち止まったのはクレープの屋台の前だ。他のお客さんの姿はない。
「すみません、キャラメルチョコ生クリームください。生クリーム大盛りで」
中條さんが嬉々とした様子で小銭を差し出しながら、暖簾の向こう側にいる店主らしき若い女性にオーダーする。
「はい、かしこまりましたっ」
店主の女性の顔が綻んだのがわかった。多分、イケメンの中條さんが『生クリーム大盛り』なんて言葉を発したからだろう。気持ちはわかる。
「中條さんのお気に入りメニューはクレープですか?」
「はい。こういうところの屋台はトッピングが少ない代わりに、生クリームを多くしてくれたりするんです。それが好きで」
私たちが会話をしているわずかな時間で、生クリーム盛り盛りのクレープが完成し、中條さんに差し出される。
「お待たせしました、キャラメルチョコ生クリーム、生クリーム大盛りです!」
「ありがとうございます」
彼はクレープを受け取ると、店主の女性に丁寧に頭を下げた。
「すごい、生クリームの花束みたいになってますね……」
私は中條さんの手のなかにある真っ白な束に視線を落としてつぶやく。
溢れんばかりに盛られた生クリームの上に、甘い香りのキャラメルソースとチョコソースのトッピング。特筆すべきはやはり生クリームの量だ。持つ手に少しでも力を込めたら、クレープ生地の縁から生クリームがこぼれてきてしまいそうなほど。
「それいい表現ですね。まさに、クレープは生クリームを食べるためのものですよ。学生時代、友人に、『もっと縁日でしか食べられないものを選べ』とさんざん言われましたが、私はこういう単純なのがいいんです」
食べたかったものを手にして満足げな彼が、昔を懐かしむようにして言った。
「中條さん、確かに生クリームが大好物っておっしゃってましたよね。本当に甘いものが好きなんですね」
「はい。糖分をとると瞬間的に幸せになれますからね。虜です」
「わかります。疲れてるときにはてきめんに効きますしね」
私も趣味で製菓をするくらいには甘いものが好きだから、彼の言っていることはよくわかる。仕事で疲れ切った帰り道に、コンビニで買ったシュークリームを家で食べるときの幸福感といったら、なにものにも代えがたい。
「で、なずなさんはなにを召し上がりますか? せっかくなので、ぜひなにか食べましょう」
「そうですね……」
周囲の暖簾を見渡しながら考える。私が食べたいもの――
「……あんず飴」
心のどこかで、いっそなければいいのにとも思ったけれど、やはり定番の屋台であるのか、その文字をすぐに見つけてしまった。少し奥にある暖簾を指し示して続ける。
「――あんず飴、食べてもいいですか?」
「はい。行きましょう」
快くうなずく彼と、あんず飴の屋台のほうへと向かう。
屋台の前には、水飴をまとったあんずやすもも、みかん、ひめリンゴなどが、割りばしに刺さった状態で、氷でできた大きな皿のようなものの上に並べられている。
「どれにします?」
「えっと……あんずにしようかと」
どれも目移りしてしまうけれど、使命感のようなものを捨てきれずに、あんずを選ぶことにする。
「では、これちょっとお願いします――すみません、あんず飴ひとつください」
彼は私に一度クレープを預けると、屋台の店主に小銭を手渡しながら言った。
「あっ、私が――」
ここは店外なのだから、彼に払ってもらうのは悪いような気がする。
バッグから財布を出したいけれど、クレープで片手が塞がっていてスムーズに出すことができない。そんな焦る私を見て、中條さんは小さく笑いながら首を横に振った。
「付き合ってもらっているのは私なので。これくらいは全然気にしないでください」
「す、すみません……」
……確かに、毎晩のように高いドリンク代を支払ってくれる彼に、三百円のあんず飴を遠慮するというのも失礼な話なのかもしれない。
「どうぞ、なずなさん」
「ありがとうございます」
モナカの上に乗ったあんず飴が店主から手渡されると、それとクレープとを交換する。私は丁寧にお礼を言って受け取った。
「どこかに座りましょう――ああ、あっち側にしましょうか」
