書籍詳細
愛に目覚めた怜悧な副社長は、初心な契約妻を甘く蕩かして離さない
あらすじ
「可愛い君を、誰にも渡したりしない」
婚約破棄された令嬢は、極上旦那様に娶られ…!
OLの椿はある日、大学の先輩・鳴上と仕事で再会。彼は椿の初恋相手だった。大手商社の副社長だが、経営者の血筋でないと揶揄された彼を見て、名家出身の椿は思わず「私と結婚しましょう!」と口走ってしまう。その場しのぎのはずが、初めて愛を知った鳴上は溺甘に豹変。――「どうしようもなく好きで好きで堪らない」と椿はありったけの熱情を注がれ…!
キャラクター紹介
上之園椿(かみのそのつばき)
銀行頭取の父に抑圧され育つが、芯の強い女性。鳴上と再会してからは元来の明るさを取り戻す。
鳴上詩郎(なるかみしろう)
椿の大学の先輩。現在は大手商社の副社長を務め、その手腕から社員の尊敬を集める。憂いを帯びた端正な顔立ち。
試し読み
寝転んだまま、大きなため息を吐く。
「……椿さんを、迎えに行こうかな」
ぽつりと呟いてみる。
理由なんてどうつけてもいい。気分転換の散歩、びっくりさせたかったから。
だけど楽しく飲んだ帰りに、旦那が迎えにきたらすっかり酔いがさめてしまうかもしれない。
けれど、一度迎えに行きたいと思ったことで、別の心配も出てきてしまった。
「あんなに可愛い人が、酔っ払って歩いていたら……変な人間が放っておく訳がない……!」
後悔先に立たず、と先人は言った。後世に残るほどの言葉を残したのだ、よほどのことがあったのだろう。
形から入るタイプの鳴上は筋トレの為に買ったスポーツウェアを素早く脱ぎ捨て、すぐに外出の為の服を着た。
今夜は冷えているのでコートを着込み、マフラーもつける。
「店に直接行ったら場をシラケさせてしまうから、店の最寄り駅に向かおう。偶然を装うのは難しいけど……帰りが心配だったって素直に言ってみましょうか」
声に出して、自分を励ます。
財布とスマホをコートのポケットにしまい込み、玄関へ急ぐ。
行き違いになったら、なんて事態が頭を過ぎるが、とにかく今は自分のなかに満ち溢れるやる気に身を任せ、行動してみたかった。
カードキーを手に取り、玄関の取っ手を掴もうとした瞬間。
扉が開き、冷たい空気と共に椿がひょっこりと帰宅した。
びっくりして固まってしまったが、すぐに気を取り直して声を掛けた。
「お、おかえりなさい」
椿は赤い顔をして、じっと鳴上を見た。かなり酔っているのか、ぽやっとしている。
玄関先でいきなりばったりと鉢合わせたので、少し驚かせてしまったかもしれない。
謝ろうと口を開きかけると、椿は下を向いてしまった。
「……ただいま帰りまし……たぁ」
最後が涙声になっていたので、鳴上は瞬時に青ざめた。
椿はその場で持っていたバッグを落とし、両手で顔を覆ってしまう。
「どうしたんです? 何かあった!?」
あわあわとみっともなく慌てたが、まずは自分が落ち着かなくてはと息を小さく吐いた。
椿の着ているコートに汚れはない。靴も脱げていないし、髪も乱れていない。
持ち物もなくなってはいないようだ。いつも使っているバッグが足元に落ちている。
それを拾い上げる時に、外側のポケットにスマホが入っているのも確認した。
「椿さん、お酒で気分悪くなっちゃいましたか?」
さりげなく肩に触れると、椿は首を振った。
「どこか痛い? それとも……帰りに嫌なことがありました?」
電車での帰宅だ。絡まれたりナンパされたり……万が一、痴漢になんてあっていたら、相手を社会的にも抹殺しなければいけない。
原因がわからず、泣いている椿を慰めることもできない自分にしょんぼりと心が萎みそうだ。
鳴上は焦り、情けない自分に凹んだが、今一番大事なのは椿がこんなことになった原因を聞いてそれを取り除くことだ。
「とりあえず、リビングに行きましょう? ここじゃ体が冷えてしまいます」
背中に手を添えると、椿は小さな声で「ごめんなさい」と謝ってきた。
「先輩、ごめんなさい……どこか出掛けるところでしたよね」
大丈夫、平気ですと言って、椿は顔を覆っていた手で今度は目元や頬を拭いだした。
鳴上は、誤魔化すのをやめた。
