書籍詳細
天敵のはずの完璧御曹司は、記憶喪失の身ごもり花嫁を生涯愛し尽くすと誓う
あらすじ
「記憶がなくても、きみを愛してる」
里桜は、目を覚ますと事故ですべての記憶を失っていた。動揺する中、夫だと名乗る御曹司・柊斗が現れ、さらに戸惑うことに。しかも柊斗と自分の家は敵対関係なのだという。不安に揺れる里桜だが、「無理に思い出さなくていい。きみが幸せでいてくれるのが何より嬉しい」と愛を注ぐ柊斗に、次第に惹かれていく。しかし、自分が妊娠していると気づき…!?
キャラクター紹介
染谷里桜(そめやりお)
両親に自由を奪われた箱入り娘だったが、敵対グループの御曹司・柊斗との恋によって前向きになる。
染谷柊斗(そめやしゅうと)
染谷貿易副社長で御曹司。自分にとって唯一無二の存在である里桜が記憶喪失になったあとも、献身的に彼女の世話をする。
試し読み
ボストンバッグを両手で持ち、里桜はスリッパの足でそっと室内に踏み入った。
八畳ほどの洋間には、まだ真新しいベッドと机、作り付けのラック、開け放たれたウォーキングクローゼットが見える。
――病院を出るときにはひと悶着あったけど、やっぱり柊斗さんと来てよかった。
退院手続きの直前、病室に母が姿を現した。
柊斗がロビーにいるのを確認してから来たらしい。
母は、やや強引に里桜を連れ帰ろうとしたのだが、看護師が声を聞きつけて助けてくれたおかげで、無事に柊斗と退院することができた。
――柊斗さんには、母が来たことは言ってない。言うべきだったのかな。
バルコニーに出られる窓の前で、里桜はぼんやりと空を見上げる。
L字型の角部屋なこともあって、バルコニーのある東側だけではなく南側にも上品な小窓がふたつある。
光のよく入る室内は、掃除が行き届いていた。
「わたしは、この部屋に来たことはあったんですか?」
ふと気になって尋ねると、彼が小さく首を横に振った。
「結婚して数日だと話したけれど、実はきみが歩道橋から落ちたのは婚姻届を提出した翌日だったんだ」
「えっ!」
つまり、新婚二日目で里桜は頭を打ち、それから三十時間以上も昏睡状態だったのか。
――きっと、すごく心配をかけてしまったんだろうな。
「知ってのとおり、僕たちは双方の家から反対されるのが明白な結婚だったから、最初からふたりだけでひっそり暮らすつもりだった。里桜は実家に住んでいて、このマンションは結婚に当たって僕が勝手に購入した物件だから、きみはまだ来たことがなかったんだよ。驚かせようと思っていたけど、こんなふうに紹介するのは予想外だったかな」
「そう、だったんですね……」
では、怪我をする直前まで、自分は実家に住んでいたということになる。
帰るべきは実家だったのだろうか。
「里桜」
「は、はい」
急に顔を覗き込まれ、距離の近さに一歩あとずさった。
「あの夜、きみはこのマンションへ向かっていたんだ」
「え、わたしが、ここに……?」
「そう。だから、バッグにたくさん着替えが入っているよね。必要最低限の荷物を詰めて、この部屋に――僕との新居に、来る途中だった」
誰からも、そんな説明は受けていない。
それもそのはずで、きっとこの事情は柊斗と自分しか知らなかったのだろう。
――あれ? そういえばたしか……
目を覚ました日に、病室へやってきた彼は沖野の両親に向けて言っていた。
里桜の荷物について、言及していたではないか。
『彼女は荷物を持っていませんでしたか? 数日分の着替えや身の回りのものが入っていたのではありませんか?』
つまり、あのときの話していた荷物というのは、里桜が実家を出てくるために準備したものだったということになる。
彼の話は矛盾していない。
見知らぬ部屋も、真新しい家具も、説明がつく。
だが、何かが引っかかる。それが何か、里桜にはわからなかった。
「急にいろいろ話しても、里桜も混乱するよね。きみが気になることは、少しずつ説明するよ。まずは、しばらく体を休めてゆっくり過ごしてほしい」
「あの、柊斗さん」
「うん?」
「わたしは、二十四歳なんですよね」
大学を卒業し、働いていておかしくない年齢だ。
以前に聞いた話では、たしか父の所有する会社で秘書として勤務している。
――こんなに何日も休んでいるし、まだ仕事に復帰するには時間がかかると思うし……
「両親に結婚を報告していないのはいいとして、会社に連絡はしていたんでしょうか。それとも、結婚翌日に頭を打ったということは、まだ何も伝えていないんでしょうか」
「会社、か。……あのね、きみは先月末で仕事を退職したんだ」
「えっ」
転職したのではなく、退職。
ということは、自分は無職の身ということに?
