書籍詳細
溺愛も契約のうちに入りますか?~副社長の甘やかな豹変~
あらすじ
「契約結婚だと思って、油断するなよ?」
訳あり夫婦の、ドキドキ新居生活は……
ドッグランで知り合った、爽やかイケメンの響に淡い恋心を募らせていた千鶴。ある日、兄からの「実家の温泉旅館が買収されるかもしれない」との電話で、慌てて地元での話し合いに参加することに。そこで千鶴が目にしたのは、副社長として冷徹な対応をする響だった。その変貌ぶりに戸惑う千鶴に、響が実家を救うための契約結婚を持ちかけてきて……!?
キャラクター紹介
松雪千鶴(まつゆき ちづる)
近江桜温泉街の旅館の娘。上京して祖父母の家で愛犬とともに暮らしている。
西園寺 響(さいおんじ ひびき)
大手リゾートホテルを経営するグラツィオーゾグループの副社長。仕事では冷徹な反面、愛犬家。
試し読み
「西園寺様、お待ちしておりました」
一方、西園寺さんは出迎えてくれたコンシェルジュたちに「頼んでおいたものは?」と慣れた様子で確認していて、改めて私とは住む世界が違うのだと感じた。
「すべてご用意いたしております」
「では、妻を頼む」
「はい。奥様、どうぞこちらへ」
私のことをしっかりと〝妻〟という言葉で紹介をした彼に瞠目しながらも、私を誘導しようとする女性スタッフに戸惑いを隠せない。
「え? え、あの、さ……響さん?」
困惑しきりの私は、つい西園寺さんのことを名字で呼んでしまいそうになったけれど、ハッとして咄嗟に言い直せば、彼はどこか満足そうに瞳と口元を緩めた。
「失礼、妻は少々恥ずかしがり屋なんだ」
その声が楽しげに聞こえたのは、たぶん気のせいではなかった。
「ほら、千鶴。なにも取って食われたりはしないから、行っておいで」
だけど、甘やかな笑みを向けながら私の腰に手を添えて耳元で話す西園寺さんに、心も思考も一瞬で奪われてしまう。
未だかつて、彼にこんなにも甘い笑顔を向けられたことはない。
まるで、愛を唱えるかのような声音で初めて呼び捨てにされた名前も、優しい口調で紡がれた言葉も、演技だということはわかっているはずなのに……。
いつもは精悍な西園寺さんの顔つきがとても柔らかくて、こんな表情もできるのだと驚き、そして戸惑い、それによって混乱に包まれた心は甘い旋律を奏で始める。
私たちの関係は契約上のものだということを忘れてしまったかのように、私の瞳と心は彼に捕らわれていた。
そんな私たちを見ていたコンシェルジュたちが顔を赤らめていたことに気づいたのは、それから少し時間が経った頃のことだった。
「よくお似合いですよ」
あれよあれよという間にVIP専用ルームに通され、ドレスに着替えて女性スタッフにメイクを施されたあと、彼女は開口一番にこやかにそう言った。
それがお世辞であることも、分不相応なものを身に纏っていることも自覚しているつもりだけれど、心は自然とときめいてしまう。
ペールピンクのドレスは、上半身は立体的なフラワーレースに包まれ、ウエストでフレア素材に切り替わっている。靴にもレースがデザインされていて、華奢なアンクルベルトと踵部分のリボンが、ドレスの可愛さをより引き立てている。
「奥様は、とても愛されていらっしゃいますね」
「え?」
「ドレスも靴も、西園寺様が日中にお越しになられて選ばれたんです。あまりにも熱心に見ておられたので、奥様にお会いできるのが楽しみだったのですが、こんなに可愛らしい方でしたら西園寺様が優しいお顔をされるのもわかります」
なにも返せずにいると、私が照れているのだと解釈したらしい女性スタッフは、ふふっと楽しげに笑った。
「西園寺様、奥様のご準備ができました」
再び違う部屋に連れていかれると、カウチソファーで寛いでいた西園寺さんが満足げに微笑み、立ち上がって歩いてきた。