あっち、と示したのは、敷地の東側にある石段の坂道だ。すでにそこに座り、屋台で買った食べものを食べている人たちの姿が何組か見える。
中條さんとともに石段を下り、空いたスペースに移動する。石段の中腹くらいにちょうどいい場所を見つけ、そこに座ることにすると、彼が私の座る場所を片手で軽く払ってくれた。
「すみません、ありがとうございます」
今さらながら、彼に女性扱いしてもらっているのだと自覚して、照れてしまっているのは内緒だ。お礼を言って、その場に座ると、彼も私のとなりに腰を下ろした。
「いえ。こんなところに座るの、久しぶりですよね」
「はい。でも、それも楽しいです」
子どものころは服が汚れることなんて厭わずに、外の階段や砂埃の遊具の上によく座っていたけれど、大人になるとそんな機会も自然となくなっていたのだな、と思う。その懐かしさが心地いい。
「ならよかった。じゃ、さっそくいただきましょうか」
クレープとあんず飴。私たちはそれぞれが選んだものを食べることにする。
あんず飴に口をつけるふりをして、横目でクレープを頬張る中條さんの顔を盗み見た。優しげな瞳が満足そうに細められ、彼が今幸福の絶頂にいることがよくわかる。
その幸せそうな顔につられて、私もモナカから引き剝がしたあんず飴をひと舐めする。じんわりとした甘さと冷たさが、口のなかに広がる。
「……おいしい。甘くて、冷たくて。こんな味だったんですね」
「食べたことなかったんですか?」
私がもらした感想を聞きつけた中條さんが、不思議そうに訊ねる。
「はい。今日が初めてです」
「あまり縁日とか、来たことないんですか?」
「……そうですね。今まで、誘われても断ってしまっていたので」
破れたモナカは食べてしまうことにする。飲み込んだあと、私が答えた。
中学生のころ、仲がよかった友達グループにどうしてもと誘われたこともあったけれど、気が向かなくて遠慮したことを思い出す。行ってしまえば今みたいに楽しめたのかもしれないけれど。
「へえ、どうしてです? お家の門限が厳しかったとか?」
「……ショックなことを思い出すから、ですかね」
「ショックなこと?」
「…………」
あんず飴についた割りばしを握る手に、無意識に力がこもる。
吐き出したい気持ちと、そうするべきではないという気持ちがせめぎ合っていた。
今までずっと誰にも言えずに抱え込んでいた消化しきれない感情を、こんな風に私を構ってくれる中條さんになら聞いてもらいたい。その反面、理解や共感をしてもらえないのではないかという恐れもある。
参道のほうで、若い男性のおかしそうな笑い声が聞こえてきた。それに被さる違う男女の沸き立つ声。それなりに離れた場所でもすんなりと耳に入ってくる突き抜けて明るい音は、この瞬間を仲間とフルに楽しんでいるのが伝わってくる。
「……小学二年生の夏」
葛藤の末、私は記憶を辿ってぽつりと話し始める。
「家の近所の公園で縁日をしていたんです。そこを私と母が通りかかった。暖色の裸電球に照らされた屋台のひとつひとつに、キラキラと輝くものを感じました」
物心ついたころから両親は不仲で、家族で出かけた記憶がない。母とふたりになってからも、土日は母のリフレッシュのため母方の祖母の家に預けられていたから、母と出かける機会すらほとんどなかった。
だからたまたま通りかかった初めて見る縁日に、心が浮き立ってしまったのだ。
俯いて、割りばしの先に視線を滑らせる。つるんとした質感のあんず飴を見つめながら続けた。
「なかでも、あんず飴に興味をそそられました。果物をガラスでコーティングしたような面白さとかわいらしさがあって、どうしてもほしくなった。だから、母にお願いしてみたんです。『あんず飴が食べたいから、寄り道しようよ』って……そうしたら」
あのときの光景は、繰り返し夢中になって観た映画のように、詳細に思い出すことができる。条件反射とばかりに、頭のなかのスクリーンに流れる映像を振り払いながら言った。
「それはもう、眉を吊り上げて、烈火のごとく叱られました。『ママもう仕事やあんたの世話でくたくたなの、見ればわかるでしょ! 少しは考えて!』って。……父と離婚して、仕事をしながら女手ひとつで私を育ててくれていたので、きっといっぱいいっぱいだったんだと思います。でも、そのときの私はすごく、母から突き放されたような気持ちになりました」