柊斗と結婚していて、こんな豪華なマンションに住めるのなら、たしかに働かなくとも生きていけるのかもしれない。
――だからって、妻らしいこともできないのにただお世話になるだけというのはちょっとどうなんだろう。もとのわたし、少し無鉄砲なんじゃない?
「……今の状況だと、転職というのも難しいですよね」
「仕事を、したい?」
「それはもちろん!」
意気込んで答えると、柊斗がかすかに唇を尖らせた。
――えっ、こんな表情初めて見る。柊斗さん、大人なのにかわいい。
彼は里桜より七歳上、三十一歳だ。
普段の余裕がある笑みも魅力的だが、こうして見ると三十一歳よりずっと若く感じる。
「仕事は、そうだね。先々考えるとして、今はふたりの時間を過ごしたいんだけどな」
「え、えっと、それは……」
拗ねたような口調に、どう返事をしていいか当惑し、言葉に詰まった。
彼としては、里桜に働いてほしくないのだろうか。
だとしたら、仕事を辞めたのは彼と過ごすためだったのかもしれない。
考え込んでいる里桜の耳に、息を吐くような笑い声が聞こえてきた。
――柊斗さん?
「冗談だよ」
柊斗は、いたずらっ子の表情でこちらを見つめている。
軽くすくめた肩に、今度は里桜のほうがふざけて彼を睨みつける番だ。
「記憶のないわたしに、ちょっとイジワルじゃありません?」
「あはは、ごめん。でも、調子が出てきたね。もっとそうやって、普通に話してほしいな」
「普通、ですか?」
「そう。親戚のおにいちゃんみたいに、もしくはサークルの仲の良い先輩みたいに?」
夫婦らしさを求めるのではなく、彼はふたりの関係性を正常化するところから始めようとしてくれている。
それが感じられて、里桜も素直にうなずいた。
「わかりました。じゃあ、柊斗さんも今みたいにしていてください」
「僕?」
「はい。いたわってくれる気持ちは嬉しいです。でも、わたしも柊斗さんのことを、もっと知りたいから」
声に出してみて、初めて自分の考えが整理されることがある。
今が、里桜にとってまさしくそのときだ。
自分が彼のことを、もっと知りたいと感じていると実感した。
――優しくしてくれるだけじゃなくて、本音で接してほしい。
「もっとって、どのくらい?」
一歩、柊斗が距離を詰めてくる。
窓際に立つ里桜は、背の高い彼を見上げた。
「も、もっとは、もっとです」
生真面目に答えた里桜を見て、彼が少し困ったように眉尻を下げる。
なぜか、目が離せない。
心が吸い寄せられる感じがある。
これは、忘れている記憶――かつての自分の心が、そう感じさせるのかもしれない。
――それとも、柊斗さんが魅力的だから……?
