書籍詳細
虐げられていましたが、容赦ない熱情を刻まれ愛を注がれています
あらすじ
「全部俺のものにするから」
薄幸の彼女はエリートシェフに秘密ごと愛し貫かれて――
田舎の工房で働く陶芸家・葵の元に、有名シェフ・匡が訪れる。都会的で洗練された匡に気後れするものの、葵に惹かれたという彼から熱い想いを注がれ、溺愛に満たされて…。しかし、ある重大な事情を隠している苦悩から、葵は別れを決意!?一方、匡は秘密に囚われて雁字搦めになった葵を守り抜くと誓い、甘く蕩けるほどの熱情で彼女を包み込んで――。
キャラクター紹介

小谷 葵(こたに あおい)
祖父の工房を継いだ陶芸家。クールな職人に見られがちだが、実は人見知り。高校の頃、伯父に引き取られた。

柏木 匡(かしわぎ たすく)
フランスでの修行経験もある有名な敏腕シェフ。昔から恋愛は二の次だったが、葵には強烈に惹かれる。
試し読み
気がつけば外は雨が降り出していて、窓ガラスに大量の水滴が付いていた。一心に器の成形をしているうち、午後五時半を過ぎていたらしい。スマートフォンの着信音で我に返り、手を洗って確認すると、和之からメッセージがきていた。
「遅いよ」「まだ来ないなら、買い物してきてくれる?」という文言のあと、買ってきてほしいもののリストが並んでいるのを見た葵は、ぐっと唇を引き結ぶ。
そして素早く指を滑らせ、「仕事でトラブルがあって、今日はそっちに行けません」「どうしても急ぎの買い物なら、伯母さんに頼んでください」というメッセージを送信し、スマートフォンを閉じた。
(もしかしたら、あとで伯母さんから文句を言われるかもしれない。でも仕事に穴を開けるわけにはいかないんだし、頑張らないと)
何度か仕様書を確認しながら器を作り、手が疲れてきたら乾いた分の削りの作業をしたりと、黙々と仕事をする。
外は雨と風が強まっていて、ときおりザアッと窓に雨粒が叩きつけられる音がしていた。ふいに窓越しに車のライトがちらついた気がして、葵は手を止める。やがて工房の引き戸が開き、雨に濡れた傘を手にした柏木が顔を出した。
「柏木さん、どうして……」
驚いてつぶやくと、彼は傘を閉じながら答える。
「やっぱりまだ作業をしていたんですね。もしかしたら、壊れてしまった分を作り直すのに根を詰めているのではないかと思って、差し入れを持ってきたんです」
時刻は午後七時半を過ぎており、葵は夕食を食べていなかった。
柏木はサンドイッチと温かいコーヒーを持ってきてくれていて、恐縮して受け取る。サンドイッチはキャロットラペと紫きゃべつ、照り焼きキチンとたっぷりのレタスが挟まっていて、彩り豊かな切り口が美しかった。
まさかこんなひどい雨の中に来てくれるとは思わず、葵の胸がぎゅっと締めつけられる。陶土がついて白っぽくなったエプロンを見下ろしながら、小さく問いかけた。
「柏木さんは……どうしてこんなに親切にしてくれるんですか? わたしたちは、ただのクライアントと職人なのに」
すると彼が眉を上げ、さらりと言う。
「僕にとっての小谷さんが、〝特別〟だからかもしれません。だから何かしら口実を作って、ここに会いにきています」
「えっ……」
「小谷さん、僕は――」
その瞬間、バチッと音がして、工房内が真っ暗になる。葵はびっくりして声を上げた。
「えっ、停電?」
「落ち着いてください。外はかなり風が強かったので、もしかすると木の枝が電線に触れてしまったのかもしれません。ここは非常電源は?」
「あ、ありません」
「そうですか。困ったな」
一時的なものならいいが、このまま復旧しなければ今夜は仕事ができないことになる。
(どうしよう。今日はあと八個くらい作らなきゃいけないのに)
だが停電が一時的なものならば、すぐに復旧する可能性がある。そう考え、葵は柏木に向かって言った。
「もしかしたらすぐに復旧するかもしれませんし、柏木さんはもうお帰りください。おうちが心配ですよね?」
「いえ。自宅が停電になっていたとしても、僕が行ってどうにかできるわけではありませんから」
彼は「それに」と言い、言葉を続ける。
「こんな真っ暗な中で、小谷さんを一人にはしておけません。心配なので」
「……っ」
かあっと頬が熱くなり、葵は今工房内が暗くてよかったと頭の隅で考える。
こんな顔を見られたら、自分が柏木を意識しているのが丸わかりに違いない。彼自身は他意なく言っているのかもしれないが、葵はそれを深読みしたくなってしまう。
柏木がこちらを落ち着かせる口調で言った。
「とりあえず、危ないので一旦座りましょうか。何なら腹ごしらえに、サンドイッチもどうぞ」
「……はい」
徐々に薄闇に目が慣れてきた中、葵は椅子に座る。
彼も向かいに座り、持参したポットのコーヒーを注いでくれようとしたため、葵は慌てて立ち上がって言った。
「待ってください、柏木さんの分もカップを……」
「いえ、お構いなく。危ないですから、むやみに動かないほうがいいですよ」
カップに注がれたコーヒーが豊潤な香りを放ち、葵は「いただきます」と言ってそっと中身を啜(すす)る。
(……美味しい)
丁寧に淹れられたコーヒーは美味しく、ホッと気持ちが和む。
サンドイッチは具沢山で頬張るのが大変だったが、味は文句なしに美味しかった。そんな様子を前に、柏木が口を開いた。
