書籍詳細
初対面ですが結婚しましょう~お見合い夫婦の切愛婚~
あらすじ
「君以外は欲しくない」交際0日、冷徹御曹司の契約花嫁になります
両親を亡くした美幸は、従姉の身代わりにお見合いをした御曹司・貴斗と「お互いに対して期待を持たない」という条件つきで結婚をすることに。ところが、新婚生活で不器用な彼の優しさに触れるたび、心の傷が癒やされていく。しかも、愛のない結婚だと割り切っていたのに、思う存分甘やかしてくれる貴斗に、美幸は強く惹かれる気持ちを抑えられず…!?
キャラクター紹介
廣松美幸(ひろまつみゆき)
両親を亡くして以来、ひとりで生きてきた。一度きりの人生でたくさんの経験をしようという考えの持ち主。
灰谷貴斗(はいたにたかと)
アメリカに本社をおく世界有数の情報会社『GrayJT Inc.』の御曹司の三男。モデル顔負けの容姿で、冷たい印象がある。
試し読み
おやすみなさい、と告げてドアを閉めてこの場を去ろうとする。しかし右手首を摑まれ足が止まった。摑んだ相手は確認するまでもなく、どうしたのかと聞こうとした瞬間、先に尋ねられる。
「ひとりで大丈夫なのか?」
真剣な貴斗さんの問いかけに私は面食らった。すぐに先ほどの発言を気にしてなのだと悟り、努めて明るく返す。
「大丈夫ですよ。すみません、余計なことを言って……」
最後は目線を下に向けてしまう。急に心臓が激しく打ち出し、存在を主張しはじめた。摑まれた箇所が熱を帯びて、逃げ出したい衝動に駆られる。
それは口調にも表れる。
「もう寝るので離してください」
彼の顔が見られないままぶっきらぼうに告げた。貴斗さんだって作業の途中だったはずだ。下手に私を気にかけなくていいのに。
そう言おうとして顔を上げると、突然の浮遊感に襲われる。まるで小さい子どものように貴斗さんが私を抱き上げたのだ。
「わっ!」
私の間抜けな声などまったく意に介さず、貴斗さんは私を抱えたまま自分の部屋の中に戻る。
そういえば貴斗さんの自室に入るのは初めてだ。
モノトーンでまとめられた部屋は、大きめのデスクと立派なチェアがゆったりと配置され、棚は専門書などの本が綺麗に整理されている。貴斗さんらしい。
視線が高くなった分、部屋を見渡せるのでついあちこち見てしまう。そちらに意識を飛ばしていると現状を忘れそうになっていた。
ベッドのそばに彼が足を進めていると気づき、パニックを起こしそうになる。
貴斗さんの意図が読めない。不安から彼のシャツを摑む手に力が入る。そして次の瞬間、唐突に私の思考は遮られた。
そっとベッドに下ろされ、背中がほどよく沈む。すぐに起き上がれず、私を見下ろす貴斗さんの顔を瞬きひとつできず見つめた。
ほんの数秒もない沈黙が永遠のように感じる中、貴斗さんが口火を切る。
「今はひとりじゃないんだから無理する必要はない」
硬直している私の頭を貴斗さんは優しく撫でる。
反論しないと。べつに無理なんてしていない。黙っていたら認めることになる。
声を絞り出そうとしたが、貴斗さんはさっとベッドから離れた。
「俺はまだやっておきたい仕事があるから、美幸はここで休んでいたらいい」
私の返事を待たず貴斗さんはデスクに戻っていく。おかげで突っぱねるタイミングを見失ってしまった。
ゆっくりと上半身を起こし、再びパソコンに向き合っている貴斗さんの方を見て、そろりと声をかける。
「……私がいて邪魔じゃないですか?」
「邪魔なら最初から言わない」
間髪を入れさせない返事に、しばし考えを巡らせる。
さっきリビングで感じた息苦しさは、孤独感を煽られたからなのかもしれない。この家は広いから……。
少しだけ、気持ちが落ち着くまでいさせてもらおう。
おとなしく彼の厚意に甘えると決めて、私は最終的に貴斗さんのベッドに潜り込んだ。
肌触りのいいシーツに体の熱が移っていく。大きさも造りも私のベッドとは全然違う。なにもかも慣れない。けれど、すぐそばで貴斗さんの気配があって、キーボードを叩く音が心地いい。
もうずっと寝るときには、耳鳴りがするほどの静けさが当たり前だったのに。ひとりが普通だった。
どうして私に優しくするの? 一応、結婚したから? でも、なにも期待していないし期待するなって……。
考えられたのはそこまでだった。瞼が次第に重くなる。明かりが落とされたと感じたのは、私が目を閉じたからなのか。
穏やかな気持ちに誘われ、ゆるやかに私は意識を手放した。
『美幸も来年には高校生なのね。本当、早いわ』
受験勉強をしていると母がしみじみと呟いた。高校は全寮制のところを希望しているので、両親なりに思うところがあるのかもしれない。
『高校の制服を着たと思ったら、成人式の振袖を用意して、その次はいよいよ花嫁姿かしら。お父さんきっと泣くわね』
『飛躍しすぎだよ』
ペンを止め、ため息をつく。前ふたつはともかく花嫁姿はそもそも結婚しないと無理な話だ。そう返すと母はおかしそうに笑った。
『大丈夫。美幸にもいつかきっと運命の人が現れるから』
お父さんとお母さんみたいに?
