書籍詳細
旦那様はエリート外科医~かりそめ夫婦なのに溺愛されてます~
あらすじ
「君を奥さんにできて、幸せだよ」
契約結婚なのに、愛を注がれる日々が始まって…!?
新米看護師の実織は病院での懇親会の日、密かに憧れていたドクターの啓佑から契約結婚を持ち掛けられる。戸惑いつつも、かりそめの夫婦生活がスタート。偽りの関係なのに抱きしめられたり、添い寝したりと本物の妻のように愛されてときめく実織。形だけの結婚のはず、と悩むも「『先生』っていうの、卒業しようか」と甘く迫る啓佑に翻弄されて…!?
キャラクター紹介
倉橋 実織(くらはし みおり)
勤続二年目の新人看護師。不器用な性格だが、患者の気持ちに親身に寄り添うことができる。
黛 啓佑(まゆずみ けいすけ)
実織が働く病院のドクター。端正な容姿と柔和で親しみやすい雰囲気から、女性に人気がある。
試し読み
「家に居るとき、そんなに疲れてるように見えるかなぁ。気を付けないと」
「い、いえっ、全然」
苦笑いする先生に、そういう意味ではないと慌てて弁解する。
先生は、私が話題にしない限りはあまり仕事のことを口にしないし、愚痴もこぼさない。多分、仕事モードのオンオフのスイッチを意識的に切り替えているのだろう。
「実織は遠慮しすぎなんだよ。俺たちは夫婦で共働きの、対等な関係なんだから。要求があったら我慢しないで言ったらいいんだ」
「あの、我慢なんて全然してないです。要求と言われても、特になにも……」
先生になにかをしてもらいたい、なんて考えたこともなかった。今は、先生のそばで彼を見つめていられれば、それで満足だから。
……なんて、そんな重たいことを本人には言えないけれど。
「先生こそ、仕事の愚痴があったら、遠慮なくぶつけて下さっていいんですよ。私、誰にも言ったりしませんし」
普段の彼を見ている限り、なにか不満や嫌なことがあっても誰かに話したりはしていなさそうだ。
命を預かる仕事がストレスフルであるのは身をもって理解しているし、私の前でくらい、溜め込まずにいくらでも吐き出してくれて構わないのに。
「気持ちはありがたいけど、今のところ大丈夫だよ。俺は、仕事とプライベートはしっかり分けたいほうなんだ。実織と過ごしてるときくらいは、仕事のことは忘れようと思って――あ」
先生はふと、思い出したというように口元に手を当てると、腰を浮かして私との距離を詰め、座り直した。そして、悪戯っぽい目で私を覗き込む。
「そういえば、その『先生』っていうの、いい加減に卒業しようか」
彼と身体が触れそうな状況も相まって、私の心臓は大きく跳ねた。
「家のなかでも『先生』って呼ばれてると、病院にいる気分になるんだよね。ちょっと落ち着かないっていうか」
私と先生は身長差があるから、すぐとなりに座ったとしても、私が彼を仰ぎ見る形になる。
「――だから、俺のことも下の名前で呼んでくれる?」
「えっ!?」
思わず大きな声を上げてしまった。その声のボリュームに、自分で驚いてしまったくらいだ。
「驚きすぎだよ。なに、そんなに嫌なの?」
「あっ……ち、違いますっ、そういうわけじゃ」
「じゃあ問題ないよね」
「…………」
私は少しの間、黙ってしまった。
夫婦なのだから、名前で呼び合うのは自然なことなのかもしれないけれど……。
「で、でも、私のなかで黛先生は『先生』なので……」
毎日となり同士のベッドで寝ているし、食事を一緒にとることも多い。生活を共に送っているのは確かだけれど、感覚的には夫婦というよりルームシェアのそれに近かった。
だから、彼を下の名前で呼んでいる自分の姿を想像することができないのだ。
私が頼りない声で主張すると、先生は困った顔で嘆息する。
「こういうのは、完全に定着する前に変えないと。まさか、このままずっとそんな仰々しい呼び方で行くわけじゃないよね?」
「う……」
指摘されなかったら、彼の言う通りずっとそう呼び続けていただろう。確かに、呼ばれるほうからすると堅苦しいと感じてしまうのかもしれない。
で、でも……恥ずかしい。先生のことを、畏れ多くも下の名前で呼ぶなんて!
