書籍詳細
恋愛禁止のCEOは、即日結婚をお望みです
あらすじ
「全部忘れて、俺に愛されて」エリートCEOの情熱が止まらない
アクセサリー会社・企画部の真香は、真っすぐで一生懸命。若く有能なCEO・行尽の無茶ぶりにも健気に応えつつ、彼にずっと片想いをしていた。ある日、熱をだした時に行尽に看病してもらい、彼の優しい瞳にときめく。更に英国出張中「誰にも譲る気はない」と彼から情熱的なプロポーズ!帰国後、甘く熱いキスと蕩けるほどの愛情表現に翻弄されて!?
キャラクター紹介
笹百合真香(ささゆりまなか)
マイペースに見えて、周りを気遣う芯の強い26歳。密かに行尽を想い続けている。
立葵行尽(たちあおいいつき)
優しく有能なため、女性に勘違いされやすい。真香の一途さに救われ、彼女の全てを愛する。
試し読み
(あれ? よく考えたらわたし、男の人の部屋に上がるの初めてだ……)
ようやくそのことに気づいて、脱いだ靴を揃える手が震えそうになる。
本当に来てよかったの? 社会人にもなって、夜分に男性の部屋に上がるなんて危機感がなさすぎた?
ううん、会長に限ってよこしまな意図はないはず。彼は、仕事にかこつけて女性をどうこうしようと考える人じゃない。
気を取り直して立ち上がり「お邪魔します」と頭を下げた。
「どうぞ。飾りっ気のない部屋だけど」
細い廊下の先は、二十畳ほどの広々としたLDK。カウンターキッチンも含めて物が少ない所為か、モデルルームみたいだ。
「あ、ベランダ! 晴れていれば海が見えたりしますか?」
「うん。わざわざ海の見える部屋を選んだんだ」
窓から外を覗き込むと、ベランダの柵越しに雪がまっすぐ落ちていくのが見えた。
時間の流れがふっと、緩やかになったような錯覚。ここが、会長のお部屋。いつも彼が生活している空間。
やはり、わたしとは住む世界がちがう。
「会長、早速ですけど試作品を見せていただいてもいいですか?」
余計なことを考えている場合じゃない。と、わたしは気を引き締めたのだけれど、その直後、会長のお腹がぐうっと鳴った。
「……ごめん。お腹、減ってない?」
気まずそうに口もとを拭う仕草が、少年っぽくて可愛い。
「そろそろ夕食の時間ですよね。あの……何か作りましょうか」
「え!? いや、うれしいけど、何か出前でも取ろう。料理までさせたら申し訳ないし、そもそも冷蔵庫が空っぽで何もできそうにないし」
ほら、と扉を開けて見せられた冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターが三本しか入っていなかった。食材どころか調味料も一切ない。
「取材対応のお礼として、何かご馳走するよ。ただしデリバリーに限る、だけど」
「そういうことなら、遠慮なくご馳走になります」
そんなわけでわたしたちは急遽釜飯をオーダーし、待っている間に仕事を進めることにした。
「俺もインコ飼おうかな」
書斎へと案内しながら、会長は言う。
「笹百合のうちでみどりくんと話したら、話し相手がいるっていいなと思った」
みどりくん……わたし、みどりくんの名前を紹介したっけ?
ううん。きっとみどりくんが自己紹介したのだろう。
「みどりくんはセキセイインコなんですけど、お喋りしない子もいるみたいですよ?」
「えっ、個体差あるの? いや、そうか。生き物なんだから個性は当然あるよね。でもみどりくん、試しにいろいろ聞いてみたら答えてくれるからびっくりしたよ」
そう言いながら、彼は廊下に並ぶ扉の一枚をがちゃっと開けた。
書斎というから、てっきり、リビング同様にシンプルモダンで機能的な室内だろうと思ったのに……。
照明が灯った途端、わたしは歓声を上げてしまった。
「わ……!」
壁面にずらりと並ぶガラスケース。
まるで宝飾品店だ。
所狭しと飾られているのは『ブラウンシュガーハニー』の製品。ヘアピンにカチューシャ、ターバン、バレッタにマジェステ――。
半分以上、見覚えがある。
「例のワッペンの試作品、まだ途中のやつがデスクの上にあるから見てて。俺、コーヒーでも持ってくる。あ、コーヒーメーカーだけはちゃんと使えるから心配しなくていいよ」
会長が部屋から出ていっても、わたしはガラスケースの前から動けなかった。
誇らしげに飾られている自社製品たちはまるで、高価な宝石のよう。わたしが初めて手がけた製品も、最近販売が始まった製品もある。
こんなに大切に保管してもらえるなんて、社員冥利に尽きる。
(……あれ?)
