書籍詳細
地味男を餌付けしたら、実はイケメン御曹司でした
あらすじ
胃袋をつかまれた御曹司がお弁当女子を捕獲・・・?
「取って食うつもりはない……とりあえず今日は」
オフィスの中庭で、空腹で行き倒れている白衣の男性を見つけた紗那絵は、手作り弁当でピンチを救う。天野と名乗った男は、紗那絵の勤める製薬会社で「変わり者」と噂の御曹司だった! 弁当作りを頼まれ、好条件に惹かれ引き受けることになったが、研究馬鹿の天野が興味を持ったのは、お弁当だけでなく紗那絵本人で…!? 隠れ肉食系御曹司の独占愛
キャラクター紹介
橋本紗那絵(はしもとさなえ)
天野製薬に勤める24歳。料理が得意で明るく前向きな性格だが、ぼっち飯が最近の悩み。
天野直幸(あまのなおゆき)
天野製薬の御曹司で新薬開発部門の研究者。ぼさぼさ頭によれよれ白衣がトレードマーク。
試し読み
「天野さん!」
とっさに追いかけ声を掛けると、天野がピクリと動きを止めた。
振り返って紗那絵の姿を見つけると、驚いたように目を見開く。
(うわ、びっくり顔の天野さんて初めて見た!)
レアな表情が見られたうれしさと、なぜそこまで驚かれなくてはいけないのかという困惑と。
通行人を避(さ)けるように、ふたりは柱の陰に身を寄せる。
「天野さんも、今お帰りですか?」
「……あ、ああ」
「て、なんでそんなに動揺してるんですか?」
「い、いや……」
俯(うつむ)いて口元を押さえながら、天野は小声でぼそぼそ言う。
「君のことを考えながら歩いていたら、いきなり本人が現れたからな。こんなこともあるのかと驚いた」
「私のことを、考えてた……?」
「ああ」
なぜ、という問いが喉元まで出かかって止まる。
どうせ深い意味などないと思うのに、急に胸がドキドキして、天野の顔をまともに見られなくなる。
「ところで君は、買いものの途中か?」
「いえ、ちょっと気分転換の途中というか……。天野さんこそ夕飯のお買いものですか?」
「そのつもりだったが、今日はやめだ」
「やめる……?」
思わず見上げた紗那絵の視線が、見下ろす天野の視線と重なり合う。
「唐突すぎて、自分でもわけがわからないのだが……。もしよければ、これから一緒に夕飯を食べないか?」
おずおずとした申し出が天野らしくなくて、本人も自分の感情に戸惑っているのが手に取るようにわかる。
「……どうやら俺は、今日の昼を君とふたりで過ごせなかったことに、物足りなさを感じているらしい」
「つまり、これから私に夕食を作ってほしいと……?」
紗那絵が訊(き)くと、天野は慌てて首を振る。
「そんな図々しい真似をさせるつもりはまったくない。第一、契約に夕飯は入っていない」
「なら……」
「一緒にディナーに行ってほしい」
真剣でまっすぐな天野の言葉。
それが、紗那絵の心を矢のように射貫く。
ふたりきりで過ごせなかった昼休みを、天野も同じように残念に思っていてくれた。そして今、その埋め合わせをしようとしてくれている──。そのことがなによりうれしい。
「わかりました。行きましょう、ディナー!」
「いいのか?」
すんなり了承してくれた紗那絵に驚いたらしく、天野が不思議そうに訊き返す。
弁当を頼んだときの「作れ」「作らない」の押し問答からすれば、あまりにあっけなさすぎたのだろう。
しかし、すぐに口元がほころんで、「ありがとう」と先導するように歩き出す。
(今、ちょっと笑いかけたよね⁉)
ドキドキしながらついていくと、やがてエレベーターホールに辿(たど)り着いた。
──このまま上階行きのボタンを押して、デパート最上階にあるレストランで夕食を……。
そう思っていた紗那絵の前で、天野は逆三角形の、下行きのボタンを押してしまう。
「え? なんで下……?」
「駐車場だ。車を停めている」
そういえば、天野は自動車で通勤していると言っていた。
そしてわざわざその車を取りに行くということは、これからそれに乗って移動するということで──。
(な、なんでそんな大げさなことになってるの⁉)
「あの、天野さん? 私、このデパートにあるレストランでいいですよ。もしくは歩いて移動できる、適当な居酒屋とか!」
慌てる紗那絵に天野は頑(かたく)なに首を振る。
「適当な店ではダメだ。君がいつも最高の弁当を振る舞ってくれるように、俺も、俺が知る中で極上の店に君を連れていきたい」
「極上の店って……」
「たとえばだ、」
胸を張って天野がスラスラ挙げだしたのは、フランスの某社がランクづけをしている、星のつく店ばかりで──
(そうだった、この人ってば御曹司……!)
