書籍詳細
蜜恋ルームシェア~御曹司とひとつ屋根の下~
あらすじ
「俺に甘える君を、見せて」
セレブ御曹司×庶民派女子 ワケあり同居で24時間愛されちゃう
アパートの火事で行き場を失った萌笑。人気の大手不動産屋に助けを求めるも、担当窓口の松野下の冷たい対応に不満をぶつけてしまう。実は会社後継者である彼は接客について悩んでおり、なんと萌笑に接客指導を条件にルームシェアを提案してきて……。ひょんなことから始まった利害一致の同居生活で、セレブな彼と庶民派の私の恋物語が動き出す――!!
キャラクター紹介
新城萌笑(しんじょうもえ)
百貨店の紳士服売り場勤務。アパートがもらい火事に遭い、行き場を失ってしまう。
松野下慎太郎(まつのしたしんたろう)
大手不動産屋の御曹司だが、訳があり店舗の窓口業務をしている。感情を表に出すことが苦手。
試し読み
今朝も松野下からのおすそわけ珈琲がサーバーの中にある。
そして配膳台の上には、前日の夜に炊いたご飯で作ったおにぎりが三つある。具は梅干しで、焼き海苔を巻いただけのシンプルなものだ。
すぐ食べることになるから、ご飯は温かいままで作った。焼き海苔から立ち上る磯の香りが萌笑のお腹の虫を刺激してやまない。こんなに食欲をそそるのだから、彼だってお腹の虫が目覚める筈だ。そう願いたい。
一つを松野下の分とし、黄色いたくあんを添えてトレイの上に載せた。
──珈琲とは合わないけれど、おすそわけだから仕方がない、よね……?
キッチンカウンター越しにこっそり覗いて、彼の様子を探る。
彼はいつもと同じようにダイニングに座ってタブレットを弄っていて、とても真剣な横顔に思える。いつもなにを見ているのだろう。
いざおすそわけする段階になると緊張してきた。男性に食べ物をあげるのは、学生時代のバレンタイン以来だ。
近づく萌笑に対して、松野下の反応はない。そばに立ってもタブレットに集中していて顔を上げない。
萌笑は彼のマグカップの近くに、そっとおにぎりのお皿を置いた。
コトッという小さな音に反応し、松野下の肩がピクッと動く。タブレットから目を離してお皿を見て、そのまま固まったように動かなくなった。
今なにを考えているのだろう。この後、ぴしゃりと『いらない』と言い放たれるかもしれない。
萌笑の手が震える。
──おすそわけ作戦は失敗だったかな……?
サプライズ的なことをするのは初めてで慣れていない。やっぱりやめておけばよかったかもしれない。
でも、朝食を食べてほしいという思いだけは強い。皿に手を添えたまま逡巡するけれど、出したものは引っ込められない。
緊張で乾いた唇を舌で湿らせ、おずおずと声をかけた。
「あの……これ……ご飯、たくさん炊きすぎちゃって。あまってたから、おにぎり作ったんです。よかったら食べてほしいなって、思って」
松野下の瞳がお皿を持つ萌笑の指先から腕に移動していき、緊張気味の笑顔でとまる。
表情はいつもと変わらないが、黒い瞳は萌笑を捕らえて離さない。驚きと戸惑いが色濃く宿っている、その澄んだ瞳であまりにもじっと見つめてくるから、萌笑の頬がほんのり赤く染まった。
「君が、俺に? どうして? 朝食はとら──」
「はい、わかってます。でも、あまってるんです。三つ作っちゃったから、食べきれなくて……だから、一つおすそわけなんです。どうぞ、食べてください!」
これはもう勢いで乗り切るしかない。
松野下がなにか言いかけたのをすかさず遮り、強引にお皿を押して彼の方へいっそう近づけ、萌笑はいつもの席に座った。
「いただきます!」
手をパン! と叩いておにぎりにかぶりつく。
丁度いい塩味と海苔の香りが口いっぱいに広がり、本来ならば幸せ感に浸るのだが、今はそれどころではない。
松野下の視線を強く感じて、味などよくわからないのだ。
──ああ、もう。やっぱり余計なことだったかな……。
しょんぼりと肩を落として後悔していると、松野下はタブレットを退けて皿を引き寄せている。食べてくれるのだ。
「ありがとう。いただきます」
松野下は手を合わせて丁寧に言い、おにぎりに手を伸ばして一口かじった。
「ああまったく……こういうの、すごい久しぶりだな」
ぼそりと呟く彼の目はどこか遠くを見ているかのよう。それは以前にもこんなことがあったということで、相手は……彼女?