すると一番上の段の、真ん中。
わたしはそれに気づいて、呼吸が止まるかと思った。
「わたしが学生時代に作った、ピアス……」
レジンを固めて作った、夏向けの揺れるピアス。
ハンドメイドサイトを通して売ったものだ。
ううん。ピアスだけじゃない。ネックレスも、ブレスレットも。それらは販売時と変わらぬ輝きで、ケースの中に飾られていた。
そういえば、新人研修の前に会長は言っていた。
『ハンドメイドサイトで販売してる作品、買ったことあるよ。ファンなんだ』
あれは口先だけではなかったのだ。
本当に買って、そして大切に持っていてくれた。
わたしは、捨ててしまったのに。恋に落ちた日、会長が前髪に留めてくれたヘアピン。持っていたって未練たらしいだけだって、切り離してしまったのに。
「あ、そうだ、笹百合」
そこに、会長が思いついた様子で戻ってくる。
「今度から、メールじゃなくて電話で笹百合の予定を聞いてもいいかな」
咄嗟に振り返れなかったのは、涙が浮かんでいたから。
好きになったり、諦めたり。わたしがひとり、わきまえたふりをしている間も、これはここにあって、大事にされていた。
その事実が何より、わたしの胸を切なく締めつけた。
「笹百合、どうした?」
不思議そうに呼ばれて、急ぎ涙を拭く。いつまでも無言でいたら変に思われる。そうして周囲も確かめず、勢いよく振り返ってしまったのがよくなかった。
「あ……」
心臓が止まるかと思う。
だって、目の前に精悍(せいかん)な顔があったから。わたしを心配して、顔を覗き込もうとしていたのだろう。鼻先が、ちょんと触れてしまう。反射的に、ぱっと体を引く。
「ご、ごめんなさい!」
そう、後退したつもりだった。
けれどわたしはのけぞっただけ。
一瞬早く腰に回された腕に、阻まれていた。
「笹百合」
みるみる近くなる。白目との境目がくっきりした、きれいな茶色の虹彩。心臓はばくばくと暴れるのに、動けなかった。
透明度の高い水晶でも、覗き込んだみたい。目が逸らせない。
心ごと、吸い込まれる――。
「……っ、ん」
重なる唇。触れたのは、一瞬だった。
温かさはわからず、柔らかさだけを感じた。
――これって、キス。
理解したのは、唇が離れてから。我に返った顔に、焦点が合ったときだった。
「……ご、めん」
詫びる彼の耳が赤い。目は合わないし、ひたすら気まずそうだ。
こんなに混乱している会長、初めて見る。ううん、わたしだって混乱している。信じられない気持ちで、口もとに手をやる。
(キス……したんだよね? どうして会長が、わたしに、キス……?)
社内恋愛はしないのではなかったの? どうして、わたしなの。
「本当に、ごめん。そういうつもりで、部屋に呼んだわけじゃないんだ」
それは、深い意味はないということ? わたしのことはなんとも思っていないから、誤解しないでくれと言われている?
