書籍詳細
恋育契約~極上御曹司は溺愛を隠さない~
あらすじ
「今の俺は、副社長じゃないよ」
上司の素顔は甘くて・・・トキメキが止まらない
アシスタントデザイナーとして働く藍花。憧れの副社長・郁久とのある契約から、彼の家の家政婦の仕事を掛け持ちすることに。オフィスとは違う一面を知るたびに、藍花の気持ちは甘く揺れて……。優しく見守り、導いてくれる郁久にいつしか想いを募らせる藍花だったけれど、彼には大手企業の令嬢との婚約話があると知ってしまい――じれ甘な恋の行方は!?
キャラクター紹介
崎本藍花(さきもと あいか)
人気アパレルメーカーでアシスタントデザイナーとして働いている。真面目で努力家。
青山郁久(あおやま いくひさ)
藍花の勤める会社の副社長。聡明でバイタリティ溢れる切れ者。
試し読み
(いけない、寝ちゃってた……!)
状況を察すると、私はガタンと椅子を鳴らしながら慌てて立ち上がる。
「す、すみません、居眠りなんて……!」
「あぁ、いや──」
「すぐに食事の準備をしますね! 温めるだけですから、待っていてください」
ブランケットをたたんで椅子にかけ、急いでキッチンへ向かおうとする。けれどその腕を、郁久さんがやんわりと掴んで制した。
「まだいいよ。無理するな」
労わるような優しい微笑みに、こんな状況だというのに鼓動がぴょんと跳ねてしまう。
「で、でも……」
「いいから、座って」
戸惑う私に重ねてそう言うと、郁久さんはそっと手を離して隣の椅子に座った。仕方なく、私ももう一度腰を下ろす。
「疲れるのも無理ないさ。ダブルどころか、今はトリプルワークなんだから。それに会社でも居心地が悪くて、気持ちが休まらないときもあるだろう?」
返す言葉もないほどの正しい推測に、私は思わずまじまじと郁久さんを見た。
(郁久さんはちゃんとわかってくれてるんだ……)
忙しいだけでなく、デザイナーとアシスタントが対立する形になり、精神的な面での苦労があることも。彼は全部、気づいてくれている。
私は少し迷ったけれど、素直に「はい」とうなずいた。予想はしていた返事だろうけれど、郁久さんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「安西さんには、君の存在はきっかけにしか過ぎないからきつく当たったりしないようにと念を押しておいたんだけどな……すまない」
「え……そうだったんですか」
初耳の情報に、驚いて目を瞬いた。しかしよくよく考えてみれば、コンペが発表されたあの日、副社長室から帰ってきた時点で夏海さんの態度はある程度落ち着いていたような気がする。
(それまでの様子を考えたら、もっと激しい剣幕で責められてもおかしくなかった……郁久さんが言い含めてくれてたから、ましになってたんだ)
今日のカフェでだって、嫌味を言われたものの彼女はすぐに去り、私がデザインを続けることの妨害はしなかった。守られていたからこそ今の状況で済んでいるのだと、ようやく気づく。
「すみません。私、なにも知らなくて……ありがとうございました」
頭を下げて感謝を伝えると、郁久さんは困ったような微笑を浮かべた。
「いや。むしろ、彼女や他のベテラン勢の不満を解消しきれていないのは俺の力不足だ。礼を言ってもらえるような状況じゃないよ」
「そんなこと……! 先輩方が不満に思うのは当然です。納得してもらうためには、私たち若手が実力であの人たちを超えるしかありません。だから郁久さんの力不足なんかじゃないです。私たちの頑張りどころなんです」
「崎本さん……」
語気を強めて言い切った私を、郁久さんは大きく開いた目でじっと見つめてくる。けれどやがてどこか眩しげにその目を細めると、吐息をこぼすようにふっと笑った。
「さすが君だ。強いな」
「いえ、強くなんか……」
「強いよ。本当に……君はいつも、俺が思っている以上のところに飛び込んでくる。話すたびに感心させられるよ」
「か、感心ですか……?」
恐れ多すぎる賛辞の言葉に、カーッと頰が熱くなる。顔を向き合わせているのが恥ずかしくなって、つい目を伏せた。
「俺は逆だ。今まで自分の選択に迷いを持ったり、後悔することなんてほとんどなかった。でも君が関わるとそうもいかないみたいで……今だって、かなりのハードスケジュールを強いることになってるだろう? 本当に君のためになっているのかって、たまに不安に思うこともあるよ」
「郁久さん……」
彼らしくないやや弱気な言葉に、少しだけ驚いた。けれどそれは、郁久さんがそれだけ私のことを気遣ってくれているということだ。
「大丈夫です。私はコンペに参加できるのが本当に嬉しいですし、郁久さんには心から感謝しています。だからそんな心配しないでください」
笑顔で答えると、郁久さんは幾分安堵したように「そうか」と呟く。
「でも、本当に大丈夫か? つらくないか? なんならコンペが終わるまで、ここへ来る日数は多少減らしてもいいよ。もちろん給料は普通に出すから」
「とんでもないです! 元からかなり好待遇で雇って頂いてるのに、そこまで甘えられません。家政婦のお仕事もちゃんとします」
即座にそう固辞する。もしかしたらこう答えるのも予想はついていたのか、郁久さんはそれ以上押すことはなかった。
「君がそう言うならお願いするよ。でも、絶対に無理はしないように。どうしてもつらくなったときは必ず俺に言うこと。いいね?」
「はい、わかりました。約束します」
「ああ、約束だ」
『約束』という言葉が、軽く心をくすぐる。けれどそれ以上に、改めて郁久さんへの感謝が胸を満たしていた。
「……私、郁久さんには何度お礼を言っても足りないくらいです。大きなチャンスをくれただけじゃなくて、こんなに気遣ってもらって……郁久さんこそ、以前の私が思っていた以上の、素晴らしい副社長です」
