書籍詳細
秘密の一夜から始まる懐妊溺愛婚~財界策士は囚われ花嫁をベビーごと愛で包み抱く~
あらすじ
「ずっと君と子どものそばにいる」極上御曹司は赤ちゃんとママを溺愛中♡
家業を助けるため、資産家のパーティーに参加した恵真は、美貌の男性・絢斗と出会う。甘く不敵な態度に翻弄されつつも、強く惹かれて一夜を過ごし…判明した彼の素性は、旧財閥の御曹司!?絢斗は実家の援助と結婚を申し入れ、恵真に蕩けるほどの愛を捧げてくれた。けれど、ある事件をきっかけに恵真は記憶を失い、さらに予想外の妊娠が発覚して…!?
キャラクター紹介
天花寺恵真(てんげいじえま)
製薬会社『天花寺製薬』の娘。家業が倒産の危機に陥り、資産家との結婚を考える。
榊 絢斗(さかきあやと)
榊家の次男。その美貌と卓越した手腕から『財界の王子様』と呼ばれている。
試し読み
目が覚めると私はベッドにいた。ブラインドの隙間から漏れた朝日が部屋に差し込んでいる。
服は昨夜のままで、乱れてもいない。眠ってしまった私を絢斗さんがベッドまで運んでくれたのだろう。
そして、当人は私の横で寝息を立てていた。薄手の白いシャツを着て、開けた胸元からは逞しそうな胸板が覗いている。
いや、逞しそうな、ではない。逞しいと私は身をもって知っているのだから。
安らかな寝顔、意識がなくとも整った顔立ち。こんな素敵な人が自分に求婚してくれただなんて、まだ信じられない。
絢斗さんが目を覚まさないのをいいことに、じっと見つめていると。
「眠っている人間を観察? お返しのつもりかな」
目は閉じられたままなのに、口が開いたのでびくりと固まる。しまったと慌てるも手遅れで、次の瞬間、瞼を開けた彼とぱっちり目が合った。
「起きてらしたんですか……」
「今起きたよ。それで、君はいったいいつから俺を見つめてたの? そんなに俺が格好よかった?」
自分の魅力を知った上で言うのだからいじわるだ。
獲物を狙う肉食獣のように、欲を隠しもせず私の顎に手をかける。艶っぽい瞳。朝から詰め寄られ、たじろいでしまった。
「お返しって……なんのことですか?」
「ああ。あの日、君が眠っている間に――」
そう言って、絢斗さんは言葉を切った。
あの日……? 一夜を過ごしたあのとき、いったいなにがあったのだろうか。
「私が眠っている間に……なんです?」
「いや。別に、たいしたことはないよ。眠っている君を少し見つめていただけ」
見つめていたって――あのとき、私は服を着ていなかった気がするのだけれど。
異議を唱えようとすると、彼がこちらに手を伸ばしてきて、私を引き寄せた。
彼の上に圧しかかるような体勢になり、私は「ちょっと、絢斗さん!」と悲鳴を上げる。
「昨夜、抱きたいって言ったはずだよね? なのに君はすやすや眠っちゃったから」
いじけたように言うと、私をお腹の上に載せて猫みたいに撫でる。
「お、お言葉ですが、休んでいいって言ったのは絢斗さんですよ」
「そりゃあ、疲れ切っている女性を無理やり抱くなんてできないだろう」
でも抱きたかった、なんてニュアンスを滲ませながら、彼がいじわるな笑みを浮かべる。私の体をころんとマットに転がし、今度は彼が私の上に覆いかぶさった。
「まあ、打算ゼロで無防備なところも君のよさだから、大人しくあきらめることにするよ。すごく焦れったくて歯がゆいけど、そんなところも好きだから仕方ない」
そう宣言して唇の先にちゅっとキスを落とす。
唇へのキス――彼は馴染みの仕草のようにさらりとしてのけたけれど、私の心臓は今、すごくばくばくしている……。
「君は被害者みたいな顔してるけど、翻弄されているのは俺の方だからね」
どう見ても翻弄されているのは私の方なのに? 首を傾げると、彼はムッと不満そうな顔をして、私の耳朶にかみついた。
「ひゃっ! やだ、ちょっと」
「君のそういうとこ、いじめたくなるな」
サディスティックに囁いて私をからかったあと、彼は切り替えるように上半身を起き上がらせた。
「もう八時か。シャワーと朝食、どちらにする?」
尋ねられ、私は頬に手を当てる。昨夜、メイクも落とさず眠ってしまったので、ファンデーションが肌に残っている感じがする。さっぱりしたいところだ。