ああ、そうに決まっている。だって会長は雲の上の人だ。社内恋愛をしない人だ。過剰に反応したらいけない。
「これ以上はしないから。仕事、しようか」
わたしはうなずいて、何事もなかったふりをして仕事を始めた。
でも、集中できるはずがなかった。
赤、と書くところに青、と書いてしまうくらい。
察したのか、はたまた彼のほうも集中できなかったのか、いつもスムーズな打ち合わせは一時間ほどかかってしまった。
直後に届いた釜飯は、食べずにおにぎりにした。
これ以上そばにいても気まずくなるだけだ。だって、時間が経つにつれてますます彼の顔を直視できなくなっていく。
そそくさとタクシーを呼び、滞在時間一時間でわたしは会長の部屋をあとにした。
自宅に着いてからだ。
スマートフォンに、見知らぬ番号からの着信があったと気づいたのは。
『もしもし? 俺、立葵だけど』
留守電を再生して、飛び上がるほど驚いた。
なんで会長から電話がかかってくるの? わたし、会長に電話番号を伝えたっけ?
『さっき、話が途中になっちゃったから。電話、この番号でいいんだよね? この間、みどりくんが教えてくれたんだ』
ああ、そういえば、みどりくんと話したと言っていた。試しにいろいろ聞いてみたら、話してくれた、とか。聞いたのは電話番号だったのか。
(――って、ちょっと待って)
聞いたの? 会長が、わざわざわたしの番号を――みどりくんに? なんで?
『今後、この番号に連絡してもかまわない? 大丈夫なら、ワンコールしてほしい』
連絡というのは、仕事の? それとも、プライベート……ううん。ありえない。
期待したらいけない。平常心でいなくては。
すぐにワンコールして、シャワーを浴びた。
自惚れそうになる気持ちと一緒に、濃いめのメイクを洗い流して。湯上がりにはあえてがしがしと、タオルで雑に顔を拭いて。
「……はあ……」
けれど唇に残されたこそばゆさは、すこしも消えてくれなかった。
それから出張まで、立葵会長からの「訪ねていく」という連絡は来なかった。
こちらから電話をかけてみようかと、思わなかったわけじゃない。
というのも、わたしはあの日、混乱しすぎて会長の部屋からうっかり『しゃもじ』を持ち帰ってしまっていた。
(なんでしゃもじなの。しかもこれ、釜飯屋さんのだよ!?)
お詫びして、お返ししなきゃ。会長だけでなく、釜飯屋さんにも迷惑だ。でも、顔を合わせるのはおろか、声を聞く勇気もなかった。
だって、きっと蘇(よみがえ)ってしまう。キスの感触も、キスの直前に見つめた瞳の色も、かすかな熱を孕(はら)んだ視線まで、鮮明に。
すると、どう頑張っても通話ボタンを押せなかった。
びくびくしたまま迎えた、出張当日――。
「笹ちゃん、こっちこっち!」
空港のカフェで、まずはあやめ先輩と合流した。営業部長と担当営業もすぐに到着し、わたしたちは出発ロビーへ向かう。
「あの、浜木綿社長は……」
「社長はファーストクラスだからロビーがちがうのよ。それより笹ちゃん、忘れ物はない?」
「あ、はいっ。大丈夫だと思います。ガイドブックはスマートフォンの中に電子版を入れてきましたし、スコットランドのタータンについても資料を読み込んできましたから!」
そうだ。わたしはずっとこの日を楽しみにしていた。そのためにテレビ取材も頑張ったのだ。びくびくしたまま旅立つなんて勿体ない。
会長とは現地で合流する予定だけれど、それまで数日あるし。気まずい気持ちは一旦、日本に置いていこう。
そう思ったのに――。
「おはよう。今日はよろしくね」
出発直前、現れたのは立葵会長だった。
ラフなニット姿を前に、わたしは硬直した。
「同じ便に乗るのは……社長のはずでは……」
「その予定だったんだけどね。万里、急な仕事が入っちゃったらしくて。俺はたまたま余裕を持ってスケジュールを空けてあったし、社長と会長が同じ便で移動するっていうリスクさえ回避できればいいから、出発便を交代したんだ」
そんな馬鹿な。こんなの、突然すぎて困る。
現地で合流すると聞いていたから、それまでに気持ちを切り替えようと思ったのに。数日間だけでも会長とのことは全部忘れて、楽しむつもりだったのに。
うろたえるわたしをよそに、会長は心なしかうれしそうだ。修学旅行に行く学生みたいにそわそわしている。
「せっかくだから皆と一緒に移動しようと思って、カウンターでエコノミーに変更できないか掛け合ってみたんだけど、満席だって言われちゃって。残念だな」
社員たちと笑い合う様子を遠目に見ていると、わたしは気まずさの向こうですこしモヤっとした。
(会長は気まずくないの?)