そう尋ねればよかった。受験前で他愛ない会話がいつもより減っていた。もっと話しておけばよかった。時間はいくらでもあると信じて疑わなかった自分。
後悔してももう遅いのに――。
うっすらと目を開けると視界がぼんやりと滲んでいる。瞬きを繰り返すと目尻に涙が溜まる感触があった。このあと、零れ落ちて耳を濡らすのがいつものお決まりだ。ところがそうはならず、そっと目元が拭われ驚きですぐに意識が覚醒した。
「起こしたか?」
「た、貴斗さん!?」
声が上擦るのは、起きたばかりだからだ。どうして? という疑問が浮かび、すぐに状況を思い出す。彼の部屋で本当に寝てしまった。
薄暗いオレンジ色の明かりに包まれる室内で、よく見ると貴斗さんはシャワーを浴びて寝支度を整えている。見慣れているスーツではなく、髪は無造作に下ろされ、襟付の無地のパジャマ姿はなかなか貴重だ。いつもより幼い印象を受け、ドキッとする。
しかし、すぐに思考を切り替える。
どれくらい寝ていたの? 今、何時?
疑問をぶつける前に私は慌てて上半身を起こす。
「す、すみません。私がここにいたら、困りますよね」
彼が作業している間だけのつもりだったのに。しかし貴斗さんは冷静そのものだ。
「困りはしない」
「でも、私がいたから寝られなかったんじゃないです? すぐ部屋に」
戻るので、と言いかけて気づく。この状況で、私が使ってすぐ後のベッドを使えというのは逆に失礼なのでは? でも私の部屋のベッドをどうぞと勧めるのもなにか違う気がする。
「あの……どうしましょう? このベッドで寝るのがなんでしたら、私の部屋のベッドを使っていただいてもかまいませんし……」
結局、相手に委ねる形になってしまう。こういう場合、どうするのが正解なの?
情けなさで居た堪れなくなり、貴斗さんの顔が見られずにいると、ベッドがわずかに軋むのを感じた。
顔を上げると貴斗さんの整った顔がすぐそばにある。
「ここで、ふたりで寝るって選択肢はないのか?」
「……え?」
まさかの提案に、私の頭も体も固まった。そんな私に、貴斗さんはさらに距離を縮めてくる。そして彼の大きな手が私の頰に触れた。
「どうする?」
珍しく貴斗さんが意地悪い笑みを浮かべていて、なにかを試されている気になる。
貴斗さんはどういうつもりなの?
