書籍詳細
愛さないと宣言された契約妻ですが、御曹司の溢れる熱情に翻弄されています
あらすじ
クールな旦那様の愛妻欲は加速して!?両片想いの焦れ甘夫婦
家の廃業をきっかけに、父の勧めで幼馴染みの御曹司・響介と結婚することになった笑麻。おぼろげにしか覚えていない彼に再会すると、「夫婦間の愛情に期待するな」と突き放されてしまう…。跡継ぎ目的の結婚と割り切ろうと決める笑麻だが、夫婦生活が始まると、響介は予想外の甘さで迫ってきて!?義務だけの関係なのに、笑麻は彼の帯びる熱に翻弄され――。
キャラクター紹介
石原笑麻(いしはらえま)
幼い頃に母を亡くし、父と二人で暮らしている。いつも明るくポジティブな考えを心がけている女性。
花菱響介(はなびし きょうすけ)
大企業の社長の息子で、笑麻の幼馴染み。仕事中は冷たい印象だが、笑麻に対しては世話好きな一面を見せる。
試し読み
「んっ、美味しい~!」
独特の甘い香りが鼻を抜け、芳醇な味わいが喉を潤していく。
「ノンアルでも十分美味いな。笑麻は酒に強いのか?」
正面に座る響介の視線がこちらに向いた。真っ直ぐに見つめられて、なぜか笑麻の心臓が騒ぐ。
「普通かな? そんなに飲まないから、よくわからないの。本当は色々……日本酒とかにも挑戦してみたいんだけど、詳しくなくて」
今の気持ちはなんだろうと思いながら、もうひとくち飲んだ。
「じゃあ今度、日本酒に合う和食の店に行こうか。そこ、おでんが美味いんだ」
「うん、行ってみたい。おでんいいね」
桃とマスカルポーネ、生ハムのアンティパストをつまみながら、笑麻は考える。今度は自分ではなく響介のことだ。
昨日から彼の様子がおかしいのである。
急に笑麻を褒めたり、食事に誘ったり、笑顔で話しかけてきたり。かと思えば赤くなって俯いたり。そして次に出かける約束まで交わすとは……。
しかしこれは響介の心境の変化などではなく、誰かの――笑麻の父による助言なのだろう。
笑麻の父に恩があるという響介の父。その父に従って彼は結婚を決めたくらいなのだ。響介自身も、笑麻の父に対して気を遣っているに違いない。
だからこその「今日」なのでは、と思った。
「響ちゃん。そんなに私に気を遣わなくていいんだよ」
「なんの話だ?」
チーズを口に入れた響介が、首を捻る。
「今日誘ってくれたのは、私が誕生日だったからでしょう?」
「っ、ま、まぁ、そうだが」
指摘を受けた響介の顔色が焦りに変わる。
「もしかして、私のお父さんに余計なこと言われたんじゃない? 例えば『笑麻の誕生日は何か予定でもある?』とか、そんな感じで。お父さんとメッセージアプリでお話してるよね?」
父には、笑麻の初恋が響介だという嘘を吐いた。そして父は、笑麻が響介を好きだから結婚を決めたのだと信じて疑わない。
響介の両親たちも、笑麻と響介の関係が良好だと思っている。結婚式でのふたりの様子を見て仲が良いと感じたらしい。
「笑麻のお父さんに? 言われてないぞ、そんなこと」
焦りの表情を消した響介は、はっきりと否定した。
今朝送られてきた、「笑麻、お誕生日おめでとう! 響介くんから誘われているだろうからお父さんは遠慮しておく! 今度お祝いするから待っててな!」という父のメッセージから、てっきりそうだと思ったのだが……。
「……本当に?」
「ああ。メッセージのやりとりなんて、新婚初日の翌日あたりに来たきりだが。その時も、笑麻をよろしくお願いします、くらいだったよ」
アンティパストを食べ終えたところに、トマトとアボカドを使ったクリームパスタが運ばれた。まったりと濃厚なパスタを堪能しつつ、笑麻は頭に浮かんだままに響介に問いかける。
「じゃあ今日は、ただ響ちゃんが誘ってくれたって……こと?」
「まぁ、そういうことになるな、うん」
早口で答えた響介もパスタを頬張る。もぐもぐと食べ、美味いという言葉を連発した。
「本当にすごく美味しいね。それで響ちゃんは……」
「ん?」
「う、ううん、なんでもない」
笑麻は言いかけた言葉を呑み込み、パスタをフォークに絡めた。
