書籍詳細
年の差溺愛~クールなはずのCEOが放してくれません~
あらすじ
「きみを特別、甘やかしたい」
クールなCEOからの本気のプロポーズ
念願の保育士になることが出来たわかなは、運命的な偶然で由緒あるホテルのCEO・伊波荘介と知り合う。大人で紳士、社会的地位もある完璧な伊波に気おくれしてしまうが、何故か彼はわかなをとろとろに甘やかし特別扱い。更に「俺は本気だ」と情熱的な告白まで──! だが、幸せの絶頂の初デートの日、伊波と父の過去の因縁を知ってしまい……!?
キャラクター紹介
藤村わかな(ふじむら わかな)
つりあわないと悩みつつ伊波に惹かれていく。優しく周りを気遣う。
伊波荘介(いなみ しょうすけ)
仕事もわかなへの溺愛も完璧なCEO。わかなの幸せだけが望み。
試し読み
仕事に集中しなければと、わたしは立ち上がる。と、目の前が暗転しそうになって、とっさにパーテーションに摑まった。危うく、倒れ込むところだった。
――大丈夫、誰にも気づかれていない。
幸い、保育士たちは全員わたしに背を向けていた。これならまだやり過ごせると、気合いを入れて姿勢を立て直したときだった。まるでロウソクの火がふっと消えるみたいに、完全に目の前が暗くなる。
(あ、)
いけない。全身が痺れて、膝が折れる。今度こそ倒れる、と覚悟したときだ。
強い力で、腰を抱かれる。同時に、体の傾きが止まる。視界に光が戻ると、間近にあったのは伊波さんの顔だった。
「大丈夫か」
心配そうにこちらを覗き込む彼の向こうには、パーテーションがある。ほかに人が駆けつけてくることもなく、どうやらわたしはうまく物陰に倒れ込んだらしかった。
ううん。もしかしたら、伊波さんが倒れ込むわたしをとっさに人目から隠してくれたのかもしれない。彼はわたしの首すじに触れ「熱があるのか」と眉をひそめる。
「休んだほうがいい。救護室を貸そう」
「いえ。大丈夫です。薬は、飲んだので……もうすぐ、効くはずなので」
「無理をするな。倒れては元も子もない」
「大丈夫です。どうしても、今日はやり遂げたいんです」
園児たちの頑張りを、本当は明日この目で見守りたかった。それは諦めるから、今日だけは。小声で懸命に訴えるわたしに「やめておきなさい」と伊波さんは譲らない。
「体調が悪いときくらい、己を優先しろ。根性論では話にならない」
横抱きにされそうになったから、ジャケットの襟を摑んでかぶりを振った。己を優先? できるはずがない。
「話にならない、なんて、言わないでください……」
思い出すのは、父と母がそれぞれ再婚したばかりの頃のこと。
わたしは父にも母にも嘘をついていた。父には「母のところへ行く」と言い、母には「父のところへ行く」と言い、図書館に入り浸っていた。父の再婚も母の再婚も後押ししたくて、今度こそしあわせになってほしくて、誰にも遠慮してほしくなくて、自分にできることならなんだってしてあげたかった。
大好きなお父さんと、お母さんだから。
「……見ているだけ、の立場にも、踏ん張らなきゃならないときはあるんです。何があったって、絶対に譲れないものもあるんです……っ」
すると伊波さんは真顔になって、軽く目を伏せる。ふうっと短く息を吐き、気持ちを鎮めるようにする。そして言った。
「わかった。ならば、作業が終わるまでは手を出さない」
「……伊波さん」
「だが、何かのときは必ず俺を頼れ。いいな」
わたしがうなずくと納得した様子で、伊波さんはホールを出て行った。
そこへ入れちがいのように、コンシェルジュの倉本さんがやってきて晴翔先生を呼ぶ。なにやら手渡していると思ったら、ホテル特製の焼菓子だった。差し入れらしい。
作業が終わったのは一時間後だ。その頃、薬のおかげか一時的に熱が下がっていたわたしはばあば先生に風邪をひいていることを打ち明け、明日の欠勤を決めた。
「お疲れさまー! わかな先生、ちゃんとタクシーで帰るんだぞ」
「今日はありがとう。明日のことは気にしないで、しっかり休むのよ」
「ありがとうございます」
みんなとは、ロビーで別れた。フロントでタクシーを呼んでもらうまえに、伊波さんに作業が無事終わったことを報告しようと思っていた。
すると、タイミング良く伊波さんがやってくる。
「よく頑張ったな」
呆れ顔で讃えられ、全身にどっと怠さがこみ上げた。ほっとしたのかもしれない。もう大丈夫だと、根拠なく思っているわたしがいた。
「歩けるか。上に部屋を融通しておいたから、おいで」
「……えっ」
