書籍詳細
秘密の出産が見つかったら、予想外に野獣な極上御曹司の溺愛で蕩けてしまいそうです
あらすじ
「絶対に忘れさせるわけないだろ」捨てられたはずが、再会した彼にベビーごと包み込まれて…!?
調香師の美月は、かつて一夜をともにした男性・大雅の子を秘密で産み育てていた。ある事情から、大雅は本気ではなかったのだと知り、彼の元を去ったものの、忘れられずにいたある日、なんと彼が取引先の副社長として姿を現し…!?「これ以上逃がさないから」――大雅に一途な激情をぶつけられ、子どもごと過保護に愛されると、美月の想いも溢れ出し…。本作品はWeb上で発表された『ケダモノ・プルースト!』に、大幅に加筆・修正を加え改題したものです。
キャラクター紹介
竹田美月(たけだみつき)
世界的に有名な調香師の叔父に憧れ、自身もその道を志す。重度の匂いフェチで、大雅の香りに惹かれる。
櫻井大雅(さくらいたいが)
オーガニックアロマサロン『エマ』の副社長。一夜を過ごした美月のことを想い続け、再び彼女の前に現れる。
試し読み
工房は、冷蔵庫に保管していない香料を棚にも並べて置いてあるので、室内温度を低く設定していて少し肌寒い。大雅さんに叔父さんの白衣を貸したけれど、小さ過ぎて、肩に羽織る形になってしまった。
「寒くないですか?」
「いや、大丈夫だ」
大雅さんは仕事モードに入っていて、棚に並べられた香料の入った瓶を熱心に見ている。
「うちは普段、小ロットの香水とかオーダー香水の一点ものを主に作っているので、厳選された材料のオーガニック香水をたくさん作るなら、香料も早めに海外のメーカーから取り寄せる必要があります。叔父はすでに海外のお店をいくつか見繕ってるので、大雅さんのご希望のものは全て揃えるつもりです」
「ありがとう。でも香料はどのメーカーがいいとかさすがにわからないから、お任せすることが多そうだな」
瓶を持ってラベルを確認しつつも難しそうな顔をしている。
「では私が選んで叔父に確認をお願いしてみます。叔父は収支がマイナスになっても満足できる調香しかしないので、理想的な材料を相談してみます」
極上の材料をこの工房の机に並べる未来を考えると胸が高鳴った。
「『ISHII NARIHIRA』らしいな。あの人、量より質。名誉よりやりがいって感じ。とても好感が持てる人だった」
「そうでしょ! 叔父さん、全然人と会わないから、偏屈ジジイとか面倒くさい性格とか評判悪いところでは本当に悪くって。でもすっごく、楽天家なんですけど、仕事中は――」
つい熱く語ってしまいそうになって手で口を押さえた。
仕事中で――しかも相手は彼なのに醜態を晒してしまった。
口をつぐむと、彼の目線が香料の瓶から私へと移っているのが見えた。
「……どうした? 続けて」
私を覗き込む優しい仕草に、急に胸が甘く締め付けられた。
「い、いえ。身内びいきです。あの、良かったら一つ作って見せましょうか」
「ああ、お願いしようかな」
普段私が座っているデスクに案内して、そこに私の勝手な好みで香料を持ってくる。
「こっちの珈琲豆の瓶は?」
「匂い落としです。違う香料を嗅ぎたい時に、リセットするために珈琲豆を嗅ぐのがいいんです。あとは他人の香りを嗅いでもリセットできます」
「へえ」
珈琲豆もこだわって好きなブレンドにしている。必要ないところまでこだわるのは叔父が自分に似ていると褒めていた。
「エマをイメージして香水サンプルを作ってみましょうか」
「それは一度うちのサロンに来てから作ってもらいたいかな」
「そうですよね。じゃあ……」
いつもメールや電話で伝えられる言葉での香りのイメージや、サンプルの中からお客様が選んだ香りを参考に作っていた。
でも今は、私の実力も見てほしい。
「以前、大雅さんがつけていた香水に似せた香水を作ってみます」
「ああ、この前つけてたのかな。でもあれって」
「日本で未入荷の香水ですよね。材料は一応あります。値段とか産地が違うので全く同じにはなりませんが、ブラッドオレンジが弾けたような爽やかな柑橘系のトップノートに、アンバー、ウッディ系のノートにして」
カチャカチャと香料を選び棚に手を伸ばしていると、手を掴まれた。
「……えっ」
「同じものはいらない。俺のために俺の香水を作ってよ」
すぐに手は離されたけど、彼に触れられた部分がじんじんと甘く痛んだ。
期待してはいけないのに、仕事中なのに、心が震えてしまう。
「わ、かりました。じゃあ、ここから少し変えますね。適当に座って見ててください」
迷わず基調に選んだのは、タバック・レザー。新品の革の匂いに少し似ている。
「大雅さんがつけてた香水は、柑橘系。以前の叔父さんの香水をつけていた時は、薔薇の甘い系だったので、今回はそれらのいいところを合わせて、煙草の香りに交じるとセクシーになるようなものにしてみます」