「シャワー、お借りしてもいいですか?」
「じゃあ、朝食を九時に頼んでおくよ。俺は少しだけ仕事を片付けてくるから、先にシャワー浴びててくれる?」
「もしかして、今日、お仕事でしたか?」
彼は「月曜日だからね」と苦笑した。無理やり休ませてしまったのだとしたら、申し訳ない。
「私、お邪魔でしたら帰りますよ?」
「大丈夫。最近ずっと休日返上で働いてたから、たまに休んでも罰は当たらない。ただ電話はかかってくるかもしれない。うるさかったらごめん」
「私の方こそ、合わせてもらってすみません」
サービス業である私は、土日祝日の勤務がメイン。
本社で事務作業や会議もあるのだけれど、基本的には店舗に出て、売り場のサポートやクレーム対応、新人の指導なんかに当たっている。
勤務はシフト制でそのときどき。昨日のように無理やり休むなどしない限りは、土日に休みが取れることはない。
もっと昇進してマネージャークラスになれば土日休みになるのだけれど、道のりは遠そうだ。
「俺はひとつの会社に所属しているわけではないから、そもそも休暇って概念もないんだ。替えが利くような仕事でもないし、問題があればいつでも駆り出される。その代わり、緊急のトラブルでもない限り、今日みたいに少しだけわがままも言える」
絢斗さんは私の頭の上に手を置いて、ふんわりと微笑む。
「四六時中くっついていられるような関係にはなれないけれど、君が寂しがっているときには飛んでいくから、覚えておいて」
額にちゅっとキスを落とすと「少しだけ外すね」と部屋を出ていった。
温もりの残る額を押さえ、彼のうしろ姿を見つめる。
社長の仕事の過酷さは、両親を見て知っている。とくに絢斗さんは複数の会社の取締役を兼務しているし、投資家としても活動しているから、とても忙しいだろう。
「……気を遣ってくれているのね」
今日だって忙しかっただろうに、私の予定を聞いて急遽時間を作ってくれた。
「そこまでして、どうして私と結婚なんて……」
彼が本気であることは伝わってくる。馴染みの店で私を紹介してくれたことを考えても、この求婚は冷やかしなんかじゃないのだろう。でも――。
本当に絢斗さんは私が相手でいいのかな?
湧き上がってくる漠然とした不安を収めるのは難しそうだ。
「恵真。バッグとアクセサリー、どちらが欲しい?」
突然絢斗さんがそんなことを尋ねてきたのは、その日の午後だった。
午前中、彼は仕事の電話やリモート会議に応じて忙しなくしていたが、ようやくまとまった時間が取れたのか、ショッピングに行かないか? と切り出してきた。
「……どっちも嬉しいですが、どっちもいりません」
なにかのお祝いやプレゼントならまだしも、理由もないのに買ってもらうなんてできない。
「午前中、恵真を退屈させたから、お詫びをさせてほしいんだ」
「私はとても充実していましたよ」
彼が仕事をしている間、ひとりでビリヤードをやってみたり、リビングにある巨大スクリーンでアクション映画を鑑賞したりと、楽しい時間を過ごした。
「……複雑だ。嘘でも寂しかったと言ってほしい」
そうふてくされて、ソファに座る私にじゃれついてくる。
「そういえば、棚の中に未開封の映画のディスクを見つけたんですけど……絢斗さんもまだでしたら一緒に観ません?」
「俺のお詫びは?」
「ゴージャスさでごまかそうとするの、絢斗さんの悪い癖ですよ」
「大好きな人にはなんでも買ってあげたくなっちゃう男心を理解してくれ」
「今あるもので楽しめばいいじゃありませんか」
わざわざバッグやアクセサリーを買って私のご機嫌を取る必要はない。
「それに、まだお仕事が残っているんでしょう?」
私が尋ねると、絢斗さんは苦々しい笑みを浮かべた。
「恵真。いい子すぎるよ。なんだか俺だけ格好悪い」
「お仕事をきちんとするのは格好いいと思いますけど」
「気を遣おうとしているのに、逆に遣われている感じが情けない」
私の頭をくしゃくしゃとかき混ぜて、額にちゅっとキスを落とす。
そうやってかまわれるのは嬉しいけれど、なんだか気恥ずかしくて、そっけない振りをしてしまう。
「そのキスもお詫びのつもりです?」
尋ねてみると、彼は小さくため息をついた。