言い淀んでしまったのは、響介の言葉を素直に受け入れられなかったからだ。それには理由がふたつある。
ひとつめは、響介が笑麻を好きではないこと。お金目当てで結婚までしたのだから、彼が最上級に苦手な女性が笑麻だとはわかっている。それがこの先ずっと変化しないだろうことも。
そしてふたつめは、向坂のことだ。響介は非常にモテる男だが取り付く島はないため、社内の女性たちから一歩引いて見られていた。だが向坂は引かずに、響介に対して本気の好意を向けている。彼女は笑麻に声をかけてきた日から今まで、何度となく突っかかってきた。
そんな中、ふと笑麻は気づいた。なぜ向坂がここまで執拗なのかについて。
(本当は響ちゃんも、向坂さんのことを好きだったのかもしれない……。そう思ってから社内で注意深く彼を見ていたら、向坂さんと話す時だけ熱心に彼女の話を聞いている感じがしたのよね)
先日、響介が向坂とふたりで話しているところを、偶然見てしまったのだ。
(ふたりは恋人同士だったのに、響ちゃんの結婚話が出た。でも向坂さんを好きだから、私と仲良くしないために『お金目当ての女性は苦手だ』と突き放した。……とか?)
向坂はお金目当てではない女性だったのかもしれない。それなら辻褄は合う。
今までの笑麻であれば、この考えに至った時点で身を引いていたであろう。そして解決策をひねり出し、奔走していたはずだ。
だができなかった。なぜか、自分の心がそれをイヤがっているからだ。
(響ちゃんと離婚したら花菱コーポレーションで働けなくなるから? 響ちゃんが幸せになるならいいじゃない。別に仕事を探せばいいし、お父さんにはそういう事情だって話せば、きっとわかってくれる。って、あれ……?)
だったら、そもそも響介と結婚しなくても、やっていけたのでは? などという考えも表れて、頭の中が混乱してきた。
(私、響ちゃんとならお金のために結婚してもいいと思った。じゃあ他の人だったら拒否したの? 向坂さんと響ちゃんが恋人だったとして、ふたりが元に戻るのはイヤって、どういうこと? なんだか、わけがわからなくなってきた……)
「どうした、難しい顔して。それ苦手だった?」
「えっ、ううん、このお肉、すごく柔らかくて美味しいよ」
「それならいいが、無理はしなくていいからな」
「美味しすぎて集中してたの」
「ものすごい顔して集中するんだな」
クスッと響介が笑った。
この感じは、以前社内で響介が笑った時と似ている。笑麻の心が温かくなって、体がゆるくほどけるような、懐かしさと嬉しさが混じるような、不思議な気持ちだ。
幼い頃の郷愁だろうか。いや、それとも違う気がする。
笑麻はとろける厚切り牛タンの煮込みを味わいながら、またも考え込んでしまった。
(今日は向坂さんのことや、響ちゃんが普段思っていることも、色々聞こうと思ってたのに……。自分の気持ちがわからなくて、なんだか上手く聞けない)
笑麻の思いなど露知らず、響介はノンアルワインのお代わりを注文していた。
「この後買い物に付き合ってほしいんだが、いいか?」
ランチを終えて車に乗り込んだ響介が言った。
「もちろんよ。何を買うの?」
「洋服とバッグと靴」
「たくさん買うんだね。メンズのものは普段見ないから、楽しそう」
「……」
響介はそこで黙り込み、運転を続けた。
着いたのは表参道だ。駐車場に車を停めて、ぶらぶら歩き出す。
梅雨が終わりに近づいたのか、日差しは強くなっている。夏はもう、すぐそこだ。
ケヤキ並木通り沿いにはハイブランドの店が並んでいた。普段から近づくことのない店ばかりで、笑麻はついキョロキョロしてしまう。
(響ちゃんはこういうお店でお買い物をしているのね。いつも素敵な服装だなと思ってたけど、当然か……)
ふむふむとショーウィンドーを眺めながら響介の隣を歩いていく。
しばらく進んだところで彼が立ち止まった。こちらも有名なハイブランドの店である。
店内に入ったとたん、外のざわめきは遮断され、落ち着いた空間が現われた。美しく飾られた洋服に目が奪われる。離れた場所から店員が静かな声で「いらっしゃいませ」と挨拶した。
