書籍詳細
目が覚めたら、天敵御曹司が娘と私を溺愛する極上旦那様に変貌していました
あらすじ
「君の願いなら、なんでも叶える」記憶喪失のママは、宿敵旦那様に甘やかされて…!
ある日事故で記憶を失った礼乃。名前や年齢も忘れた彼女は、夫だという大手百貨店の専務・透哉に過保護に見舞われ、どう接すればいいか思い悩む。さらに自分たちには3歳の娘がいると知らされ…!戸惑うも、礼乃は娘に寂しい思いをさせまいと、母として愛情を注ぐと心に決める。そんな彼女と娘に寄り添う透哉は、礼乃の不安も熱情で蕩かしていき―。
キャラクター紹介
緑川礼乃(みどりかわあやの)
大手百貨店で夫・透哉の秘書をしている。ある日、交通事故で記憶を失くしてしまう。
緑川透哉(みどりかわとうや)
大手百貨店の専務で礼乃の夫。礼乃とは大学時代、同じゼミの同期で犬猿の仲だった。
試し読み
「ごめんね、変なところ見せちゃって」
カフェは休日だからか混んでいたけれど、タイミングよくテラス席に空きを見つけた。私はカフェオレ、緑川くんはブレンドをオーダーした。一呼吸ついてから私が謝ると、彼は「ううん」と首を横に振る。
「それは全然構わないんだけど。……よく考えてみたら礼乃が泣いたところ、俺は数えるほどしか見たことがなかったな」
彼は自身のカップに視線を落としてから続けた。
「――いちばん印象に残ってるのは、礼佳が生まれたとき。難産で、礼乃は長いこと分娩室にいて……心身ともに限界だったんだろうね。でも子どもを無事に産むまで弱音は吐けなかったのかな。出てきた瞬間、『本当によかった』って泣いて」
その部分の記憶は、断片的にだけれどしっかりある。事前に得た情報で、分娩中のトラブルで子どもの命が危険にさらされたり、深刻な後遺症が出るケースもあると知っていたから、どうにかしてこの小さな命を守らなければいけないと必死だった。彼は顔を上げて続けた。
「それまでは、弱音を吐かない強い礼乃が好きだったし、尊敬してた。もちろん、今でもね。でも、礼乃の涙を見て……子どものためにずっと強いふりをしてくれていたんだって気付いた。で、この人を守りたいって強く思ったんだ。父親になるという重責を改めて感じたのと同時に、夫として礼乃を一生守り抜こうって」
真摯な黒々とした瞳が、熱っぽく私を見つめる。私は、その眼差しの力強さに、目が逸らせなくなる。
「そんな礼乃が泣くほどつらいことがあるなら、分かち合いたいんだ。……夫として」
「……もう、そんな風に言われると、柄にもなくまた泣きそう」
優しい台詞に胸が切なく疼き、目の前の緑川くんのシルエットがぼやける。俯くと、カフェオレのカップに涙の滴が落ちてしまいそうだ。
「――緑川くんはさ、私のことすごくよく理解してくれてるよね。今日だって、私がよろこぶって知って、この場所を選んでくれた」
これまでに様々な公園や植物園を一緒に回ったと聞いたけれど、今回、この場所にしてくれたのは、私の記憶にも残っているからなんじゃないだろうか。この場所ならかつての思い出を分かち合える、と。その気持ちがたまらなくうれしい。
「なのに……私は、緑川くんの好きなことやものをほとんど知らなくて……それがとっても寂しく思えて、悲しくなって……」
「仕方ないよ。それは事故に遭ったからで、礼乃のせいじゃない」
「ありがとう。……遅いけど、今になってやっと、とてつもなく大切なものを失くしてしまったんだって自覚した」
――緑川くんとの思い出。私のことをこんなに愛してくれている旦那様との記憶。目の前の彼からの愛情を感じれば感じるほど、代わりの利かないものを失くしたのだと打ちのめされる。
「今までなかなか言えなかったけど……ちゃんと伝えるね」
彼の思いやりや深い愛情に恩返しができたら、とずっと考えていた。今の私にできることは――この瞬間の正直な気持ちを、恥ずかしがらずに伝えることくらいだ。意を決して深呼吸をする。
