書籍詳細
次期ホテル王のスイートな求愛
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あらすじ
俺に感じるときはどんな表情に変わるの?
町の小さな洋菓子店で働く見習いパティシエの里桜は、超一流ホテル「スノウ・カメリヤ」総支配人・天野崇正から、いきなりスカウトされてしまう。戸惑いながらも短期の出向というかたちで了承したけれど、慣れない職場に悪戦苦闘。そんな時、いつもは厳しい崇正が優しく支えてくれて……。彼への恋心に気づいた里桜は、庭園で突然抱きしめられ!?
キャラクター紹介
伊吹里桜(いぶき りお)
スイーツ作りが大好きな新米パティシエ。明るくまっすぐな性格。
天野崇正(あまの たかまさ)
世界トップクラスのホテルで最高責任者に就いた経歴のある敏腕ホテルマン。
試し読み
夜の庭もまたいいものだな、なんて思いながら歩いていくと、生垣の裏側からカサッと音がした。
瞬間、肩を上げて立ち止まる。
猫(ねこ)だろうか。それとも、風のいたずらとか……? 大したことない、と言い聞かせ、胸を押さえて息を顰める。
すると、だれかの足音のようなその音が近くなった。
「ひゃっ……」
「伊吹さん?」
恐怖に負けて悲鳴を上げたのと同時に、名前を呼ばれる。
「あっ……天野さん!」
姿を見せたのが天野さんで、今度は別の意味で驚いた。突然のことに言葉を失っていると、彼に訊かれる。
「なにをしている? こんな時間に、こんなところで」
「ちょっと庭園を見たくなって……。天野さんこそ」
こんな時間に、というなら、天野さんだってそうだ。
もうすっかり夜になっているのに、なんで庭園にいるんだろう。天野さんは白い息と一緒に答える。
「俺は休憩」
「え? その格好でですか?」
いくらなんでももう十一月になる夜に、コートも着ないでスーツ姿のままずっと外にいるのは寒いよね? 両手をポケットに突っ込んで、寒そうに肩を窄めているもの。
「五分、十分くらいなら、頭が冷えてちょうどいいんだよ」
天野さんは腕時計に目を落とし、そう言った。五分、十分の小休憩か。それにしても、天野さんって何時間くらい働いているんだろうか。だって、今日は十時半に出社したときにはすでにいたし。
「大変ですね。身体壊しませんか?」
立場上、忙しいのは仕方のないこととはいえ、過労で倒れてからでは遅い。
この人、しっかりしていそうだけど、どこか自分のことには無頓着(むとんちゃく)なのかもしれない。
「きみも同じようなものだろう。パティシエ業界も厳しいと聞いている」
「そうですけど……私は好きだから。それに、うまく作れたりすると疲れも飛ぶし。そうしたら、また頑張れるので」
疲れていても、その瞬間報われる。あの喜びを味わうと、また頑張ろうって思える。スイーツ作りは大変なことも多いけれど、楽しいことのほうが多い。
「ああ。なんとなくわかる。今日みたいなことがあると、気分がいいよな」
ふいに天野さんが、クスッと笑った。天野さんのひとことで、あのときの感情が瞬時に蘇っていく。
そうだ。今日は今日で、自分の作ったスイーツでとても喜んでもらえた。佑都くんのあの笑顔は、きっとずっと私の心に残る。
私はすっかり、天野さんと笑顔を交わし合えるとばかり思っていた……再び彼の顔を見るまでは。
「……いや。本当はわかってなんかないか」
天野さんは、ぽつりとひとりごとのようにつぶやくと、とても苦しそうに笑みを浮かべた。
その微苦笑は、なんだか淋しそうにも見える。
私の思い込みなんかじゃない。仄(ほの)暗(ぐら)いから見間違えたわけでもない。こんな表情の彼は初めてだった。
「天野さん……?」
「なんでもない。じゃあ、気をつけて帰れよ」
彼はごまかすように睫毛(まつげ)を伏せ、小さく口角を上げた。そして、私を置いて足早に去っていく。
私は天野さんの広い背中を振り返り、考えるよりも先に、このままではいけないと身体が動いた。咄嗟に追いかけ、彼の腕を捕まえる。
「……なに?」
これじゃあ、昼間のときと逆だ。あのとき天野さんに腕を掴まれた感覚を思い出し、頬が熱くなる。
勢いで動いてしまったから、なんの準備もない。なにを伝えたいのかさえ、あやふやなままだ。必死に取り繕う言葉を探って、ようやく閃き顔を上げる。
「えっ。えー、えーと……あ! あの、これを……」
天野さんの腕を離し、急いで肩にかけていたカバンの中を探る。透明フィルムを見つけ、それを握って天野さんに突き出した。
「ラムネです。プチギフト的な感じのものもいいかなと思って。それで、昨日作って一日乾燥させていたんですけど」
こんな脈絡(みゃくらく)ない言動、絶対不審に思われてる。私は天野さんの顔を見ることができず、ネクタイの結び目だけを瞳に映した。
「これを俺に?」
やっぱり彼は不可解に感じたのだろう。声から困惑した感情が伝わった。それでも、ラムネは受け取ってくれて、ホッとした。
「あの、甘いもの食べたら少しは気分転換になるかな、と」
私は取ってつけたように理由を告げた。それから、ややしばらく天野さんはなにも言わなかった。
ああ。失敗したかも。差し入れという形で渡すよりも、試食をお願いする体で渡したほうが自然だったかな。でもいまさらもう遅い。
沈黙が続き、焦燥感に駆られる。いくら彼の様子が気になったからとはいえ、考えもなしに首を突っ込むなんて無謀(むぼう)だった。