「僕の本心を知ったら、里桜は逃げていっちゃうかもしれないよ?」
甘やかな笑みには、どこか危険な香りが漂っている。
閉めた窓の向こう、気の早い蝉が大声で鳴いていた。
番を探す彼らの、渾身の求愛行動。
それを耳に、優しいだけではない夫の姿を見つめて、小さく息を呑む。
「でも、わたしは柊斗さんの妻、なんですよね……?」
「そうだよ。だから、里桜はここで僕と暮らす。どこにも行かないで。もう、僕を置いてどこかへ行ったりしないで――」
肩口に触れそうなほど、柊斗が頭を垂れてくる。
触れそうで触れない距離が、彼の気遣い。
前髪だけが、そっと肩に触れていた。
――わたしのほうから触れたら、どんな顔をするんだろう。
指先がかすかに震え、彼に触れてみたいと思った。
「どこにも、行きません。行くあてなんてないですよ」
「うん、そうだね。ごめん、ちょっとふざけすぎたかな」
そう言う彼の瞳は、先ほどの発言を冗談で片付けるには真剣すぎて。
――わたしは、この人に愛されていたんだ。
あらためて、彼の愛情を感じずにはいられなかった。
§ § §
「っっ……! 辛い、辛いです!」
口元に右手を当て、里桜は口の中が火事になりそうな熱をぱたぱたと扇ぐ。
荷物を置いてひと休みしたのち、ふたりはインドカレーレストランに来ていた。
マンションから徒歩十分ほどの場所にある、雑居ビルの地下一階。
階段を下りる前から、スパイスの香りがふわりと鼻先をくすぐる店で、里桜はマンゴーラッシーのストローを口に咥える。
辛い食べ物を食べたときは、水を飲むといっそう辛味が際立ってしまう。
――そういう、どうでもいいことは覚えてるんだ。
「こっちも食べてみる?」
「え、でも柊斗さんのって辛口ですよね……?」
「野菜がたくさん入ってるから、そこまで辛く感じないよ」
「じゃあ、ひと口いただきます」
スプーンを手に、彼のカレーをひとすくい。
里桜が頼んだのはダールカレーで、柊斗が選んだのはバターチキンカレーだ。
ダールは豆のことで、レンズ豆がたくさん入っていておいしい。
「! え、辛……いけど、ちょっとふわっと甘い?」
「バターのおかげかな。辛いなりに食べやすいし、おいしいよね」
「はい。今度、バターチキンも頼んでみたくなりました」
辛いものを食べると、体温が上がる。
体温が上がると、代謝がよくなって、結果的に気持ちも上がる。
――人は、場所に影響されるのかもしれない。
入院中の里桜は、自分が病人であるという枠にとらわれていた。
病室という場所において、穏やかに静かに過ごすことが当然に感じられたのもある。
けれど、インドカレー屋では元気が出るのだ。
――一緒にいる人のおかげかもしれない。
「里桜、ラッシーおかわりする?」
「いいんですか?」
「もちろん。同じマンゴーがいい? ほかにも、ブルーベリーラッシーがあるみたいだけど」
「じゃあ、今度はブルーベリーにします」
「了解。――あ、すみません。追加オーダーいいですか?」
柊斗が右手を上げて、店員を呼ぶ。
すぐにブルーベリーラッシーが届いて、里桜はそのおいしさに舌鼓を打った。
汗をかいて、食事をする。
病院を出て最初に食べるのがインドカレーなのは、正解だったかもしれない。
香辛料が体を芯から温めてくれるおかげで、自分が生きていることを強く実感するのだ。
「デザートはどうする?」
「もうお腹いっぱいです。柊斗さんは?」
テーブルの上に並んでいた、プレーン、チーズ、ガーリックの三種類のナンはふたりの胃袋にすべて収まっている。
カレーの残りをスプーンですべて食べ終えると、胃がぱんぱんに膨れているのがわかった。
「僕も満腹だな。店を出たら、夜の散歩でもどう?」
「賛成です!」
自然と笑顔になって、里桜は大きくうなずいた。
入院中とは、何もかもが違っている。
食事も、行動も、気持ちも。
彼といると、それをあらためて感じられる。
自分が生きているということを。
たとえ記憶がなくとも、自分は自分である、という当たり前のことを――