こうしてわたしと顔を合わせていて、どうして平気でいられるのだろう。
ひょっとして、この間のキスはなかったことにされている? あるいは、いつまでも気にするほどのことではなかった――?
深い意味はないとわかっていたけれど。期待なんてしていなかったけれど、でも。
そのとき、突然ピピピッと電子音が鳴った。営業部長のスマートフォンだった。
「失礼。――はい、社長、お疲れさまです」
発信者は浜木綿社長らしい。両手でスマートフォンを構え、丸みのある体を丸めてぺこぺことお辞儀をしながら話していた営業部長は、唐突にわたしにそれを差し出してくる。
「えっ」
「社長からだ。年末のプレゼンで使ったコンセプトボードはどこにあるのか、教えてほしいそうだ」
「あっ、はい、わかりました!」
スマートフォンを受け取り「代わりました、笹百合です」と呼びかける。ああ、と社長の声はすぐに聞こえた。
『出発前の忙しいときにすまない』
「いえっ。コンセプトボードですよね。資料室に入ってすぐ右手、棚の手前にあります。白い大きな紙袋の中です」
伝えた途端、がさがさっと音がした。すでに資料室にいたのだろう。
『……うん、これだな。ありがとう、あったよ』
そう言う社長の声に重なり、さらにがさがさと音がする。
『なるほど。資料も、レジュメのコピーも入ってるんだな』
「はい。社外プレゼンで使うかもしれないと思ったので、一応、誰が見てもわかるようにしておいたんです」
はあ、と社長は感心したようにため息をつく。
『笹百合さんは企画部より、秘書課のほうが向いてるんじゃないか』
「秘書課ですか? いえ、まさか」
そんなこと、初めて言われた。
きっと冗談だろう。だって残業中の居眠りを見咎められているのに、秘書の適性があるなんて本気で言われるとは思えない。
すると、耳にあてていたスマートフォンがいきなり消えた。何事かと振り返って見れば、それを会長が耳に構えるところだった。
「もしもし、万里? 会食、十一時からだろ。頑張ってきて」
わざわざ自分から電話口に出たわりに、ぞんざいな口調だ。
「……うん。大丈夫だよ、皆がいれば俺はひとまず食事は抜かないから。じゃあ、先に行って待ってる」
それからスマートフォンを営業部長に返し、会長はわたしにちらと視線を向けた。いつもどおりの穏やかな目つきなのに、一瞬で、射貫かれそうになる。
(……ううん、だめ。平常心、平常心。意識しはじめたら、仕事にならなくなる)
そうこうするうちに、搭乗時間になった。
座席は見事に全員がばらばらだ。わたしは前から三番目の窓際。あやめ先輩や営業部長たちは、もっと後方だった。
酔い止めを飲んでいたから、離陸直後には眠ってしまって、気づけば雲の上。
機内食を満喫し、さて映画でも観ようと前方のモニターを弄(いじ)りはじめたときだ。
なんだか、右のお尻の横がもぞもぞする。肘置きの下、膝掛けの内側だ。おかしいな、と思って横を見ると、右隣の座席の男性がにやにやしている。アジア人らしい顔つきの、ビジネスマンふうの人だった。
――痴漢。
そうと察した瞬間、わたしは席を立っていた。一秒だって我慢できなかった。貴重品のポーチだけを摑み、逃げるようにトイレの前へ。
(あやめ先輩……営業部長は……っ)
見知った顔を席に探すけれど、暗くて見つからない。皆、就寝中なのだ。見つかったとしても、起こすのは申し訳ない。
そうだ、クルーに助けを求めよう。ああ、でも、そこまで歩いていけそうにない。今さら足が震えて……。しかも痴漢男は振り返って、こちらをじろじろ見ている。告げ口しないかうかがっている感じだ。
頭にはもう「どうしよう」しか浮かばなくなる。
膝に力が入らなくて、トイレの前にへたり込みそうになったときだ。
「どうした?」
つむじに低い声が降ってくる。