硬直していると、そっと肩を押され、彼と共に倒れ込む。再びベッドで仰向けになった私の視界には天井ではなく、貴斗さんが映っている。
心拍数が上昇し、無意識に息を止める。なにか言わなければと思うのに上手く声にならない。
どれくらいそうしていたのか。先に動いたのは貴斗さんで、彼は私の右隣に体を横たわらせた。ベッドがわずかに沈み、目だけでそちらを追うと、私と同じように仰向けになった貴斗さんがこちらを見ていて視線が交わる。心臓が大きく跳ね上がり、瞬きを繰り返す私に彼は苦笑した。
「そこまで嫌がられるとは思わなかったな」
「い、嫌がってませんよ! その、驚いただけで、けっして嫌とかでは……」
反射的に否定したものの語尾は弱くなる。目だけだったのが体も右側に向けて貴斗さんに訴えた。
貴斗さんもこちらに体を向けて、図らずとも私たちは向き合う形になる。とはいえ夫婦にしては遠すぎるし、他人にしては近すぎるという半端な距離だ。それだけ貴斗さんのベッドが広いということなんだけれど。
貴斗さんは、手を伸ばし私の髪先にそっと触れた。それだけで体温が上がった気がする。貴斗さんがなにを望んでいるのか正確に理解できない。察せられるほど経験もない。ただ、これだけは言っておかないと。
私は一度口の中の唾液を飲み込み、意を決した。
「あの、私たち結婚しているわけですし、その……こういったことも、ちゃんと覚悟していますから」
緊張と照れで声が震える。でも、はっきりさせておかないといけない問題だった。貴斗さんが求めていないなら、それはそれでかまわない。
一方で、彼の立場からするといずれは子どもを求められるんじゃないかとは思っていた。正直、今すぐそこまで腹は括れないけれど、貴斗さんの考えは知っておきたい。
合否判定を聞く気持ちで貴斗さんの反応を待つ。
「美幸に必要なのは、覚悟よりも素直さだな」
ところが、返事の内容が上手く捉えられない。さらに貴斗さんは呆れた顔になるので、私の頭の中はパニックになりそうだ。
「ど、どういう」
「ひとりがつらいときは素直に甘えたらいいんだ」
私の言葉を遮り、貴斗さんははっきりと言い切った。そして私の髪に触れていた手をゆるゆると頭に移動させる。
「今日はご両親の墓参りをして、山村さんに会って、感傷的になるのはおかしくない。そんなときにひとりで強がる必要はない」
大きくないのによく通る低い声。言い方とは裏腹に頭を撫でる手は温かくて優しい。
平気だっていつもなら笑って流せるのに、私は声を詰まらせた。
「……もう少しだけ、そっちに行ってもかまいませんか?」
絞り出すような声で尋ねると、どうぞと短い返事がある。そっと肩を浮かせて、遠慮気味に貴斗さんとの距離をわずかに縮めると、彼の腕が伸びてきて、そのまま引き寄せられた。
「わっ」
小さく悲鳴をあげたのも束の間、次の瞬間には貴斗さんの腕の中に収まっている。
お互いに薄いパジャマ一枚を隔てただけで、腕の感触も体温もダイレクトに感じる。さっきよりも鼓動が速くなり、胸が痛い。
その反面、密着したことで貴斗さんの心音が伝わってきて、乱れた感情が落ち着いていく。だから心の奥底にある本音が思わず零れた。
「……私、両親の話をするの、苦手なんです」
ぽつりと呟くと貴斗さんは頭を撫でていた手を止め、腕の中の私を窺うように視線を落としてくる。目が合って、私はわざと貴斗さんの胸に頭をくっつけた。
「両親の話をすると、相手が反応に困っている雰囲気が何度かあって……。それに、私も両親を亡くした子だって気を使われるのも嫌だったから」
高校に進学して、大学に入学してからも、なにげなく家族や実家の話になったときに私の事情を聞くと、友人たちは戸惑っていた。
それはきっと私みたいな境遇の人間に対し、純粋にどういう言葉をかければいいのかわからなかっただけだと思う。
私の前で、あえて自分の家族の話題は出さないようにと気を使われたり、私が気にしなくても、周りは気にするんだと痛いほど学んだ。
だから極力、私は両親の話をしないようにした。
一方で、私の記憶の中だけに留めていたら両親の存在が消えてしまいそうな気がして苦しかった。矛盾している。結局、自分の都合ばかりだ。
「美幸は、ご両親にたくさん愛されていたんだな」
貴斗さんの言葉に、私はおずおずと顔を上げる。暗がりの中でも貴斗さんの表情はよく見えた。いつもの冷たさはなく穏やかに微笑んでいる。