「こういうの、って? 朝ごはんを食べることですか?」
「違う。このおにぎりだよ。梅干しと焼き海苔の、あったかいおにぎり。こうやって食べない俺に強引に差し出すのも、そうだな」
「ご、ごめんなさい。でも、食べた方が体にいいから……食べることって、生活の基本だと思うんです。だから……食べてほしいなって思ったんです」
おすそわけ作戦はバレバレのようで、失敗している。
気まずく感じてしまい、ごにょごにょと口の中で呟いていると松野下の手がテーブル越しに伸びてきて、萌笑の頭をくしゃりと撫でた。
「は……」
唐突なことで反応できず、おにぎりを落とさないようにするのが精いっぱいだ。
彼の体がちょっと手を伸ばせば触れられそうなところにあり、頭の中が空っぽになる。
「え、なっ……な……」
意味のない言葉しか口に出すことができず、萌笑の頬は真っ赤に染まる。
そんな萌笑を見つめる切れ長の目がふわりと細められ、松野下の表情が柔らかくなった。黒い瞳は宝石のようにきらりと光り、見惚れるほどに綺麗だ。
──こんな目をすることもあるんだ。
「責めてないから謝らないで。ちょっと昔を思い出しただけだ。子どもの頃に母が唯一作ってくれたものが、これだったんだよ」
「え、唯一……? じゃあ、食事は誰が作っているんですか?」
「食事はシェフ。家事はすべて使用人がやっているよ」
実家は広い庭もある大きな邸だから、使用人もたくさんいるという。まるで外国の貴族みたいな暮らしぶりで、萌笑とは住む世界が違っていた。
萌笑の頭から手を離し、椅子に身を沈めた松野下の口から子どもの頃の思い出話がぽつりと零れる。
「俺が幼稚園の年長の頃だったかな。高熱を出して寝込んだときに、作ってくれたんだ。深窓の令嬢でなにもしたことがない母だったから、形も歪で、一口かじったらボロボロと崩れたけど。『これなら食べられるでしょ? おいしい?』って」
そう話す唇の口角が、ほんの少し上がった。昔を懐かしむような優しい表情だ。でもちょっと物哀しげに感じるのは、萌笑の気のせいだろうか。
「高熱でしんどくて食べられないから、普通は消化がよくて食べやすいおかゆを作る だろう? ……的外れだよな。でも、あの心配そうな顔は大人になった今でもよく覚えているよ」
「優しいお母さんですね。なにもしたことがないのに頑張って作ってくれたんだもの。でも、小さな頃のことを覚えてるなんて余程うれしかったんですね」
「まあ、そうだな。今あのおにぎりを食べたくても、もう二度と作ってもらえないからな。印象深い」
「え、それって、どういうことなんですか?」
「それから間もなく病気で亡くなったよ。入退院を繰り返していたから、母との思い出はそれくらいしかない。継母ができたけど、気性の激しい人なんだ。ちょっと気に入らないことがあれば、すぐに怒る。だからずっとなじめなかったな。まあ、今もそうなんだけど」
萌笑の胸に衝撃が走る。
彼は淡々と話したが、幼い頃に最愛の母を亡くした哀しみは相当のものだろう。
幼い頃に母親から受けるべき無償の愛を注がれていないから、彼は表情がない人になってしまったのだろうか。
継母が気性の激しい人ならば、彼はびくびくしながら過ごしていたのかもしれない。