「今日、康太くんが焼成前の器を壊してしまったとき、小谷さんは彼や杉原さんが気に病まないよう精一杯明るく振る舞っているように見えました。でもあれだけの数が破損してしまったら、作り直すのは大変なのではと思っていたんです」
何か手伝いたい気持ちがあったが、柏木は門外漢で手を出せない。
ならばできることは何か――そう考えた結果、差し入れにサンドイッチを作ることを思いついたのだという。葵は口の中のものを飲み下して言った。
「でも、わたしが既に工房にいない可能性もありましたよね? いつもは五時半にここを閉めていますから」
しかも彼は、こちらの自宅を知らない。せっかく作ったものが無駄になったかもしれないと考えると、葵の中で困惑が募る。すると柏木が、あっさり答えた。
「そのときは、おとなしく帰ろうと考えてましたよ。もし残業せずに済んだのなら、それに越したことはありませんし」
「……そんな」
「先ほど小谷さんは、僕が親切にする理由を聞いていましたね。話が途中になってしまいましたが、僕にとっての小谷さんは〝特別〟です。あなたとどういうふうに距離を詰めるべきか、あれこれ考えながら試行錯誤でここに通っている」
「……っ」
ドキリと心臓が跳ね、葵は目の前の柏木を見つめる。
彼が自分への想(おも)いを仄めかす発言をしていることが、信じられなかった。何しろ柏木は、ネットで名前を検索すれば特集記事が出てくるような有名シェフだ。加えて背が高く整った容姿をしており、つきあう女性にまったく苦労しなさそうに見える。
そんな人物が地味な自分を好きなど、そんなことがあるだろうか。葵はひどく動揺し、椅子から立ち上がる。そして目を伏せて早口で言った。
「あの、わたし、やっぱり柏木さんのコーヒーカップを持ってきます」
「――待ってください」
真横をすり抜けようとした瞬間、突然手首をつかまれて、葵は息をのむ。
柏木がすぐに手を離して言った。
「僕はからかい半分で、こんなことを言っているのではありません。あなたを脅かすつもりもありませんから、どうか座って話を聞いてくれませんか」
「…………」
心臓がドキドキと速い鼓動を刻むのを感じながら、葵は再び椅子に腰を下ろす。
彼が穏やかな口調で言った。
「小谷さんに出会ってから三週間ほどが経ちますが、最初は陶芸家としての才能に尊敬の念を抱きました。一目惚れした氷裂貫入の皿を作ったのがこれほど若い女性なのが意外で、驚いたのもあります。僕の店の食器を制作するのを了承していただいたときは、とてもうれしかった。でも仕事を通じてやり取りするうち、あなたの陶芸に対するひたむきな姿勢や、フランス料理に馴染みがないのを隠さない正直なところ、僕の料理を食べたときの素直な反応に、どんどん心惹かれていったんです」
いつしか葵の反応を思い浮かべながら料理するのが楽しくなり、日々の励みになった。そんな柏木の言葉に、葵はどんな顔をしていいかわからなくなる。
(柏木さんが、わたしを好き? 本当に……?)
彼に心惹かれているのは、葵も同じだ。
だが実際にはっきり言葉にされると、途端に怖くなる。はたして自分は柏木とつきあうのに、ふさわしい人間だろうか。
(わたしは……)
最初は真っ暗で右も左もわからない状態だったが、次第に目が慣れて彼の姿がぼんやりと浮かんで見える。
柏木が真っすぐにこちらを見つめているのがわかって、葵の体温が上がった。いつしかサンドイッチを食べるのを忘れながら息を詰めて見つめ返すと、彼が言葉を続ける。
「でも小谷さんは僕に必要以上に近づかないようにしているというか、壁を作っているように見える。もちろんそれは、仕事関係の人間に対して節度のある態度を取っているともいえますが、もっと他に理由がある気がしています。一体なぜですか?」
「あの……」
柏木の言葉は的を射ていて、葵は気まずく言いよどむ。
彼を好きな気持ちが確かにあるのに、踏み込むのが怖い。理由を尋ねられても正直に答えられず、押し黙る葵に対し、やがて柏木が苦笑して言った。
「もしかして僕は、小谷さんを困らせていますか? でも今までさりげなくアプローチしても、あなたは気づかないふりをするばかりでまったく進展しませんでした。だからこれからは少し、直接的なやり方でいきます」
「えっ……、あっ!」
突然腕を伸ばした彼に手を握られ、その大きさとぬくもりにドキリとする。
やんわりとこちらの手を握り込みながら、柏木が熱を孕(はら)んだ眼差しで言った。
「嫌なら拒んでください。すぐにやめます」
「……っ」
彼に触れられた拳が、じんわりと熱を持つ。
早く振り払うべきだと思うのに、それができない。いつになく強引な柏木に胸が高鳴り、恥ずかしさとときめきがない交ぜになった気持ちが葵の中に渦巻いていた。
わずか数秒が、まるで五分ほどに感じた。握られた手を動かさない葵に対し、彼が問いかけてくる。
「振り払わないということは、少なくとも僕を嫌いではないというふうに解釈してよろしいですか?」
「……っ、はい」
「よかった。今はその答えが聞けただけで、満足します」
そう言って柏木が手を離し、葵はホッと息をつく。だが次の瞬間、彼が「でも」と言葉を続けた。
「僕の気持ちは伝えたわけですし、これからは遠慮なく小谷さんを口説きますから、覚悟しておいてください」