書籍詳細
契約結婚の甘い罠~エリートドクターと恋する蜜月~
あらすじ
「好きだ。誰よりもなによりも愛している」
契約婚約のはずなのに…超エリート医師とドキドキ同棲!?
大学病院に勤める莉緒は、祖父と父の遺した病院維持のための融資を受けるのに、医者の婚約者を探すことに。アメリカ帰りの超エリート医師、司堂千紘は、強引に婚約者役に名乗り出たばかりか、カムフラージュに莉緒と同棲することにも積極的。日夜、甘い言葉で口説かれ、優しくされて困惑を深める莉緒。これはただの期間限定の婚約のはずなのに――!?
キャラクター紹介

卯崎莉緒(うざきりお)
医師の家系に生まれた元お嬢様。大学病院の事務をしている。苦労性。

司堂千紘(しどうちひろ)
脳神経外科医。アメリカ帰りの超エリート。ゆえあって莉緒の婚約者に。
試し読み
(そう言えば、お風呂の使い方……確認をしてなかったな)
コンシェルジュからマニュアルを渡されていたが、実物も説明も目を通していない。
確認して、お風呂を沸かしていたら、司堂も早くくつろげるのではないだろうか。 なにせ、彼は昨日も病院で仕事をし、そのまま夜を明かしたのだから。
(聞いてからの方がいいかな? お風呂とご飯、どっちが先に……って、新婚か!)
自分で考えたことに照れ、莉緒は勢いよく頭を振る。
どうもペースを掴めない。無意識に浮かれているのか、あるいは雰囲気に流されているのか。思考がそっちを意識しそうになる。
「いや、お風呂の使い方を確認するのは、家事のうちだから」
忙しい司堂に変わり、莉緒が家事を担当することに決まったのだ。ちゃんとチェックしておかなければ。そう自分に言い聞かせ、莉緒はバスルームへ向かう。
洗面所に入り、芽郁が言っていた洗面台の鏡面裏を確認し、莉緒用と決めた左側の棚にシャンプーボトルやらスキンケアのバスケットをしまう。
次いで浴室に入り、中の設備を確認していく。
長身の司堂でも足を伸ばしてゆっくりできるだろう大きな浴槽に感心し、給湯リモコンにジェットバス機能の表示を見て驚嘆する。
浴槽の横にはL字を逆にしたような金属版が壁に埋め込まれていて、その脇にシャワーヘッドが下がっていた。
金属板の足下と腹部にはスピーカーのような穴があり、その二つに挟まれる形で、真ん中に蛇口がついている。見たことのない装置だ。
「音楽を聞けるとか言う奴かな……」
機能を予想しつつ、好奇心で真ん中にあるプッシュボタンを押す。
ぷしゅっと空気が抜け、次の瞬間、壁の穴から音楽ではなく水が噴き出した。
「きゃーッ!」
思わず甲高い悲鳴をあげてしまう。音楽ではなく水が壁から噴き出すなんて。
目を白黒させながら、莉緒は浴室へ走り逃げた。
水を浴びたのは数秒なのに、頭から爪先までびっしょりだ。
(バスタオル、バスタオルはどこにしまったっけ?)
リネンクローゼットの引き出しを、片っ端から開いてガタガタさせていると、莉緒っと、大きな声で名を呼ばれた。
(司堂先生だ……!)
