書籍詳細
溺甘クルーズ~御曹司は身代わり婚約者に夢中です~
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あらすじ
「俺に抱かれて、後悔している?」 海運王と世界一周!?
豪華客船から始まるロマンティックラブ
念願だった豪華客船の世界一周旅行に参加した千花子。ある事情から客船のオーナー一族の御曹司・聖人のスイートで世話になることに。完璧なエスコートに楽しい観光、ダンスやマナーの手ほどきなど、何かと気遣ってくれる聖人からの「婚約者の振りをして欲しい」というお願いを断れない。でも彼を知るほど好きになってしまい…。期間限定の恋の行方は!?
キャラクター紹介
成瀬千花子(なるせちかこ)
仕事を辞め、豪華客船に乗り込んだ元OL。素直で頑張り屋
聖人・ステファノス(まさと)
ステファノス海運のCFO(最高財務責任者)。イケメンだがちょっと強引。
試し読み
「そう、いいよ。一、二、三、一、二、三、右足を前に、左足を出して、右足を揃えて……そうだ」
私はリビングの広いスペースで、聖人(まさ と)さんに社交ダンスを教わっていた。室内には四分の三拍子の優雅なワルツが流れている。
レッスンは今日で三日目だ。
私の右手は聖人さんの左手にしっかり繋(つな)がれている。彼の右腕が私の背をホールドしたときは、これ以上ないほど心臓が暴れた。私の左腕は、聖人さんの右腕に添えている。しなやかな筋肉が布越しにも感じられ、どぎまぎしてしまう。
しかし、忙しい時間を割いてのダンスレッスン。
限られた時間で、みっちり頭と体に覚えさせなければと、胸の高鳴りを抑えて聖人さんの言葉に耳を傾(かたむ)けた。
休憩を入れながら何度も同じところを教わり、今はぎくしゃく感が少し抜けてきたように思える。
最初の頃の私は、我ながらひどかった。まるで操り人形のようにカクカクした動きで足を運び、しまいには聖人さんが爆笑するという結果に。
笑いを堪(こら)えてくれていたのに、ごめんなさい。
社交ダンスのセンスがまったくない私だった。
聖人さんは忍耐強く、何度間違っても嫌な顔は見せない。
人間ができているんだな……。
聖人さんに近づけば近づくほど、彼のことを知り、尊敬の念を覚える。
クルッとターンさせられたところで、バランスを崩してぐらつく。
「あ! ごめんなさい!」
レッスン中に考え事をしたせいで、私は聖人さんの革靴を踏んでしまった。
「疲れたんだろう。今日はここまで。動きの硬さが取れてきたから、回数を重ねれば不自然にならないくらい上達する」
「ありがとうございました」
私は聖人さんから離れて、頭を深く下げた。
聖人さんはテーブルの上に置いたスマートフォンを手にし、そこから流れるワルツの曲を止める。
「飲み物を入れますね。何がいいですか?」
時刻は十五時を回ったところ。聖人さんの仕事は手伝えないけれど、食事や飲み物の手配をしたり、ちょっとした雑用をこなしたりしている。食事はルームサービスを頼むことが多いけど、少しでも聖人さんの負担を減らせればと思って。
「アイスティーがいいな。ガムシロはいらない。レモンを頼む」
「了解です!」
バーカウンターへ向かい、冷蔵庫の中からアイスティーのピッチャーを取り出して、たっぷり入る大きめのグラスに注ぐ。
レモンのスライスとミントの葉を飾ったグラスをふたつトレイの上に載せ、ソファに座る聖人さんのもとへ行く。
「どうぞ」
彼の前にそっと置き、私も対面のソファに座って渇いた喉を潤(うるお)す。
「明後日、船長主催のパーティーがある。食事のあとにダンスも予定されているから、試しに踊って成果をみよう」
「ええっ!? 明後日なんて早すぎます。さっきも、聖人さんの足を踏んでしまったし……」
アイスティーのグラスを手に持ったまま仰天する私に、聖人さんは首を左右に振る。
「場慣れしておいたほうがいい。この三日間でだいぶ上達しているし。足の動きは覚えたようだから、あとは滑らかに踊れるように練習をしよう」
確かに今から慣れておかないと、聖人さんの偽の婚約者として役に立たない。
「わかりました! 聖人さんからいただいたドレスを着ますね」
聖人さんと知り合った初日、彼にプレゼントされたサーモンピンクのドレスが思い浮かぶ。優雅なあのドレスを着れば、見た目だけでも聖人さんのパートナーとして恥ずかしくないはず。
「では、夕食まで仕事をすることにしよう」
聖人さんはアイスティーのグラスを手にして立ち上がると、執務デスクへ向かう。
私も同じようにグラスを持って、自分の部屋へ戻った。
翌日は朝から天気が悪く、海も荒れていた。現在ベンガル湾沖を航海中である。
大きく船体が揺れるたびに胃液がせり上がってきて、朝食のパンを口に運んでいた手が止まる。
「どうした? 食欲がない?」
私の様子に聖人さんが気づいて、状態を確認する医者のような目を向けた。
「今日は揺れがすごいですね。ちょっと気分が悪くて……」
偽の婚約者役を始めてから、私たちは本当につき合っているみたいに、三食一緒にとっている。
「無理に食べなくていい。酔い止めの薬は?」
トーストを半分と、ベーコンエッグは食べ終えている。
「飲んでいないです」
「用意させよう。ベッドに横になっているんだ」
「はい」
私は聖人さんに甘えることにしてベッドに戻った。