「ああ、任せるよ」
「トップはベルガモット、レモン、マンダリン、クラリセージとか。柑橘系はちょっと入りますけど、基調はタバック・レザーなのでそこまで主張しません。ミドルに、オレンジブロッサム、カーネーション、ローズ、イランイラン。ラストは、レザー、バニラ、アンバー、シダーウッドとか少しだけ甘めだけど、大雅さんの煙草には合うと思います」
「ふうん。俺の煙草の香り、覚えてくれてたんだ」
「あっ それは」
「それにあの日、俺がつけてた香水の匂いも、ね」
足を組み替えて、調香している私を見る目が、少しだけ怖い。
怒っているのか、無表情だ。
「でも、香水の話を夢中でしている美月は、腹立たしくなるのが馬鹿らしく感じるぐらい、まっすぐで可愛いな」
「ひっ」
今まで、私にその言葉を言った人は、叔父さんとこの人ぐらいだ。
作った香水を、適量をテスターにつけて彼は目を閉じた。
「悪くないな。即興でこれだけ作れるのは、さすがだ」
「いえ。叔父さんが揃えてくれている香料が、どれも一流なおかげですよ」
……良かった。少なくとも私の提案や仕事ぶりには不満はなかったようだ。
まあ叔父さんがこだわっている香料だもの。そう失敗なんてしない。
「良ければ、うちのメンズ香水のサンプルも持って帰ってください」
「ああ、っと。そうだった」
渡したサンプルを受け取ると、彼は私の腕を引き寄せて、首筋を嗅いできた。
「な、何をするんですかっ」
「匂いのリセット。他人の匂いでもいいんだろう?」
そう言って、サンプルの匂いを嗅いで満足そうに微笑んだ。
その笑い方が、どこか意地悪が成功した子どもみたいに見えたのは、間違いない。
「じゃあ、そろそろ本社に戻るよ。挨拶だけのつもりが、長居し過ぎたな」
「いえ。次は、企画書に書かれた素材を全て用意してから打ち合わせしたいので、今週中に」
「では、準備ができたら名刺に書いてある電話番号に電話してもらっていいか。俺に直通だから」
「かしこまりました」
肩に羽織っていただけの白衣を受け取る。彼の手には、サンプルの香水の瓶が入った紙袋。歩くたびに小さくぶつかって音を出している。
仕事でまた今週中に彼に会う。
あんな出会い方をして、一方的に去ってしまったのに。
「石井さんはどこかな」
「きっと庭で、ハーブを摘んでるかな。最近は車庫の奥で日曜大工にはまってて、薫人の椅子とかテーブルとか作ってますが」
工房から出て、見送ろうと後を追う。螺旋階段を下りて、踊り場でふと彼が足を止めた。
「仕事が終わるのは、何時だ」
「仕事が終わっても薫人をお風呂に入れたり寝かしつけたりするので、早くて二十時とか」
「二十時に裏門に迎えに来ていいか」
「そう、ですね。……そうです。話しましょう」
「――じゃあ、また」
意味深な目配せ。さっさと叔父さんの方へ挨拶に行き、玄関に飾った薫人の写真を見て盛り上がっている。
逃げ足が速い。……なんて逃げた私ができる発言でもない。
中途半端にしてしまった私のせいだ。
今朝、見たばかりの左ハンドルの外国車。
スローモーションのように運転席が開く。高級そうな革靴と共に、香る匂い。
身体がしびれてしまいそうな、全身の心臓の音を奪われてしまいそうな、爽やかなのに魅力的な匂い。香水だけじゃないその彼の匂いに、身体が熱くなっていた。
「……迎えに来た」
期待してしまうのは、彼の空気が柔らかいから。
期待してしまうのは、逃げた私をこんな風に迎えに来るから。
勘違いしてしまいそうになる。どう答えるのが正解だろうか。
彼と再会してから、止まっていた時間が加速しているようだ。
「俺は今日は仕事の話はするつもりはない。再会したんだから、会えなかった時間を埋めよっか。美月」
香りよりも彼の声のトーンの方が甘く感じる。彼の言葉が、私の心を掴んで強引に向き合おうと近づいてくる。触れられたら、逃げられない。捕まえられたら、吸い寄せられる。
彼の声も香りも、柔らかい声も笑顔も、全てが私に食らいつこうとしてくる。
「私は、謝罪したくて会いたいと思ったんです」
それだけだ。この先、仕事をしていく上で過去を清算するために謝罪がしたいだけだ。
「謝罪、ね。抱いたのは合意だったわけだけど、何に対する謝罪?」
首を傾げて直接的な言葉を言われ、顔が熱くなる。
「ま、乗った方がいいんじゃないか。石井さんにこの現場を見せるのも悪いしな」
動かない私に、彼は指一本触れずに心に触れてくる。
「お願いだから、乗って。話がしたい」
まっすぐに私を見る。
「いや、乗ってください?」
自分の言葉が強いと自覚があるのか、優しい言葉を探す。
そんな様子にほだされた私は、きっと簡単に乗ってしまう女なのだ。
「お腹空いてる?」
開けてもらった助手席に乗り込むと、彼が尋ねてくる。
