書籍詳細
愛なきお見合い婚で、旦那様と極甘な恋が始まりました
あらすじ
「これ以上、僕を我慢させないで」敏腕御曹司の独占欲は極上スイーツより甘く
夏帆は亡き祖母の縁で、エリート副社長・亮司とお見合いをする。亮司の「理想の結婚ができないと思ったら、婚約破棄してもいい」という仮婚約の提案を受け入れ、彼の秘書として働くことに。最初は亮司を冷徹だと思っていたものの、一緒に過ごすうちに優しさを知り、心が揺さぶられる夏帆。そんな時突然、彼に甘く抱きしめられ、蕩けるキスをされて!?
キャラクター紹介
村山夏帆(むらやまかほ)
婚約者かつ秘書として一途に亮司を支える。素直な笑顔で亮司の頑なな心も溶かしていく。
矢敷亮司(やしきりょうじ)
有能すぎて冷徹な御曹司に見えるが、実は不器用で優しい。夏帆に恋をして変わる。
試し読み
だが食事をするだけといっても、男性とふたりきりになることに抵抗があった。婚約者がいるということは、夏帆にとってそれだけ重いのだ。
「悪いけど」
「俺さ、今日表彰されるわけ。夏帆もよく書けてたって、褒めてくれたじゃん? 祝ってくれてもいいよね?」
相手にNOと言わせない押しの強さ。信吾はやはり変わってない。付き合い始めたときも、こんな風に押し切られたのだ。
「……わかった」
「やりぃ。んじゃ、会社出たとこで待ってるから」
信吾は満足そうに言い、夏帆はこっそりため息をついたのだった。
表彰式は厳かに行われ、さすがの信吾も粛々と賞状を受け取っていた。目配せなんてしてきたらどうしようと思っていたけれど、そこは場をわきまえてくれたようだ。
式が終わっても、信吾が夏帆に近づいてくるようなことはなかった。そういう配慮はちゃんとできるようになったらしい。
ただ千尋は別だ。夏帆と信吾の会話風景を見ていたし、話を聞きたくてウズウズしているようだったから、今夜食事をすることだけは伝えておいた。変に隠し立てするほうが、よくないと思ったのだ。
千尋が勝手に盛り上がる一方、夏帆は気が進まなかった。
ただ罪悪感が少しずつ薄れ始めていたのは事実だ。亮司のしていることに比べれば、元彼と会ったってどうということはないだろう。
むしろ夏帆が信吾と会うことで、バランスが取れるくらいかもしれない。めちゃくちゃな論理だと思うけれど、それだけ彼女は参っていたし、傷ついてもいたのだ。
「お疲れ」
信吾は約束通り、会社の前で待っていた。表彰式が終わってから、どこかで時間を潰していたのだろう。わざわざ夏帆と食事をするために、ご苦労なことだ。
「お疲れ様。どこ行くの?」
「その辺の居酒屋でいいっしょ?」
誘ったわりに無計画で、亮司とは対照的だと思う。まぁそのくらいのほうが、夏帆は気楽でいいけれど。
「私、飲まないよ?」
「いいよ。俺が飲みたいだけだから」
信吾は携帯電話を取り出し、地図アプリで近場の居酒屋をピックアップする。そのまま空き状況を確認して、席を用意してくれた店に向かう。
店に入ると運搬ロボットがホールを巡回し、テーブルの上にはタブレット端末が置かれていた。配膳をロボットに任せれば、混雑時でもスタッフは接客に集中できるし、タッチパネルならオーダーミスもない。
「最近便利になったよね。セルフオーダーシステムとかキャッシュレス会計とか、将来は信吾の仕事もなくなったりして」
ちょっと意地悪な言い方だったかなと思ったけれど、信吾はノーダメージのようだった。平気な顔をして、注文を続ける。
「それはないよ。こういうチェーン店ならともかく、『YASHIKI』のお客さんは、俺とのコミュニケーションを楽しみに来てるんだから」
「へぇ、自信あるんだ」
注文を終えた信吾が、堂々として夏帆に言った。
「当たり前。俺は仕事にプライド持ってやってるし。『YASHIKI』は単に飯食うとこじゃないんだって。店の雰囲気とか落ち着いた音楽とか、いろいろ込みで楽しむとこなわけよ」
確かに高級レストランに行って、タッチパネルで注文は味気ない。気の利いた給仕があってこそ、料理も美味しく食べられるというものだ。
「結構、ちゃんと考えてるんだね」
夏帆は褒めたつもりだったが、信吾は不満そうに唇を尖らせる。
「夏帆さぁ、俺のこと馬鹿にしてない?」