修羅のような母の顔が蘇る。あのときの衝撃が再び襲ってくるような気がして、思わず目をつぶった。
「普段から会話は少なく、私の面倒を見ることに煩わしさを抱いているのではと感じていましたが、そのできごとで確信してしまった、というか。母からしてみたら、大した言葉ではなかったのかもしれません。実際言葉だけ切り取れば、この程度のやり取りは珍しくなさそうですし。……自分でも、なんであそこまで傷ついたのかわからないです」
あのときの絶望感は、きっと誰に話したとしても伝わらないのだろう。それでもなにかに例えるなら、気を抜いていたときに、顔面に強烈な張り手を食らわされる衝撃。その後、ヒリヒリした痛みに苛まれるような。
「それ以降母に対して『甘えてはいけない』と思うようになりました。子どもながらに、私の生活は母によって支えられていると理解していたからなのでしょう。だから自分自身に誓ったんです。母に捨てられないよう、甘ったれずに自分の力で考えて行動するようにするって」
絶望のあと、私の心を巣食うように居座ったのは、『少しは考えて!』という言葉。
――母の機嫌を損ねないように、捨てられないように。自分がどう振る舞うべきか、どんな言葉を発するべきなのか、常に考えないと。
石段の上のほうに座っているのはカップルばかりだ。背後から聞こえる彼らのじゃれ合う声をどこか遠くに感じながら、さらに続けた。
「母は仕事のあと急いで夕飯を作り、私が布団に入るのを見届けると、朝方まで家を空けているみたいでした。恋人に会いにいっていたんだと思います。逢瀬の時間を多く確保したいからか、夕方から夜にかけての母はたいていイライラしていました」
行き先は明言していなかったけれど、母は家のなかでも常に着飾っていた。それがすぐに家を出るためだったのなら合点がいく。
「だから私なりに考えて、よく言うことを聞き、母の手を煩わせないように会話も控えました。本当は学校でのできごとや友達のことを話したかったのですが……母がそれを求めていないことはわかっていたので」
日々の仕事がそうであるように、母にとっては育児も『義務』だったのだ。自由になれるのは、私を寝かしつけ『義務』を終えたあと、恋人と過ごす甘い時間。
私の存在は、母の幸せを形成する要素にはなり得ない。それに気付いてからは、ひたすら母の邪魔をしないことだけに専念していたのだ。
ほんの少し心配になって、中條さんの様子を窺ってみる。彼は真剣な面持ちで話を聞いてくれている。
一度話し出したら、もう止まらなかった。まるで自分じゃない誰かがそうしている感覚で、いっそすべて忘れたいとさえ思っている過去を詳らかにしていく。
「思えばずっと我慢の連続でした。母親に新しい彼氏ができたときも、その彼氏が何度か変わったときも……突然母親が消えて、霊感商法にのめり込んだ挙句借金を抱えていたと知ったときも。どうするのがベストなのか、自分の頭で一生懸命考えました」
惨めだ、と思った。母の選択はいつもひとりよがりで、娘の私を尊重してくれたことなどなかった。それに慣れてからは、もうなにも感じなくなったし、今は怒りや悲しみなどもとうに通り過ぎ、母がどこにいるのか、元気でいるのかどうかさえ興味がなくなってしまった。
けれどそれは私が自立したからであって、幼かったころの私は母に捨てられたらひとりぼっちになってしまう。それだけはどうしても避けたかったのだ。
できれば他人に知られずにいたかった母の借金の話。幼少期の色濃いわだかまりを吐露するとともに、自ずと吐き出してしまっているのが不思議だった。
「キャバクラで働いているのは、その借金が原因ですか?」
ひと口だけかじったクレープを手に持ったまま、となりでじっと話に耳を傾けていた中條さんが静かに訊ねた。私がうなずく。
「誰かを頼ったりはできなかったんですか? 親戚の方とか」
