書籍詳細
偽装婚約~冴えない彼の正体はオオカミ御曹司でした~
あらすじ
「君が欲しい、今すぐに」
隠れ肉食な彼の情熱に溶かされて……
OLの花純は、転勤してきた忠にセクハラ課長から助けてもらい、婚約宣言されたことをきっかけに、偽りの新妻候補として同居生活することに。強引に始まったかりそめの関係に戸惑いつつ、惹かれる気持ちを隠せなくなっていくけれど、彼の素顔は、まさかの御曹司!?「もっとキスしたい」――独占欲強めに豹変した彼の愛情は、想像以上に甘く激しくて……!?
キャラクター紹介
山下花純(やましたかすみ)
精密機器メーカー勤務二年目。プラネタリウムで出会った男性のことが気になっている。
鈴木忠(すずきただし)
花純が働く横浜支店に異動してきた男性。冴えない見た目が、そのメガネの下は……?
試し読み
目的のカフェに到着した私たちは、窓際の席に着く。
ここもまた横浜の歴史ある建造物のひとつで、アールデコの意匠が施された重厚な階段が見学できる場所だ。カフェはその一角にあった。
店内はクラシカルな雰囲気が漂っており、天井が高く、柱と天井をつなぐアールの壁が美しい。レトロなシャンデリアに、アンティークのテーブルとチェア。カウンターのそばには金色に輝くエスプレッソマシーンが置かれている。
この場にいるだけで感嘆のため息が漏れてしまうほど、素敵な空間だった。
「鈴木さん、苦手なものはないんでしたっけ?」
メニューを広げて彼に尋ねる。
「ああ、ここのメニューも全部食べられるよ。美味そうだな」
「……良かった」
私はホッとして、自分のメニューを決めた。ほどなくして注文を聞きに店員がやってくる。私はボロネーゼパスタ、彼は牛すじのブラウンシチューを選んだ。
このカフェはデザートとコーヒーが絶品らしいと聞いており、私は食後にアメリカンとクレームブリュレ、彼はエスプレッソとマカロンを追加する。
「苦手な食べものはなくて……、じゃあ、特に好きな食べものってありますか?」
私はフォークにパスタを絡めながら、鈴木さんに聞いてみた。
「日本の食べ物はなんでも美味しいね。コンビニでも、そのへんの定食屋でも、みんな美味しいよ。食べられないほどまずい店には出会わないし……」
そう言って、彼はシチューに添えられたパンを口に放り込む。
なんだか海外にいる人のような口ぶりに思えた。
「私は海外に行ったことはないんですが、日本のご飯はとても美味しいって聞きますね」
「あ、そうだね」
一瞬、鈴木さんが目を泳がせた。
「……?」
「いや、なんでもない。今度三ツ星のお店に行こうか。食べに行ったことがないんだ」
「私もないんです。東京はたくさんあるんですよね」
「調べてみるよ。山下さんとなら楽しそうだ」
また今度、彼と一緒に美味しいものを食べに行く。
それもデートだと思っていいのだろうか。想像したただけで胸が躍った。
「山下さんは何が好きなの?」
「私はカレーですね……」
私は大好きなカレーを思い浮かべた。このあたりにも美味しいカレーを提供するお店はあるが、辛さや味の好みが分かれるので、今日はやめたのだ。
「ぷッ」
鈴木さんが吹き出して笑った。
「な、なんですか?」
「いや、幸せそうな顔で言うなあって。可愛いな、山下さんは」
可愛い、の言葉が私を焦らせる。彼の冗談だとしても嬉しくて、今度は私の目が泳いでしまった。
「カ、カレーといってもいろいろありまして」
「うん」
「カレーライス、カレーパン、カレーうどん、カレーせんべい……」
「うんうん」
彼はシチューを食べる手を止めて、ニコニコ笑いながら何度もうなずいている。その様子が引っかかり、私は口を尖らせた。
「なんか……バカにしてません? 子どもっぽいと思ってますよね?」
「いや、思ってないって。カレーの話、もっと教えて?」
否定しつつ、クスクスと笑っている。
楽しそうな鈴木さんを見ていると、バカにされてもなんでもいいや、という気持ちになってしまった。
(だってなんだかこれって、恋人同士がじゃれあっている会話のようじゃない? 気持ちがふわふわして、いつまでも味わっていたいような不思議な感覚だ……)
私はサラダを口にしてから、話の続きを始める。
「カレーライスもカレーパンも、カレーうどんも、それぞれ好きなお店があるんです」
「なるほど、こだわりがあるんだ。今日はカレーじゃなくて良かったの?」
「ええ、大丈夫です。ここはいつか来てみたいお店でした。美味しいランチやコーヒー、デザートを食べて、素敵な雰囲気を味わいたかったんです、すず――」
鈴木さんと、と言いそうになりかけて、慌てて口を閉じる。
「何?」
「い、いえ何も。期待していた通りのお店だったので、とても嬉しいです」
「うん、いい店だね」
「はい。来て良かった」
憧れのお店に好きな人と来ることができたのだ。こんなに幸せなことはない。
「山下さんのさ、そういうところがいいと思う」
「そういうところ?」
「素直なところ。聞いてて気持ちがいいんだ」
「そ、そうですか?」
照れながら、パスタを食べる。
鈴木さんは人を褒めるのが上手だ。
会話の中に相手の良さをさりげなく入れてくる。そして聞き上手でもある。もしかすると、実は営業も上手くいっているのではと感じた。
「ん~~、ほんわり温かくて美味しい~~!」
パスタを食べ終わり、次いで運ばれてきた作りたてのクレームブリュレを口にした私は、思わず声に出していた。グラニュー糖を焦がしたパリパリの表面にスプーンを入れると、中は驚くほどトロトロだ。舌に乗せた時の甘さがちょうどよく、バニラの風味とともに溶けてしまう。
「マカロンもあげるよ。俺はひとつあれば十分」
キャラメル味やフランボワーズ味、ピスタチオ味の可愛らしいマカロンが載ったお皿を、鈴木さんが差し出した。
「じゃあ、どうして三つも注文したんですか?」
「山下さんが食べたそうだったから。クレームブリュレとマカロン、迷ってたでしょ?」
「……えっ!」
ぶつぶつ言っていたのをしっかり聞かれていたのだ。恥ずかしさに顔から火が出そうになる。
「いいから食べてよ。それにしてもこのエスプレッソ、本当に美味いな」
彼はカップに入ったエスプレッソを見つめて言った。
「私のアメリカンも美味しいです」
「そうなんだ? ひとくちちょうだい」
一瞬、何を言われたのか理解するのに時間がかかった。
(私のアメリカンを飲みたいということよね? エスプレッソが美味しいから、アメリカンにも興味が出たのよね?)