「してないしてない。むしろ職場に愛着あるんだなって、感心してる」
「俺は愛社精神あるよ。入社してからすごい勉強させてもらったし、正直従業員は恵まれてると思う」
「私も、人を大事にする企業だと思うよ」
夏帆の言葉は本心だし、信吾が『YASHIKI』の仕事にやりがいを感じているのは、歓迎すべきことだと思う。
もっと肯定的に受け取りたいのに、そのうち『YASHIKI』を去らねばならないのかと思うと、夏帆は素直に喜べない。亮司の熱意や努力が、従業員たちにきちんと伝わっているのは、とても嬉しいことなのに。
「やっぱ会長がさ、いい人なんだよ。引退してからも現場に顔出してくれて、ラーメン食いに連れてってくれたりすんの」
「そう、なんだ」
「すげー慕われてるよ。俺らの話もしっかり聞いてくれるし」
輝利は料理人としても超一流だ。現場の人間は彼をリスペクトしているのだろうし、皆に囲まれている様子が想像できる。
だが亮司はどうなのだろう。現場の人間に彼の印象を聞けるいい機会だと思って、夏帆は何気なく尋ねた。
「会長の他にも、経営陣が現場に来ること、ある?」
「うーん、社長はまず来ないね。副社長はたまに来て、駄目出ししてくけど」
予想はしていたが、やはり亮司の評判はよくないようだ。きっとまた、悪気なく正論を押しつけてしまっているのだろう。
以前『YASHIKI』で食事をしたときも、従業員たちは副社長を前にして、やけにかしこまっていたし、輝利ほどいい関係を築けていないのかもしれない。
「つーかさ、仕事の話より俺らの話しようよ。こうして旧交を温めてるわけだしさ」
信吾は身を乗り出し、甘えるような声で言った。この可愛いあざとさが彼の持ち味なのだろうけれど、夏帆には通用しない。
「温めるほどの交際はしてないでしょう?」
夏帆の言葉を聞いて、信吾は椅子の背もたれに身体を預けた。つまらなそうに頭の後ろへ手をやり文句を言う。
「つれないなー。何回かデートしたじゃん」
「したけど、すぐ連絡くれなくなったじゃない。私を好きだったんじゃなくて、面白半分で付き合ってみただけでしょう?」
どうやら図星だったようで、信吾は素直に白状した。
「まぁ男慣れしてなさそうで、物珍しさはあったけど」
「やっぱり」
「でも夏帆だって、練習くらいのつもりだったんじゃないの?」
答えに窮したのは、それが事実だったからだ。興味本位は夏帆も同じだった。一度くらい男女交際というものを経験してみたかったのだ。
「お互い様だと思うよ。俺、一応紳士だったっしょ? 夏帆に手を出そうとは、思ってなかったし」
信吾はそれなりに相手を見ていたらしい。初めての交際相手が彼だったのは、きっと幸運だったのだろう。
「ふたりとも、若かったってことかな……」
「今はもう、違うけど」
じっとこちらを見る信吾の目は、いつになく真剣だった。彼が次に話す言葉がなんなのか、夏帆は聞きたくない。
「えっと、なかなか注文来ないね」
夏帆が話をそらし、通路に視線を移したのに、信吾は構わずに言った。
「それなりに年取ったんだし、今度はオトナの付き合いしない?」
婚約者がいる、喉まで出かかった言葉が言えなかった。今後どうなるかわからない亮司との関係を、信吾に打ち明ける気にはなれなかったのだ。
「冗談はやめて」
「ずっと、夏帆のことは気になってた。あれからいろんな女と付き合ったけど、俺がヤらずに別れたの、夏帆だけだし。この再会に運命、感じてるよ」
自然消滅してから、何年も経って、今更本気の告白なんて。夏帆はどんな顔をしていいかわからない。
「大げさに、言わないでよ」
「俺、今よりマジになったこと、ないんだけど?」
突然信吾に手を握られ、夏帆の抵抗も虚しく、彼のほうへ引き寄せられる。
「夏帆じゃなきゃ、こんな必死に口説かないよ。夏帆は特別なんだって」
どうしてそれを、信吾が言うのだろう。夏帆がずっと聞きたかった台詞、いつか亮司から打ち明けられると思っていたのに。
鼻がつーんと痛くなって、涙がこぼれそうになる。信吾の前だというのに、気を緩めると泣き出しかねない。
「ごめん、今日は帰る」
「ちょ、なんで。まだ料理も来てないのに」
夏帆は立ち上がり、財布から五千円札を引っ張り出した。
