書籍詳細
きまじめ御曹司と身代わり婚約者
あらすじ
初めて出会った日から、恋に落ちていたんだ
きまじめ御曹司の箍がはずれたら……直球の愛情にドキドキ
茜はお人好しすぎる性格が災いして、会社でも無理な仕事を任される日々。ある日、絶縁状態の伯父がやってきて、従姉妹に成りすましてのお見合いを頼まれてしまう! 断りきれず引き受けた席で出会ったのは、無愛想で無口な御曹司・向居貴弘だった。不器用ながらも一途でストレートな愛情をくれる彼に、惹かれはじめる茜。私は身代わりなのに……。
キャラクター紹介
小柳 茜(こやなぎ あかね)
IT企業で働くOL。お人好しのため、都合良く扱われることも少なくない。
向居貴弘(むかいたかひろ)
向居財閥の御曹司。真面目な性格で背が高く、強面で無口。
試し読み
「突然、昼食をここに決めてしまって、申し訳なかった」
「いえ、私はどこでもよかったから、問題ないよ」
それこそファストフードでも回転寿司でも、はたまたコンビニ弁当でも構わないのだが、貴弘はそのあたりの料理とは無縁そうである。
ふたりは手を合わせて「いただきます」と言い、箸を取って食べ始めた。
相変わらずおいしい……。
茜は箸を進めるたび、幸せそうに目をつむる。
戻り鰹は口の中に入れた瞬間、トロリととろけるほどの脂が乗っていた。酢締めのコハダを食べると、さっぱりした味わいにため息が出る。
ご飯は、から煎りしたちりめんじゃこが混ぜ込まれていて、山椒が品よく効いていた。食が進む。石焼きで食べる焼き肉は、醤油とわさびで頂くと脂の甘さがより引き立ち、ご飯がよりおいしく感じた。鯛のあら汁は柚子の風味でさっぱりとしていながら、鯛のうまみが存分に出ている。
「ううう~……本当においしいね~」
またこの料亭の料理が食べられるとは思わなかった。お値段はいくらになるのだろうと、やや不安になる。こんなお店は茜ひとりで入れるようなところではない。
ちゃんと味わって、頂こう。
茜がしみじみ食べていると、ふと、目の前の貴弘と目が合った。
彼も箸を進めているものの、やはり、茜のほうが食べるのが早い。
(うう、また夢中になって食べちゃった。お上品に食べてるつもりなんだけどなあ)
彼と調子を合わせるために箸を置く。そしてお茶を飲んでいると、なぜか貴弘の眉間に皺が寄った。そういえば見合いの時も、茜が箸を置くとこんな顔をしていたと思い出す。
「あの、貴弘さん。どうして私がごはんを食べていると、睨むの?」
首を傾げて聞けば、貴弘は「えっ」と目を丸くした。そして額を手で覆い、困ったようにため息をつく。
「すまない。睨んでいるように見えていたのか」
「う、うん。お見合いの時も、機嫌が悪いのかなって思ったよ」
「そうか。指摘してくれてありがとう。……そういうことだったんだな」
貴弘はどこか納得した様子で頷き、お茶を一口飲む。
「実は、俺自身は睨んでいるつもりはなかった。ただ、その、君の食事している姿が」
言いあぐねるように、貴弘は口を手で覆った。
「か……っ」
「か?」
茜が問い返すと、貴弘は横を向く。照れているのか、耳が真っ赤になっていた。
「可愛い、と思っていて」
ぽかんと茜は口を開ける。
「それなのに、突然食べるのを止めたものだから、どうしたのだろうと思ったんだ。料理が口に合わなかったのかとか、色々考えてしまった」
「つまり、あの睨み顔は心配して考え込んでいたってこと……?」
そう問いかければ、貴弘はこくりと頷く。
(な、なるほど……! またひとつ、貴弘さんがわかった気がする)
茜は心から納得した。あれは怒ったのでも不機嫌になったわけでなく、どうして茜が箸を置いたのだろうかと考えていたのだ。
