書籍詳細
幼馴染のエリート御曹司と偽装夫婦を始めたはずが、予想外の激愛を刻まれ懐妊しました
あらすじ
「どんな君も全部俺のもの」交際0日婚なのに、旦那様に蕩かされ妊娠発覚!?
婚約者に振られた舞と、同じく婚約が破棄になった幼馴染の翼は、体面を保つため契約結婚をすることに。ライバルだった二人の生活は甘さとは無縁のはずが、翼は想定外に舞を溺愛し!?心の内にあった彼への想いを自覚する舞だが、一方で契約関係であることに胸が締め付けられていく。ところが愛欲を滾らせた翼に迫られるうち、舞の妊娠が判明して…!
キャラクター紹介
福地 舞(ふくち まい)
社長秘書として働く28歳。負けず嫌いで、一緒にピアノを習っていた幼馴染の翼をライバル視していたが…?
本城路 翼(ほんじょうじ つばさ)
舞と同い歳で、世界で活躍するイケメン指揮者。表情に気持ちが出ないタイプだが、昔から舞にはバレてしまう。
試し読み
ある土曜日の昼過ぎのことだった。
この日、翼くんは都内のとあるホールで指揮者として舞台に立つ。
このオーケストラは結成されて五年と新しく、翼くんの学生時代からの友人も多く在籍していた。
今回は、結成五周年の記念コンサートらしく、友人たちの強い希望で翼くんはそれに参加することになった。
翼くんにとっては結婚後初めてのコンサートになる。
またこのオーケストラは実力者揃いの上、イケメンや美人が多いことで、クラシックコンサートの中でも大変人気があり、毎回チケットは即日完売に。
私はというと、このコンサートのチケットは持っていない。
元々結婚する前から決まっていたコンサートだし、気が付いた時にはすでに完売していた。
結婚後初めての公演なんだから、行くかどうか聞くくらいしてくれてもいいのに……なんて、偽装結婚なんだから、あるわけないか。
そういうわけで、一人の休日を満喫していた。
特に今日は翼くんがいないので思い切りピアノを弾いた。
その後は気になったドラマを一気見していたのだが、だんだん眠気が襲い、うとうとしていたそんな時だった。
突然スマートフォンから着信音が鳴って飛び起きた。
翼くんからだ。
時計を見ると開演一時間半前。何かあったのだろうか?
「もしもし?」
『舞って今家にいる?』
「いるけどどうかした?」
『よかった。悪いが俺の書斎のデスクの上にネクタイがあると思うんだけど、確認してくれないか?』
「ネクタイ? ……ちょっと待ってて」
翼くんは几帳面な人だ。
常にきっちりしていて、基本自分のことは全て自分でやるタイプの人。
そんな人がネクタイを忘れるなんて珍しいことだと思った。
そう思いながら書斎に入ると、蝶ネクタイが置いてあった。
翼くんらしくないと思った、
「もしもし? 蝶ネクタイあったけど」
『本当? よかった。じゃあ悪いんだけど持ってきてくれないか?』
「え?」
『え? じゃなくて、頼むよ』
「じゃあ、晩ごはんで手を打たない?」
『晩ごはん?』
スマートフォン越しに驚いたような声が聞こえた。
「そうよ。せっかく持っていってあげるんだから晩ごはんぐらい奢ってよ」
可愛くないとわかっている。
そもそもこんなことを言うつもりはなかった。
素直じゃない私の悪い癖だ。
こんなこと言ってもなんの得にもならないのに……。
だけど聞こえてきたのは翼くんの笑い声だった。
『わかったよ。美味しいご飯をご馳走してあげる。その代わりといってはなんだけど、高級レストランに行ってもいい服装で来てよ』
忘れ物を届けただけで、高級レストランで食事?
やっぱりセレブは違う。
「わかった」
声を弾ませ返事をすると、また聞こえてきた笑い声。
翼くんてこんなに笑う人だったかな?