だから奥底にしまっている想いが自然と声になる。
「自慢の両親でした。仲が良くてお互いに尊重しあって、ふたりとも私のことを一番に考えてくれて……」
声が擦れて、鼻の奥がつんと痛む。
こんなふうに自分から両親への気持ちを口にしたのはいつぶりだろう。
一緒にいるときに少しでも直接伝えておけばよかった。早く大人になって親孝行したかったのに。
じんわりと視界が滲み、声にならない。すると貴斗さんは私を改めて抱きしめ直し、落ち着かせるように背中を撫ではじめた。
「心配しなくても、美幸の気持ちはちゃんと伝わっている。相手は親なんだ」
幾度となく瞬きをして、溜まった涙が零れないよう必死で耐える。
今まで同情や気遣いの言葉はたくさんかけられてきたけれど、こんなにも心に沁みたことはない。
両親が亡くなってから、周りを心配させてはいけないと自分の弱い部分や本音を隠して、他人と一定の距離をとるのが当たり前になっていた。
踏み込んでほしくないから、自分からも深入りしない。この人じゃないとと思えるほど関わることもできない。
そんな私が誰かを好きになり、愛されて結婚するのはどう考えても無理だ。ただでさえ男女交際どころか恋をした経験もないのに。
そう悟ったとき両親のような結婚は諦めた。
なにより私自身が望んでいないと気づいたから。誰かに心を傾けるのが怖くて、だから結婚相手とは割り切った関係でいいと思った。お互いを尊重し一緒にいて不快にはならず、適度に心地いい関係を築けたら、それ以上は望まない。
違う、望めないんだ。お互いに好きにはならない。最低限の距離は保っておきたい。
自分で決めた矛盾だらけの条件はすべて私の臆病さが原因だ。結局は他人と一線引いてしまう。この癖はきっと一生直らない。
でも、貴斗さんから与えられる温もりは本物で、彼と結婚してよかったと心から思える。両親のように愛し合って結婚したわけではなくても幸せを感じる。
気持ちを嚙みしめて喉にぐっと力を込めてから、私は声を出した。
「貴斗さんのご両親も素敵な方たちですよね。お兄さんたちと仲も良さそうな印象を受けました」
明るく話題を振ると、貴斗さんは素直に話に乗ってくる。
「仲がいいというよりこちらが頼んでもいないのに、向こうが好き勝手口出ししてくるだけだ」
鬱陶しいとでも言いたげな口調の貴斗さんに苦笑する。
貴斗さんにはふたりのお兄さんがいて、それぞれ結婚されているのだが、実は私はまだ直接お会いできていない。
結婚の挨拶のときは、ご両親の都合をつけるのが精いっぱいで、お忙しいお兄さんたちの日程まで合わせられなかったのだ。ただ、ご両親から話を聞く限りお兄さんたちがとても貴斗さんを気にしているのが伝わってきて微笑ましくなった。
また別の機会を設けて会おうという話になったから近いうちに会えるといいな。
親がいつまでも自分の子どもを子ども扱いするように、兄弟も似たようなところがあるのかもしれない。
「いいですね、ご兄弟がいらっしゃって羨ましいです」
そこで妙な間が空き、反応がないのを不思議に思った私はそっと貴斗さんに視線を移す。すると彼は私の顔にかかった髪を耳にかけ、じっくりとこちらを見つめてきた。
「少し、元気になったみたいだな」
安堵した面持ちの貴斗さんに、やはり心配をかけていたのだと感じる。同時に感謝にも似た温かい気持ちが心を覆っていく。
「ありがとうございます。……私たち、なんだか本物の夫婦みたいですね」
「本物もなにも事実、結婚しているだろ」
やんわり訂正されるが、その口調はずいぶんと優しい。貴斗さんとの結婚を決めたときは、彼とこんな話をしたり共に過ごせるとは思ってもみなかった。
この雰囲気がそうさせるのか、いつもならきっと言わないでおいた些細な話を自分から口にする。
「でも、奥さんとしてはまだまだですね。実は今日、貴斗さんがガーデニアで注文するとき、コーヒーをブラックで注文するんじゃないかって勝手に予想していたんです」
結果は見事に外してしまった。少しだけ彼の好みや性格を把握できていたと思っていたので、ちょっと残念だった。
私の一方的な期待と落胆で、この場では聞き流してもまったく問題ない内容だ。
「いつもならそうしていた」
しかし、やけにはっきりとした物言いで貴斗さんは呟いた。彼の顔は真剣そのものだ。
「とくに好みもこだわりもない。でも今日は、美幸がいたから……美幸が好きな味を知りたくなったんだ」