「やるせないよ。満足させたいのに、恵真はなにも欲しがってくれない。欲のない恵真も愛おしくてかわいいが……」
「ええと……つまり?」
「感情のやり場がない」
そう言うと乱暴に私の頭を抱きしめ、ソファにごろんと転がる。
「きゃっ、絢斗さん!?」
「恵真。好きだよ」
真正面から『好き』なんて言われるのは初めてで、照れくさくてたまらない。
彼の腕から逃れようともがくけれど、ちっとも離してくれないし、やはりからかわれているとしか思えない。
「このままいちゃいちゃしながら、ホラー映画でも観よう」
「ホラー? なんか下心が透けて見えて嫌です!」
なんとか彼の腕の中から抜け出し、映画のディスクが並ぶ棚のもとに向かうと、未開封の一作を手に取った。
最近ディスク化されたばかりの話題作だ。確か、幼い少女が相棒の犬とともに母親を探す旅に出るという感動巨作。
「これにしましょう、全米が泣いたそうです」
「それ悲しいお話だよね? 恵真の涙は見たくない」
「泣くために観るんじゃありませんか。泣かなくてどうするんです?」
無理やり絢斗さんを説得し、映画を鑑賞し始める。
シンデレラのように不遇な扱いを受ける少女が、失踪した母を追って旅に出るものの食事にありつけず、雪の中、相棒の犬とともに行き倒れてしまう。
涙を誘うお話――ではあるのだけれど、いざ観てみると泣いているのは絢斗さんの方で、しんどそうに目頭を押さえている。
「……大丈夫ですか?」
「泣かせ方がえぐいよ……」
私が差し出したティッシュボックスを受け取り、ぐすぐすと鼻をかむ。
すると、彼の胸ポケットからブーッブーッとバイブ音が響いてきた。彼のスマホだ。きっと仕事の連絡だろう。
「絢斗さん?」
「……そういう気分じゃない」
「絢斗さん!」
しっかりしてくださいとばかりに脇腹を小突くと、彼はスマホを片手にしぶしぶ立ち上がった。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、部屋を出ていく。
私は映画を一時停止させて、彼が戻ってくるのを待つ。戻ってきた彼は、スクリーンに映し出された幼気な少女を見て、鬱々と目頭を押さえた。
「もうやめよう。悲しすぎる……」
「この中途半端なところでやめる方がもやもやしてつらくありませんか?」
「だって、この女の子も犬も、死ぬのが目に見えているじゃないか」
絢斗さんはソファに座り、膝の間に私を置いてぎゅっと抱きすくめる。すっかり弱腰になっている彼を見かねて、私は仕方なく抱き枕に徹した。
ラストでやっぱり天国に行ってしまった少女と犬。絢斗さんは無言で私の肩に顔を埋める。完全に心折れている彼の頭を撫でて、いい子いい子してあげた。
「子どもと動物を使うなんてずるいと思わないか……!」
「戦略にはまりすぎです」
哀しくて優しいエンドロールが流れる。
顔立ちは端正でとても格好いいのに、鼻の頭を赤くして目を潤ませている絢斗さんは、ちょっぴりかわいいなあなんて他人事のように思ってしまった。
夜遅く、絢斗さんは私を家まで車で送ってくれた。運転席でハンドルを握りながら、不満げに漏らす。
「いい歳の男女が二日も一緒にいて、一度もエッチなことをしないなんて」
「健全じゃありませんか」
「健全すぎて不健全だよ」
そうは言うものの、ことあるごとに抱きつかれたりキスされたり、健全な関係とも言いがたいと思うのだけれど。
彼はいちゃつき足りなかったらしく、ずっとぶつぶつ言っている。
「私は……楽しかったですけど」
ぽつりと漏らすと、絢斗さんは毒気を抜かれたように肩を落とした。
「そういうことを打算なく、サラッと言えちゃうのが恵真なんだよね」
「どういう意味です?」
「かなわないなあと思って」
どこか吹っ切れたような顔をして、私の自宅マンションの前に車を停める。
「わざわざ送ってくださってありがとうございました」
お礼を告げると、不意に絢斗さんが私の頬に手を滑らせ、顔を近づけてきた。
「――俺も楽しかった。恵真がもっと好きになった」
そう甘く囁いて、私の唇をゆったりと奪う。こういうことをサラッと言えちゃうのが絢斗さんだ。私の方がよっぽどかなわない。
「連絡する。予定は合わせづらいかもしれないけれど、短い時間でもいい。会おう」