「よく似合っている。とても綺麗だ」
優しい面持ちで自然に褒め言葉を紡いだ彼は、スタッフに「少し外してくれ」と告げると、部屋にはふたりきりになった。
「あ、あの……私、こんなドレス……」
「可愛い妻を着飾るのは、夫の役目だよ」
私の胸中を察するような柔和な笑顔で背後に立った西園寺さんが、そっと耳元に顔を寄せてきた。あまりに近いその距離に鼓動は大きく跳ね上がり、彼の香りや呼吸を肌で感じて、息が止まってしまいそう。
身を硬くしていると、首元にひんやりとした感触が触れた。
鏡越しに映る私の鎖骨辺りには、パールのネックレスが輝いていた。胸元についたいくつかのパールの周りにはガラスのようなものが散らされていて、ラメを載せられたばかりの鎖骨をいっそう輝かせている。
「ああ、これもよく似合っている。千鶴は、肌が綺麗だから淡い色がよく映える」
鼓膜をくすぐる声は柔らかいのに、胸が苦しいくらいに締めつけられる。
言葉もなく戸惑い、鏡の中にいる自分自身と西園寺さんを見つめていると、鏡越しに目が合った彼の瞳は嬉しそうに弧を描いていた。
「もう少しここで君を独占していたいが、ディナーの予約に遅れてしまうな」
「……っ」
当たり前のように与えられる甘い台詞は、きっと世間に向けた演技。そう思っているのに、反射的に声にならない声が漏れ、単純な胸はキュンキュンと叫んでいる。
戸惑いは大きくなるばかりで素直に喜べず、こんなにも素敵な人に釣り合わないと感じているはずなのに……。西園寺さんに誘導されて彼の腕に手を絡ませる私の姿は、恋人や妻にしか見えないような錯覚に陥っていた。
再び黒川さんが運転する車に促され、着いた先はお城のような外観の建物の前。
これがフレンチレストランだと聞かされたときは信じられなかったけれど、中に入ると白い支柱と大理石の豪華な階段が広がっていて、そこを下りた先にあるフロアで最初に目に入ってきた大きなシャンデリアに思わず足が止まった。
ラグジュアリーな空間を前に、自分のキャパシティをすっかり超え、つい不安げな顔で西園寺さんを見上げていた。
すると、彼は「そんなに緊張しなくてもいい」と優しく破顔した。
西園寺さんはきっと、私をリラックスさせてくれるつもりだったのだろうけれど、笑顔なんて向けられたらまたドキドキしてしまう。
黒で統一されたテーブルに着く頃には緊張感がピークになり、食前酒の味はちっともわからなかった。
アミューズのムースにはキャビア、前菜のカブのスープにはトリュフが使われていておいしいとは感じたものの、飲み込むだけで精一杯だった。
そんな中、困ったように微笑んだ西園寺さんが選んでくれたワインはフルーティーで飲みやすく、おかげでアルコールの力が少しずつ働いてくれ、メインの仔羊のローストに手をつける頃にはようやく緊張が和らぎ始めた。
エルモたちの話題を振ってくれる彼も、私の心と体を包む緊張を解そうとしてくれているのがわかって、徐々に笑みが零れ始める。
ただ、西園寺さんがこんなことをしてくれる理由がわからなくて、その疑問を解きたくなって不意に手を止めた。
「あの……どうして、こんな素敵なところに連れてきてくださったんですか?」
ドレスも、このレストランも、おいしいディナーも。私には分不相応だと自覚しているけれど、夢のような時間に心はずっとふわふわと空を浮かんでいるようだった。
反面、彼の意図が見えなくて、戸惑いも消えない。
「別に、深い意味はないよ」
西園寺さんはすぐに答えてくれたものの、その答えが腑に落ちなかった。
深い意味もなくこんなことができるのは、やっぱり彼とは住む世界が違うからなのだろうか。そう考えてしまったせいで、複雑な気持ちになる。
「失礼いたします。デセールになります」
心が暗くなりそうだったとき、ウェイターがワゴンを運んできた。