「どれがいい?」
響介が笑麻に問いかける。
どれと言われても、この空間に彼が着られるものはなさそうだ。
「ここはウィメンズものだね。響ちゃんが着るメンズのお洋服は――」
「笑麻のものを買いに来たんだよ。ここから好きなのを選んで」
笑麻の言葉を響介が遮る。一瞬、ポカンとしてしまったが、意味を理解したとたんに衝撃が走った。
「え……ええっ、冗談でしょ?」
「冗談で店に入るわけないだろ」
彼は呆れ顔で返事をした。
「む、むむ、無理、無理無理。ハイブランドのお店に入ったことすらないんだから、選べるわけないよ」
「じゃあ俺が選ぶ。いいな?」
有無を言わせない口調を差し出され、笑麻はハッとする。
「あ……、うん、わかった」
やはり響介と一緒に出かけるには、それなりの服装じゃなければいけないのだろう。それなら仕方がない。
笑麻の承諾を得た響介は、なぜか嬉しそうに服を選び始める。
サマーニットにスカート、ワンピース、ブラウスの試着をすることになった。どれもブランドのロゴマークが大げさに入ってはおらず、シンプルで形が美しいものだ。
試着室に入った笑麻は、チラリと値段を見て跳びはねそうになる。
(と、とと、とんでもないお値段なんですが……! でも値段がついてるだけ良心的なのかも? よくわからないけど、そういうことにしておこう)
彼に同行するパーティーや、ちょっとしたお招きで必要になるのだ。怯んでいる場合ではない。
(でも響ちゃんの年齢で考えると、いくら御曹司だからって、とてつもない年収をもらってるわけじゃないよね? うちのお父さんの話だと、響ちゃんのお父さんは息子に厳しいらしいし……)
響介に生活費をもらっている笑麻だが、彼の給料がどれくらいかは知らないのだ。あれこれ詮索する立場にはないので敢えて聞かないでいる。
恐ろしいくらいに良い肌触りのワンピースに袖を通しながら、ふと気づいてはいけないことに気づいてしまった。
「……まさか、靴とバッグの買い物も、響ちゃんじゃなくて……私の?」
ひえ……と声にならない声を上げる。しかしこれらは笑麻のためではなく、「響介の妻」に買い与えているのだから、いちいちたじろいでも意味はない。
「どうかな?」
ワンピースを着た笑麻は、待っていた響介に見せる。
彼は笑麻の全身をじっと見つめた後、何度もうなずいた。
「うん、いいんじゃないか。着心地は?」
「素晴らしすぎて表現できません……」
「なんで急に敬語なんだよ。他も着てみて良かったら、それで決まりな?」
響介はクスッと笑い、他の服も着てみせるように言った。
その後も笑麻が着替えるたびに、彼がとても楽しそうにしていたのが印象的だった。
「アクセサリーまで、本当にありがとう」
帰りの車の中で、笑麻は運転中の響介に礼を言った。
笑麻の予想通り、店を出た後は靴やバッグを買いに行く。しかしそれで終わりではなく、ジュエリーショップにも連れて行かれたのである。
そこは結婚指輪を購入したブランドと同じ系列の店だった。結婚指輪は響介が決め、笑麻はサイズを伝えていただけだ。そして彼に用意されたものを何も考えずに身につけていたのである。
(スタッフの人に結婚指輪を指摘されて同じ系列だと知ったけど、他のジュエリーを見たら、すごいお値段だった……。靴もバッグもアクセサリーも、普段用とは別にパーティー用まで揃えてもらった。彼のお仕事の一環としてそういう場所にも行くのだろうから当然かもだけど、お金を使わせて申し訳ないな)
結婚式の費用もほとんど花菱家が持ってくれた。今の生活も……と考え出すと切りがないのだが。
笑麻には、彼の良き妻でいることでしか恩が返せないのだ。
「いいものがあって良かったな」
「必要経費とはいえ、なんだか申し訳なくて」
響介の返事を聞いた笑麻は、ぺこりと頭を下げた。
「必要経費?」
「響ちゃんの妻でいるための必要経費。安っぽい格好は相応しくないから、たくさん買ってくれたんだよね。それはわかってるんだけど……」
彼の横顔を見つめると、はぁ~~と、大きくため息を吐かれる。