先生の下の名前は……啓佑さん、だ。
うわわ、急に顔が熱くなってきた――。
「どうしたの、顔真っ赤にして」
「今、頭のなかで呼んでみたんですけど、既に恥ずかしいです」
「頭のなかって」
先生は顔をくしゃっとさせながら、声を立てて笑った。
「実織は本当に面白いよね。そういうところ、好きだな」
「……す、好き、ですか」
そのフレーズに、胸を優しく摑まれたような心地よい痛みが走る。
きっと、先生のほうは深い意味合いで発していない言葉なのだろうけれど、まるで告白の台詞みたいだと、自分勝手に盛り上がってしまう。
「頭のなかじゃなくて。実際に呼んでみてよ、俺の名前」
「っ……」
先生が私を見下ろす凛々しい瞳から、目が離せない。
ドキドキと高鳴る鼓動のせいで、なんだか息苦しいような錯覚さえしてきた。
「……嫌?」
「いっ、嫌じゃないですっ! 全然っ!」
全然、嫌じゃない。
むしろ、下の名前で呼ぶことを許してもらえる立場なのだと――先生にとって特別な存在だということが裏付けられたように思えて、うれしい。
なら、恥ずかしがって躊躇している場合ではない。勇気を出して音にしなければ。
私は小さく咳払いをしてから、意を決して口を開く。
「えっと……け、けいすけ、さん……?」
「ハテナはつけなくていいよ。自信持って呼んで」
勇気を出したとしても、恥ずかしいものは恥ずかしい。だから、つい語尾が照れ隠しで上がってしまうのを、先生がまた笑った。
「は、はいっ……あの、啓佑さん……」
たどたどしいながらも、今度はちゃんと呼ぶことができた。
――恥ずかしすぎて、どんな顔で先生を見ていいのかがわからない。私は溢れる羞恥を振り払うようにぎゅっと目を瞑った。
それと同時に、肩にふわっと温かな感触がした。
不思議に思って薄目を開けた次の瞬間、なんと――私は先生の胸元に抱き寄せられていた。私を引き寄せるために肩にのせられていた彼の手が、もう片方の手とともに背中に回る。
微かに漂うハーブの香りは、先生が使っているシャンプーだろう。先生のイメージにぴったりの、胸がすくような清涼感のある香りだ。
「頑張ってくれてありがとう、実織」
耳元で先生のささやきを聞きながら、頭のなかに疑問符の嵐が吹き荒れる。
えっ、今、私、先生にハグされてる?
なんで? どうして?
先生が抱きしめる両手から、触れ合う胸から、パジャマ越しに彼の体温が伝わってくる。
「もしかして、困ってる?」
「こ……困ってなんてないです」
先生に指摘された通り、しっかり困っていた。男性にハグされた経験なんてないから、どうリアクションすればいいのかわからない。
「だって、固まってるから」
「固まってなんてっ……ただ、その、緊張しちゃって」
「こういうことされるの、抵抗ある?」
「ち、違いますっ、逆です――うれしいから」
いつもよりぐっと近い距離で。いつもより甘い声でささやきを落とされると、頭のなかが沸騰しそうだ。
「実織」
先生が私の名前を呼ぶ。普段の生活で聞き慣れてはいても、私にとっての癒しの響きであることには変わりない。
「俺を見て」
先生は少し私の反応を面白がっているのかもしれない。声の響きに笑いが交じる。
「だ、ダメっ」
先生は軽く私の胸を押して私の表情を見下ろそうとするけれど、私は彼のパジャマの袖を掴んで、抗った。
「――私、緊張しすぎて、きっとみっともない顔をしてると思うのでっ……」
先生に変に思われたくない。結婚までしておいて、ハグされたくらいでこんなに意識してしまうなんて、男性に対してあまりにも不慣れで、ふがいない。
「みっともなくなんてないよ、実織はいつもかわいいから」
「っ……」
「だから、こっち見て」
