書籍詳細
肉食御曹司に溺れるほど愛されています
あらすじ
「残念、俺から逃れられる最後のチャンスだったのにな」
ケモノになった御曹司に囚われて……
お人好しな性格の優里は、仕事はできるが何かと悪い噂のある上司・巧に日々翻弄されていた。ある日、彼の策略にはまり一夜を共に過ごすことに! 急速に近づく二人の距離――。俺様な彼に甘やかされ、優里はドキドキが止まらない。そんな時、巧から熱烈プロポーズを受け、婚約者に仕立て上げられてしまう。さらに彼に長期の海外出張の話まで浮上して!?
キャラクター紹介
千代崎優里(ちよざき ゆうり)
化学メーカー『椿ケミカル』の商品開発部に勤める。 頼られると断れない性格。
鴻野 巧(こうの たくみ)
商品開発部一課の課長。 ルックスも仕事の腕も優秀なわりに、悪い噂が絶えない。
試し読み
「いい香りがする」
「え? あ、ああ、ジャスミンのオイルを使ってマッサージをしてもらったんです」
「ふーん」
彼の鼻先が香りのもとを辿るように首筋へ回る。吐息が掠め、体が震えてしまう。なにより距離が近すぎて、鼓動の音が聞きとられてしまいそうだ。
「こ、鴻野さん……」
「……甘いな。それとも、これはお前自身の香りかな。男を誘ってるのかもしれない」
ヘ!? と私は目を丸くする。誘ってるだなんてそんなつもりは……! ただのアロマオイルの香りだ。
首筋に唇の先が触れ、目をつむり縮こまる。チュッというリップ音を鳴らして、やっと彼は私を解放してくれた。
「せっかくの香りをプールで落とすのももったいないな。そのまま着替えて、食事にでも行こう」
「はい……あの、着替えも手配してくださったそうで、どうもありがとうございます」
「スタイリストに一任した。どんな服が用意されているのか、俺もまだ見ていない。楽しみだな」
濡れた髪から雫を滴らせながら、艶っぽい顔でニヤリと笑う。その姿がなぜか獲物を狙う肉食獣のように見えて、ドキリとする。
「じゃあ、えと、着替えてくるので……!」
慌ててごまかし、彼を置いてひと足先にサロンへ逃げ帰ってきた。
用意されていた服は、ミモレ丈のワンピース。黒地に大胆な花柄のプリント。ウエストがキュッとくびれていて、裾にかけて広がっている。歩くたびに揺らめいて、シルエットが美しい。
ネイルは甘い色合いのベージュ。アクセントにゴールドのビジューが載っている。ヘアスタイルは、編み込みの入ったパーティー用のハーフアップ。
メイクは、道具だけ使わせてもらって自分で施した。ネイルや服と合うようにゴールドをあしらって、オレンジ系のベージュをベースに大人っぽく仕上げた。
「なかなか腕の立つスタイリストだな。俺のオーダーに忠実だ」
あとからやってきた鴻野さんが、鏡の前に立つ私を見て、満足げに腕を組む。
「なんてオーダーしたんですか?」
「食べたくなる女」
ぎょっとして鴻野さんを見上げる。
肉食獣に見えたのは錯覚ではなかった……!