(で、でも、その理由が、私の食べる姿が可愛かったから、だなんて)
頭から湯気が出そうなほど顔を熱くさせた茜は、箸を取ってぽつぽつと食事の続きを始めた。
貴弘はそんな茜を黙って見つめたあと、箸と茶碗を持って、混ぜご飯を口にする。
言葉少なに昼食を終えて、しばらくすると、仲居は温かい番茶と共に甘味ものを持ってきた。
「これは縁側で座って食べよう」
貴弘は盆を持って縁側に移動する。茜も慌てて盆を手に持ち、彼の後に続いた。
一週間前に来た時よりも、庭の雰囲気は少しだけ秋色に染まっていた。縁側に出ると心地よい涼風が茜の?を撫でる。
暑くもなく、寒くもない、丁度いい季節。
貴弘は縁側であぐらを組み、茜はその隣で横座りをした。
「あんみつ。おいしそう」
甘いものを見ると、ついつい顔が緩んでしまう。茜はスプーンであんみつの寒天をすくい、ぱくっと口にした。
「う~ん、おいしい。抹茶味の寒天と餡子が合う!」
もぐもぐと口を動かしてあんみつを堪能していると、貴弘と目が合った。もしかして、先ほど貴弘が言ったように、茜の食べる姿を可愛いと思って見ていたのだろうか? そう考えるとみるみる恥ずかしくなり、茜は俯いて求肥をスプーンでいじる。
「あ、あの……」
いたたまれなくなって、茜は食べる手を休めて、口を開く。
「貴弘さん、どうしてこのお店に来たの? お昼ごはんなら、ここじゃなくてもよかったと思うけど」
この料亭の料理はおいしい。だけど、それだけが理由ではない気がした。
貴弘はしばらく黙ったあと、ゆっくりした手つきで白玉をすくい取る。
「どうも今日のまゆみは、酷く疲れていたようだったから」
茜は顔を上げる。貴弘は前を向いたまま、言葉を続けた。
「あちこち連れ回すよりも、君の身体を休ませたかった」
まさか貴弘に、自分の疲労を見抜かれていたなんて。ごまかせていると思っていた茜は目を見開かせる。
「それで、思いついた場所が、ここだった」
向居家専属の部屋がある料亭。そこなら誰の邪魔も入らず、街の騒がしさとも無縁で、静かな時間を過ごせる。貴弘はそう思って、茜をここまで連れてきたのだ。
茜の心がじんわりと温かくなる。
(この人は、本当に優しい人なんだ……)
貴弘の心の中はこんなにも気遣いに溢れているのに、その表情のほとんどが無表情やしかめ面に覆われて、あまり自分の気持ちも口にしてくれない。
(つくづくもったいない。……だけど)
かちゃり。自分のスプーンが冷たい陶器の鉢に当たる。
(私は、私だけは、優しい貴弘さんを知っている。そのことが、なぜだか嬉しい……どうして?)
自分の気持ちに、茜は戸惑う。
なぜ、こんなにも心がドキドキしているんだろう。貴弘と同じ時間を過ごすことが嬉しいと感じているんだろう。
茜は慌てて首を横に振った。今、そのことを深く考えてはいけない気がした。だから茜は、気を紛らわせるように、貴弘に笑いかけた。
「ごめんね。確かに私、今日はちょっと疲れてたかも。気遣ってくれてありがとう。とても嬉しかった」
「……いや」
貴弘は俯き、赤えんどう豆をスプーンでつつく。どうやら照れているようで、茜はくすくす笑いながら、ぱくっと甘酸っぱいミカンを食べた。
「でも、私の体調が万全だったら、色々行ってみたかったなあ。私、今日は絶対に貴弘さんを笑わせたいって思ってたんだよ。何をしたら笑ってくれるのかなって、ずっと考えていたんだから」
「俺を、笑わせたい?」
少し驚いたように貴弘は言って、隣に座る茜を見た。そして、困惑した様子で眉間に皺を寄せる。
これは何を考えているのだろう?