『じゃあ、よろしく頼むよ奥さん』
不意に言われた奥さんという言葉にドキドキしていた。
形だけの夫婦なのに。
そう思いながらも、ちょっと嬉しい自分に戸惑う。
でもそうとなれば急いで着替えなくちゃ。
メイクもしないと。
急がないとそれこそ間に合わない。
私は急いでメイクを済ませ、落ち着きのある紺色の膝丈のシフォンワンピースに着替え、蝶ネクタイを届けに行った。
会場へ向かう電車の中でふと昔のことを思い出した。
それは私が小学校の高学年になった頃。
オーケストラ演奏を聴く機会が巡ってきた。
母が知り合いからチケットをいただいたのだ。
演目は、ショパンのピアノ協奏曲一番。
ピアニストはショパンコンクールで入賞した人と知らされ、私は大興奮。
そもそも大きなホールで演奏を聴くのは初めてだった私。生演奏が聴けるというだけで、コンサートの前日は興奮して眠れなかった。
ところが、会場について私の興奮が冷めそうになった。
なんと翼くんも同じ会場にいたのだ。
そもそもチケットをくれた知り合いというのが、翼くんのお母さんだったらしい。
ちょっと騙された気分になったが、楽しみにしていたコンサートを翼くんがいるからという理由でやめるのは勿体ない。
それに高学年になって、私たちは以前にまして会話もなくなっていた。
席も母親同士が隣に座ったおかげで、翼くんが私の視界に入ることはなかった。
会場の照明が落とされ、指揮者とピアニストが登場すると、大きな拍手が会場を包む。
それまで他の人の演奏を聴くのは、ピアノの発表会で他人のピアノを聴く程度だった私は、ショパンコンクールで入賞したピアニストの演奏に大きな衝撃を受けた。
身体中で感じるオーケストラの演奏の素晴らしさに、私は感動で、涙が溢れていた。
と同時に、私もあの舞台に立ちたいと強く思った。
それは四歳の時、周囲に言いふらしていたようなあやふやなものではなく、私にとっては決意のようなものだった。
このことをきっかけに私はさらに練習を重ねたのだった。
それも昔のことだ。
会場に着くと、私は関係者入り口の方へ向かった。
でもどこから入ればいいのかとキョロキョロしていると、会場のスタッフらしき人に声をかけられた。
「あの、失礼ですが本城路さんの奥様ですか!」
「あっ、はい」
他人から奥様って呼ばれてドキドキしてしまった。
「こちらへどうぞ」
「い、いえ、これを夫に渡していただければ――」
渡すものを渡したら、どこか別の場所に移動して終演まで待つつもりだった。
「本城路さんから奥様が見えたらお連れするようにと言われているので」
そこまで言われると断れず、ついて行くと翼くんの控え室まで案内してくれた。
スタッフの方がノックをすると
「はい」
と翼くんの声が聞こえた。
「奥様がお見えになりました」
「ありがとう」
スタッフの方がドアを開けてくれた。私は会釈をして中に入った。
そこには燕尾服姿の翼くんが立っていた。
すらっとしたスタイルのいい翼くんの燕尾服姿がかっこよくてドキッとしてしまう。
ただ、ネクタイがあればもっと素敵だ。
「はいネクタイ」
ネクタイを入れた紙袋を差し出すと、翼くんはすぐにネクタイを取り出して締めた。
「悪かったね」
「どうしちゃったの? らしくないね」
「……いろいろと考えごとしてたんだよ」
「そうなんだ」
最近翼くんとの距離を考えてしまう。
結婚する前のような拒絶するみたいな気持ちは薄れ、思いの他安定した生活ができている。
翼くんとも適度な会話ができて、こんなはずじゃなかった、当初の予想が外れたという思いは常にあって。
本城路翼を単なる幼馴染ではなく一人の男性として見るようになった。
だけど、元々期間限定の夫婦。
近すぎず遠すぎずという距離感に悩む。
それは翼くんの人柄を知れば知るほど悩む。
考えごとをしていたと言っていたが、そこに立ち入ってはいけないとわかってはいるのに気になってしまう自分がいる。
「どう? 曲がってない?」
不意に翼くんが私の前に立った。
「え?」
「ネクタイだよ。曲がってない?」
ほんの少しだが曲がっている。
「ほんのちょっと右に曲がってるかな?」
「じゃあ直してよ」
「え?」
「自分じゃわからないから。ほら」
と、首を近づけてきた。
「ほらって」
「早く。時間がないから」
「わかったわよ」
息がかかるほどの距離に私は不覚にもドキドキしていた。
私の鼓動が翼くんに聞こえてしまうのではと思い、ささっと直して距離をとった。
「ありがとう」
「ど、どういたしまして。じゃあ私は帰るね。コンサートがんば――」
「待って」
翼くんが私を引き止めるように腕を掴んだ。
「な、何?」
掴まれた腕に熱が入る。
至近距離でもドキドキしたのに、腕なんか掴まれたらもっとドキドキしてしまう。
昭久さんの時でもこんなことなかったのに。
すると手が離れ、代わりに一枚のチケットが差し出された。
「これは?」
「せっかくこんな綺麗なワンピースを着ているのにそのまま帰るつもり? 夫のコンサートを見てってくれよ」
「え?」
「夫の仕事ぶりを見るいい機会だと思うけど?」
何も言い返せない。
「わかった」
素直にありがとうと言えればいいのに……。
チケットを受け取ると、そのまま会場へと向かった。
改めてチケットを見ると招待席と書いてあった。
もしかして私をコンサートに呼ぶためにわざとネクタイを忘れた?