「気分、悪くなっちゃって。本当にごめん」
テーブルに札を置くと、夏帆は信吾の制止も聞かずに、鞄を抱えて店を出たのだった。
*
最悪の朝でも、会社には行かないといけない。明け方まで寝られず、つり革を持ったまま、ウトウトとしてしまったほどだ。
こんな状態をいつまで続ければいいのだろう。
いっそ婚約破棄を言い渡されたほうが、楽になるのかもしれない。そんな恐ろしいことさえ考えてしまうほど、夏帆は疲弊し切っていた。
「おはよう。ね、昨日はどうだったの?」
出社するなり千尋に声を掛けられ、夏帆はどうにか笑みを浮かべる。
「体調があんまりよくなくて、途中で帰ってきちゃいました」
予想とは違う答えだったからか、千尋は申し訳なさそうな様子で、夏帆を気遣ってくれる。
「そうなんだ。大丈夫? なんか今日も元気なさそうだけど」
自覚はしているから、チークを厚めに塗ったのに。やはり付け焼き刃じゃ、顔色の悪さは隠せないみたいだ。
「仕事には影響が出ないようにしますので」
夏帆の体調の悪さは、完全にプライベートのせい。社会人なのだから、それで休むなんてもってのほかだ。
「無理しなくていいのよ? 辛かったらちゃんと言ってね?」
「はい、ありがとうございます」
夏帆は『YASHIKI』の社員なのだ。今はまだ。たとえこの先クビになるにしても、最後の日まで精一杯働きたい。
気力を振り絞って業務をこなし、ようやく昼休みになった。
食欲はないが、何か食べなければそれこそ倒れてしまう。夏帆は仕方なく立ち上がり、コンビニでも行こうとしたところで、亮司から声を掛けられた。
「村山さん、ちょっといいですか?」
このタイミングで亮司が仕事を頼むのは珍しい。休み時間はきっちり取るように、といつも言っているのに。
「はい、なんでしょうか?」
「すみませんが、執務室まで来てくれますか?」
ここでは話せないようなことなのだろうか。夏帆は訝しみながら、亮司の後ろについていく。
部屋に入り扉を閉めた途端、亮司が振り向いた。彼の顔が驚くほど険しく、夏帆はその場に立ちすくんでしまう。
「あの、何か?」
もしかして寛子のことかもしれない。ついに来るべきときが来たのかと、夏帆は胸の前で両手を組む。
「昨晩のことを、聞かせていただきたくて」
昨晩? 寛子のことではないのだろうか?
亮司の顔も声も強張っている。無理に感情を抑えているようだ。彼は瞬きひとつせず、探るような視線をこちらに向けていた。
夏帆はわけがわからず、ありのままを告げる。
「友達と食事をする予定だったんですが、途中で気分が悪くなったので、帰宅しましたけど」
亮司の表情が一層厳しくなった。深く刻まれた眉間の皺が、彼の苦悶を表している。息詰まるような空気の中で、組んだ手の指先が皮膚に食い込む。
「友達というのは、うちの男性社員ですよね?」
千尋が話したのだろうか。そういえば、午前中亮司に何か聞かれていたような気もする。夏帆は目の前の仕事に手一杯で、気に留めていなかったけれど。
だが今はそんなことどうでもいい。亮司は一体何に憤っているのだろう。
「そうです、けど」
「夏帆さんは以前、その人物とお付き合いしていたと聞きましたが」
鬼のような形相の亮司が近づいてきて、夏帆は扉の前から動けない。
いつもクールな亮司が、これほどまで怒気を含んだ激しさを見せたことはなく、夏帆は思わず後ろ手でドアノブを握った。
部屋から逃げ出したくて、でもそんなことできるはずもなくて。ただ気が動転して、何かにすがらずにはいられなかったのだ。
「ぁ、あの」
「どうなんですか? 正直に答えてください」
「昔の、話です。何度かふたりで出かけたことがあるだけで」
ドンッ。
感情に任せて亮司が扉を殴った。憤怒のオーラが目に見えるようで、夏帆は恐ろしさのあまりうつむいてしまう。
亮司はそんな夏帆の顎を掴んだ。乱暴で強引で、初めて婚約者に触れるというのに、思いやりも何も感じられない。
「やめ、て、ください」
震える声で夏帆が頼んでも、亮司の指先は彼女を捕らえたまま。
否応なしに夏帆の顎を持ち上げ、息が掛かるほど近くまで顔を寄せた。彼女の知らない、狂おしいような表情で、亮司が声を絞り出す。
「僕との同棲を断ったのも、彼のせいですか?」