「……カウンセリングを受けたとしても、失くした記憶が完全に戻るかどうかはわからない。もしかしたらずっと、六年間の記憶は空洞のままかもしれない」
主治医からも再三言われていることだ。欠けた記憶が一生補完されない場合もあり得る。これまでの緑川くんとの記憶が、永遠に封印されたまま。
「だとしても、あなたと一緒にいて心が安らいだり、ドキドキしたりしている今の気持ちは確かに存在するの。……だから、つまり……」
スタートが『苦手な同期』だったから、ずっと認めることをためらっていた。こういうことをはっきり口にするのは恥ずかしいし、できれば逃げ出したい。けど、私を見捨てずに支え続けてくれている彼に伝えなければ――という思いが、それを凌駕したのだ。自分を奮い立たせるために、膝の上に乗せた両手をぎゅっと握った。
「――私は緑川くんが好き。過去を思い出せなくても、今のあなたが私にとってかけがえのない人です」
礼佳との記憶が蘇ったあとも、夫婦ふたりでの記憶の扉は閉ざされている。それでも私は、これからも緑川くんの奥さんでいたい。
「礼乃……」
緑川くんの目が、大きく見開かれる。その表情を見て、やっと言えたとの達成感を覚えつつ――ついに言ってしまったとの羞恥が遅れて襲ってくる。
「……思い出せないのが、言葉では言い尽くせないくらい苦しい。ごめんなさい」
「大丈夫だよ。俺にとっては、記憶がなくても礼乃は礼乃で、大切な奥さんには変わりない」
そう言うと、彼はテーブルの上に右手を出した。そして、視線で私の片手を出すように促されたので、左手を乗せてみる。
彼の右手が私の左手を掬うと、その薬指に填まっている結婚指輪を撫でた。私たちがかつて、誓いを立てた証。輪郭を確かめるように、何度も。
「たとえ記憶が戻らなくても、今まで通り礼佳と三人で楽しく暮らしていこう。思い出は新しいものをどんどん作っていけばいい」
「緑川くん……」
「礼乃が生きていてくれるだけで、俺は十分だ。それ以上はなにも望まない」
私の指先をきゅっと握る手が温かくて、心地よくて。それだけでまた泣けてしまいそうだったけれど、なんとかこらえた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
ありったけの感謝を込め、私は涙の代わりに笑顔で応えた。
◆◇◆
カフェを出た私たちは、時間をかけて咲き誇る草花を見て回った。
歩き疲れてまた休憩したくなったころに、車に乗って移動する。そろそろ早めの夕食、という時間だった。
道なりに一時間ほど走ると沿岸に出た。窓の外からは潮の匂いがする。
連れて行ってもらったのは、まるで白亜のお城みたいなロマンチックな外観のフレンチ。私たちが通してもらった席はオーシャンフロントで、ディナータイムはサンセットから星空のきらめく夜景まで楽しむことができる、と教えてくれた。
お店の雰囲気だけではなく、お料理も素敵だった。前菜の秋ナスのムースと海の幸のカクテルは、レモンの利いたコンソメジュレでさっぱりいただけたし、次いで出てきた旬の野菜のテリーヌにはサツマイモ、銀杏、ビーツなどが入っていて、目にも鮮やかだった。
スープはウニとジャガイモのポタージュ。こくがあって、すごくおいしかった。ウニのポタージュは初めてだったから、新鮮な感じもした。
魚料理は鱧のブールブランソース。丁寧に骨切りされた鱧は、脂がのっていてまさに旬。バターのこっくりした味とビネガーの爽やかな酸味が心地よかった。
口直しの洋梨のグラニテを挟んだあとは肉料理。子牛のロティは、添えられていたタプナードという、アンチョビやオリーブ、ケッパーなどのペーストとの相性がとてもよく、これもとてもおいしかった。
デザートは栗づくし。マロンと抹茶のムースに、マロンとヘーゼルナッツのマカロンとプチサイズのモンブラン。それに和三盆のアイスクリームが添えられていた。