照れて誤魔化してしまったら、いけないと本能的に思った。
「椿さんを、心配で迎えに……お邪魔にはならないよう、バルの近くの駅まで迎えに行こうと思って家を出るところでした」
椿が心配だった、その身を案じて飛び出すところだった。
「私を、迎えに?」
椿は拭っていた手を止めて、涙で濡れた瞳で鳴上を見上げている。
「はい。ご迷惑とは思ったのですが、椿さんの顔を思い出したらいても立ってもいられなくて……」
どう思われようと、まずは今、椿が顔を見せてくれてホッとした。
「行き違いにならなくて、良かったです」
椿の濡れた頬に指をあてると、冬の夜風に当たったにもかかわらず赤く熱かった。
涙を早く止めて、綺麗に拭って、それから温かい飲み物を作ってあげて。
頭のなかで、椿にしてやりたいことを順序だてていく。
さあ、と部屋に上がるよう背中に添えた手に、ほんの少しだけ力を入れた。
「先輩っ、せんぱい〜っ」
椿が子供のように、力いっぱい抱き付いてきた。
最近の下半身トレーニングの成果か、ふらつきもせず抱きとめられたが。
突然の柔らかな突進に、鳴上は口から魂と心臓が同時に抜け出そうになっていた。
椿に抱き付かれた鳴上は、一度離すのも忍びなく、そのまま抱き上げてリビングへ運んだ。
三人がけのソファーの上に座らせようとしても、椿は鳴上の首にしがみついて離れない。
お互いコートも脱げないなか、鳴上は自分がしていたマフラーだけは外させてもらった。
鳴上も椿を離したくなかったので、お姫様抱っこのままでソファーに腰掛ける。
温かい吐息やぬくもりを首筋にダイレクトに感じて、抱いた腕に力を込めそうになるのを必死で耐えた。
「どうしたんですか、椿さん」
なるたけ責めるような言い方にならないように、慎重に優しく尋ねた。
「先輩のこと……会社の同僚や、先輩たちが……格好良いって」
ぎゅうっと、鳴上にしがみついている椿の腕に力が入る。
「椿さんに恥をかかせないよう、身綺麗にしてますからね」
実際、鳴上は身支度にとても気をつけている。特に椿を意識し始めてからは、さりげなく気を引きたくて頑張っていた。
「格好良いです、先輩は、大学の時からずっと! 恥ずかしいなんて思ったことありません!」
叱られているのか、褒められているのか。
鳴上は椿にストレートに『格好良い』と言われ、立ち上がって叫びたくなるほどの衝動を、奥歯を噛み締めて耐えた。
「あ、ありがとうございますっ」
若干声が上擦ったが、そんなことは気にならないほど嬉しい。
「……先輩、大学時代はすごくモテてましたよね。私、きっとあんな素敵な人とは、住む世界が違うんだって思ってたんです」
確かに、まともに学校に行くようになった小学校時代から、モテてこなかったと言ったら嫌味になってしまうほど、モテていた自覚はある。
けれど、誰かに心を揺さぶられる経験は、椿と再会するまで一度だってなかった。
「……そんな寂しいこと、言わないで下さい」
違う世界、と聞いて、鳴上は胸がぎゅうっと苦しくなってそう言った。
「……ごめんなさい。会社の皆に、夜も甘やかしてくれるでしょうって聞かれちゃって……女子のノリというか……。でも私そういう経験がないので、言葉を返せず先に帰ってきちゃったんです」
女子だけの飲み会では際どい話もすると、知識では知っていた。
古来、体力的に勝っていた男たちは外で狩りをし、住処に残った女たちはコミュニケーション能力を使って情報を集めることで協力し、生活が成り立っていたという。
それを思えば、女子だけで集まった際には情報交換の為に突っ込んだ話もするのだろう。
「経験、ですか」
鳴上は椿が元婚約者と、そういう関係を結んでいたとしても最初は気にしていなかった。
男と女。結婚を決められた間柄でデートを重ねれば、体の関係を結んでもおかしなことではないと。
今は気にならないと言ったら嘘になるが、わざわざ聞いてみようという気にはなれなかった。
体の関係まで持ちながら椿を捨てたのなら、その男に会った時に縊り殺さない自信がなかったからだ。
それが。本人の口から、経験はないと聞いてしまった。
はぁ、と椿が息を吐く。