我に返った紗那絵は慌てて天野を止めにかかる。
「気持ちはうれしいですけど、仕事帰りにふらっと寄るような店じゃないですよ? それにドレスコードもあるはずです。いきなり行っても鼻で笑われて門前払いになる可能性も……」
「いや、ドレスコードと言っても、授賞式やパーティーならいざ知らず、たいがいはスマートカジュアルで、仕事帰りでも十分問題ないレベルのはずだが」
「いえいえ、そんな店だからこそ、きちんと気合いを入れた可愛い格好で行きたいんです!」
「そんなものなのか?」
「そんなものです!」
ああ言えばこう言う。
じんわりと汗をかいてしまった紗那絵がふとまわりを見回せば、エレベーター待ちのお客がくすくすと笑いながら、ふたりを遠巻きに見ている。
(うわ、恥ずかしい!)
「……わかった。ではもう少しカジュアルな店を検討しよう」
難しい顔でうなずく天野の腕を引っ張って、紗那絵は来たばかりのエレベーターに急いで乗り込んだのだった。
(まあ、なんとなく、予想はしてたんだけどね……)
地下に降りた紗那絵は、天野の愛車の前で呆然(ぼうぜん)と立ちすくんでいた。
薄いブルーとも、シルバーともつかない繊細なボディカラーにどっしりとした外観。おまけにフロントには円を三当分にしたデザインのエンブレムがついている。
車にまったくくわしくない紗那絵にだってわかる。これは、誰がなんと言おうとドイツの高級車だ。
(ほんとに乗っていいの……?)
男性と車でふたりきり、というシチュエーションに戸惑いを覚え、さらには高級外車に驚いて──。
「どうかしたのか?」
早く乗れとばかりに運転席から天野が急かしてくる。
「いや、でもドアに触ったら指紋がついちゃうなあと……」
キラキラに磨き上げられた、宝石のような車。
仕事着はよれよれ白衣のくせに、この差はいったいなんなのかと問いつめたくなる。
(ドアを開けるとき、隣の車にぶつかって傷でもつけたら大変……!)
紗那絵が恐る恐るドアハンドルに指を掛けたとき、とうとうしびれを切らしたのか、天野が外に出てきた。
さっと車と紗那絵の間に入ると、流れるような動作でドアを開けてひとこと。
「すまない、女性を車に乗せるときは、エスコートすべきだった」
「え?」
小泉に見られたら説教ものだ、と彼はつぶやき、紗那絵があたふたと助手席に座るのを見届けてから運転席に戻る。
「では行くぞ」
「どこへ?」
「銀座だ」
「銀座⁉」
「道が空いていれば、ここから二〇分ほどで着く」
「いや、でも、さっきも言いましたけど、高級レストランはやめてくださいね! あくまでカジュアルに、リーズナブルに!」
「リーズナブル? 食事代を気にしているのなら大丈夫だ。俺がすべて出す」
「自分が食べたものを人に出させるなんて真似、できませんよ!」
「俺から提案した話だ。気にするな」
天野がアクセルを踏みこむと、車は静かに走り出す。
振動をまったく感じさせない車内、ソファ顔負けの座り心地のいいシート。
(あああ、私、どうなるの⁉)
御曹司の天野と小市民の自分。
彼の考える「カジュアル」や「リーズナブル」は絶対自分と違う気がする。
(フォークの上げ下げにも気をつかうような、超高級店じゃありませんように!)
