書籍詳細
婚約破棄、したはずですが?~カリスマ御曹司に溺愛されてます~
あらすじ
ここにいるのは、君に会いたかったからだ 完璧御曹司に愛を乞われ、再び恋心が疼き出す……!?
婚約破棄をきっかけに家を出て、海運会社で働く七倉綾。ある日、突然の人事異動により常務取締役の秘書に任命される。そこで常務として紹介されたのは、かつての婚約者・黒崎湊だった! 幸せだった当時と変わらぬ優しさで接してくる湊に、綾は忘れようとしていた恋心が揺れ動く。お互いの言葉の誤解を解くことで、止まった二人の時間が再び動き出し…。
キャラクター紹介
七倉綾(ななくらあや)
旧華族の名門、七倉家の末っ子で、二十三歳。榊川海運に勤めている。
黒崎湊(くろさきみなと)
黒崎グループの御曹司。綾の元婚約者。
試し読み
「お待たせ」
かすかに息を弾ませた湊が、すぐ傍らに立っていた。
――あれ……湊さん、やっぱり顔色が悪い……。
綾は思わず『どうしたの?』と、湊に手を伸ばしかけた。
だが、すんでの所で我に返る。
同時に、耳に、周囲の話し声やピアノの生演奏の音が流れ込んできた。
幼い頃から馴染んできた、華やかな雰囲気に流されたせいだろうか。
湊を、昔の湊のように感じてしまったのだ。
――疲れてるのかな、私。
綾は伸ばしかけた手を納め、さりげない口調で言った。
「お疲れさまです」
立ち上がった綾に、湊が微笑みかけた。
「……お疲れさま。君のそんな格好、初めて見る」
大人びた顔立ちの湊が、少年のようなはにかんだ笑みを浮かべる。その笑顔に、綾の心臓が締め付けられる。
昔と同じ、優しい笑みに見えたからだ。
「はい、お客様の目に触れる職種になったので、配慮しようかと思って」
ドキドキしているのは、過去の記憶のせいではない。新しい上司が規格外の美貌の持ち主で、さらには、笑顔を突然向けられたからだ。
――こんな男前に微笑まれたら、誰だってドキドキするに決まってる。湊さんは、そういう意味では、ズルい……。
綾は湊から視線をそらし、彼に尋ねた。
「これからどうなさいますか?」
「上のレストランを予約してある。君はあの店が好きだっただろう?」
綾は当惑し、口をつぐんだ。湊が言っているのは、何度か連れてきてもらったフレンチレストランだ。
フランスの批評誌で、毎年星を得ている高級店だ。今の綾には贅沢すぎる。
「秘書と訪問されるようなお店ではないと思いますが」
綾の硬い声音に、湊が唇を軽く釣り上げる。
「もう予約してしまったから」
「……今日は、どのようなお話を?」
尋ねると、湊が軽くため息をつく。
光の加減か、やはり彼の滑らかな肌に、うっすら紫のくまが浮いて見える。
見とがめて、綾は眉をひそめた。
付き合いが長いから知っている。
湊はどんなに具合が悪くても、それを表に出そうとしない。
常に快活でいなければ周囲を不安にさせるし『後継者になるには体力が足りないのではないか』など、心ない噂も立てられるからだ。
――まさか、また無理してるのかな?
無視しようかとも思ったが、やはり心配が先に立つ。
湊はエスカレーターの前で足を止めた。
逡巡の末、綾は、湊の引き締まった背中に向けて尋ねた。
「常務、少しお疲れなのでは?」
湊が驚いたように振り返る。
黒い目が射貫くように綾を見ている。
綾は勇気を出し、言葉を続けた。
「体調が優れないのであれば、無理せず帰られた方がよいかと」
「ありがとう。相変わらず鋭いな……ただの時差ボケだ。おとといアメリカから戻ったばかりでうまく眠れなくて」
言いながら、湊が、ゆっくりと綾の顔を覗き込んだ。
非の打ち所がないほど整った顔が近づき、綾の心臓が止まりそうになる。
黒い目に、心の中まで覗き込まれそうだ。
気付けば湊がとても近くに居る。
周囲から見たら、恋人同士と誤解されそうなほど、すぐ近くに……。
綾が言葉を失った刹那、軽いベルの音と共にエレベータのドアが開いた。
同時に、外国人の子供が飛び出してきて、綾にぶつかりそうになる。
パンプスの綾は、子供を避けようとしてよろけかけた。
――あ……っ!