「ごめんなさい、酔い過ぎてたみたいです。会社の女の子同士で……石田さんとお酒を飲むと、楽しくてついはしゃいでしまって」
石田さん、という名前は聞いたことがある。
山乃井に入った時から声を掛けてくれ、椿が変わるきっかけをくれた大事な友人の名だと鳴上は思い出す。
披露宴にも呼んで、挨拶をしたことがあった。
確か今夜は、その石田さんと、それに同じフロアの先輩と飲むと言っていた。
そこで、新婚生活について聞かれたのだろう。
それは特におかしくはないし、酒が入れば深い話になる場合もあるだろう。
赤裸々に話すか話さないかはともかく、新婚生活が始まってもスキンシップのひとつも取れない自分の意気地のなさを、鳴上は思い知った。
「いいんですよ。椿さん、とても困ったでしょう」
想像ができるのだ。そういった話の流れになり、ハンカチを額や首筋にあてながら焦りを隠す椿の姿を。
お酒を飲んで、潰れないよう気を張って、よく帰ってきてくれた。
玄関を開けて、安心して一気に緊張が緩み、普段ならばしない行動をとっている。
抱き付いてくるなんて、酒の席での話題を引きずってきた証拠だ。
鳴上の胸は椿への愛おしさで苦しくなる。力加減を忘れてめちゃくちゃに強く抱き締めてしまいたい。
「困ったというか……私がそういうのを経験するのは……子供が必要になった時だから、まだ先ですもんね?」
小さな声で、椿がぽつりぽつりと話をしてくれる。
「自分が言い出した、馬鹿みたいなルールのせいですね」
「いいんです……いいの。それで先に抜けさせてもらって、帰り道で想像しました……先輩に抱き付いたら、どんな感じなんだろうって。帰って扉を開けたらすぐにいるから、勝手に涙が出ちゃいました 」
ふふっと椿は笑って、鳴上の首元に更に抱き付いた。
「先輩、いい匂い。それに、細身に見えるけどやっぱりがっしりしてた。挙式の時、抱き上げられて本当に驚いたんですよ」
椿の可愛らしい鼻先が、つうっと鳴上の首筋を撫でる。
鳴上はもう、それだけで堪らなくなった。
腕に大人しく抱っこされている椿の健気な気持ち、約束を守ろうとしてくれている姿。
愛おしくて、頭がおかしくなりそうだ。
「椿さん……顔を見せて下さい」
鳴上が懇願すると、椿は抱き付いていた腕を放して素直に従った。
無防備にとろんとした瞳、白い肌が酔いで上気してふわふわの赤ん坊の肌みたいだ。
鳴上はその頬に、唇を落とした。
くすぐったそうに身をよじる椿を抱き抱え直して、もう一度頬にキスする。
初めてのキスは、挙式の時だった。
椿からの勇気を出した強引なキスがファーストキスで、二度目はそのすぐあと。椿を抱き上げて何度か食むようにしたキスだ。
「先輩、顔真っ赤ですよ」
「赤くもなります。自分の嫁さんがあまりにも可愛らしくて、一生こうやって抱えていたいくらいです」
「……じゃあ、ちゃんとキスしてくれたら、ずっと抱っこしていていいですよ」
酔いで夢現な椿は、自分の願望を素直に口にした。
可愛らしいなんて、夢でもなければ言われるはずがない。
それか、先輩は優しいから酔って泣き出した自分に合わせてくれているんだ。
なら、今だけは思い切って甘えてしまおう。
──優しい先輩に、つけ込んでごめんなさい。
心のなかで謝罪をすると、鳴上の顔が近付いてきたのでそっと瞳を閉じた。
鳴上からの奪われるようなキスに、椿は世界がひっくり返ったのかと錯覚した。
海も空も星も全て砕けて宙に舞って、キラキラのプリズムになって散っていった。
その真ん中で甘く笑う鳴上は、惚れ直すほど格好良かった。
体の神経が全部集まったかと思うほど、唇が触れた瞬間には涙が出た。
微かに伝わるぬくもりも、拒否されなかった安堵も、ごちゃ混ぜになって椿を幸福で満たす。
鳴上はというと、がっついてしまいそうになる衝動を必死に抑えていた。
一度唇を離すと、次はそうっと、朝日のなかで咲いたばかりのふくよかな薔薇の花弁に口づけるかの如く、慎重に唇を重ねた。
本当は、その薔薇に齧りついて、全部咀嚼して飲み込んでしまいたかった。
今から全て、自分のものにしてしまいたい。
全てを、この手と体で。