少しでもこの気持ちを届けられればと、まっすぐ彼を見て伝えた。すると郁久さんは、ふいに目を細めて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「今の俺は、副社長じゃないよ」
「え……?」
「もちろん『副社長』の俺は、『社員』としての君を応援してるし、心配もしてる。でも今は、副社長として君と話してるつもりはないってこと」
そう言うと郁久さんは体を傾け、私との距離を詰める。ドキリとしたときには、太腿の上にのせていた手に彼の掌が重ねられていた。
「……! い、郁久さん……」
「前に俺が話したこと、忘れた? 副社長としてだけじゃなく、青山郁久個人として君が心配だし、放っておけない。だから力になりたくて言ってるんだ」
これまでよりも近くにある瞳が、絡め取るように私を見て言葉を紡ぐ。その瞳にはたしかに、副社長としての彼は決して見せない熱と甘さが宿っていた。
「あ……えっと……」
心臓が早鐘を打ち、狂ったように暴れまわる。なにか言わなければと思うも、呼吸すらうまくできない。
郁久さんにこんなふうに見つめられたのは初めてじゃない。あのときも驚いて、悩んで、香穂にまで相談したりした。
けれどその後社長が帰ってきて、コンペの発表があって……生活も頭の中もコンペのことでいっぱいになっていたし、郁久さんがまたこんな表情を見せることもなかった。
だから……今は、完全に不意打ちだ。心の準備なんてものもまったくできていなかったから、どうしていいかわからない。
「い、郁久さん……手……」
触れ合った部分から感じる彼の体温がますます私を熱くして、おかしくなってしまいそうだ。それから逃れたくてかろうじて声を絞り出すも、郁久さんはまた笑みを浮かべて答えた。
「駄目、離さない」
「……!」
「はは。やっぱりいいな、その反応」
「ええ……」
(郁久さん、結構意地悪だ……)
艶を帯びた目を楽しげに細める彼をずるいと思うのに、そんな姿に悔しいほどドキドキしてしまう。
ときめきで息苦しくなることがあるなんて知らなかった。このままずっと見つめられていたら、私はどうなってしまうんだろう……そんなことを考えていると、郁久さんはさらに上半身を傾け、吐息が触れそうな距離にまで顔を近づけてくる。
「君を悩ませたくないからコンペが終わるまでは待っていようかと思ってたけど、忘れられても困るし。そういう可愛い顔を見ると、やっぱりもっと押したくなる」
声のボリュームを落とし、ささやくように話す郁久さん。私はもう、バクバクとうるさい鼓動を全身で感じていることしかできない。
「崎本さん」
名前を呼びながらふわりと手を伸ばすと、郁久さんはそっと私を抱きしめた。
「……っ!」
反射的にビクッと身を震わせる。けれど『逃がさない』と伝えるように、抱きしめた腕に力がこもり……。
「俺の気持ちはもう固まってるから。俺は、君のことが好──」
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
耳元でささやく声は、突然響いた低い振動音に遮られた。
「!」
二人で音のした方を見れば、テーブルに置いた私のスマホが震えている。
(あ……メール……)
しばらくして音が止んだのでそう察した。郁久さんは私の体を抱いたままポカンとスマホを見ていたけれど、やがてクスッと小さな笑いをこぼす。
「狙ったようなタイミングだな……まだ早いってことか」
諦めたようにそう言うと、ゆっくり腕をほどいて離れていく。そしてそのまま椅子の背にもたれた。
「見たら? 気にしなくていいから」
何事もなかったようにスマホを指差し、私を促す。
「は、はい……」
手に取って確認してみると、メールは香穂からだった。コンペに挑むことになった現状は伝えてあったので、『調子はどう? 頑張ってね、なにかあったらいつでも相談してね』というような激励の内容だ。
(香穂……ありがとう)
「誰から?」
頰を緩める私を見て気になったのか、郁久さんが尋ねてきた。
「香穂……前に話した、元同僚の親友です」
「ああ、彼女か。君は、彼女の夢も背負ってるんだったよな」
「はい。今も、『コンペ頑張れ』って」
「そうか。君を応援しているのは俺だけじゃないってことだな。彼女もだし、もちろん陽斗も応援してるし」
「はい……そうですね」
(そうだ……たくさんの人が私を応援してくれてる……支えてくれてる……)
メールの文面を目で追い直し、改めてそう実感する。
その気持ちに報いるためにも、やっぱりコンペには全力で挑み、いい結果を出したい。きっと、他にも考えなくてはいけないことはあるのだろうけれど……。
「……あの、郁久さん」
「ん? どうした?」
控えめに呼びかけると、郁久さんは普段通りの砕けた態度で聞き返してくる。その目には、もう先ほどのような艶めいた熱はない。
「……いえ、すみません。やっぱりなんでもないです」
きっと意識的に、何事もなかったような態度を取ってくれているのだろう。だから私も、そう言って話を終わらせた。
(仕事が落ち着くまで……あの続きは、もう少し待ってくれるっていうことでいいよね……?)
『まだ早いってことか』と呟いたのは、恐らくそういう意味だ。……本当に、郁久さんは優しい。
私も彼に惹かれているのはもう間違いない。けれど今は、コンペにも集中したい。そんな心境をすべて受け止めて、郁久さんは待とうとしてくれている。
(すみません……今は、その優しさに甘えさせてください)
その代わりコンペが終わったそのときには、私もきちんと答えを出して郁久さんに伝えよう。秘かに、そう心に誓った。