笑ってほしいと言われて困っているのか、それとも、どう笑ったらいいか悩んでいるのだろうか。
茜はしばらく考えたあげく、ジーッと貴弘の目を見つめた。彼の艶やかな黒目が、しっかりと茜を映している。
あまりに茜が前のめりになって貴弘を見るものだから、彼は少しだけ身を反らせた。
「ど、どうした?」
「ううん。ここで都合良く私にテレパシー能力が使えないかなって思ったの。エスパーに目覚めたら、貴弘さんが何を考えているか一発でわかるからね」
人差し指を一本立てて、洗脳するようにグルグルと指を回してみる。
貴弘はあっけに取られたのか、ぽかんとした顔をした。そして、堪えきれなくなったのか、クッ、と喉の奥を鳴らす。
「ははっ」
貴弘が、笑った。
目をつむって、まるで少年のように屈託のない笑顔だった。
「あ、笑った!」
「君が笑わせるからだ。俺だって、面白い時は笑うよ」
「だって、初対面から全然笑ってくれなかったじゃない」
「緊張していたんだ。それに、笑うよりも……」
貴弘は言葉を切り、そっぽを向いてコホンと咳払いをする。そして、改めたように茜に顔を向けた。
「まゆみに、みとれていたんだ」
「へっ……!?」
茜は目を丸くし、顔を真っ赤にさせる。そんな、みとれていたなんて。自分はまゆみじゃなくて茜なのに。いや、茜だけどまゆみの顔を作っているのだから、まゆみにみとれていたのか。いやいや待って。彼は一体まゆみのどこにみとれていたの?
たまらなく恥ずかしくなった茜は、前を向いてぱくぱくとあんみつを食べ進める。
さっきまで涼しいと思っていたのに、やたらと暑い。いきなり秋から夏に逆戻りしてしまったみたいだ。
「まゆみ」
「ひぇっ、はい」
声をかけられて、茜の声が裏返る。どれだけ動揺しているのだ。
「次の、会う日取りを決めよう」
「え、今、決めるの?」
「ああ。あとでメールのやりとりをして決めてもいいけれど、あらかじめ約束しておいたほうが、こちらも仕事の予定を組みやすいんだ」
なるほど。その意見は一理ある。最初から約束しておけば、その日に仕事を入れないように工面すればいいのだから。
「本当は一日でも早くまゆみに会いたいけれど、仕事でそうもいかない。だから、せめて次に会うという約束は交わしたいんだ。その日を楽しみにできるから」
「ええっ !? う、うん」
なんだかとても恥ずかしいことを言われている気がする。茜の顔は熱いままで、まったく冷める気配がない。
「い、いいよ。約束……しよう」
照れ隠しにあんみつを食べつつ、早口で言う。勝手に約束なんてしていいのだろうか――そう心によぎったけれど、なぜか断るという選択が思いつかなかった。
貴弘は嬉しそうに頷き、前を向く。ふたりが見つめる前には、涼やかにさやさやと 紅葉の葉を鳴らす、心が洗われるような日本庭園が広がっている。
かこん、とししおどしの音がした。
「……あの日、ここでまゆみに会った時。不思議な気持ちを感じた。また君に会いたいと強く願った」
ふわりと頬を撫でる、秋めいた風。それでも、茜の熱は引かない。
貴弘は再び茜に向いて、その形のよい眦をゆっくりと細めた。
「この見合いでまゆみに出会えたこと。それはもしかしたら、俺にとって、運命だったのかもしれない」
「うっ、運命?」
茜は驚愕して身体をのけ反らせる。
なんだろうこの人。口下手のくせに。普段はてんで無口のくせに。
どうしてこんなにもストレートに、恥ずかしいことを口にできるのだ。それとも御曹司はみんなこんな感じで、甘い言葉をサラッと言えるのだろうか。
(いや、きっと貴弘さんは、言葉を飾るなんて器用なことはできないはず。つまり、本音しか言えないんだ……。って、本音!?)
そうだとしたら余計にたちが悪いではないか。
茜は目がぐるぐる回って、めまいがした。
(ほ、本当に心臓に悪い。本物のまゆみさんなら、こんな恥ずかしい言葉もサラッと受け止めちゃうのかな。育ちの良い人たちって怖い……!)
会ったこともないまゆみに戦慄しながら、茜は息を整える。
そして混乱しながらも、貴弘と次のデートの日にちを決めたのだった。