うわっと思う。
悲鳴で驚かせただけでなく、こんな子どもみたいな失敗して、恥ずかしい。
やっと見つけたのにバスタオルを落とし、慌ててそれを拾う間に、荒れた足音がバスルームに近づいてくる。
大丈夫です、と声を上げようとした時だ。
莉緒、莉緒、と繰り返し名を呼ばれ、同時にガチャガチャと扉のノブが回された。
入る時に、癖で鍵を掛けたのだと頭を過る。だが、冷静に動くなんてできない。
ノブの回るガチャガチャした音が、忘れていた筈の過去と重なってしまう。
ベッドの中で毛布をかぶって震えていた。
剛人が酔っ払った夜は、必ずと言っていいほど起こる喜劇。
交通機関の最終も終わっただろう深夜、突然、莉緒の部屋のドアが殴られる。
そして、脅すようにガチャガチャとノブを回しながら、下卑た笑いを響かせるのだ。
「剛人、話が違う。鍵がかかってんじゃん」
「壊してもいいぞ。でもヤるならゴム付けろよ。俺の子じゃないだのなんだのになったら、面倒だろう。一応婚約者だし」
似たような友人と一緒になって、大きな声でそんな話ばかりしだす。
震え、声も出せず、莉緒は心の中で否定する。
違う。違う。剛人なんかと結婚しない。そんなことは欠片も望んでない。
なのに叔父や叔母はもちろん、屋敷にいる家政婦までもが、莉緒を剛人の嫁として扱う。嫌だと口に出して否定すれば、露骨な嫌がらせや皮肉で攻撃される。
「だってさ。莉緒ちゃん開けて。俺らとイイことしようよ〜」
従兄弟とその悪友たちがゲラゲラ笑う声、ガチャガチャと鳴り響くノブの音。
本気じゃない。莉緒をからかって遊んでいるだけと思いたいが、相手は酔っ払いな上、莉緒が傷つくことなんて、なんとも思わない奴らだ。
ドアが壊れたらもう逃げ場所なんてない。窓から飛び出そうにも部屋は二階。骨折して動けなくなれば、閉じ込められ、叔父や剛人のいいようにされてしまう。
だからいつも、毛布を被ったまま、一睡もせず息を殺していた。
当時医学生だった剛人は、毎晩のように友人たちと飲み歩き、だから莉緒は心安まる夜がない。
だが弟にも相談できない。心配を掛けたくない。まして叔父叔母に注意するよう頼むなんてもっとできない。
叔父らは剛人を止めるどころか、この状況を黙殺している節がある。
やがて睡眠不足から判断力が落ち、些細な物音にも怯えるようになった頃、莉緒の体調不良に気付いた芽郁やその親が、あの家から出る手助けをしてくれた。
時間を重ね、普段は忘れるようになっているけれど、記憶が消えた訳ではない。
男性を区別なしに恐怖することはなくなったが、ドアノブをガチャガチャと鳴らされるのだけは耐えられない。
膝が崩れた莉緒は、座り込んで硬直したまま、騒音を立てるノブを見る。
誰かが名を激しく呼んでいる気もしたが、過去に囚われている莉緒には届かない。
まばたきすら忘れた目の中で、ついにドアノブが動きを止めた。それからゆっくりと扉が開いていく。
——嫌だ、助けて!
弟でもない、父でもない、祖父でもない、この状況から助けてくれる肉親ではない誰かに救いを求め、喉が引き攣れる。
ひゅっ、と矢が空を切るような嫌な音が唇からこぼれた瞬間、顔に影が差した。
「莉緒ッ……! 大丈夫か!」
焦りを含んだ男の声が鼓膜を震わせ、すべての悪いものから庇うようにして、力強い腕に身を抱き込まれる。
側頭部が男の胸板に触れ、清潔なシャツを通して温もりと鼓動が染みてくる。
(剛人さんじゃない)
莉緒など、つまらない人形だと言いたげに扱い、言葉や態度で傷つける従兄弟とは違う。しなやかで逞しく、誰よりも莉緒を守ろうとしてくれる頼りがいのある腕。
司堂だ。彼の体温と腕を感じるに従い、止まっていた時間が動きだす。
「どうした。濡れているが火傷でもしたか? 怪我は?」
忙しなく莉緒の肩や背を探りながら、早る声で司堂が確認する。
「平気、痛く……ない。……ちょっと、水に、濡れて、びっくりしただけ、で、す」
呼吸が上手くできない。でも心配させるのは悪い。
必死になって声を紡ごうとするのに、どうしても息が喉に引っかかる。
ここに剛人はいないとわかってるのに、身体に取り憑いた恐怖はなかなか去らない。
(沢山、空気を吸っているのに、息が苦しい)
はっ、はっ、と先ほどより呼吸の間隔が短くなる。
(まずい……。これは)
嫌な予感が頭を過る。パニックで呼吸のタイミングがおかしくなっている。
黙り込む莉緒をいぶかしんでか、司堂はすぐさま莉緒の顔を上向かせ、至近距離で顔をのぞき込む。
「怪我がないと言ったが、平気ではないだろう。どうした、その顔色は」
額に汗が浮かんでいるのに、手足は冷たく凍えそうだ。
肌は青ざめ、唇も真紫になっているだろうことは想像に難くない。
だが、説明するだけの力がない。息を吐き出したいのに、酸素過多でクラクラする。
