書籍詳細
ホテルの王子様~再会した憧れの人は御曹司でした~
あらすじ
「俺のことを上司ではなく、男として見て欲しい」
彼が教えてくれたのは、仕事だけでなく恋愛の指導まで……!?
新人ホテルスタッフの美月は勤務先で、憧れていたホテルマンの九条玲司と再会する。慣れない自分を何かとサポートしてくれる玲司に対し、憧れとともに恋心が育っていく美月。あるとき、思いがけず玲司から愛の告白を受けるが、立場の違いから返事を先送りにしてしまう。そんな美月の前に、玲司の婚約者だという女性が現れて…!? ときめき再会ラブ
キャラクター紹介
宮本美月(みやもと みづき)
社会人一年目の新人ホテルスタッフ。立ち直りが早く明るく前向きな性格。
九条玲司(くじょう れいじ)
美月が勤めるホテルのフロントオフィスマネージャー。大人の包容力がある。
試し読み
「婚約者がいるくせに!離してくださ――ッ!?」
気がつくと、私は振り向いた弾みで腕を掴んできた人物を思い切りひっぱたいていた。パシン、と乾いた音が廊下に響く。けれど、目の前に立っていたその人を見て、思わず凍りついてしまった。
「く、九条さん……?」
「今の、強烈なビンタだったな」
叩かれた左頬を軽くさすりながら、九条さんは明るく苦笑いしている。
な、なんで九条さんがここに!? しかも私、今とんでもないことを……。
「すみません! あの、大丈夫ですか?」
てっきり正木先輩かと思っていたのに、まさか九条さんを叩いてしまうなんて。感情任せについ手が出てしまったことを激しく後悔する。そして頭に上っていたものも急降下して一気に冷めていった。
「仕事が終わって帰ろうとしたらロビーで君の姿を見かけた。様子がおかしいと思ったらいきなり飛びだしたりして、いったいどうしたんだ?」
九条さんの口調が優しくて、取り乱した心も落ち着きを取り戻す。けれど、そう尋ねられても、なんて答えていいか躊躇してしまう。
「なんだか今日一日様子も変だったし、お節介なのはわかってる。けど、これでも君を心配しているんだ」
「すみません、ご心配おかけして……私、だいじょ――」
うまく笑顔を取り繕ったつもりだった。けれど、いつの間にか目に溜まっていた涙がぽろりとこぼれてしまった。驚いた表情で九条さんが私を見つめている。
「宮本……」
「すみません!」
こんなことしか言えない。すでに泣き顔を見られてしまったというのに、私は慌てて隠すように俯く。するとその時、ほかの従業員がこちらへやってくる気配を感じた。
「ここじゃなんだから、場所を変えよう」
「あ、あの……」
「話は後だ」
九条さんはぐるんと私を回れ右させると、そっと背中を押した。
どんなに嫌なことや辛いことがあっても、甘くて美味しいものを食べれば不思議と気持ちも落ち着く。幸運にも、私はそういう現金な体質だ。
「ほら、君の好きな〝ミラクル抹茶パフェ〟だぞ。初めのプリンのやつよりこっちのほうがうまそうに食べていたからな」
そう言いながら、九条さんがコーヒーを啜ってにこりとする。
浮かない顔のまま、九条さんに連れてこられたのはクレイジースイーツだった。
ファンキーな店の雰囲気と相変わらずのデカ盛りパフェが私の心を癒してくれる。
「ありがとうございます。もう、だいぶ落ち着きました」
席に着いたばかりの時は、まだメニューを開く気にもなれなかった。けれど、九条さんは何も聞かずに、今私の目の前にあるものを注文してくれた。そして、気を遣ってくれる九条さんに申し訳なさが募った私は、正木先輩とのことをぽつりぽつりと話し出した――。
「え、なんだって? じゃあ、君にお願いしたあの男性のお客様は……君の、元恋人だったのか。どうりで君の手を掴んだりしておかしいと思ったんだ」
驚いた顔をして目を丸くしたかと思うと、九条さんは長い睫毛を伏せた。
「知らなかったとはいえ、すまなかった」
「違うんです! 私が……いつまでも弱いからいけないんです。もう、全部終わったことなのに……。まさか再会するなんてものすごい偶然でしたけど、私も驚いてしまって頭の中がぐちゃぐちゃになって……馬鹿ですね」
あはは、と空元気に笑ってみせたけれど、ちゃんと笑えてないのはわかっている。
「君さえよかったら話を聞かせてくれないか? その、プライベートなことだっていうのは重々承知している」
九条さんは真面目な顔でじっと私を見つめてくる。いまさら隠してもしょうがない。だから私は、彼の聞き上手に甘えるように二年前に正木先輩に振られたことや、婚約者と一緒に結婚式の打ち合わせのためにホテルに来ていたことなどをあれこれと全部話してしまった。
「そう……か、浮気ね」
穏やかでない単語を口にしながら、九条さんは顔を曇らせる。
「終わったこととはいえ、同じ男として許せないな。ごめん、蒸し返すつもりじゃないんだ。ただ……」
一瞬目を逸らしたかと思うと、九条さんは私に真摯な眼差しを向けてきた。
「結果的に君を傷つけた。それだけは許せない」
彼は親身になって自分のことのように怒りを露わにしている。こんな過去の失恋話、笑い飛ばしてくれたっていいのに。
「九条さん、私のために怒ってくれるんですか?」
半分冗談のつもりで言ったのに、九条さんは真剣な顔を崩さない。
「ああ、怒ってる。君に辛い思いをさせた自分にね」
「え……」
辛い思い出はもうゴミ箱に捨てたつもりだった。九条さんに同情して欲しかったわけではないし、優しい言葉をかけてもらいたいなんて思ってもいなかった。そんな甲斐性のない元彼との再会のきっかけを作ってしまったと、申し訳なさそうな顔をさせたかったわけでもない。ただ、じっと私の話に耳を傾けてくれるから、つい甘えてしまっただけ。
心配かけてしまうくらいなら、話さなければよかったかな……。
そう思いつつも、九条さんの聞き上手のおかげで先ほどのどんよりとした気持ちが徐々に晴れてきた。
「気を遣わせてしまって……すみませんでした」
すると、九条さんは口元を和らげて笑った。
「上司として、部下を気遣うのは当たり前だ」
上司として……か。
「そう、ですよね」
「え?」
「いえ! なんでもないです」
うっかり心の声を口から漏らしてしまい、怪訝な顔をしている九条さんに慌てて首を振った。
彼の言っていることはもっともだ。けれど、なんだろう。モヤッとしたものが胸に引っかかっているようなこの感じ。
九条さんと私は、ただの上司と部下でそれ以外の何ものでもないんだよね……って、私なにを期待していたんだろう。そんなに優しくされると……勘違いしそうになるよ。
心の中で何かが揺れ動きだしそうになるけれど、「期待してはだめだ」と自分に言い聞かせて蓋をした。
「今日はありがとうございました。連れ出していただいて、すっきりしました」
会計を済ませ外に出ると、近隣のレストランから夕食時のいい匂いが漂ってきた。
時刻は二十時。
今しがたビッグサイズのパフェを食べたばかりだというのに、お腹の虫が鳴りそうになって咄嗟に押さえる。
「まだ腹が減ってるんだろ?」
九条さんが私の顔を覗き込んでニッと笑った。
うぅ、どうして九条さんってこんなに鋭いの?