「小学生までは母方の祖母と交流がありましたが、私が中学に上がるタイミングで亡くなってしまって。父や父方の親戚とは絶縁状態ですし、母方の他の親戚とも没交渉だと聞いていました。……が、実のところ、母が借金をしていたのは母のきょうだいだったわけなんです。同情を引くように、私の教育費だとうそをついて。だから申し訳なくて、必ず自力で返そうと決めたんです」
身内のこんな情けない話、中條さんだからこそ聞かせたくはなかったけれど、ここまで話してしまって急ブレーキをかけるわけにもいかなかった。
中條さんが細く長いため息を吐く。呆れられてしまったかと、心臓がきゅっとなる。
「……つらかったですね」
少しの間のあと、中條さんが静かに言った。顔を上げ、恐る恐る彼のほうを向く。
「頑張ったんですね。ずっと、ひとりで」
ほんの少しだけ微笑んだその目が優しくて、でもちょっと寂しそうで――暗がりのなか、黒曜石のように光る彼の美しい瞳。吸い込まれてしまいそうになり、私の胸は、否応なしにドキドキと音を立てる。
私は自分の頬が熱くなるのを感じながら、恥ずかしさで下を向いた。
「……きゅ、急にこんな話して、すみません。みんな大なり小なり、いろんな事情を抱えているでしょうから、私だけが特別なわけじゃないってわかってます。私が引っかかっている母の言葉だって、聞く人によってはなにも感じないでしょうし」
感情の高ぶりにまかせていろいろと話しすぎてしまったから、彼も迷惑に思ったかもしれない。
「いえ、謝らないでください。私はなずなさんのことを知れてよかったですよ」
私の心配をよそに、中條さんはいつもの穏やかなトーンでそう返してくれる。
「他の人がどう感じようと、幼いなずなさんが傷ついたのは事実なわけでしょう。そうなるに至る状況や環境によって、受け手の深刻さも変わりますし。自分がつらかったことを否定しないでください」
「……中條さんはどうしてそんなに優しいんですか?」
心のずっと奥底で渇望していた言葉を、温かみのある口調で投げてくれるのが心地いい。私はもう一度顔を上げて訊いた。
「しつこくお伝えしているのでご存じだとは思いますが……私はなずなさん――いえ、芹香さんの作るティラミスにいつも癒されてるんです」
本名で呼び直されると、妙にくすぐったい感じがした。昼間、『Rosa Rossa』では呼ばれ慣れているはずなのに。最近は、かりそめの名前で呼ばれる機会のほうが多いからだろうか。
「なにかお返しできればと思っていたところに、偶然『Rose Quartz』であなたを見つけた。少しでもあなたの助けになるなら、と指名させてもらっていましたが……そういう事情があるのなら、あなたが早くお店を辞められるように、これからも指名させてもらっても構いませんか?」
中條さんの顔に、春の暖かい日差しのような微笑みが浮かんでいた。
控えめで慎重な物言いは、夜のお店で私と過ごす動機が好奇や哀れみなどではなく、混じりけのない善意であることを示している。
「ありがとうございます。……中條さんの優しい気持ちが、なによりうれしいです」
これまでの人生で、こんなに私に深くかかわってくれようとする男性はいなかった。
いや、優しいふりをして声をかけてくる男性はいたけれど、彼らには必ず下心が透けて見える。例えば滑川さんみたいに、猥雑な見返りを求めてくる人ばかりだ。
でも中條さんは違う。今だって店外でふたりきりなのに、私に指一本も触れてはこない。
――こういう人もいるんだ。彼みたいなお客さまに出会えたことを、改めて幸運だと思う。
「食べましょう。あんず飴、溶けてきちゃいます」
「はい!」
手元を見ると、外気で温まった水飴が変形している。私は水飴をかじるように舐めとった。さっきよりも、甘さを明確に感じるのは水飴が温まって柔らかくなったから、というだけではなさそうだ。
「中條さん、生クリームに溺れそうですね」
彼の手の中のクレープも、生クリームがかなり緩くなっている。唇に押し寄せる生クリームの勢いに、思わず指摘した。
「幸せですが、ちょっと困ってしまう状況でもありますね」
扱いに慣れているのか、クレープを器用に回したり傾けたりしながら食べ進めている中條さん。でも、唇の端が少し白くなっている。
片手で自分のバッグのなかを探り、ポケットティッシュを取り出した。膝の上に載せ、一枚引き出して彼に差し出す。