──そうして、引きつり顔の紗那絵を乗せた車は、夜の東京の街へと吸い込まれていったのだった。
(で……やっぱりこうなるわけね……)
地下駐車場とほとんど同じ心境になりながら、紗那絵は伊勢(い せ)エビのビスクを前に硬直していた。
ここは銀座のレストラン。
つややかに磨き上げられた白大理石の壁と、それと対比をなすような、黒鉄(くろがね)の脚を持つ長テーブル。その上には蠱惑的(こ わく てき)な赤紫色をした胡蝶蘭(こ ちょう らん)が一輪、細身の銀の花瓶に飾られている。
カジュアルに、と念を押したら連れてこられたのが個室のフレンチ。
もうどうしていいのかわからない紗那絵は、あれこれ意見を言うのはやめて、大人しく料理に集中することにした。
銀のスプーンを手に、赤いスープをひとくち。
「……わ、これおいしい……!」
やはり、プロが作る料理は格が違う。
魚介や野菜の旨味(うま み)が口いっぱいに広がって、思わずふにゃりと笑ってしまいそうだ。
「気に入ってもらえてよかった」
一方の天野も満足そうにスープを口に運んでいる。
「このレストラン、天野さんが見つけたんですか?」
「いや。俺は基本、店の開拓はしない。利用するのはつきあいで案内されたか、子どものころから出入りしている、うちの一族御用達(ご よう たし)の店のどちらかだ。もちろん、自分がうまいと思った店しかリピートはしないが」
「へえ、なんだかもったいないですね。新しいお店探しもおもしろいのに」
紗那絵が言うと、天野がスプーンを置いて考えこむ。
「言われてみるとそうかもしれん。だが、今までの俺はそもそも食に興味がなかった。うまい、まずいの判断は人並みにできるつもりでも、生きるための手段という点ではどちらを食べても同じ。むしろ食事など面倒だと思っていたからな」
「そ、それは……」
そんな調子だから、ギリギリまで働いて倒れる、ということを繰り返していたのだろう。
(小泉さんが天野さんを心配する気持ち、よくわかるな)
仕事に集中したいがために食事を抜かし、そのせいで倒れて仕事に支障が出れば、本末転倒も甚(はなは)だしい。
紗那絵が苦笑いしてしまうと、天野が静かに首を振った。
「だが、君のおかげで俺の認識は変わった。食事の重要さに目覚めたし、その副次的効果にも気がついた」
「副次的効果?」
「君と食事をすると、楽しいということだ」
(っ!)
トクンと心臓が鳴りかけて、舞い上がりかけた気持ちを慌てて抑える。
「そ、そうですよね、食事ってひとりより誰かと一緒のほうが楽しいですもんね」
「いや。君とだから楽しいんだ」
照れもなく言い切られた言葉に、紗那絵はとうとう赤くなる。
(こ、これはつまり、料理を解説してくれる私がそばにいたほうが、おかずの知識やうんちくが増えてありがたいとか……たぶん、そういうことだよね⁉)
天野のさりげない言葉にいちいち反応してしまう自分が嫌になる。
「あ、この鴨のソテー、おいしい!」
内心の困惑を押しやるように、紗那絵は大きな声を出す。
「確か、フォアグラを取るために普通より長めに飼った鴨……マグレなんとかってメニューにありましたよね?」
「マグレ・ド・カナールだ」
紗那絵の戸惑いを知ってか知らでか、不自然に替えられた話題に天野はそのまま乗ってきてくれる。
「さすが天野さん、記憶力がいいですね」
「単に『ナール』の部分が医薬品の商品名にありそうだと思って覚えていただけだ」
「ふふっ。いつでも仕事と結びつけちゃうなんて、天野さんらしくてうらやましいです」
なにげない紗那絵の言葉に今度は天野が困惑する。
「うらやましい、とは? 仕事人間と非難されたことはあるが、うらやましいと言われたのは初めてだ」
「いえいえ、ほんとにうらやましいです! 二十四時間、情熱が持てる仕事があるなんて素敵ですもん!」
ナイフとフォークを握った両手に力を込めて、紗那絵はついつい力説してしまう。
自分の場合、美夏のようにはなれないし、好きな料理もSNSで称賛を浴びるほど飛びぬけてうまくはない。
中途半端で何者にもなれなくて、いくらでも替えの利くつまらない人間。
それに引き換え天野は大好きな仕事があり、同僚にだって『替えの利かない人間』として認識されている。
自分にとって彼は十分うらやましい存在なのだ。
しかし、天野はそっと息をつく。
「俺の場合、情熱ではなく、執念かもしれないな」
「執念……?」
「ああ。俺はいつまでも一研究員ではいられない。そろそろ経営者として腕を磨けとまわりの声も喧(やかま)しい」
伏し目がちになった彼は、ナプキンでそっと口元を拭(ぬぐ)う。
「……もちろん、経営の仕事も魅力的だ。ただ、自分が研究員として存在した証を残して現場を去りたいんだ。だから今の俺を支えているのは、熱中ではなく、執念なのかもしれない」