焦れば焦るほど鼓動が速くなり、ついには胸がきりりと痛みだす。
「ッ、は……、っ、は」
淀んだ川へ捨てられた金魚のように口を開閉させるが、ちっとも楽にならない。
苦しさから逃れたくて、莉緒は司堂の腕を掴んですがる。
同時に彼が、はっ、と息を呑み目を鋭くする。
「許せ、莉緒」
言うなり、司堂はぐっと莉緒の顎を掴んで固定し、自分の顔を近づけた。
唐突な行動に目をみはる。丸くした莉緒の目に、司堂の理知的な相貌だけが映る。
顔を傾け、司堂は自分の唇を莉緒の唇で覆うようにして重ねた。
なにをされているのかわからず、一瞬、思考が飛んだ。
呼吸も忘れ、ただ、自分の唇を塞ぎ、目を閉ざす司堂の顔だけを凝視してしまう。
キスされているのだと気付くも、仰天しすぎて、どう反応すればいいかわからない。
ふうっと、熱い息が吹き込まれ、莉緒の口腔で対流する。
反射的に喉が閉まり、激しかった呼吸が途切れがちになっていく。
それでも発作が治まらなくて、莉緒は司堂の腕を掴む指に力を込めてしまう。
ふ、と司堂の眉間が寄り、重ねるだけだった唇がより強く押しつけられだす。
背に当てていた男の手が腰に下がり、ぐいと力尽くで引き寄せられた。
より密着した形で抱き合い、身動きもできずにいると、顎からうなじへと移動した手が、なだめるように莉緒の後頭部を撫で、髪をかき分けていく。
うっとりするほど優しい動きに、今がどこで、なにをされているのか忘れた。
そんな莉緒の状態を読んだのか、司堂がゆっくりと舌を内部に差し込んでくる。
予想もしない行為に、びくっと肩が震えたが、安心させるように頭を撫でられ、力が抜けていく。
司堂は探るように内側を一舐めし、強ばる莉緒の舌に自身のそれを重ね、蕩かす。
無理に動こうとはしなかった。どころか、初めてアイスクリームを食べる子どもみたいに、そっと、そっと優しく表面だけをなぞっていく。
身体がかっと熱くなり、頬が火照りだす。
逃げ出したいほどの恥ずかしさに襲われているのに、もう少しだけ熱を分けてほしいとも思う。
とろとろと中から温められ、おかしくなっていた呼吸は、知らぬ間に収まっていた。
「ん……、ふ……ぅ」
安堵の息が鼻を抜け、甘えた響きに、他でもない莉緒自身がドキリとしてしまう。
いたたまれず、でも、腰を抱かれて逃げられもせず、困り果てて司堂の腕にしがみつくと、彼も、ふ——、と悩ましげなうめきを漏らす。
頭の中はあやふやで、キスされた部分と一緒に蕩けてしまったようだ。
先ほどとは違う苦しさに胸が甘く疼き、司堂の腕を掴む指から力が抜けた。
ぐいっと力強く腰を抱き直され、はっと顔を後ろに反らす。
繋がっていた唇が解け、濡れた互いの口元から唾液が銀の糸を引いた。
閉ざされていた司堂のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
繊細で長いまつげが彼の目元に影を作り、それがとても色っぽい。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、莉緒は尻で後ずさりつつ、手で司堂の肩を押す。
「あっ、あっ……、あの、あのっ」
まともに顔を合わせられない。
お礼を言いたいのか、キスされたことに対し反発すればいいのか。
莉緒の腰にあった司堂の手が名残惜しげに離れ、落ちていたタオルを拾われる。
「ほら」
「え?」
ばさりと頭からバスタオルを掛けられ、目の前が見えなくなる。
視界を保とうと手を伸ばし、バスタオルをたぐっていると、頭頂部に手を置かれ、乱暴にぐしゃぐしゃと掻き回された。
「HVSだな。……過換気症候群。過呼吸の方がわかりやすいか」
淡々とした分析に、莉緒は顔を真っ赤にして縮こまる。
(キスについて問い詰めなくてよかった)
莉緒はバスタオルをかぶったまま、一度だけこくりとうなずいた。
「原因に思い当たるものは?」
落ち着いた問いだ。まるで患者に対する問診のような。
(いや、患者か……。実際、こうして過呼吸の発作を起こしたんだし)
過呼吸は、頭と身体が上手く連動せず、体内の酸素が多くなるパニック発作で、酷い時は失神する。
治めるには、吐き出した二酸化炭素を紙袋なんかで吸い込み、酸素とのバランスを取るか、どうにかして心を落ち着かせるしかない。
司堂からすれば、手近に紙袋がなく、また、莉緒がしがみついていたから、キスで代用しただけのこと。応急処置以上の意味はない。
わかっているのに、恥ずかしさが収まらない。
ぎゅっと自分の身体を抱いていると、司堂がバスタオルごと莉緒の頭を撫でる。
「莉緒?」
「ちょっと、嫌なことを、思い出しただけです」
「パニック症状を出すんだ、ちょっとじゃないだろう。風呂場でなにがあった」
「風呂場と言うか……、その」