大食いだなんて思われたら恥ずかしい。けれど、実際私の胃袋にはまだまだ余裕があった。
ちらっと九条さんを上目で見ると、やっぱりなというように微笑んだ。
「そういえば、辛い食べ物も好きって言ってたな。俺の行きつけの店があるんだ。ちょうど夕食時だし、君をそこに連れて行きたい」
「え……?」
「じゃ、そうと決まったら行くぞ」
えーっと、いつの間に決まったんでしょうか?
でも、これって――。
「なんだかデートみたいですね」
「いいんじゃないか、そういうことで」
何気なく言ったつもりだったのに、意外な返事が返ってきて驚いた。そして自分で言っておきながら戸惑う。
――いいんじゃないか、そういうことで。
確かに今、そう聞こえたんだけど、聞き間違いじゃないよね?
先に歩き出す九条さんの背中を追いかけて、私は徐々に高まる胸の鼓動を隠すことができずにいた。
「ここだ」
九条さんに連れてこられたのは、新宿にある高層ビルの最上階に店を構える高級四川料理店だった。エントランスには綺麗な中華風の骨董品が飾られていて、ちらりと店内の様子を窺うと、決して気軽に入れるところではない雰囲気が伝わってくる。
「あの……ここって」
「この店の店長と顔見知りでね。さ、入って」
出迎えてくれた店員さんが席に案内してくれたのはいいけれど、なぜか予約もなしに輝かんばかりの夜景が一望できる窓際の一等席に通された。
「すごい……」
そんな言葉しかでてこないくらい、私は圧倒されてしまった。
雑誌などで紹介されている店で、自分には縁のないところだと思っていたけれど、まさかその店に自分がいるなんて信じられなかった。
店内には上品な中年夫婦が数組いて、みるからにハイソなお客さんばかりだ。
「好きなものを注文するといい。ああ、お勧めは麻婆豆腐かな。俺はここに来るといつも唐辛子多めで頼むんだ」
九条さんは予約なしでもいつでも入店できる顔パス常連客のようだ。
こんな高級そうな店に顔パスで一等席を用意されるなんて、いくらなんでも普通じゃない。
もしかして、九条さんって実はすごい人なんじゃ……。
様々な憶測が頭の中を飛び交う。
彼はメニューを開くことなくウェイトレスに麻婆豆腐を注文した。
「じゃあ、私も唐辛子多めで同じものを」
私も麻婆豆腐は好きだ。それもとびきり辛いやつ。
九条さんと好きなものを共有できる嬉しさに、思わず笑顔になってしまう。
「君はいつもそうやって笑っているほうがいい」
「九条さんといるから笑顔になれるんですよ」
つい本音がぽろっと出てしまい、ハッとなる。けれど、恥ずかしそうにしている私を見て九条さんは嬉しそうに「そうか、ならよかった」と言ってくれた。
それから私は取るに足らない話だと思いつつ、自分の家族のことや学生時代のことなどを話した。
今まで自分の過去の話なんて、友人にもしたことがない。今の私の周りはみんな都 会育ちで、自分だけ田舎者ということに劣等感を感じていたからだ。けれど、九条さんは笑いながらずっと私の他愛のない話に耳を傾けてくれて嬉しくなった。
「すみません、少し喋りすぎましたね」
聞き上手だからといってついつい喋りすぎてしまった。そう思うと恥ずかしくなって俯いた。
「そんなことはない。君のことが知れて嬉しいよ」
意外な言葉が返ってきて、私はパッと顔をあげた。九条さんの優しい笑顔が私の心配を消していく。
「そう言ってもらえるなら、よかったです」
やっぱり、九条さんの笑顔は素敵だな……。
彼の明るい笑顔は私に元気をくれる。九条さんはいつだって輝いていて、それと同じように瞬く東京の夜景を見ていると、正木先輩のことでうじうじしていた自分が馬鹿らしく思えてきた。醜いものに捕らわれていては、こんなにも綺麗な景色や人の優しさも見逃してしまう。
九条さんは、その大切さを私に教えてくれた――。