ふらっと転がるようにベッドの上に横になると、早く天候が回復しますようにと祈りながら目を閉じる。
船酔いは二回目だ。このツアーが終わる頃には、こんなひどい揺れも平気になるのだろうか。
少ししてドアがノックされたあと、トレイを手にした聖人さんが入室する。
彼はベッドの端に腰を下ろし、サイドテーブルにトレイを置く。そこには水のペットボトルと酔い止めの薬、氷などが載っていた。
「千花(ち か)、薬を飲んで」
のそっと体を起こして、差し出された酔い止めの薬を受け取る。聖人さんがキャップを開けてくれたペットボトルの水で、薬を流し込む。
「横になっていいよ。氷を口の中に入れておくと意外と効き目がある。それと炭酸水、水も置いておく。今は眠るといい。昼食は俺のほうで頼んでおく」
「すみません。ありがとうございます」
聖人さんはほほ笑み、私の髪にそっと触れて部屋を出て行った。
お昼近くになると、雨がやみ日ざしが出てきた。それと共に揺れが収まり、私の気分の悪さもだいぶ落ち着いた。
ベッドから起きてリビングへ行くと、執務デスクで仕事をしていた聖人さんが顔を上げ、私に視線を向けた。
「大丈夫か?」
「はい。もう治りました」
私はにっこり笑って、聖人さんに近づく。
「それならよかった。ランチはスタッフと相談して冷やし中華にしたが、食べられそうか?」
「もちろんです。お腹ペコペコ。冷やし中華も大好きです」
「じゃあ運んでもらおう」
聖人さんはスマートフォンをポケットから出して、担当スタッフにメールをした。
聖人さんは忙しい合間を縫ってダンスのレッスンをしてくれ、ついに船長主催のパーティー当日になった。開始は十八時から。
サーモンピンクのドレスに着替えた私は、部屋の中でクルッと回った。アンクル丈の裾がひらりと舞う。その感覚が楽しくて何度も回ってみる。
満足したところで動きを止め、苦笑いを浮かべた。
「なんだか子どもみたい。でも、こんなドレスを着るのは初めてだし。似合ってるといいな……人前に出るのが恥ずかしいけど」
鏡を覗(のぞ)き込むと、そこには不安そうに眉を下げた私がいた。
冨永(とみなが)さんがいない今、偽物とはいえ私が聖人さんの婚約者だ。彼に恥を搔(か)かせるわけにはいかない。
私は鏡の中の自分に向かって、無理やり笑顔を浮かべた。
よし、頑張ろう。
気持ちが少し落ち着いて、ようやくドレスの素晴らしさに目がいく。
ドレスの身ごろはレースとビジューで刺繍され、絞られたウエストから足に向かって上品に広がっていく。持ってきたシルバーのパンプスが、思いのほかドレスに似合っていた。
パーティーバッグを持って、深呼吸を一つした。
聖人さんにドレスアップした姿を見せると思うと、胸がドキドキしてくる。心臓の高鳴りを気にしないようにして部屋を出た。
ソファに座っていた聖人さんは、私が姿を現すと組んでいた足を戻して立ち上がった。
聖人さんは黒のタキシードを身にまとい、その立ち姿は自信にあふれている。堂々たる姿に、私は息を呑(の)む。
「あの、お待たせしてすみません」
あまりにも素敵(す てき)で見惚(み と)れてしまう。視線をどこへ向けたらよいのかわからず、目が泳いでしまう。
「先日のドレスだな。千花、綺麗(き れい)だよ」
「あ、ありがとうございます」
ストレートに褒(ほ)められて動揺するけど、これは社交辞令だろう。私は真に受けないよう、にっこり笑ってみせる。
「馬子(ま ご)にも衣装ですよね」
「いや、そうじゃない。そのドレスは千花のために作られたようによく似合っている」
聖人さんの口から、またもや私を喜ばす言葉がすんなり出てきて、嬉(うれ)しさに胸がいっぱいになる。
綺麗だなんて言ってもらえたのは、生まれて初めてだった。
聖人さんの腕に手を置いて、八デッキにあるメインレストランへ入るのは心強い。メインレストランへはほとんど足を運んでいないから、ここへ来るとギリシャの神殿のような内装に圧倒される。
前回は場に慣れてもいなかったから、緊張感で心臓が口から飛び出てきそうだった。今も心臓がドクドク暴れているけれど、それは隣にいる聖人さんのせいで、メインレストランへ入ること自体はなんともないようだった。
眩(まぶ)しいくらいの白い制服に身を包んだ柏田(かしわだ)船長は、メインレストランの入り口に立ってゲストを出迎えていた。柏田船長は聖人さんと挨拶(あいさつ)を交わしたのち私に目を向け穏やかな笑みを浮かべた。
「成瀬さま、お元気になられたようで安心しました」
「その節はお世話になりました。ケーキもありがとうございました。とても可愛かったです」
「今宵は楽しんでいただけると幸いです」
私も小さく笑みを浮かべて頭を下げると、聖人さんの手が腰に回り、指定されたキャプテンズテーブルにエスコートされる。
ダンスレッスンで触れられているおかげか、腰に手を置かれてもなんとか平常心を保ちながら歩けた。
八人掛けのテーブル席のイスをスタッフが引こうとしたところ、聖人さんは軽く手を挙げて止める。そして、私のために自らイスを引いて座らせてくれた。
スマートなエスコートに、私は本当に彼の特別な人になったかのような錯覚を覚える。
だけど、違う。勘違いしてはダメ。聖人さんは、パートナーとしての役割を全うしているだけなんだから。
そう自分に言い聞かせる。