そこには、宝石のようにキラキラとした数種類のスイーツが載っていて、思わず目を奪われた私の口からは「わぁ……」と感嘆の声とともに笑みが漏れた。
直後、西園寺さんがクスリと笑った。
ハッとして顔を上げた私に向けられていたのは、甘さを孕んだ穏やかな笑顔。
「深い意味はない、と言ったが……君の笑顔が見たかったというのが本心だ」
カァッと一気に熱を感じた頰は、今にも沸騰してしまいそう。
甘い言葉は演技だ。そう自分自身に言い聞かせようと思うのに、私を見つめる彼の表情からは噓だとは思えなくて、鼓動はどんどん速くなる。
当たり前のように〝妻〟として扱ってもらえることに心は浮かれ、忘れていたはずの淡い恋心が再び芽吹こうとしていることに気づいてしまった。
こんなにも不毛な恋はない。
最初から契約上の関係だとわかり切っている相手への恋心が実ると思えるほど、夢を見る勇気はない。
それなのに、ずっと優しい微笑みを携えている西園寺さんに心を奪われたままの私は、淡いはずの想いが彼に向けて加速していくことを止められる気がしなかった。
帰宅後、お風呂に入っていつものルームウェアを身に纏った鏡の中の自分自身を見て、魔法が解けたような気持ちになった。
ドレスやジュエリーで美しく着飾られていた私は、ごく普通のどこにでもいる 二十六歳の女性に戻っていて、浮足立っていた心も落ち着きを取り戻していた。
もっとも、自覚した恋情は胸の内に残ったままだけれど……。それでもこのまま普通に過ごしていれば、また忘れてしまえるのではないかとすら思う。
安堵したような、どこか寂しいような……。そんな曖昧な気持ちを抱えてリビングに行くと、西園寺さんがグラスを呷っているところだった。
どうやら飲み直していたらしい彼の傍らには、高級そうなウイスキーの瓶がある。
「あの、西園寺さん……。今日は、本当にありがとうございました」
読めないラベルを横目にそう切り出せば、西園寺さんが眉を寄せた。
お店の中でも、帰りの車中でもお礼を伝えたけれど、改めて言っておきたいと思った私に対して、彼の瞳には不満の色が浮かんでいる。
ただ、その理由がまったくわからなくて、私を捕らえる視線から逃げたくなった。
「君はいつになったら、ふたりきりのときにも名前で呼んでくれるようになるんだ?」
たしなめるような口調から、意味を悟ってドキッとした。
確かに私は、西園寺さんになにも言われないことに甘えて、外にいるときにしか彼のことを名前で呼んでいない。
それでもいいのかと思っていたけれど、西園寺さんにしてみればそろそろ慣れろ、と言いたいのかもしれない。
「千鶴」
そんな解釈をして謝罪を紡ごうとした私よりも先に、彼が立ち上がった。
刹那、しっかりと視線が絡む。
なぜか目を離せないでいる私の視線が、程なくして意思とは関係なく上に向いたことに気づいたとき、西園寺さんの手によって顎を掬われていた。
沈黙に包まれる中で近づいてくる端正な顔に、視界が埋め尽くされる。
そんな予感がした瞬間、唇に柔らかな温もりが触れていた。
目を大きく見開き、呼吸を忘れてしまう。
キスされたのだという自覚に至るまで、どれだけかかったのかわからない。
「契約結婚だと思って、油断するなよ?」
唇が離れたあと、彼に悪戯な笑みを向けられた。
アルコール混じりの吐息とともに艶やかに落とされた声音に腰が砕けそうになり、重力に吸い寄せられるようにソファーに体が落ちていく。
西園寺さんは、そんな私の姿に満足そうに唇を緩めると、「おやすみ」とだけ言い残してリビングから姿を消した。
反して、心にも唇にもしっかりと彼の存在を刻まれた私は、震える指先で与えられたばかりの感触を確かめるように唇に触れながら、しばらくはその場から動くことができなかった――。