「作業が終わるまでは手を出さない、と言っておいたはずだよ。終わったんだから、すこしは俺の言うことを聞くこと。いいね?」
遠慮しなければと思ったけれど、もう、足に力が入らなかった。タクシーを呼んでもらったところで、アパートの外階段を上(のぼ)れる気がしない。
覚悟を決めて彼の手を取ると、案の定、エレベーターに乗り込んだ途端に膝が折れて、またもや伊波さんに支えられた。
部屋までの十数メートル、たくましい腕に抱えられる感覚は大型の船に揺られているかのようで、絶対的な安心感に溺れそうだった。
「何か食べるか」
「……いえ、眠い……」
「ならば、欲しいものがあるときには、俺に直接連絡すること。すぐに駆けつけるから、今は何も考えず、安心して休みなさい」
部屋へ行くと、伊波さんはわたしをベッドに寝かせてくれた。丁寧に靴を脱がせ、掛け布団も掛けてくれる。
枕の上には氷まくら、ベッドサイドにはペットボトルの水と風邪薬が用意されていて、室温も暗さもちょうどいい。目を閉じると骨ばった優しい手が額に触れ、髪をすき、頬をすっと撫でた。ほんのり冷たい指先が、なにより心地よかった。
*
客室のベッドで眠るわかなを見下ろし、荘介はふうっとため息をつく。目を閉じたわかなの顔には抜け殻になった栄五郎の面影がかすかにあって、呼吸が止まってはいないか、確認せずにはいられない。
すると暗がりの中で、なだらかな頬に小さな三角形を見つけた。よくよく覗き込むと、紙の切れ端だ。懸命にハサミを動かして掲示物を作ったのだろう。
想像すると、くっと笑いが漏れた。
「……とんでもない根性の持ち主に育ったな」
もし荘介が同じ立場ならば、本番に向けて体力を温存する。そこまでの努力は、すべて当日のためにあったのだから。
それなのにわかなは前日に体力を出しきって、当日離脱するほうを選んだ。荘介は保育士の仕事について多くを知らないから推測でしかないが、場を整えるばかりで達成感に手を伸ばさない姿勢は、頑なに舞台袖を出ない彼女らしかった。
――どうしたら、主役になってくれるのだろう。
おこがましいと知りつつも、荘介は考える。
わかなは見ているだけでしあわせで満足していると言っていたが、それはしあわせを手にする経験に乏しいから言えることだと思わざるをえない。
なぜなら、変わっていないのだ。
今のわかなと、六年前のわかなは。
わかなは当時中学三年生で、初めて目にしたとき、市立図書館にいた。高校進学のための資料が置かれたコーナーで、本や雑誌を抜き出してはパラパラとめくって、もとの棚に戻すさまは、なぜだかひどく傷ついているふうだった。
結局わかなは、別の本を持って貸し出しの列に並んだ。が、ほどなくして、彼女の数人あとに並んでいた幼児が泣き出した。二、三歳くらいの子供だった。
そっくり返ってごねる子供を、母親らしき女性が懸命になだめていたのを荘介は覚えている。子供は癇癪(かんしゃく)をひどくするばかりで、静まり返った図書館内でひどく目立った。いっそ声をかけて、一緒にあやそうかと荘介が思ったほど。
すると、わかなが振り返ってその子を呼んだのだ。
『大丈夫? 人がいっぱいいて、疲れちゃったかな。よかったらここ、どうぞ』
同じ列に並んでいた者たちは面白くなさそうな顔をしたが、すぐに機嫌を直した。
というのも、子供に順番を譲ったぶん、わかなが一番後ろに並び直したからだ。
背すじを伸ばして、あたりまえのように堂々と。
衝撃だった。
彼女には、周囲がきちんと見えている。目の前の困難だけでなく、周囲が何を思うのかを考えて動いている。その行動は、ホテル『シャーロック』の困難にあたり、たったひとりで両親を説得しようとした荘介よりずっと大人だった。
すぐに栄五郎に報告しに行けばよかったのだが、荘介はそれからわかなの生い立ちを調べた。あんなふうにふるまえるのはなぜなのか、興味が湧いた。
明らかになったのは、驚愕の事実だ。
彼女の父親は失職したのちに起業し、妻と離婚していた。その後しばらくわかなは両親の間を行き来して、暮らしていたようだ。さらに最近、両親がそれぞれに再婚したばかりだということもわかった。
――自分に余裕がないのに、あんなふうに他人を思いやれるものなのか。
いや、笑顔で己の場所を他人に譲って、平然としていた彼女の態度はまるで、諦めと同じではないか。そういえば、彼女は図書館で高校の資料を見ていた。たしか全寮制の高校に関するものだったが、結局借りずに帰ったということは。
(まさか彼女は、己の居場所をつくることさえ諦めつつあるんじゃないか?)