顔を上げると、立葵会長が心配そうな顔で立っている。
「……か、会長」
どうして。ファーストクラスにいるはずの人が、なんでここにいるの。
「気分でも悪いのか? ちょっとのぞいたら席にいないから、どうしたのかと」
寝ているのではなかったの? 来てほしいタイミングで、どうして現れるの。
鼻の奥が突き上げるように痛くて、涙が滲み出す。泣いたらいけない。きちんと状況を説明しないと。でも、唇の感覚が淡くて言葉にならない。
「っ……」
「何かあったんだな?」
力強い声が耳に心地よくて、あまりにありがたくて、わたしは思わず彼の腕に手を伸ばした。ワイシャツの上から、ぎゅっと摑まる。
ほのかに、ムスクの香り。カーフレグランスの香りだ。
ああ、会長だ。本当に彼なんだ。
「ち、痴漢……っ。隣の、座席の人が」
絞り出すように告げると、会長は途端に目つきを鋭くした。
「わかった。笹百合はここにいて」
踵(きびす)を返した会長はずんずんと、わたしの座席へと向かっていった。
何をするつもりなのだろう。
殴り合いにでもなったらどうしよう。あの男がもし、刃向かってきたら……。
冷や汗を背中に感じながらも動けず、見守っていると、会長は笑顔で男に声を掛ける。二、三、にこやかに言葉を交わす。何を話したのかは、聞き取れなかった。
けれど直後、立ち上がった痴漢男はわたしに目もくれない。手荷物を抱え、会長のあとをいそいそとついて行った。
(どういうこと……?)
会長は何を言ったのだろう。男が素直に自分のしたことを認めて、クルーのもとへ向かった……ううん、そんなふうには見えなかった。
ぽかんとしていると、ややあって会長が何故だか自分の荷物を手に戻ってくる。
そしてわたしを「もう大丈夫だから」と、元の座席に連れ帰った。
「さて、時差ボケ防止にゆっくり寝ようか」
痴漢男が座っていた座席に腰掛けながら言われて、ぎょっとしてしまう。
「な、なんで会長が隣に……、あの人、どこへ行ったんですか」
「席を交換してもらったんだよ。きみを口説きたいから代わってくれって頼んだ」
「はい……!?」
何を言っているのだろう。口説くって――いや、それは嘘も方便にちがいない。
そんなことより、座席。会長の元の席は、ファーストクラスだった。高いお金を払って乗ったのに、エコノミーの客と交換するなんてどうかしている。
「……大損じゃないですか……っ」
わたしは泣きたい気持ちで訴えるのに、会長はいつもどおりの笑みで答える。
「笹百合を守るのに、損も得もないよ」
「でも」
「考えてごらん。この航空機のファーストクラスはほぼ個室だよ。着陸するまでの間、無法者を閉じ込めておくには最適だろ。ほかの乗客にとっても安全だし」
「だからって……っ」
「クルーには事情を伝えてきたから、笹百合は何も気にしなくていい。あの痴漢はもてなされていい気分になっているうちに、航空会社のブラックリストに載せられてしまえばいいんだ」
と、最後はすこし忌々しそうな口調だった。穏やかに笑って見せても、本当は苛立っているのだとやっとわかった。
わたしのため、だけじゃない。彼は彼の主義に従って怒り、そして対処をしたのだ。
そう思わせてくれるところが、やはり会長らしかった。
「……ありがとうございます」
ツンとする鼻の痛みに耐え、お辞儀したまま下唇を噛む。
(こんなの、意識せずにいられるはずがないよ)
これから一週間、わたしはきっと彼から目が離せなくなる。
だって、すでに会長が同じ便でよかったと思ってしまっている。
会長は、そっと手元灯を消した。
周囲の人たちに遅れて、わたしの元にも人工的な夜が来る。
ごうごうという飛行音が、急に耳の中で膨れ上がって聞こえる。宇宙にでもいるみたいな果てしなさの中、わたしは安心して目を閉じた。
体の奥からじんわりと、甘い熱が染み出してくるようだ。