警戒して一歩あとずさった私を、彼は憎たらしい笑顔で眺める。
「冗談だよ。ちょっといいランチをするから、それなりに見える格好に仕立ててくれって頼んだだけだ」
そんな彼は、ブラックのジャケットとスラックスに、光沢のあるシャツをラフに着こなしている。こなれた大人コーディネートだ。
無造作なぼさぼさヘアも、ラフにまとまっており、これはこれでハイセンスに見える。彼のアンニュイな魅力を最大限に引き立たせるとは、さすがはプロのスタイリスト。なんて厄介なことをしてくれたのだろう。
「さ、行こうか。お姫様」
甘くて悪い笑みを浮かべた彼を、ぎょっと睨み見る。
差し出された手に恐る恐る手を重ねると。捕捉完了、そんな狡猾な目をして私を引き寄せ、あっという間に腰を抱いた。
彼の腕に囚われ、ギクシャクと体を強張らせる。強引にエスコートされながらサロンを出た。
エレベーターを待っている間、周囲にひと気がないのをいいことに、彼は私の顎を押し上げ熱い眼差しを落とす。
「……くそ。こんなにしっかりリップ塗りやがって。隙くらい作れ」
一瞬、唇を近づけた彼だったが、くやしそうに舌打ちして顔の距離を離した。
再び強く腰を抱いて、やってきたエレベーターへ乗り込む。
彼が向かった先は、最上階にあるフレンチレストラン。昼食と呼ぶには少し遅い時間だが、ランチのコースを予約しておいてくれたらしい。
伝統とモダンが調和した格式高いレストラン。壁やシャンデリアなどの装飾品は煌びやかなゴールド、それらを引き立てるようにテーブルクロスとカーペットはスタイリッシュなブラックで統一されている。
スタッフの所作も美しく、ここにいるだけで優雅な気分にさせられる。
『ちょっといいランチ』どころじゃない、最高級ランチだ。
ドレスアップしてきてよかった。着飾らなければ足を踏み入れる自信が得られなかっただろうから。
案内されたのは広々とした個室だ。曲線が美しいカブリオールレッグのチェアに腰かけて、背筋をピンと伸ばす。
「……緊張します」
「リラックスしてお姫様気分を味わえよ。お前のために来たんだから」
さらりとうれしい言葉を織り交ぜながら、悠然とした態度でシャンパンを呷る。
どうやら鴻野さんはこういう場所に慣れているようだ。さすが財閥の跡取り息子。
「私のために、ですか……?」
「当然だろ。俺ひとりならその辺の居酒屋で充分だ」
鴻野さんと居酒屋……それはそれで似合ってしまうから不思議だ。普段のぼさぼさ頭とよれよれシャツなら、ガード下にあるちょっと古びた立ち飲み居酒屋でハイボールでも飲んでいそうだもの。
とはいえ、今、目の前にいる彼は、間違いなく高級フレンチが似合う紳士に見えるけれど。
「ありがとうございました。ホテルのお部屋も、スパも、ドレスも……すごく高かったですよね?」
ついついお値段のことを気にしてしまうのは小市民の証し。情けないことこの上ない。もちろん、私に請求するつもりはないようで、「そんなこと気にするな」と彼は言ってくれている。
しかし、この三日間で使ったお金は、私の一カ月分のお給料を軽く上回っているだろう。気にならないわけがない。
「恐縮するなよ。自分はその価値のある女なんだと胸を張っていればいい」
そうは言っても、これまで男性からご馳走になったものといえば、ラーメン八百円くらいのもの。過去に付き合った甘えん坊系メンズたちは、なにしろ収入が少なかったから、私が払うことのほうが多かった。
いずれにせよ、自分がそこまで手をかけてもらうほどの女だとはとても思えない。
「私にそんな価値があるとは、思えなくて……」
失笑しながら答えると、不意に彼の表情が陰った。
「お前、鏡を見たか?」
怒っているのかと聞き間違うような低い声にひやりとする。私、失礼なことを言ってしまった?
「……さっき、着替えたときに見ましたけど」
「来い」
唐突に鴻野さんは席を立ち、こちらへ回り込んだ。私の腕を引いて立ち上がらせると、部屋の奥に連れていく。そこには、壁に埋め込まれた大きな鏡があった。
「見ろ」
私を鏡の中央に立たせる。映り込んだのは、普段とは違う自分の姿。服もアクセサリーも一級品で、綺麗に飾り立てられている。
彼はそんな私を背後から支えるように立ち、大きな背を屈めた。
キスされる……!? ドキリとして硬直していると、彼は私の耳元でゆっくりと動きを止めた。
「俺は今、この美しい女性を手に入れるために必死だ。どれだけ投資しても惜しくない。金も、時間も、労力も」
情熱的な声に鼓膜を揺さぶられ、心が悲鳴をあげる。
とても信じられないけれど、鏡に映る彼の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
「お前にはその価値がある。わかるな?」
強く肩を抱き、刷り込むようにささやく。