察した途端、危機感を覚えて、荘介は栄五郎のもとへ急いだ。
間に合わなかったが。
栄五郎は荘介の到着を待たずして亡くなっていたのだから。
本当に彼女を助けたいと思うなら、最初から栄五郎の名など騙らず、名乗りでて正々堂々と世話を焼くべきだったのかもしれない。
そうすれば、今頃、もっと頼りにしてもらえていたかもしれない。
「……ん……」
すると、短くうなされながらわかなが寝返りを打った。額には、前髪が束になって張りついている。汗びっしょりだ。このままではいけない。
そう思ってパジャマを用意した荘介だったが、わかなに向かって伸ばした手は空中で止まった。カットソーの襟ぐりから、かすかに胸の膨らみが覗いていたからだ。
ぎくりとして、まずいものと目が合った気分になる。
(……いや、彼女はまだ『女』じゃない。子供だ)
わかなは社会に出て間もない。二十一になったばかりで、同じ年齢のとき、荘介はまだ学生だった。
それに、いい大人が貸切のクルーザーで早食いしましょうなどと、色気のないことを言うはずがない。あの状況で愉快そうに料理をかき込めるのは、お子様だからに決まっている。
だがその無邪気さに、荘介はあの瞬間、救われていた。
まさか、笑ってくれるとは思わなかった。荘介の都合で誘い、荘介の都合で引き返す羽目になったのだから、なじられて当然と思っていた。よもや料理まで残らず平らげて、ビストロのマスターの仕事まで無駄にせずにいてくれるとは――。
すこし考えたあと、浴室からタオルを持ってきて、そうっとわかなの額を拭う。
放っておけば、彼女が透明になってすうっと消えてしまいそうな危機感が荘介を動かしていた。なまめかしいまでの肌の温かさには、気づいていないふりをしてやりすごした。
すこし経って、部屋を出た。
重役室に戻り、気持ちを切り替えるためにパソコンを開いたが、何をする気も起きなかった。だが、こんなふうに乱れた気持ちで、わかなのもとへ戻るわけにはいかない。コーヒーの一杯でも飲もうと休憩室へ行くと、倉本日向がやってくる。
「伊波CEO、お疲れさまです」
「きみこそ、お疲れ。夜勤か?」
はい、とうなずいた日向は荘介に一歩近づく。
「あの、わたしが代わりましょうか」
「代わる? 何をだ」
「桜の園保育園の藤村さん、体調を崩して一泊なさっているんですよね。看病なら、私が代わります。女同士のほうが、何かといいでしょうから」
「いや、いい。私が融通した客だ。私が責任を持って面倒をみる」
これで納得させられたと荘介は思ったのだが、日向は釈然としない顔で言う。
「……伊波CEO、やけに藤村さんを気にかけていらっしゃいませんか」
「どういう意味だ」
「先日も、夜中に藤村さんがホテルの前を通りかかったら、飛び出して行かれましたよね。どうしてですか。どうしてそんなに藤村さんを気にかけていらっしゃるんですか。特別な理由でも、あるんですか」
勘繰られて困る関係ではない。わかなは荘介にとって友人の血縁者であり、手助けしてやらねばならない相手だ。それだけだ。が、必死になって釈明しなければならない理由は、それこそない。
「きみの仕事は顧客対応だ。私が個人的に融通した部屋のことで、手を煩わせてもらう必要はないと言っている」
やや強い口調で言うと、日向は流石にまずいことを言ったと自覚したのか、一礼して去っていった。
荘介はアイスベンダーで氷を調達し、わかなのいる客室へ戻る。
すっかり気持ちを入れ替えたつもりだった。
しかし、薄暗い部屋にやすらかな寝息が聞こえた途端、くらりとした。無人の客室にはない、甘くもったりとした空気感。熟しきれていないからこそみずみずしく、活力に満ちた若々しい香り――無条件で、手を差し伸べたくなる。
(もし、別の出会い方をしていたとして……)
栄五郎という媒介がなかったとしても、これほど懸命になっていただろうか。わかなを主役にしようと、その手にしあわせを摑んでもらいたいと、こんなに強く願っていただろうか。
いっとき目を伏せると、譲れないものもあると訴える強い瞳が蘇ってきて、六年前の少女の姿を覆い隠すように重なった。
暗がりから襲ってくる幻惑的な雰囲気の中、荘介はすっと視線を上げて、ライトアップされた港の風景にカーテンを引いた。