「よかったらどうぞ。使ってください」
「ありがとうございます。助かります」
「組の人たちの前でも、こういう甘いもの食べたりします?」
「光平は長い付き合いなので気にしませんが、信市や泰成だとこういう露骨なチョイスはしないかもしれないですね。一応、弟分たちの前では威厳が必要なので」
ティッシュで口元を拭きながら、中條さんが両眉をハの字にする。確かに。お店でウイスキーを飲むときにつまむチョコレートとはわけが違う。私はおかしくて笑った。
「じゃあ私は貴重な瞬間を拝見してるわけですね」
「一応、内緒にしておいてくださいね」
空いたほうの手の人差し指を立て、唇に当てた中條さんは、いつの間にかクレープを半分ほど平らげていた。
「――生クリーム、おいしいですけど、やっぱり私のなかのいちばんは芹香さんのティラミスですね。あれに敵うものはありません」
「そんな、恐れ多いです」
「闇雲に褒めてるわけじゃないですよ。甘いもの好きの性で、商店街のベーカリーから都心の有名なパティスリーまで、結構いろんなお店のスイーツを食べ比べているんです。そのなかでも、あのティラミスはピカイチです。ホールのお仕事をしているあなたも素敵ですが、製菓の仕事に興味はないんですか?」
「……実は、自分のお店を出す、っていう憧れがあります。カフェなのか、洋菓子店なのかとか、細かい部分はまだ漠然としていて――ほら、先に借金を返し終えてからじゃないと、見通しが立たないじゃないですか。だからそのぼんやりした夢を支えにして頑張ってるところですね」
夢というにはあまりにおぼろげな淡い目標。やるべきことをやったあと、叶ったら素敵だな、と思うけれど、簡単にいかないことくらい、わかっている。
それでも中條さんに打ち明けたのは、彼の質問に対して素直に答えたかったからだ。
彼は、軽く目を瞠ってから弾けるような笑みを見せた。
「いいじゃないですか。夢を持つのは素敵なことです。芹香さんが作るティラミスが食べられるなら、毎日でも通ってしまいそうです」
「本当ですか? 常連さんになってくれるってことですよね」
「はい。そのときが来たら、応援させてくださいね」
「……よろしくお願いします」
たとえリップサービスであってもうれしかった。中條さんが期待してくれると思うだけで、モチベーションが上がる。
「あの、そう言う中條さんは、なにか夢とかあったりするんですか?」
「私ですか?」
中條さんが自分を指差して訊ねる。少し考えたあと、彼は微かに笑って俯いた。
「……昔はいろいろありましたけど、今は特にないですね」
やや瞳を細めたその表情が、妙に寂しそうで気にかかった。でも次の瞬間、顔を上げ、いつもの優しい笑みをこぼす。
「――しいて言えば、芹香さんが抱いている悩みが消えて、心から幸せだと思える日々を取り戻すこと、でしょうか」
「中條さん……」
甘い響きを伴った台詞に、心臓を鷲掴みにされる。
――これはリップサービス。わかっていても、ときめいてしまうのは仕方がない。
「カッコつけすぎましたかね。でも、本当にそう思っていますよ」
心拍数が急激に上昇したせいで、余裕なく黙りこくってしまっていた。すると、彼がわざと明るい調子で言いながら苦笑する。
「……ありがとう、ございます」
私は照れながらもお礼を言った。……私が幸せになることが彼の夢だなんて、そんなこと言われたら勘違いしてしまうのに。
「いえ」と返事をしたあと、生クリームたっぷりのクレープを満足そうに頬張る中條さんを見つめ、自分の気持ちが急速に彼に傾いていくのを感じた。
――だめ。この人は私とは相容れない世界を生きている人なのだから、惹かれてはいけない。手遅れにならないうちに、かかわりを断つべきだ。
いつか生活に余裕ができたら、幸せな恋愛と結婚をしてみたい。
でも、中條さんが相手ではきっと叶わない。極道のことはよくわからないけれど、その世界の人と濃い関係を築くことが危険であるのは理解している。
恋をしてはいけない。彼はただ、気まぐれに世話を焼いてくれているだけ。
そう思わなければ、このまま彼の優しく穏やかな眼差しをどこまでも追いかけてしまいそうだった。