鈴木さんの表情は特に変わらない。意識しているのは私だけのようだ。
「どっ、どうぞ……!」
この歳でそんなことをいちいち気にするのは、こじらせすぎだろうと思い、私はソーサーごとカップを差し出した。
「本当にいいの? 口つけちゃうよ?」
今度は彼のほうが戸惑っているように見えた。私は彼に気を遣わせないように、すました顔で続ける。
「大丈夫です。マカロンのお礼です。本当に美味しいですよ」
「ありがと」
私からカップを受け取って香りを楽しんだ彼は、アメリカンを飲んだ。ただそれだけなのに、私は内心どぎまぎしている。
「ああ、いい香りだ。これも美味いね」
心を見透かされないよう、ラズベリーのマカロンに手を伸ばして口に入れた。
「このマカロンも上品な甘さで絶品です。いくらでも食べられちゃいそう……。あぁ……」
ラズベリーの甘酸っぱさと、クリームの柔らかな甘さが口中を満たし、うっとりとため息が漏れた。
すると、いつもの口調で鈴木さんが私に言った。
「そういう顔は、他のやつに見せちゃダメだよ?」
「えっ、何かついてますか? クリームかな」
慌ててバッグを摑んでハンカチを取り出すと、彼が否定した。
「違う、何もついてない」
「……?」
「さっきの恍惚とした表情のことだよ。男の前ではやめたほうがいい」
「ええと、はい……」
「悪い意味じゃないからね」
そうは言われても意味がわからないし、気になる。
「こういう店では控えたほうがいい内容だけど、言っておくか……」
コホンと咳払いした彼は、私に小さく手招きした。
「ちょっと……」
「? はい」
鈴木さんが身を乗り出してきたので、私も彼のほうへ体を乗り出す。そして耳を傾けた。
「不快だったらごめん。さっきのはすごく……そそられる顔だった」
「っ!」
内容に驚いた以上に彼の低い声が……。
彼のほうこそ色気を醸し出しているのでは? と思う声色だから、思わず私の体がびくんと揺れた。
「だから気をつけてね、って話」
椅子に座り直した鈴木さんは、いつもの声と表情に戻っている。私も座り直して、ひとつ息を吐いた。
「山下さん、無自覚にそういうことしてるんだからモテるでしょ?」
「全然そんなことはありません」
私は首を横に振って否定しながら、彼の顔を見つめた。
「でも……」
「ん?」
「鈴木さんもそんなふうに思ったりするんですね。……意外でした」
いつも冷静だし、私に対してそんなふうに感じるなんて、思ってもみなかったから。
「そりゃ、俺だって男だからね。でも約束は守りますので、安心して暮らしてください、以上」
鈴木さんは、ふいっと横を向き、肩肘をついた手の上に顎を乗せた。
「……ふ」
彼の様子に笑いがこみ上げる。
「……なんか、おかしかった?」
「初めて見ました。鈴木さんがふてくされたような顔するの」
「え」
目を丸くした彼の表情も初めて見た。なんだかそれもおかしくて、さらに笑みがこぼれる。
「ちょっと意外で面白かったから、すみません。あ、謝っちゃダメでしたね」
先輩に失礼なのはわかっていても、からかいがちな口調で続けてしまった。
今日は会社やホテルから離れた場所にいるから、私の気が緩んでいるのかもしれない。
彼は腕組みをして、うーん、と唸っている。
「そこは謝ってもいいような気はするけど」
「でも、前にダメって言ったじゃないですか」
「うん、言ったなぁ。じゃあ仕方ない。ふてくされ顔で山下さんが笑ってくれるなら、これからずっとその顔でいよう」
「ずっとは大変ですよ? ちょっと見てみたい気もしますが」
私がクスクス笑っていると、鈴木さんが急に真面目な顔をした。
「さっきの話だけど、注意したのは悪い意味じゃないんだ。心配になるくらい魅力的だって意味だから、誤解しないでね」
「っ!」
顔が熱い。彼の言葉ひとつひとつに過敏に反応して、息苦しいくらいだ。
「……鈴木さんは、私のことを買いかぶりすぎです」
「本当のことを言ってるだけだよ」
「……」
頭から湯気でも出ていそうなくらいに、体中が火照っている。
これが他の男性に言われたのなら、イヤだと感じたかもしれないけれど。
好きな男性が差し出す私への評価が、こんなにも気恥ずかしくて、嬉しいものだとは知らなかった。