「お前さ、どうしたらそういう考えになるんだよ。いや……俺の自業自得か」
「自業自得?」
「今日の食事も、さっきの買い物も、誰かに言われたからとか、必要経費だとかは関係ない。俺がしたかっただけだ」
「じゃあお買い物も、私をお祝いしてくれただけなの……?」
「ああ、そうだ」
赤信号でブレーキをかけた響介が、こちらを向いた。
「だからその……、誕生日おめでとう」
言い終えたとたん、照れくさそうに顔を赤くして目を逸らす。同時に笑麻の胸がきゅんっと痛くなった。
「最初からはっきり『笑麻の誕生祝いだ』と言えば良かったんだよな。すまない」
「……響ちゃん!」
「お、おう? 急に大声出すなよ」
笑麻の勢いに響介が戸惑う。
「私こそ変な勘ぐりをしちゃってごめんなさい。せっかく美味しい食事に誘ってくれて、こんなに素敵な贈り物もしてくれたのに、私ったら何もわかってなくて……。本当にごめんなさい」
まだ赤信号だったので彼の腕を掴み、心から謝罪をする。
彼の心遣いを受けて胸がいっぱいになった笑麻は、謝らずにはいられなかったのだ。
「いや、なんで笑麻が謝るんだよ。誤解させた俺が悪いんだろ」
響介は笑麻の手を掴み、そっと自分の腕から放した。青信号に変わる直前だ。
「笑麻は高級店で食事は緊張するって言ってたよな。立ち居振る舞いだけじゃなく、服装にも気を遣うことになる場所だ。女性は特に気になると思う」
響介はハンドルを握り直し、青信号に変わったのを確認して車を発進させた。
「こんな言い方をするのは笑麻に失礼だが、金銭的に困っていたなら、そういう場所に躊躇するのは当然だ。俺も会食に行く時はそれなりの格好をする。だから笑麻も、高級店に俺が誘った時は、今日買ったものを気兼ねなく使ってほしい。遠慮せずに普段から使ってくれれば、もっといいと思うが」
淡々と説明されたが、その内容は笑麻の心を打つものだった。
着ていく服がないと躊躇ったのは事実だ。しかしそれを直接伝えていないにもかかわらず、響介は理解してくれていた。
「ありがとう、響ちゃん。でも本当にお金は大丈夫? すごく高い買い物だったでしょう?」
笑麻の問いかけに、響介はふんと鼻を鳴らす。
「俺は貯め込んでるからな。住居費はかからないし、趣味は仕事だし、人付き合いもそれほどしない。ゴルフも会合も必要経費の範囲内だ。俺の普段の服は、ああいう店では買わないし」
「響ちゃんが着てるのはハイブランドの服かと思ってた。だから今日も、そういうお店に行くんだって」
「ファストファッションの店で買うこともあるよ。他人が何を着ているのかなんて、よく見てもわからないだろ。今、笑麻が俺の服をハイブランドだと言ったみたいに」
「ほんとにそうだね」
苦笑した響介に釣られて笑麻も笑った。
「無理に買うことはしない。だから心配しなくていい」
「わかった。響ちゃんにいただいたもの、全部一生大事にするね」
「一生は無理だろ」
「ううん、一生大切に使うよ。おばあちゃんになっても無理矢理ワンピース着ちゃうんだ」
「くっ、……ははっ、あははっ!」
響介が声を上げて笑った。初めて見る彼の笑い方に衝撃を受ける。
「きょ、響ちゃん?」
「いや想像したら、なんか笑った。おばあちゃんになった笑麻が……、はは……っ」
「もう、笑いすぎでしょ」
と返しつつも、響介が楽しそうに笑う姿は嬉しかった。
今日出かける前までは、気になっていたことを彼に問おうと思っていた。でも隣で笑う響介を見ていると、どうでもよくなってくる。
美味しそうに料理を頬張る彼も、真面目な顔をして試着をした笑麻を見つめる彼も、運転中に何度も酔わないかと問うてくる彼も……、全部笑麻の知らない響介だった。
今日はそんな彼を発見できたことで、笑麻の心は満たされてしまったのだ。
「今度は私にごちそうさせてね。次のお給料、もうすぐ入るから」
「別にいいよ」
「ダメ。ちゃんとお返しさせて。ね?」
響介の横顔に念を押すと、彼は一度小さくうなずいて返事をした。
「じゃあ、遠慮なく」
ちょうど逆光になってしまい、響介の表情はよくわからない。でもその声色は笑麻を拒否するものではなかった。