強く訴えかけてくる貴斗さんの瞳に捕まり、金縛りにあったかのように指先ひとつ動かせない。
思考も上手く働かず、貴斗さんの発言の意味を正確に摑めない。難しい言い方はなにもしていないのに。
そのままゆるやかに顔を近づけられ、頰を撫でられる。言葉がなくても、どうしてかこのときは自分の取るべき行動がわかった。
ぎこちなく目を閉じると唇に温もりがある。
初めての経験に戸惑いを起こす間もなく、唇はすぐに離れた。なにをしたのかわからないほど鈍くはないが、羞恥心で頰が一気に熱くなる。
気恥ずかしさを誤魔化したくてとっさに顔を背けそうになった。ところが再び唇が重ねられ、さっきよりも長くて甘い口づけに翻弄される。
心臓は破裂しそうに痛みだすのに、添えられた手から伝わる温もりが心地よくて不快感は微塵もない。
無意識に呼吸を止めていた私が酸素を欲する絶妙なタイミングで貴斗さんは離れた。
こういうとき、どういう反応をしたらいいの? どうすれば……。
うつむいて戸惑うばかりの私の頭がそっと撫でられる。
「嫌だったか?」
不安そうに尋ねられ私は小さく首を横に振る。
「嫌じゃ……なかったです」
消え入りそうな声で答えて、気持ちを必死に落ち着かせる。嫌じゃない。それは本当だ。貴斗さんの行動に驚いて頭と気持ちがついていかない。
そして、こんなにも動揺しているのは私だけなのだと思い直す。
「貴斗さんは……」
おそるおそる同意を求める形で確認する。
「夫婦として歩み寄ろうとしてくれたんです、よね?」
キスくらいで狼狽えてどうするの。その先も覚悟しているとまで言ったのに。
「おっしゃるとおり、結婚したわけですし……」
『俺と結婚も経験してみないか?』
ふと彼の発言が頭を過ぎり、私は小さく頷いた。
落ち着け。冷静にならないと。
「これも経験ですよね」
それ以上の意味はきっとない。納得して、ちらりと貴斗さんを見ると打って変わってなんとも言えない顔をしている。
もしかしてまた見当違いなことを言ってしまったのかな?
「そんな複雑なことは考えていない」
案の定、貴斗さんに否定され、血の気がさっと引く。謝罪の言葉を口にする前に軽く額が重ねられ、視界がさらに暗くなった。
「美幸が、自分の妻が可愛かったからキスをした。ただ、それだけだ」
照れとか恥ずかしさとかそんなものがすべて吹き飛び、私の頭は真っ白になった。遅れてやってきた正体不明の感情が、私の中で暴れまわる。
言った本人は平然としているのに、いつも私ばかりが心を掻き乱されている。
「今日はこのまま寝る。いいな?」
当惑中の私をよそに、貴斗さんは至近距離で言い切った。さっきまでの甘い感じはなく、子どもに対するみたいで少しだけホッとする。
「でも」
「どうした? 続きをしてほしいのか?」
言い返そうとすると逆に余裕たっぷりに尋ねられ、私は悔しくなった。
「違います!」
わずかに怒りを滲ませ反論しても、貴斗さんは顔色ひとつ変えない。
「美幸が望むのならかまわないが」
「な、なんで私の希望になっているんですか!?」
たしかにこの話題を先にしたのは私だった気がする。真面目に答える私に、貴斗さんはおかしそうに目を細めた。
さっきから彼の手のひらの上で踊らされてばかりだ。
「貴斗さんが、こんなに意地悪な人だとは知りませんでした」
「むしろ優しくしているつもりだが?」
どこまで本気なのか。でも、あながち間違いでもない。帰宅してから抱いていた寂しさや不安は、彼と一緒にいてとっくに消え去っている。
「……そう、ですね。貴斗さんは優しいです」
言い直して素直に同意する。またからかわれてしまうかもと危惧したが、予想に反して貴斗さんは目を丸くしていた。
「美幸とは、まずはデートが先だからな」
言い終えて貴斗さんは私を腕の中に閉じ込める。夕方のやりとりを彼は律儀に守るつもりらしい。
貴斗さんってそういう人なんだよね。
最初は冷たくて、わざと突き放されていると思っていたけれど、単に好んで他人と関わろうとしないだけで、本当は真面目で優しいんだ。
「はい。楽しみにしています」
私は思いきって自分から貴斗さんに身を寄せる。すると彼は応えるかのごとく私の頭を撫でだした。触れる手は大きくて安心感を与える。
一度眠ってしまったが、そばにある温もりが心地よく貴斗さんのおかげで私は再び夢の中へと旅立てた。