食事も広い部屋でひとりきりでしていたのなら、きっと味気なかっただろう。家族 囲む食卓は楽しくて、好きなものは数倍おいしくなって、嫌いなものは頑張って食べようと思える。その経験が少ないから彼は食べ物に気を遣うことがなくなったのかもしれない。
そんな想像をすれば切なくて、哀しくて、萌笑の胸がズキズキと痛む。
「──っ、新城さん……?」
名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか彼が横に立っていた。眉が僅かに歪み、黒い瞳は少し潤んでいるように見えた。
「どうして君が泣くんだ?」
「え、私、泣いてなんか……っ」
泣いていない筈だった。けれど頬に触れてみると濡れていて、自分でも驚いてしまう。涙を自覚すれば、堰を切ったようにとめどなく溢れてきた。
どうしてとまらないのか。これでは彼が困惑してしまう。きっと迷惑な筈だ。
「ごめんなさいっ。泣いたら、困りますよね。今すぐ」
とめる、と言う言葉は、スッと屈んだ彼の指が頬に触れたことにより吐息に変わった。
驚いて、涙に濡れた目でじっと見つめてしまう。松野下の目は潤んでいるけれども真剣さを帯びている。とても綺麗な瞳だ。
見つめ合っていることに気づいて恥ずかしくなり、ふと目を伏せると、頬に触れている指が涙をそっと拭った。
「ごめんな」
「え……?」
何故彼が謝っているのか。深く考える間もなく両頬を手のひらで包まれて、彼の唇が萌笑のそれを覆っていた。その柔らかな感触に驚いて僅かに口を開けると、あたたかいものが滑り込んできた。
「んっ……」
どうしてキスをされているのかわからない。
戸惑う萌笑の舌が絡め取られ、優しくも激しいキスに息がうまくできない。苦しさにあえいで彼の腕をぎゅっと握ると、僅かに離れた唇がささやいた。
「初心だな。鼻で息をすればいい」
「そんなっ」
反論しようとすれば、すかさず唇が塞がれる。離れたかと思えばついばむように顔中に唇が落とされる。
一日の始まりの朝。本来ならば爽やかな空気に包まれている筈の時間に、松野下の出すリップ音がダイニングに響く。
髪を指先で梳かれて甘やかな心地がし、溺れてはいけないと思うのにうっとりしてしまう。
彼の行為はどこまでも優しく感じられて、いつものクールな印象とは相反することに萌笑は戸惑いを覚えていた。
それでもいつしか意識は彼に染められてしまい、気づけば彼の行為に拙いながらも応えていた。
間もなく唇からぬくもりが消え、絡められていた舌に繋がった糸が名残惜しげに切れる。
拘束が解かれた萌笑は、ぼんやりと彼の顔を見つめた。激しくも優しいキスの後でも、端正な顔はいつもと変わらない。
──平気、なの?
「君の涙は甘いな……それに、男に泣き顔を見せちゃダメだ。今のその顔も」
「え……今の、私の、顔?」
「そう。もっとその顔が見たくなって、更にいじめたくなる。だけど、もうタイムリミットだな」
松野下は涼しい顔でとんでもないことを言い残し、自分の皿とマグカップを持ってスタスタと去っていく。
そんな彼の行動に驚く萌笑だけれど、それよりももっと衝撃を受ける現実があった。
「タイムリミットって……! やだ、大変! 遅刻しちゃう!」
涙も、甘いキスの余韻も、松野下の言葉も、一気に吹き飛んでしまった。
時間が迫っている中で残りのおにぎりを水と一緒に胃の中に流し込み、冷めきった珈琲を一気に飲み干した。