とはいえ、そこですんなり納得できるほど、楽観的でも素直でもなくて。
「どうしてですか……? どうして私にそんな価値があると……? 私は、こんな、どこにでもいる平凡な人間なのに」
「俺の目が節穴だって言いたいのか?」
ギロリと睨まれ、ぶるぶると首を横に振る。
そういうわけじゃない。でも、自分の価値なんてわからない。困った顔で彼を見上げた。
「世界にとってお前という人間が平凡でも、俺にとってはダイヤの原石なんだよ」
胸元に手を回され、うしろから抱きすくめられる。
少し重たい彼の体が、私を独占するように覆い被さる。
「なぁ。お前は俺を勘違いしていないか。財閥の人間は、なにか特殊な力を持った宇宙人だとでも思っているんだろう」
つい答えに詰まってしまう。宇宙人とまではいかなくとも、遠い世界に住む人だなぁくらいには思っていたかもしれない。
そんな心の内を見透かすように、彼は半眼になって私を睨む。
「特殊な肩書きであることは否定しない。だが、中身はその辺の男と同じだ。かわいい部下がいたら、ちょっとつまみ食いしちまおうと思ったって不思議じゃないだろう」
「つ、つまみ食いって……!」
「冗談だよ」
私の顔の横でくつくつ笑う。この期に及んで、まだ私のことをからかおうというのか、そう呆れ果てたとき。
全身を包み込むように優しく抱かれ、息を呑んだ。
大きくて温かな彼にくるまれて。それはまるで私の存在を肯定してくれているかのようだった。
「完璧な女なんて、つまんねぇよ」
低く甘い声が、再び私の鼓膜を、そして心を震わせる。
「お前がまだ未熟なのは、よくわかってる。だが、前を向いてひたむきに努力するところは買っているんだぞ。他人に手を差し伸べる思いやりがあるところも。曲がったことを嫌う、バカ正直なところも」
鏡に映る彼が、ニヤリと口元を歪める。
力強い眼差しは、仕事のときと同様、信頼に足るものだ。決してそれらの誉め言葉が、上っ面だけのお世辞ではない、本気なのだと伝わってきて――。
「それだけあれば充分だ。あとは俺が育てる。自分好みの女に」
鏡に映るのは、与えられた難題に嬉々として挑む、自信に満ちあふれた笑み。
思わず胸が締めつけられる。この笑顔は信じられる、この腕にもたれていればいいと、直感的に感じ取って。
「だから俺の妻になれ」
不意に顎を持ち上げられ、唇を寄せられる。
触れる直前、思わずクスリと笑みをこぼした。また彼が恋人というステップをすっ飛ばしたから。
「……だからどうして、そこでいきなり結婚になっちゃうんですか」
付き合ってと言われれば素直にイエスと答えるのに。結婚と言われたら簡単に「はい」だなんて言えなくなるじゃないか。
どうしてそのふたつの重さが同じなんだろう、彼の場合は。
「それだけ俺が真剣だってことだよ。先のない恋愛に時間を費やすなんて不毛だろ?」
つまり、手っ取り早く結婚しようってこと?
彼ったら、とんでもない合理主義だ。愛を深めていく時間すら省いてしまおうだなんて。恋愛から結婚に進むための迷いや不安すら無駄と考えているのかもしれない。究極の面倒くさがりだ。
「決断力が高すぎるっていうのも、困りものですね」
潔いのやら、無謀なのやら。
それとも、彼の中で私を選ぶ確信めいた理由があるの……?
彼はもったいぶった仕草で私との距離を縮める。目を閉じて先を求めるけれど、唇の距離がなかなか縮まらない。
もしかして、ちゃんと言葉にして答えないと、キスをくれないつもり? 私の気持ちを試しているのだろうか。
いつまでもイエスと言わない往生際の悪い私に、早く自分のものになってしまえと迫っているのかもしれない。
この昂る感情は逃れようのないものなのだと、お互いに気づいている。
私たちはもう、ただの上司と部下ではなく、求め合う男と女なのだ……くやしいけれど。
彼のキスお預け攻撃に観念する。
「……考えてみます」
前向きに、と心の中でつけ加えた。
まだちょっぴり半信半疑で、彼のことがよくわからない。
いずれ社長という大役を背負う彼のお相手が、私でいいの? という不安もある。
でも、少なからず彼が噓を言っていないことはわかったから。
もう少し時間をかけて、その結婚という極論がどこまで正しいのか、確かめさせてもらおうと思う。
「考えるより、体に聞く方が早いんじゃないのか? キス、したいんだろ?」
おいしそうな唇をちらつかせ、狡猾に笑う。
ずるいなぁと呆れながらそっと唇を重ねる。軽く絡ませたあと距離を置き、これでいいですか? とドキドキしながら彼の顔を覗き込んだ。
私は彼のもの。とりあえず、今この瞬間は。
将来を誓うことなんて、まだ怖くてできないけれど、彼のことを信じたいとは思っている。……お願いだから、今はそれくらいで許して……?
懇願するように見上げると、彼は仕方がないといった顔で、私の頰を優しく撫でた。