横並びにサンセットを眺めながら、おいしいものを食べ、緑川くんとおしゃべりする。その時間がすごく楽しくて、愛おしい。
宿泊先に車を停めてきたから、今日はシャンパンも開けてもらった。記憶を失くしてからはあまりお酒を飲む気にもなれなかったのだけど、もともと好きだったので、最近は週末、少量だけ嗜んでいる。
アルコールで気分が高揚しているのもあり、私はいつもよりよく笑った気がする。そんな私を見て、彼もうれしそうにしてくれていた。
「本当、素敵なところだよね」
食事を終え、タクシーで宿泊先まで戻った私は、ミント色に塗られたかわいらしい玄関の扉を開ける。室内の明かりを灯せば、二十畳はありそうなリビングスペース。その先には寝室が続いている。リビングはオーシャンビューで、デッキの先に果てしなく広がる海が見えた。
「ホテルも便利でいいなって思ったんだけど、デッキから眺める景色がよさそうだったからこっちにしたよ。礼乃はそういうほうが好みでしょ?」
「うん。さすが」
せっかくふたりだけの時間を確保できたことだし、よりプライベートな空間である貸別荘は特別感があってわくわくする。
「明日の朝、楽しみにしてて」
「晴れることを祈ろう」
――明日、晴れたらデッキから写真撮ろうっと。
浮かれつつ、行きがけに置きっぱなしだった、着替えなどが入っていたボストンバッグを寝室に運ぶことにする。
寝室の明かりはシーリングファンがついていて、リビングスペースと同じウッドパネルの天井。海外っぽくおしゃれだ。
寝心地のよさそうなセミダブルのベッドが手前にふたつ、奥にふたつ並んでいる。手前のベッドの傍らにバッグを置くと、背後から逞しい腕が回される。
「……緑川くん」
私が彼の名前を呼ぶと、抱きしめる力が強くなる。
「カフェで言ってくれた言葉、本当にうれしかった」
胸の前で交差する筋張った腕の感触に、私の鼓動は高鳴った。
「ううん……私、ちゃんと言ってなかったな、と思って……」
緑川くんが言葉での愛情表現を控えてくれていたのは、私にプレッシャーを与えないためだとわかっている。だからこそ、私のほうから積極的に伝えるべきだったのに。
「礼乃から直接はっきり『好き』って言ってもらったの、実は初めてなんだ」
「そうなの?」
緑川くんが、耳元で「うん」と答えた。
「恥ずかしがり屋なところも含めてかわいいって思ってるから、全然気にしてなかったけど。でも、ちゃんと伝えてもらえるとうれしいものだね」
「ご、ごめん……」
記憶がないにせよ、謝罪の言葉が口をつく。自身の性格を考えれば、正直、あまり意外ではなく、想像に容易い。しかし、強情すぎやしないだろうか。
「だからいいよ。……礼乃は言葉ではあまり愛情表現をしてくれなかった分、手紙で伝えてくれたし……」
「手紙かぁ……」
学生時代から手紙を書くことは好きだった。友人への誕生日プレゼントには必ず添えていたし、中学・高校時代の恩師への年賀状は欠かさない。自分の想いを声にするのが苦手な分、大切なことは文章にして相手に伝える習慣があった。伴侶である緑川くんにも、そうやって自分の気持ちを表現していたようだ。
「今度、礼乃からもらった手紙をまとめておくよ。実家にある分も」
「い、いいよ、恥ずかしいっ」
慌てて首を横に振る。書いた手紙を読み返すことほど、気恥ずかしいことはない。
「どうして。記憶が戻る手助けになるかもしれないし、俺ももらった当時のこと、思い出したくなってきた」
対して緑川くんは楽しそうだ。その反応で、受け取ったときには甚くよろこんでくれたのだろうことが推測できる。
「――ま、でも知っての通り、礼乃は顔に全部出てたけどね」
「我ながら単純……」
付け足すように言って笑う緑川くんに苦笑する。昔から指摘されていたっけ。うそのつけない性格が恨めしい。
「……礼乃」