「……また、一緒に映画観ましょうね。今度は絢斗さんが泣かないやつ」
からかうように口にすると、絢斗さんは「恵真?」と恨めしそうに笑って、私の頬をふにっとつねった。
「次はロマンティックな恋愛映画を観よう。最高にハッピーエンドで、思わず恵真が俺に抱かれたくなるようなやつ」
「また感動して泣いちゃうんじゃありませんか? 目が真っ赤な絢斗さん、ちょっとかわいかったですよ」
「恵真!」
絢斗さんが怒って私の頬をふにふに伸ばす。でも、目はとろんと垂れていて、口元にはいじわるな笑み。思わずこちらまでふふふと笑ってしまう。
いつも綺麗な表情をしている絢斗さんだけれど、今この瞬間は素の顔を見せてくれているのだろう、そんな気がした。
「恵真がこんなにいじわるな子だとは思わなかった。悪い子にはお仕置きだな」
そう言って、私の首筋にかぷっとかみつく。くすぐったくて、笑いが止まらなくなってきた。
「あはは! やだ、絢斗さん、くすぐったい!」
「くすぐりたかったわけじゃないんだけど……まあいいや」
絢斗さんは舌を滑らせたり吐息を吹きかけたりと、悶える私をさらにいたぶる。
やがてちゅうっと音を立てて吸い付いた。途端に動きが甘美になって、絢斗さんがなにをしたかったのかを悟る。
「あの……絢斗さん、車の中は、恥ずかしい」
「誰も見ていないから大丈夫」
指先を絡めてシートに押し付け、深く唇を重ねる。もう片方の手が私の腰に回り、ゆっくりと撫でるように上がってきた。
「あ……絢斗さん、どこ触って――」
「これもお仕置き」
「嘘、ずるい」
絡まった指先をきゅっと握り込んで、キスに応える。
ふたりの吐息と絡み合う唇から漏れる水音、衣服の擦れ合う音が車内に響き、鼓動がどくどくと高鳴り始める。
別れ際にこんな気分にさせるなんて、ひどい。
「困ったな。帰りたくなくなってきた」
私も帰ってほしくない。このままひとりにされるなんて、耐えられない。
「……少しだけ、うちに寄っていきますか?」
思い詰めた末にそんな誘いを口にすると、絢斗さんは「やっぱり悪い子だなあ」と不敵な表情をした。
「お誘いに乗ろうかな」
近くのパーキングに車を停め、私たちは部屋に向かう。
玄関に入った瞬間からキスの続きが始まって、彼は我慢の限界とばかりに私を床に押し倒した。
「あの……せめてベッドに……」
「ベッドまで待てるなんて余裕だね。俺はすぐにでも君を抱きたいのに」
はだけた肩がフローリングに当たって冷やりとする。でもそれ以上に、重なった彼の肌が温かくて、寒さを感じない。
「……落ち着いたら、ちゃんとベッドに連れていってくださいね?」
「恵真が意識を失う頃には運んであげるよ」
そんな心ない約束をして、私たちはすぐさま昂った情熱をぶつけ合う。
初めて体を重ねたときのような恥じらいや罪悪感なんて微塵もなく、ただ欲望と彼への愛おしさに突き動かされて、私はすべてをさらけ出した。
気がつけば私はベッドにいて、彼はシャツを羽織っているところだった。カーテンの外に白んだ空が見える。きっとまだ明け方だろう。
「絢斗さん、行くんですか?」
「うん。ごめんね、恵真」
寝起きの私に気遣わしげなキスをくれる。甘くて、優しくて、うしろ髪を引かれるような儚いキスだ。
「私の方こそ、引き止めちゃってごめんなさい」
「わがままを言ったのは俺だ」
私はベッドから起き上がり、シャツのボタンを留めるのを手伝う。絢斗さんは「奥さんみたいだ」と笑って、私にやらせてくれた。
「気をつけて帰ってくださいね」
「恵真も。目の届かないところに恵真を置いておくのは心配だな」
そう言って私をそっと抱きしめる。起き抜けで乱れた私の髪をすきながら、浅めのキスを何度もくれた。
「過保護、ですね」
「片時も離れたくない」
その声があまりにも真剣で、ドキリとさせられる。いつもは余裕の笑みを浮かべて、茶化すように愛を囁くのに、今日の彼は違う。
「君に求婚したときより、何十倍も愛しているよ」
「……私もです」
それが本心なのだとわかり、安堵の吐息が漏れる。
絢斗さんは以前、私への愛はまだ一〇〇パーセントではないと言っていたけれど。
気持ち、埋まったかな……?