力なく項垂れると、天野さんがようやく口を開く。
「伊吹さんはいつも前向きで、自分をこうして表現してる。きみを見ていると、俺は父の真似事(まねごと)をしているだけで、そこに自分の個性や意思がないと思い知らされるよ」
いつもはもっと自信たっぷりな口調なのに、別人のように遠慮がちな声だった。
あまりに違い過ぎて、思わず彼を凝視した。久方ぶりに天野さんと視線がぶつかると、彼は儚(はかな)げに微笑(ほほえ)む。
「きみはすごいなと素直に思う」
私はひと声も発せず、茫然と彼を見つめる。
もしかして……ううん、絶対にこれが天野さんの本来の顔だ。
そう直感すると、ますます目が離せなくなる。
辺りにあるふくよかな椿の蕾さえも視野に入らない。私の意識は天野さんでいっぱいだ。
「だからと言って、今さら立ち止まることはできないしな。俺はこのまま走り続けるしかない」
天野さんは平静を装っているのだろうけれど、私には虚勢を張ったような強がった笑顔に思えてならない。
そう感じると、どうしてもこのまま放っておけない。
「ホテル王と言われているお父様も、スタッフ全員の名前を覚えているんですか?」
「は?」
「ベッドメイクの方にも毎朝声をかけます?」
「いや……」
急に矢継(やつ)ぎ早(ばや)に質問を繰り出す私に、天野さんは目を白黒させながら、しどろもどろに答えた。
「私、天野さんのそういうところ、すごいと思ってます」
自分には経営の才能があるから人を使う側に立つのが当然だ、と驕(おご)ることなく、人材を大切にし、地道な努力を重ねている。そういうのって、簡単なようでとても難しいことだと思う。
「個性って、突出して目立つばかりが個性じゃないと思うんです。陰でたくさんの人を支えて士気を上げられる人って、絶対みんなの心に残る」
天野さんの手の中にあるピンクや水色、黄色など、色とりどりのラムネに目を移す。
手作りだから、形もそれぞれ少し違うし、歪(ひずみ)なのも混じっている。
だけど、これだって、もしかしたらだれかに喜んでもらえるものかもしれない。なんにだって、だれにだって、それぞれいいところがある。
「天野さんなら、走ったって立ち止まったって、どんなときもたくさんの人に囲まれていますよ。それは見た目とか肩書きとか関係なく、みんな天野さんの本質に惹(ひ)かれているんだと思います」
つい夢中になって熱弁を奮い終えて、はたと我に返る。仮にも今は私の雇い主である人に、随分(ずいぶん)偉そうに言ってしまった。
「あ……じゃあ。私、そろそろ失礼します」
急に気まずくなり、おずおずと頭を下げ、そそくさと天野さんの前を横切った。
次の瞬間。
「えっ……」
無意識に声を漏らしたときには、思考がショートしていた。手首を握られ、温かな体温に包まれている。
私の身体の前で交差する腕は、天野さんのものだ。……ということは今、私、天野さんに後ろから抱きしめられてる。……なんで?
まるで時間が止まっているように感じる。でも、心臓だけは頻りにドクドク騒いでいるから、天野さんにも気づかれてしまいそう。
彼は私の右肩に頭を凭(もた)せ掛(か)けたまま動かない。そこだけが、やたら熱い。
「里桜」
首筋に柔らかな音が響く。それが彼の声で、呼ばれたのは自分の名だと気づくまでに時差があった。
衝撃的すぎて、なにが起きたのかわからなかったのだ。
「ありがとう」
硬直して立つ私に、ふたことめが囁(ささや)かれた。
「い、いえ……。私はなにも……」
彼のお礼の真意が、はっきりとわからない。
ただ私は、消え入るような声を出して小さく首を横に振る。すると、さらに腕に力が込められ、胸がきゅうっと鳴った。
「きみはいつもだれかのために一生懸命で……そういうところに救われる」
耳元で囁くように言われ、ますます自分の心音が大きくなるのを感じる。
「あ……あの」
「ごめん。もう少しだけ」
天野さんは懇願するようにつぶやくと、沈黙した。
私はしなやかな腕に抱かれ、彼の熱を感じながら、ただ椿の蕾を目に映すだけだった。
4
オーブンの温度設定をチェックしつつ、ボウルに入った生クリームを泡立てる。当然、百瀬よりも量が多いため大変だ。
それでも、生クリームの泡立てまで任されることへの喜びが大きくて、俄然(がぜん)気合いも入るってもの。
私はホイッパーをリズムよく動かし始める。スイーツ作りの過程には、こういった黙々とこなす作業がよくある。
材料の計量だったり、フルーツを切ったり。
そういう作業をしているときに、たまに無意識に、ぼんやりと考え事をしていることがある。
それが、まさに今。意識が何度も、昨夜に引き戻される。
あのとき、天野さんは確かに『里桜』と口にした。
これまでそう呼ばれていたのなら別だけれど、彼はずっと私を『伊吹さん』と呼んでいたはずなのに。
しかも、後ろから抱きしめ……。
そこまで回想をして、生クリームを泡立てていた手を止める。
なんだったんだろう。この間まで海外生活をしていたらしいし、下の名前で呼ぶことのほうが実は自然だった、とか。
急に抱きしめてきたのも、向こうではスキンシップが多いから、特に深い理由はないのかもしれない。
向かい側に橘さんがやってきて、私は慌てて手を動かす。
同時に、煩悩もどこかへ飛ばそうと自分に言い聞かせる。
きっとあの場のノリだ。勢いだ。深い意味なんかない。
そうだよ。だから、もうなにも考えない。変な期待なんかしない。ボウルの中の渦を見つめ、ハッとする。