おもむろに名前を呼ばれたので、私は彼と向き合うように振り返った。
「――ひとつだけ、お願いしてもいい?」
「なに?」
「俺のこと、下の名前で呼んでくれる?」
珍しく緊張した面持ちで彼が訊ねた。
「この間みたいに。やっぱり違和感とか抵抗感があるなら、今だけでいいから」
礼佳に関する記憶が戻った翌朝、一回だけ呼んだことが頭を過った。苗字呼びが習慣になってしまいあまり気に留めていなかったけど、やっぱりよそよそしいか。
……名前で呼ぶの、いまだに恥ずかしいけど――
「……透哉くん」
あのときみたいに切れ切れではなく、ごく自然に呼んでみる。と、緑川くんの顔が泣きそうに歪み、私を見つめる目が赤く潤んだ。その表情を見て――私は平手打ちされたみたいな衝撃を受けた。
緑川くんの優しさに甘えるばっかりで、彼の気持ちにまで考えが及ばなかった。
彼はずっと我慢していたのだ。私の記憶が戻ることを誰よりも望んでいるのは彼だ。生涯を誓い合った妻が自分との思い出を忘れるなんて、そんな残酷なことはない。
それでも、私を急かしてはいけない、追い詰めてはいけないと……いつも「無理しないでいいよ」とか「ゆっくりでいいよ」とか、優しい言葉をかけ続けてくれた。
――自分の本心を押し隠したまま……。
「ごめん。……懐かしくて、うれしくて」
「ううん」
首を横に振りながら、胸がちくちくと痛んだ。
――彼に、こんなに寂しい思いをさせていたんだな、私は。
私たちはどちらからともなく身を寄せて抱き合った。
……緊張でドキドキするけれど、こうしてくっついていると安心する。彼の肌の感触が懐かしいような――心と身体の強張りが解けて、リラックスできるような。
彼の肩口に顔を埋めていると、彼がもう一度「礼乃」と小さく呼んだ。そして。
「今すごく、礼乃にキスしたい」
掠れた声で、囁くように。ひどくセクシーな響きで。
「……いい?」
――どうしよう。緑川くんとキスするのは初めてだけど……夫婦だし、きっと本当は何回も、何十回も、何百回もしてるんだよね。
恥ずかしいと感じてるのは私だけだ。好き同士なんだからためらうこともないわけだし――
心臓が壊れるかと思うくらいにドキドキしすぎて、おかしな顔をしているかもしれない。羞恥でどうにかなりそうだけど、思い切ってこくんとうなずく。
「ありがとう」
お礼を言ったあと、彼の唇が――私の額に、スタンプを押すみたいに軽く触れた。
「っ……?」
てっきり唇にされるものと思っていたから、逆に驚いてしまった。ハッと顔を上げ、キスをされた額に軽く手を添える。
「いきなりこっちにキスされても困るでしょ?」
「……う、うん……」
「こっち」と唇を指で示しつつ小首を傾げる緑川くんに、曖昧に返事をした。私に気を遣ってくれているみたいだ。彼らしいといえば、らしい。
「……次の楽しみに取っておくよ」
「んっ……」
その代わりとばかりに、彼は額や頬にたくさんキスをしてくれた。柔らかな唇が肌に触れる感触に、背中が小さく震えた。
――うれしいのに、少しだけ残念な気持ちがしてしまう私は、欲張りなのかもしれない。
「透哉、くんっ……」
「かわいい、礼乃」
彼がよろこぶのなら――と、彼を名前で呼びながら、背中に腕を回してきつく抱きしめ合う。首元に顔を埋めると、体温や彼の匂いが心地よくて、このまま時が止まればいいのにと思う。
「……俺のことを思い出してくれたらちゃんと言うって話したこと……覚えてる?」
もちろん覚えている。私がうなずくと、彼の手が私の長い黒髪を愛おしげに撫でる。指先で髪を梳くように、ゆっくりとした所作で。
「それまでいくらでも待つって思ったけど、やっぱりやめた。……ちゃんと礼乃が伝えてくれた今だからこそ、俺も伝えたい」
彼が微かに息を吸い込んだのがわかった。その刹那。
「世界でいちばん礼乃が好きだよ。……愛してる」
緑川くんの真摯な言葉に、全身を貫くような熱を感じた。