──今の仕事がどんなに好きでも、どんなにやりがいがあっても、天野には天野の事情がある。
食事を忘れるほどに研究に打ち込んでいたのは、悔いなく現場を離れたいという、ただその一心からだったのだ。
(そんなこと、全然知らなかった……)
ただの研究オタクで三度の飯より仕事が好き。おまけに身なりもこだわらない。
女子社員の間では、「アタックしても無駄な朴念仁(ぼくねんじん)」と貶(とぼ)されて……。
自分も周囲も、勝手な天野像を作って中身を見ようとしていなかった。
「どうした? 急に黙り込んで」
「初めて聞くことばかりで、ショックでした」
素直に答える紗那絵に、天野がさらに問いかける。
「ショック、とは? 俺が研究に打ち込んでいる理由? それとも、会社の後継者だったということか?」
「天野さんが後継者だということは、つい先日知りました。でも全然偉(えら)そうじゃないし、自分が好きな仕事が思い切りできてうらやましいなって、単純にそう思ってました」
「なるほど、うらやましいか……。それでは君は、仕事が嫌いなのか?」
さらに天野に踏みこまれ、紗那絵は思わず首を振る。
「いえ、そんなことはないんです。ただ、『仕事は自己実現だ』ってものすごくがんばってる人もいるのに、なにがやりたいのかもわからないまま、流されるように毎日を送ってる自分が情けなくて……」
──いったいどうして、こんな話をしているのだろう。
ダメな自分をさらけ出して、天野にどうしてもらいたいのか。
いい大人が、自分のやりたいことがわからなくて拗(す)ねているだけ。まるで、『将来の夢』というタイトルの作文が書けなくて、べそをかいている小学生のようだ。
──きっと、天野に呆(あき)れられる。
そう思った瞬間、彼が小さく問いかけた。
「なら、反対に聞くが、仕事は自己実現というのは本当だろうか?」
「……え?」
思いもよらない言葉に紗那絵はきょとんと天野を見つめる。
「だって、好きなことを仕事にできたら幸せじゃないですか」
「その理屈は俺にもわかる。だがもし、自分の好きなことが仕事として確立していないものだったら? 反対に、どんなにまじめに取り組んでも、好きな仕事でなければ意味がないのか? そもそも自己実現は、仕事でないとできないものなのだろうか?」
決壊したダムのように、天野は一気にまくしたてる。
彼は自分を励(はげ)まそうとしてくれている。
好きを仕事にできていない、好きなものはあるが、仕事にできるほどのレベルではない──。だから自分はつまらない人間だと、そう思いこむのはやめろと。
彼の気持ちはありがたいし、その理屈もよくわかる。
だが、どうすれば『自分はこのままでいい』と思えるのか。
(私、ないものねだりでバカみたい)
黙り込んでしまった紗那絵に、どこかやさしい声で、だがきっぱりと天野が言う。
「……君の弁当は、本当にうまい。君自身は、所詮素人(しろうと)レベルだと思っているのかもしれない。でも俺にとっては唯一無二の存在、代わりの利かないものなんだ。そんなふうに、俺が君を認めただけでは……ダメなのか?」
(……え?)
弾(はじ)かれたように面(おもて)を上げた紗那絵の瞳に、整いすぎた天野の顔が映りこむ。
いつになく真剣で、それでいて切なそうなダークブラウンの瞳。
形のいい唇は次の言葉を探して小さく開かれ、テーブルの上の両手はなにかを摑(つか)もうとするように、軽く拳(こぶし)の形に握られる。
「君がむやみに自分を卑下(ひ げ)するつもりなら、俺はそのたび君の美点を挙げてもいい。君は、自分自身が思うほど、ダメでも無力でもない」
天野から投げかけられる、あたたかでやさしい言葉たち。
──きっと面倒臭い女だと思われた。
──悩みなんて言わなきゃよかった。
そんなふうに後悔しかけていた紗那絵は、ただただ天野を見つめるばかりだ。
「……メインが皿に残っている。食べないのか?」
なにごともなかったように促され、紗那絵は慌ててフォークを手に取る。
まだ半分以上も残っている皿の上のメイン。
なのに胸が一杯で、フォークを持つ手が動かない。
「天野さん、私……」
「慌てなくていい。君のペースで楽しんでほしい」
穏やかな声に促され、紗那絵は静かにうなずき返す。
ゆっくりと時間を掛けてメインを食べると、最後はデザートと食後のお茶だ。
「君とこの店に来られてよかった」
満足そうに、天野がコーヒーカップを傾ける。
(……私もです、天野さん)
期せずして、彼のことをたくさん知ることができた。
それに、自分の悩みにも真剣に耳を傾けてくれて──。
紗那絵がそっとすくったシャーベットは、口に入れるとほろりと溶けて、舌の上で儚(はかな)く消えていったのだった。