バランスを崩して体勢を立て直せない。転んでしまうかもと思った時、不意に力強い腕に抱き寄せられた。
爽やかな香りが綾の胸を満たす。
一拍遅れて、湊の胸に抱き寄せられているのだと気付いた。
広くて引き締まった胸にもたれたまま、綾の思考が停止する。
『なぜ駄目と言ったのに飛び出すの! ああ、ごめんなさい、大丈夫かしら?』
エレベータから降りてきた女性が、子供を厳しく叱りつけ、英語で綾たちに話しかけてきた。
湊に抱かれて呆然としていた綾は、我に返って、慌てて彼の腕から離れた。
『大丈夫です』
笑みを浮かべ、英語で答えて会釈をし、エレベータに先に乗り込んで扉を押さえる。
「失礼しました、黒崎常務。お乗りくださいませ」
貼り付けたような笑顔の綾に、湊が言った。
「ありがとう」
エレベーターの扉が閉まり、沈黙が狭い空間に満ちる。
何を話していいのか分からない。
綾は操作パネルを見つめたまま、じっと身を硬くした。
側に居るだけで落ち着かない。
湊の一挙一動に、動揺してしまう。
同時に、こんな状態で仕事としてやっていけるのだろうかと、不安も感じる。
再び軽いベルの音が鳴り、エレベーターは上階のレストランフロアへ着いた。
出迎えてくれた従業員にスマートにエスコートされ、あらかじめ予約されていた席に着く。
窓際の特等席だ。常連客の湊に気を利かせてくれたのだろう。
席に着くと、昔よく担当をしてくれたフロアマネージャーが、笑顔でやってきた。
「いらっしゃいませ。お二人でお見えになるのは久しぶりですね」
その言葉に息が止まりそうになる。
笑顔でここに座っていた数年前と今では、状況が違うからだ。
だが湊は、そつのない口調で彼に答えた。
「ええ。久しぶりにここで魚が食べたくて。もう遅いからさっぱりめに」
湊の短い言葉で、フロアマネージャーは全て心得たようだった。
「かしこまりました。では、七倉様のお好みに合わせて、デザートの方を多めに……で、よろしいですか?」
プロフェッショナルの彼は、綾が誰なのか、どのスイーツが好きなのかまで、きちんと覚えているらしい。
「ええ、お願いします」
湊の答えに、フロアマネージャーは笑顔で頷き、去っていく。
勇気を出して、綾は口を開いた。
「あの、今日は……お仕事の話ではないのでしょうか?」
「ああ。仕事の話じゃない」
まっすぐに背を伸ばした湊が、薄い笑みを浮かべた。
どうしようもなく鼓動が速くなる。
一体湊は何を考えているのだろう。
「私たちに、あれ以上話すことなんてありました?」
綾の言葉に、湊が微笑んだ。
「……どうだろうな」
言葉を切った湊が、かすかに表情を曇らせ、先ほどまでより低い声で言った。
「だけど、俺がここに居るのは、君に会いたかったからだ。君の会社の役員という立場で誘えば、一度くらいなら、逆らわずに会ってくれるだろうと思った」
「な、何を……」
常識外れの答えに、綾は絶句する。
あり得ない。そんな理由で会社に赴任してくるなんて常識外すぎる。
湊は綾の反応を楽しむように目を細め、グラスに注がれた水を一口飲んだ。
「何を馬鹿なことを、か? 君の言うとおりだ。じゃあ、今の話は、仮の話ということにしておこう」
湊が、切れ長の目を伏せた。
答えようとしたが言葉が出ない。
気付けば、膝の上に置いた手が震えている。
やはり湊は何らかの意図を持ち、綾を自分の元に異動させたのだ。
理由は……旧知の、七倉家の娘である綾を、特別待遇するためではないだろうか。
そう思ったら無性に腹が立った。
贔屓などしないでほしい。
綾は一般の社員だ。自分なりに仕事にやりがいを持って勤めている。
実家の威光で特別扱いされるなんて、絶対に嫌だ。
自分には『名家に生まれた』以外の価値があると思いたい。実家だけが綾の評価軸だなんて、耐えがたい。
湊と婚約したとき『七倉さんのお嬢さんなら、どこにでもお嫁に行けるわね』と散々言われた。
『ご姉弟の中で一人だけ地味だけど、七倉一族の後ろ盾があるなら、良縁が選び放題ね』とも。
だが自分は『運良く名家に生まれた、おまけの子』なんかじゃないと思いたい。
不満を呑み込み、綾は絞り出すように口にした。
「私が七倉の娘だからですか。両親に気を遣って、私を役員秘書室に異動させたのでしょうか? 何らかの便宜を図ってくださるために……だとしたら止めてください。嬉しくありません。私の知っている湊さんは、そんな公私混同をなさる方ではありませんでした」
言い終えて、湊を『黒崎常務』と呼ばなかったことに気付いた。
慌てて口元を押さえると、湊が楽しげに広い肩を揺らして笑う。
「何がおかしいのでしょうか。本気で嫌なんです。私の言うとおりだとしたら、そのような人事は止めてほしいです」
もしかして、自分の本気の訴えすら耳を貸してもらえないのだろうか。
綾の目の前が、悲しみで暗くなる。
「違うよ。七倉さんに便宜など図る気はない。ここは職場だ。君にも払った給与分の成果は求める。それはあらかじめ言っておく」
冷静な湊の答えに、綾は爪が食い込むほど握りしめていた手を、ようやく緩めた。
どうやら今の考えは、綾の誤解だったようだ。
「だが、正直に言えば、公私混同はしている。こうやってこの会社に乗り込んできた理由は、君に会うためだから」
綾の目をじっと見据え、湊が、静かな口調で言った。
「俺は、綾に謝りたかった」