先生は、どうしてそんなに私がよろこぶ台詞を口にしてくれるんだろう。
そんなことを言われると……彼の言う通りにしなきゃいけない気になってしまう。
私は少し身体を引いてから恐る恐る目を開けた。
先生の黒い瞳に私の顔が映っている。今、私たちはそれくらい近くにいるのだ。
私と視線が交わると、彼はうれしそうにその目を細めたあと、もう一度私を抱きしめる。
「……実織といると癒されるし、飽きないよ。一緒に居てくれてありがとう」
「わっ……私のほうこそ、いつも先生に癒されてます」
手持ち無沙汰な両手を、そうすることが正しいような気がして彼の背中に回したあと、照れて震える声でそう応える。
さっきは驚きすぎてわからなかったけど、先生はスラリとしていてスタイルがいいのに、こうして触れ合うと意外と筋肉質で男性らしい身体つきだ。例えば、なにかスポーツでもやっていたかのような。
――あぁ。もうこれ以上、彼の魅力的な部分を知りたくない。このままでは、もっともっと惹かれてしまう。
恋愛感情を抱いてはいけない人なのに……本当に、好きになってしまいそうだ。
彼の肩口に触れた頰が、背中に触れる両手が――とても、熱い。
「よかった。やっぱり俺たちは上手くやっていけそうだね」
先生はゆっくりと身体を離し、私の背に回していた手を解いた。
恥ずかしくて逃げ出したいくらいだったのに、その手の感触が消えると妙に名残り惜しい。
「名前はこれから呼んでもらえるからいいとして……俺に対する言葉遣いも敬語だよね。ちょっとよそよそしく感じてたんだ。家族にそんな言い方はしないでしょ?」
「よそよそしい……ですか」
言われてみれば。夫婦であるにもかかわらず、過剰に気を遣った言葉遣いをしてしまうことも多かった。
「もちろん職場では砕けた話し方はできないだろうし、場所に応じて使い分けるのは難しいと思うんだけど……ゆっくりで構わないから、もっとフランクに接してほしいな」
年上である先生には、きちんとしなければ――と自戒していたのだけど、彼のほうからしてみれば距離を感じるということなのだろうか。
ちょっと気が引けるけれど、先生がそれを望んでいるのであれば応えるべきか。
「善処します……あっ」
最初の第一歩で躓いてしまい、口を噤んだ。
「うん、そのうちでいいから。よろしくね」
それが面白かったらしく、先生が喉を鳴らして笑う。それから、懇親会のときにそうしてくれたみたいに、私の頭をぽんと撫でてくれた。
「はい……!」
指先から伝わる温もりがうれしい。
先生が思っていることを伝えてくれたおかげで、夫婦としての関係が一歩前進したような気がした。
彼の要望でもあるのだし、いつまでも他人行儀でいてはいけない。
しばらくは恥ずかしさが取れないかもしれないし、癖が抜けずに間違えてしまうこともあるかもしれないけれど、『先生』ではなく、『啓佑さん』と――きちんと名前で呼ばせてもらうことにして、距離を感じない言葉遣いを心がけよう。
「け……啓佑さんは、もう寝る……?」
やっぱり違和感が拭えない。いつもよりも声が小さめになってしまうのは、自信のなさの表れだ。
「うん。明日も早めに出ようと思うから。実織は?」
「私ももう……寝る、ね」
「頑張ってるね。いい感じ」
ぎこちない私の言い方に、啓佑さんはやっぱり楽しそうだった。
「からかわないでください――じゃなかった、からかわないで……」
「慣れだよ、慣れ。継続すれば定着するから」
まだまだ全然しっくりこないけれど、彼の言うように、継続できれば意識せずともフランクに接することができるのだろうか。
……いや、できたらいいな、と思う。私と啓佑さんの心の距離が、もっと近づくように。
――その夜、私はいつもよりも満たされた気持ちで眠りについたのだった。