私への想いでいっぱいになってくれたら、そんなことを願ってしまう。
彼を玄関まで見送り、しばらく確認していなかったスマホを見ると、兄からたくさんの着信が来ていた。買収と婚約の件だろう。メッセージアプリに『今後のことを話したい』とメッセージが来ている。
私は『今晩、仕事が終わったら連絡する』とだけメッセージを送って、気持ちを落ち着かせるようにシャワーを浴びた。
その日の夜。仕事を終えて帰宅した私は、真っ先に兄に電話をした。
スマホを耳に当てながら、通勤用のジャケットを脱ぎ、バッグの中に入れていた残りわずかなミネラルウォーターを飲み干す。
呼び出し音が途切れると、兄の『もしもし』という声が聞こえてきた。
「昨日は連絡できなくてごめんね」
兄は小声で『大丈夫』と答える。妙に静かな部屋にいるようだけれど、もしかして、まだ会社だろうか。
「仕事中?」
『ああ。だがちょうどよかった。今、天花寺製薬としての方針が決まったところだ』
場所を移動したらしく、いつもの声のトーンに戻る。
きっと天花寺製薬の今後を左右する大切な会議をしていたのだろう。私はごくりと息を呑み、兄に「どうなったの?」と尋ねた。
『まずは情報を集めた。武藤薬品工業が買収に向けて動いているのは確かなようだ。こちらに準備する間を与えず仕掛けてくるだろう』
そんな情報、普通は表に出回らない。おそらく特別なコネクションを使ったのだろう。天花寺製薬は古くからある会社だから、独自のネットワークを持っている。
『防御策はいくつかあるが、なにぶん時間が足りなくて、後手後手に回る可能性が高い。だから彼の――絢斗さんの提案に乗ろうと思っているよ。今後のプランも提示してもらった。買収後も現状の業務にそこまで大きな影響はないだろうと考えている』
兄の言葉を聞いて、どこかホッとしている自分がいた。絢斗さんの言葉を信じてもいいと、兄のお墨付きがもらえた気がして。
『だが婚約の件に関しては、別問題と考えている。わざわざ婚約しなくとも買収は進められる。恵真は自由にしていいんだ』
兄や両親は私を縛り付けないように、気を遣ってくれているのだろう。
私だって絢斗さんを縛り付けたくはない。もしも買収の条件に婚約が不要だと提案したなら、絢斗さんはどんな反応をするだろう。
「わかった。絢斗さんと相談してみる」
私と絢斗さんの関係は、たぶん歪だ。今でこそ恋人のような体裁を保っているけれど、その実、利害が複雑に絡み合っていて、普通の恋愛とは言えない。でも――。
「もしもね。それでも絢斗さんが結婚したいと言ってくれるなら」
絢斗さんが、私でいいと――私を愛していると言ってくれたなら。
私は彼と一緒にいたい。
『それは、恵真も結婚してもいいって思ってるってこと?』
「……うん」
『なら、いいんだ』
兄も安心したような声を出す。なんとなく照れくさくなって、短く挨拶を済ませると、私は通話を切った。