そう思ったら、なんかしてやられた気分だった。
でも私の足はとても軽かった。
またしてもこんなはずじゃなかった。
会場に入って驚いたのは客層だった。
普段聴きに行くオーケストラの客層は年配の人の割合が多いのだが、今日のコンサートは明らかに若い人が多かった。
容姿でも話題になっていたから、団員個人のファンも多いのかもしれないけれど、どんな理由であってもオーケストラの演奏を聴きにきてくれるのは嬉しいはずだ。それにこの公演をきっかけにクラシックを聴いてくれる人も増えるだろう。
と言いつつ私もコンサートは久しぶりなんだけどね……。
今日の演目は一曲目がベートーヴェンだ。
「ねえ、本城路翼って結婚したんだよね」
私の席の後ろで女性のひそひそ話が聞こえてきた。
聞くつもりは全くないのだけれど、聞こえてしまう。
「そうそう、一般女性らしいけど羨ましいよね。あんなイケメンと結婚だなんて」
「本城路さんが選ぶ人なんだからきっと美人なんだろうね」
確かに高里さんだったらその通りだけど、実際は……。
「ねえ、もしかしてこの会場に奥さん来てるんじゃない?」
「アイコンタクトなんかしちゃったりして」
多分、こういうこともあるから翼くんは結婚相手を公にせず一般女性としたのだろう。
そうしてくれたことに私は心からホッとした。
会場が埋め尽くされた頃、開演のブザーが鳴り、ざわついていた会場が一瞬で静まり返る。
客席の照明が落とされると、ゆっくりと幕が上がった。
指揮者である翼くんが登場すると、観客が拍手で迎える。
翼くんが指揮者として活躍していたのは知っていた。
でも私はその姿を見ることはなかった。
避けていたとというより妬んでいたのかもしれない。
音楽を始めたのは私の方が先だったのに、翼くんは私を追い抜き、手の届かないところにまで上り詰めた。
幼馴染という肩書きすら私には疎ましかった。
だから今まで向き合うことはなかった。
今日、初めて彼の音楽を聴く。
結婚しなければこんな機会はなかっただろう。
緊張と戸惑い、そして期待の入り混じった複雑な思いで彼の姿を見つめた。
オーケストラのメンバーの視線も翼くんに集中。
そして演奏が始まった。
生で聴く演奏はとても迫力があり、圧倒されるばかりだった。
演奏者は自分のパートがない時は休めるが、指揮者は始まりから終わりまでずっと指揮棒を振り続ける。
その集中力には尊敬してしまう。
曲が終わると盛大な拍手が会場に広がった。
ピアノを弾いている翼くんしか見たことのなかった私の胸はドキドキしていた。
ただただすごいのひとことだ。
指揮者は指揮棒を振るだけではない。
作曲家が曲を作った時の境遇全てを読み解きながら、それを演奏者に指示し一つの音楽を作る。
しかもピアノだけを演奏するのと違い、いろんな楽器の音を頭に叩き込むのは本当に大変なことだと思う。私にはとてもできない。
休憩を挟み、次の演目はブラームス。
ここでも圧巻の演奏に、私は終始感動していた。
曲が終わると観客は立ち上がり、盛大な拍手のスタンディングオベーション。
それに応えるように、翼くんは観客に深く頭を下げた。
頭を上げた時だった。
翼くんが私の方を見たような気がした。