何を言っているのだろう。信吾と再会したのは、断るよりもあとのことだ。行き違いを正そうと、夏帆は躍起になって説明する。
「違います! 本当にお邪魔になってはいけないと」
「じゃあどういうつもりなんですか!」
「何が、ですか?」
理解できないから尋ねているのに、夏帆の質問によって、亮司の怒りはさらに増していくようだった。
「元彼とふたりで食事、それも酒を提供するような店で、夜に! 間違いが起こってからじゃ遅いんですよ!」
「間違いだなんて、私たちそんな関係じゃ」
「夏帆さんがそう思っていても、相手はどうだかわからないでしょう。本当にただの食事だったんですか? ひと言も口説かれなかったと?」
交際を迫られなかったと言うと、嘘になる。夏帆が黙っていると、亮司はますます激昂した。
「あなたを前にしたら、誰だって言い寄りたくなります! 夏帆さんは自分の魅力に自覚がなさすぎるんですよ!」
亮司が夏帆の両肩を掴み、ガクガクと揺すりながら続ける。
「お願いだから僕だけを見ていてください。僕にはもう、夏帆さんのいない世界なんて考えられない」
もしかして亮司は、信吾に嫉妬しているのだろうか。信じがたいことだけれど、今の発言からはそうとしか考えられない。
ちょっと食事をしただけで(実際には食事すらしていないのに)、あの冷静沈着な亮司が、ここまで取り乱すなんて。
驚きながらも、夏帆にだって言い分はあった。亮司にも寛子がいるのに、悋気する資格なんてない。
「あんまりです! 身勝手すぎますよっ……!」
横暴な亮司を責めたくて、夏帆は涙が滲んだ目で強く睨んだ。ハッとした彼は彼女の肩から手を離す。
「どうして、そんなことが言えるんですか? 亮司さんには、心に決めた方がいるんでしょう!」
ずっと言われるままだった夏帆に反論され、亮司は明らかに狼狽した様子で尋ねる。
「心に決めた? なんのことですか?」
「とぼけないでください! 私見たんですから、亮司さんが浦田さんと会っているところを」
亮司の表情を見る限り、夏帆が寛子に会ったことは、本当に知らなかったようだ。まごつきながら、彼は懸命に否定する。
「彼女はただの友人で」
この期に及んで、まだしらを切るつもりなのだろうか。堰を切ったように気持ちが溢れ、夏帆は亮司の胸を拳で叩く。
「嘘ばっかり! 私はっきり聞いたんですよ! 彼女の口から、こいび、と、だって」
口にしてしまうと、もう駄目だった。あとからあとから涙が頬を伝い、止まらなくなる。ずっとずっと我慢していたのに。
「っ、あぁ……、もらった、お菓子も、あの人の、お店の、でしょう? ひど……いっ、わたし、すごく嬉しかった、のに……」
途切れる言葉、漏れる嗚咽、化粧も涙でぐちゃぐちゃだ。
こんなんじゃ亮司に嫌われてしまう。わかっているのに、想いも涙も止められなかった。
「あな、たが、ひっ……、くっ、すき、だった、のに……っ」
亮司の指が夏帆の頬をぬぐった。彼女が顔を上げると、彼の表情が驚くほど柔らかくなっている。
甘い笑みを浮かべた亮司が近づいてきて、そっと穏やかに唇が重ねられた。
「っ?」
今のは何? キス?
あまりにもさりげなくて、夏帆は目を瞬かせた。さっき彼女の顎を、無理矢理掴んだ人と同じだとは思えない。亮司の豹変ぶりに頭が追いつかなくて、自分の感情がうまく整理できなかった。
「僕もあなたが好きです」
亮司の表情は澄み切っていて、そこには照れすらもなかった。まるで雲ひとつない晴天の下で行われた、選手宣誓みたいだった。
夏帆のほうは、そんな亮司の台詞を理解するまで、タイムラグがあった。意味がわかってからも、彼が発した言葉だとは信じられず、身体が硬直する。
固まる夏帆をそのままに、亮司は急に帰り支度を始めた。彼女が突っ立っていると、彼から指示が飛ぶ。
「夏帆さんも帰る用意をしてください。今日はもう仕事はいいです。もっと大事なことがあるので」
「え、あの、でも」
「あと十分でここを出ます。いいですね?」
目の前のことに夢中になっているときの、亮司だった。仕事以外で、彼がそんな表情を浮かべていたことなんてない。
仕事より大事なことが、亮司にあったなんて。夏帆は何がなんだかわからぬまま、涙をぬぐって執務室を出たのだった。