素直に頷いた。叔父さんにご飯を作りながら、目の前のご飯が食べられないという空腹感があった。
「色々と話すならば落ち着いた場所がいいか」
「お腹が空いてるので、たくさん食べられる場所でいいです」
精いっぱい可愛くない言葉を探す。ムードのある場所に連れて行かれるのは嫌だった。
「じゃあすぐ行こう」
嫌な顔一つしない。それどころか、どこか少し嬉しそうだった。
「美月は、相変わらずいい香りがするな」
運転席に乗り込んだ彼がそう言う。
「首筋に噛みつきたくなるような、刺激的な感じだ。香水か?」
「そう。練り香水です。自分で作ったんです。あ、ちゃんと自分で購入した香料ですから。会社のものを横領とかしてないです」
「ああ。美月がそんなことするわけないだろ。美月らしい香りだ」
「……。そういう大雅さんも、香水……先ほど私が作った香水です、よね」
「ああ。素敵な香りだ。ありがとう」
すぐにわかったよ。
彼から漂う香水はトップノート。つまり私に会う前に香水をつけ直してくれたのがわかる。
「香水について自分でもちょっと勉強して色々調べてたんだ。美月が好きな香水も教えてほしいな」
車内という空間で、名を呼ばれた。
大雅さんがつければ大体好きな香りになりそうだとは言えない。
ただそれだけなのに、私の心臓はうるさい。
止めても止めても、何個も掛けていたアラームのスヌーズみたい、と思考がまともに反応しなくなった。
信号で車が止まると、彼は私の顔を刺すような視線でまっすぐに見つめてきた。
「な、なんですか?」
「どうしたら、今度は美月に逃げられないだろうかって今、色々考えてるとこ」
「……なんか、言い慣れてそうですね」
駆け引きみたいに、簡単に出てきたその甘い言葉を疑う。
「これだけ必死なのに、全然俺の気持ちが見えてこないか」
「だって、そんな言葉、……言われたことないし」
信じられないとは言えずそう誤魔化す。すると彼が私の髪に触れた。
「今度は忘れさせない。今日からずっと美月の頭の中に俺がいればいい」
そんな、砂糖みたいな甘い言葉を吐く。簡単に騙されてしまう女性もいるだろう。でも、私は騙されない。そう思うのに、彼の指先から香る、彼の匂いに狂わされていく。
「それに忘れたことはないです」
「逃げた理由は、あの日の電話の内容を聞いていたから、でいいのかな」
過去の清算。私は観念して頷く。
ふわりと香る大雅さんの香りに、昔の記憶が呼び起こされた。
「あの時、電話ですぐに空港に向かうって言っていたから、だから」
「あの時、美月をさらってニューヨークへ行けば良かった」
「……うそつき」
「俺の気持ちや態度が嘘だと思ったから、逃げたわけだ」
なぜか途中から大雅さんは楽しそうだった。私の反応を見て、笑っている。
これはからかわれていると思っていいんだろうか。
この前はあんなに辛そうだったのに。
このままだと私はきっと二年前と同じ。大雅さんのペースに流されて、香りに囚われてしまいそうだ。
ちょうど信号に差し掛かったので、シートベルトを外して飛び出そうとした。
「美月」
「引き受けた仕事はちゃんとしますから、リセットしてください」
たった一回。たった一回抱かれただけだ。それも二年前。
それなのに、期待したくなるぐらい大雅さんが甘い言葉を吐くから怖くなった。
「ああ、また逃げるわけか。そうか」
「ちが――」
「もし、今日会って美月が気持ちを上手く処理できているなら、それでもいいかと思ったよ」
なかなか変わらない信号。後ろには車も来ていない。
あの時のように大雅さんは逃げ出した私を、急いで捕まえようとはしない。
「だが、俺に対しても香水のことを夢中で話す姿や、俺を見て動揺している姿を見たら、俺が嫌いで逃げたわけじゃなく、何か誤解があったんだと理解できたよ」
「私がこうやって、すぐ逃げちゃっただけ、です」
「それは俺が安心させてやれない男だってことだ」
美月のせいじゃないよ、と優しい言葉に胸が痛くなる。
大雅さんは二年前のことを責めようとしてこない。
「今日は何もしないであげるから、逃げないで隣に座ってくれたら嬉しいな」
「……今日は?」
「順序がめちゃくちゃだったが、今日は、だな」
過去のことを責めるわけでもなく、今の私を見てくれて、それでも甘い言葉をかけてくれる人。
不思議な人だ。こんなに魅力的な人なのに、どうして私に優しくするのだろう。
「香りだけじゃなくて、中身にも興味を持ってくれ」
おずおずとシートベルトを締め直す私に、苦笑しながらそう言う。
「あ、あお! 信号青になりましたっ」
あの雨の日、首に抱き着く時に一緒に巻き込んで抱きしめた髪。
自分から男の人に触れたのは、大雅さんだけだ。
忘れられるはずもない。けれど、でも私はその感触が懐かしくて、それ以降の記憶が曖昧になった。